徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

Janne Da Arc解散と令和のどれが本当でどれが嘘か。エイプリルフール

エイプリルフールなんていう嘘を許容する文化があるものだから、本当か嘘かわからなくなってしまうのだけれど、ジャンヌの解散と元号決定は間違いのないことらしい。

 

ともあれ、ジャンヌ解散である。

活動休止がかれこれ10年ちょっと続いていたが、いよいよもっての解散だという。理由は諸々あるらしい。お察しいたします。

活動休止と解散。別居と離婚。休職と退職。質と売却。可逆か不可逆か。一旦お休みと完全にやめることには大きな違いがある。バンドや夫婦のような人間関係に起因することは、時が流れることによって再結成の可能性があるがしかし。

 

中学生の頃、月光花、ダイヤモンドヴァージンと振り向けばが学校内で少しだけ流行ったことがある。今思えば、活動休止間際、散り際のジャンヌダルクだった。GLAY、L'Arc〜en〜Cielが格好いい系のバンドとして認知されていた中、ジャンヌの立ち位置はどうだったかというと、「フロントマン三人は格好いいけど後ろ二人はおっさん。スタジオミュージシャンにいそう。」という、純粋な子供ならではの感性を存分に発揮した残酷極まりないものだった。改めて解散が決まった今、YouTubeでライブ動画を見ているが、やはり後ろ二人はスタジオミュージシャンにいそうな出で立ちだ。感性変わらず。

 

しかし、ジャンヌといえば、yasuだ。稀代のボーカリスト、yasu。ジャンヌの音楽性とか、曲のメッセージ性とか、ぶっちゃけどうでもいい。yasuの声こそジャンヌダルクであり、ジャンヌダルクをジャンヌダルク足らしめるものである。声は生理的かつ原始的な何かに訴えかけてくるものがある。イケボという語が定着して久しいが、yasuは紛れもなく中性的なイケボで、さらに中性的な顔面、hydeと並び立つ体躯を併せ持つ。カリスマ以外の何物でもない。

 

そしてyasuといえば「タチツテト」である。

滑舌なのか、癖なのかわからないのだが、彼の「タチツテト」は独特で、「ツァツィツツェツォ」になる。Aメロだろうとサビだろうと、いつだって、ツァツィツツェツォ。

霞ゆく空背にしてという楽曲がある。

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にどツォ会えないツォしても。

少しだけ早い粉雪 指にツォけて。

 

ヴァンパイア

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あなツァにヅァかれて 胸に爪を立て

こんなに辛いなら愛なんツェ 信じない

 

ABCだけどBlackCherry

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BlackCherry 濡れツェ おツィて わツァしの中へ

ツァねを残し 甦れ

 

舌ったらずなんですかね、でもこれが癖になる。愛おしい。カラオケで歌うときもツァツァっちゃうし、他のアーティストの曲を歌うときもついついツァツァっちゃう。自分の曲を作っても、盛り上がってくるとツァツァっちゃう。多大な影響を与えられている。ツァツァると、歌唱にスピード感がでる気がして、歌っていても気持ちいい。

 

しかし、yasuも療養中でABCも活動しておらず、ジャンヌも解散となると、いよいよ寂しくなる。本家ツァツァが聴けなくなる。四散するメンバーはどうなるのだろうか。本当にスタジオミュージシャンになってしまうのだろうか。

ウィーアージャンヌ。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

 

報酬の有無とやりがいについて

このあいだの昼ごはんの時、同じお部屋で働いている先輩がこんな話をしていた。

集団を2群に分け、2回折り紙を折ってもらう。片方の群は報酬を与えて、もう一方は報酬を与えない。2回目を折る指示を出した時、折らなかった(折るのを面倒くさがった)人が多かったのは報酬を与えた方の群だった。

報酬についての実験の話だ。金銭に代表される報酬は、本質的に動機づけになり得ないことを示唆している。というか、報酬を与えた時点でやる気が下がるみたいな話。仕事とは…と考えさせられる。


どうあれ、間違いないのは、「それそのもの」が楽しい時に人間が出す力は凄まじい。金銭とか、承認とか、何かを介しての楽しさより、直接行為と動機が結びつく方が強くコミットできる。

仕事・サラリーマンの雇用モデルは、どうしてもお金を介するから、本質的な楽しさがそこにあるわけではない。そもそもやる気が生まれにくい土壌であると言える。

だから、入社の時に「やりがい」を訪ねる。

何に惹かれたか。当社で何がしたいか。金銭を通さない動機を持ってる人の方が辞めにくい。会社が儲からなきゃ給与なんていくらでも変動する。本当に頑張らなきゃいけない時に給与が減ってやる気が損なわれる人より、職種の名を借りた行為そのものが動機だから給与がどうなろうと踏ん張れる人の方が、会社としては嬉しい。

生きがいだけで生きていけるかといえばそうではなく、お金はどうしても必要だ。今の世の中、労働が金銭を得る最短距離でもある。しかし、そのせいで労働行為そのものへの興味は減る。のっぴきならない事情の労働は苦しい。


結局、労働はどこまでいってもやりがいと金銭の反発をはらんでいるのだろう。

目的から手段まで全てが好ましい物事なんてほとんど存在しないから、皆々が面倒くささとかストレスとかを抱えながら、やりがいを見失いながら、けど、生きるにはお金が必要だからって一生懸命働いているらしい。すごい世界。


雇う方と雇われる方でも見え方は変わるし、雇う方は雇う方でお金をぶん回す至上命題がある。お金の額に心底コミットできる人間が一番強いのかもしれない。

さて、新社会人の皆々様、頑張りましょう。

そうは言っても社会はそこそこ楽しいです。

飲みに行こうね

幾度、この言葉を放ち、幾度、この言葉で契り、幾度、放りっぱなしにしてきたことか。死後、閻魔大王に舌を引きちぎられるとすれば、その責は飲みに行こうねの一言にある。可能な限りな誠実を誓ってはいるし、飲みに行こうねと口に出した時には本気で飲みに行きたいと考えているものの、どうしたことか、どういうわけか、実現する宴席はごくごくわずかであり、それを嘘つきと言われれば言い訳のしようもない。

みんな人と会うのが仕事ではない。仕事をしながら、日常を転がしながら、たまに会いたい人がいる。しかし何より大切なのは日常であり、日常の余剰分を使って誰かと飲みに行く。飲みに行こうねの主体は、1人ではなく、2人以上となる。だから、お互いの日常の余りを持ち寄って、初めて飲みに行くことができる。そう考えると、飲みに行くという行為自体が奇跡のように感じる。滅多に実現できることではない。

でも、僕らは簡単に口に出す。飲みに行こうね。便利な言葉なのだ。あなたのことを大切に思っていると、それとなく伝えられる言葉なのだ。あなたに、私の日常を、割きます。割きたいです。たった一言で、そこまでの意が伝えられる。その場では行こう行こう!と盛り上がり、翌々日あたりには、密室のロウソクの火のように、酸素が足りなくなって静かに消えていく。「あなたのことは大切で、あなたと会いたいとは思っているけど、日常を割くほどのアレではないので、ごめんなさい。」これが、飲みに行こうねの正体だったりする。

優しい嘘ではないか。なんと、優しい嘘だろう。飲みに行こうねが実現して、それが日常になることもある。僕とあなたの、彼と彼女の、ほんの少しの日々の余りを、持ち寄る気持ち。ほとんどが嘘だとしても、幾ばくかの真実がそこにはある。


たくさん、飲みに行こうねと言って、何も動いていないので、懺悔の気持ちがいっぱいです。

でも、日常も大切なのです。

いつかはきっと飲みに行こうね。

児童養護施設の子供達と遊んで感じたこと

労働組合と会社と、労使手を取り合ってやっていきましょう事業の一環で、とある児童養護施設に行ってきた。昼頃から夕刻まで、ひとしきり子供たちと戯れ、日頃小難しい話をされることしかない労働組合の急先鋒と共に無邪気な心でエンジョイしてきた。未就学児から高校生まで幅広い年代の子供たちがいたけれど、下ネタから陸上競技から楽器から、僕の持ちうるものを総動員してコミュった結果、どの年代の子ともめっちゃ仲良くなれたと思う。本当によかった。また行きたいです。

 

とまぁそうなんだ、そうなんだけど、児童養護施設の現状をちらっと園長先生ならびに担当の職員から聞いて、思ったことを書き留めておきたい。

以下、記憶にある話。真偽は現在不明。あとで何かしらの資料を読みたい。

大前提として、日本には養護施設が足りていない。

原因として、そもそもの補助金が足りないのが一つ、あともう一つは、国の方針が里親に注力して養護施設は基本的に縮小させていく方針であることが一つ。

また、里親・養護施設合わせて現在3万人程度の児童を養護しているが、その大半が虐待・ネグレクトであり、本来的な目的である支援のような建設的な事由での養護は少ない。なぜなら養護するためには親子双方の同意が必要であり、そのハードルが極めて高く、そもそもの受け皿の数が足りていなくてケアしきれていないことがあると。

お金がないのはさておき、なぜ国は里親を推進しているかといえば、学者一派が出した見解として、「子供はできる限り家庭に近い条件で養育されるのが望ましい」というのがあるらしく、そうした学識に則った結果であった。当たり前だが、養護施設の方がプロのケアを受けられ、大勢の児童を養護できる訳で、養護施設側からすると国の方針は実態に即していない部分が大きいらしい。

 

なるほどなぁと思った。

施設側の意見として、この状況が一定程度正しいとすると、確かに国からお金が出て、もっと施設にマンパワーと資本を注入できれば、今隠れて虐待を受けている児童や、虐待にはならずとも支援の手を待っている家庭に手を差し伸べられることとなる。

実際金銭面での劇的改善が難しい中で、じゃあどうするかという話なのだろうが、一番求められるのは、子供当人の幸せである。これは間違い無いと思う。学者の意見が正しかろうが正しくなかろうが、子供自身がその時を安寧に落ち着いて過ごし、今この時の生存を懸命に求めるのではなく、ある程度未来・将来まで見据えて人生を捉える余裕が与えられること。希求されるのはこれだ。

そうした環境を作るためにどうするかだけれど、それは学者がどうだから、国がどうだからではなく、児童本人と、本人に親しく接している職員や家族、そして、やはりその道を究めた学者がスクラムを組んで考えていくものであり、少なくともトップダウンで識者がえいやと降ろしていいものではないと感じた。

とは言っても、国は国の論理があるだろう。いちいちヒアリングかけてられないのもわかるし、金はかけていられない。里親を推進するのも、体裁は家庭環境に…という論理だが、本音はハード面での投資が少ないからなのかもしれない。本質的な改善を求めるために民意を集めて!なんて話になりがちだけど、そこまで行ったら政治の話になってしまって全く本質とはずれていく。

 

難しい。

今日触れ合った子供達、そして彼らの今とこれからを真剣に支えている職員。彼らの意気こそが、本当だと思うし、それが活かされなければ嘘だ。

僕は今サラリーマンで人事屋さんである。

だから、目の前のお客様を喜ばせる人たちが働きやすいような仕組みを一生懸命維持して、作って、現場でお客様が大変に満足し、結果会社にお金が集まり、その一部が法人税として国に回り、国の予算委員会か何かで結集した税金の行方が厚労省マターに振り分けられた先に、ようやっと今日の施設がある。

拡大解釈も甚だしいしややこしいけど、確かに僕の日常と彼らの日常は繋がっている。僕の一生懸命は、彼らの一生懸命を助け、彼らの一生懸命が僕の一生懸命を支える。

 

泡沫の勇気ややる気じゃ世界は変わらず、人口減少フェイズに突入した日本において黙っていたら劇的に福祉が良くなるとか経済が大回転することは確実にない。しかし、この末端で、肌で感じた楽しさと子供たちを支える厳しさは本当で、どうにかするにはまず目の前のことをやっていくしかないのも本当だった。

遣る瀬無さのうちに、明日も頑張って働く。

イチローの引退に感想など抱きようもない

実家の戸棚に眠っているNUMBERの多くは、イチローが表紙だ。渡米しました号、ポストシーズンでいいとこいった号、シーズン262安打おめでとう号。上京してからも、ヤンキースに行った号、マイアミにいった号など、節目節目のイチローを読んできた。


生で引退会見を見ようとしたのだが、見事に寝入ってしまったため、昨日youtubeに上がっていたノーカットバージョンをやっと見た。見逃しに優しい昨今の技術に救われた。


記者からの質問とか、あまり関係のない会見だったように思う。イチローが話を始めるきっかけとして質問が用意されているだけで、イチローはその質問を種に好きに話をするような、フリートークに近い形式での会見だった。

強い奴が勝つんじゃない、勝つ奴が強いんだ。とは、誰の言葉だったろうか。

ルールを守って、結果を出すことが全て。結果を出した奴こそ、強い。過去100年、野球というフィールドに人生をかけた人間の中で、最もヒットを打った男が話す言葉を、僕は全面的に肯定するしかなかった。むしろ、感想をいだくことすらおこがましいと感じた。

1994年から勝つのが当たり前になって(番付が上げられて)プレッシャーが常にかかる日々だったこと、それでも、毎日自分の肉体の限界を少しずつ超える、誰と比べることもできない努力をしてきたこと。契約の折り合いがつかず、神戸でひっそりと選手生活を終える予感がしていたけれど、マリナーズとの縁がまた舞い込んできたこと。全てにおいて、ははぁ…以外の言葉がでない。イチローも人間で、イチローしか感じ得ない苦しみを抱きながら生きている事実にもははぁ…だし、それに飲み込まれながら戦ってきた実績にもははぁ…だ。


一般化しようと思えばいくらでもできる。

毎日に追われるサラリーマンだって、資金繰りに苦しむ経営者だって、雨を待つ農家にだって通ずるように、イチローからみんなへのメッセージとして話を整えて、僕らがそれを受け取ることは容易い。

けど、イチローが話すイチローの苦悩を一般化していいのか。至高のプレッシャーに苦しみながら至高の努力を積んで至高の結果を残してきた人の言葉を、僕らの生活に当てはめて考えていいのか。もう、わからない。


「無粋」「粋じゃない」「野暮」この辺りの言葉を使って、イチローは記者からの質問をいなしていた。それはきっと、イチローが自分の個人的な経験を人に見せることがどういうことかを知っているからなのだと思う。

どこまでいっても、感情は個人的なものだ。

比類する人がいないイチローだからこそそれを強烈に感じたが、同じような仕事、同じような境遇でも心のフィルターの目の粗さは人それぞれだし、感情の残滓から何を受け取るかも、意思の強さも人それぞれ。何一つ一般化できない。ただ、世の中には比類する立場で、比類する圧力に、比類する辛さを感じている人がたくさんいるから、「共感」とかいう便利な言葉で誤魔化せているだけにすぎない。

けれど、会見の終盤、イチローは、最近孤独感を全く感じていないと話していた。

感情は個人的なもので、人と比べられないのかもしれないけれど、そうじゃない、心の別の部分は、人と分かち合うことができる。どうやらそれが、孤独な感情を救ってくれるらしい。


強い奴が勝つんじゃなく、勝つ奴が強い。また強さが正義であるならば、イチローの生き方はイチローにおいて正しい。誰にもケチがつけられない生き方だ。生き方の原石を突きつけられて、僕はどうしていいのかわからない。おかゆのようにぐずぐずに砕かれた安いライフハックではない、極めて特別で、比べるもののない情報を、どう扱えばいいのだろうか。

チキンかあさん煮定食

このところ、不適切動画で不名誉な看板を掲げてしまっている大戸屋である。アルバイトの管理、教育は難しいですね。SNSに、便利に殺されている感じ。管理しきれないテクノロジー。普段技術を使って万象を飼い慣らしている気がしている愚かな人間諸君、今すぐハイデガーを読みましょう。

 

技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)

技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)

 

 

どうあれ、昨日夜ご飯が大戸屋だった。

ファストフードとファミレスの間の価格帯で、そこそこ値段をとるけど、そこそこちゃんとしたご飯を食べられる。何より、弊最寄駅の高架下にあるので、そこそこに便利だ。そこそこ頻度で利用している。そこそこの総合力。全区間7位あたりの区間順位でそこそこ走って結果総合4位みたいな強さが、大戸屋にはある。

僕は大戸屋の黒酢あん定食が好きだ。ほぼ一択。迷わず黒酢あん定食を食べる。迷うのも力がいるから、脳みそを止めて、機械的に黒酢あん定食。淡々と黒酢あん。

なのだけれど、昨日はチキンかあさん煮定食を食べた。

ご存知のかたも多いだろう。黒酢あん定食と並び立つ大戸屋の4番サードな定食だ。それこそ、黒酢あん定食や蒸し鍋定食など、説明口調というか他人行儀な定食名が多い中、チキンかあさん煮定食というネーミングの飛び抜けたキャッチーさ。キャラ立ちがはっきりしていて絶対ただのモブじゃないと確信させられる。

これまでの大戸屋ライフにおいて、視界の隅では確かにチキンかあさん煮定食を意識していたものの、頼むことは多くなかった。入店の時点で僕の脳裏にはすでに黒酢あん定食が居座っており、チキンかあさん煮定食の入り込む余地がなかったからだ。

何を思ったか、何を感じたか、サブリミナルの畔からのサインに任せて頼んだチキンかあさん煮定食。衝撃的な出会いだった。

そもそも、ビジュアルを想像できるだろうか。ハイデガーを今手に取ろうとしている人間諸君。チキンかあさん煮定食と言われ、その造形を想像できるだろうか。大戸屋のサイト貼っておくので適当に見てみてください。

www.ootoya.com

チキンカツと根菜やら大根おろしやらが旨味たっぷりの出汁に浸かり、煮詰められている。かあさんがいつか作ってくれた優しい味に似ている。故郷を思い出す。チキンかあさん煮定食。

確かに、出てきたものはこのチキンかあさん煮定食だったのだけれど、驚いたのがその煮詰められ方だ。

猛烈に煮立っていた。原初の海のごとく、煉獄の風呂のごとく、出汁のあぶくが鍋の底からグラグラと溢れている。チキンかあさん煮の優しい音感とは全く異なる、怒りにも似たパッション迸る鍋が目の前に運ばれてきたのだった。チキンとかあさん。臆病なほどに優しく、繊細な心配りができそうな語の組み合わせからは想像がつかないほどの煮立ち方はおそらく「ビーフストロガノフ」の語感の方ががマッチしていただろう。ビーフもストロガノフもしていないけど。ちなみにビーフストロガノフはストロガノフ家で作られたビーフ料理だからビーフストロガノフの料理らしいですよ。

 

火の通り方、煮立ちのインパクトは強烈だったものの、味は至って美味だった。身体にも良さそうですね、チキンかあさん煮定食。あんだけじゃない、大戸屋の新たな味に出会いました。ただ、それだけの話です。

目には目を

何がとはわからないけれどどことなく心身ともにだるい気がしながらも、引くに引けないからといってぎゅうぎゅうの核弾頭に身体を突っ込んで出勤しているサラリーマン諸君、お疲れ様です。僕も同じようなものです。ご苦労様です。
なんでだるいのか。なぜ、憂鬱なのか。そこまでは行かないまでも、休日が幸せという世の中の通念からして、なぜワークデイはホリデイに比べて幸せではないのか。土日を待ち焦がれる心、月曜日が憂鬱なマインドとは。学生時代もそうだった。学校が楽しみで楽しみで!というあの感覚は、多くの人が小学1年生あたりで卒業する。小学20年生、30年生になってしまった僕たちは、あの瑞々しい楽しみ、じゃんけんしよ!で友達になれてしまう魔法のようなコミュニケーション能力の応酬は忘れてしまっている。デスクにかじりつき、叱責に怯え、声が詰まり、ブルーライトに目がチカチカしながら無為の日が暮れる。そりゃあワークデイ楽しくないわ。そらそうだ。

人間関係とか、相手が存在する種類の憂鬱を自分の努力一つで解決するのは大変に難しい。相手の人生と自分の人生、社会に出るまでと出てからの環境において大概凝り固まった人間性同士があわないとか、圧倒的偏屈な人間性を持った相手が君臨しているとか、どうしたものかと思う。そうではない悩みの種類、明らかに自分に原因が帰属しているもののほうが解決しやすいようにも見える。自分が変われば、自分がやればいいから。

ミトコンドリアの内部構造のごとく入り組んだ社会、発生する問題を、とかく難しく捉え、目をそらしながら休日を貪り、月曜日の電車に吸い込まれれていっている。だから休日が楽しいのでしょう。
でも結局、これ、当たり前だけど目には目をで戦って行かないと本当に健やかな休日なんて訪れない。積み残された仕事と人間関係に向き合わないことには、全てを忘れた素敵な休日とさわやかな月曜日の朝なんて来ないのだ。
逆説的に、連綿と仕事が仕事を呼ぶ現代社会、人と人がコンタクトし続ける世の中である限り、諸問題は発生し続けるのですね。酷い話だ。

何本かネジ外て鈍感さを担保しながら、やっていきたいものである。目には目を、直視するのはとにかくストレスたまるし、そのストレスからも逃げたい気持ちはわかるけど、全ては健やかさのため。
勤労の気持ちをもって本日も。

宇多田ヒカルのtime well tell とColorsから見る青空について

かねがね思ってた事を書く。

平成を駆け抜けた日本人であれば誰でも知っているであろう宇多田ヒカル。20年近くになる彼女のアーティストライフの中で、僕が所有するのは2005年とかにリリースされたベストアルバムのみ。付かず離れずの宇多田ライフを享受してきた。

表題の二曲は件のベストアルバムに収録されている。

time well tell は宇多田ヒカルのデビューシングルで、確かAutomaticと両A面か何かでリリースされたもの。colorsは、time well tell より7、8年後、何かのタイアップソングとしてリリースされていたはずである。

この二曲、どちらも詩の中に青空についての言及がある。しかしそれぞれ全く捉え方が違うのが面白い。宇多田ヒカルの成長を感じられるし、全く違う方向からだけど、どちらの詩も背中を押してくれるものだ。


青空、みなさん見えてますか。

下ばかり見てないですか。


time well tell 

この曲で表される青空は、おそらくJ-POPではよく形容される青空である。

「雨だって雲の上へ飛び出せばalways blue sky」

例えばスピッツも初恋クレイジーという楽曲でこんなことを歌っている。

「優しくされない時も 優しくなれない時も 隠れた空は青いだろう 今もまだ」

雨の日も雪の日も曇りの日も、雲の向こうを考えたらいつだって空は青いよ、だから問題ない、頑張っていきましょう。そんな話。なぜ空が青かったらなんとかなる気がするのか、青い空にそもそもどんなメタファーが込められているのか、そんな細かいこと知ったこっちゃないが、明けない夜はない、長いトンネル抜けた先には雪景色か夏の海か。それらと同じような論法である。なんとなくやれそうじゃん。

しかし、この論法は雨に当たっている人に相当の努力を要する。

「雲の上へ飛び出せば」と言っている。簡単にいうが、雲の上へ飛び出すなんて並大抵のことじゃない。人間の歴史のなかで雲の上へ最初に飛び出たのはおそらく気球を発明した時だろう。次ははるか飛行機の登場まで待たねばならない。物理的にもぼくらはしばらく雲の下で生きてきた。というのに、隠喩の世界だとはいえ、雲の上へ飛び出すのってめっちゃ大変だ。というか、雲の上へ飛びだせる人は黙って飛び出してalways blue skyな世界を生き続けているパーリーピーポーだし、励まされたいのは雲の上へ飛び出す術を持たない僕ら人間だ。

当時の宇多田ヒカルの勢いが伝わってくる歌詞だし、本質的な青空を享受するにはこの方法しかないのだが、現実的解決策としては今ひとつ実現可能性に欠ける。


そこで、Colorsだ。この曲の青空は一味違う。

「青い空が見えぬなら青い傘広げて いいじゃないか キャンパスは君のもの」

どうだ。この気の楽さはどうだ。別に雨が降っていても曇っていても良いじゃないか。別に空の上に飛び出す必要もないだろう。青い傘を広げて、ごまかしながらでも生きていけるならそれで良いじゃないか。すでに君は頑張っているもの、これ以上、パンクするまで踏ん張らなくてもいいよ、仮初めの青空でも、君の気持ち、君の人生が楽なように、心のキャンパスを塗りつぶしていけば、それで。

これ、優しくないですか。一般的な日本人にはやっぱりこっちのほうが心に沁みていくんじゃないだろうか。雲突き抜けろったってなぁって、斜に構える諸君のための、宇多田ヒカルからの救済。宇多田ヒカルの成熟も見て取れる。


どう解釈しても、現実は一つだし、困ったって悩んだってどうにかするのは自分と周りの人しかいない。どんなに雨でも雪でも雲の上はたしかに青空で、そんな天空に思いを馳せられない程に苦しい時は青い傘広げればいいと思う。その時、その時で、心地のいい青空論に身を浸し、今日も頑張っていきましょう。では。

アーティスト従兄弟と会った

5年ぶりに従兄弟と会ってきた。名古屋在住、36歳の従兄弟である。僕らの親は4人兄妹で、今日会ったのは一番上の姉の次男。僕は末っ子の長男。ある程度年が離れるのも然もありなん。

彼はサラリーマンをしながら絵を描いている。素人と括られるんだろうけど、趣味が興じまくっていおり、どういう脳みそでどう製作したらこういった絵が描けるのか、傍目では分からない。とても精緻な絵を描く。部屋には画集がつまれており、生活感と製作環境がごった煮になった1DKに住んでいる。一方、僕もそれなりに音楽をやり、一般市民に対しては特殊能力として披露できる水準までやれてきている。僕も従兄弟も、その道に進むにはあと30光年くらいの隔たりがあるとの認識。素人目に見たら強者だけど、業界に入ったら有象無象。似た境遇だ。

絵と音楽。フィールドは異なれど、互いに芸術と括られる趣味に埋没していると、自ずと話しが合う。同じ山に違う登山口から登っている感じだろう。たかが血の繋がりだけど、趣味と話が合う親戚はいいものですね。近くに住んでてほしい。


さておき、話をしていると、なぜ創作をしているかのような話となる。動機とは。創作に向かうエネルギーはどこにあるか。

この度従兄弟と言質が取れた。自分がいいと思っているもの・ことを表現するために創作をしている。言語にブレイクダウンされる前の、漠然とした「良い」を表現するために我々は創作していると。文脈は忘れたが、以前別の友人と、「自分で描いたエロ本が自分にとって一番エロい」みたいな話で盛り上がったことがあるが、まさにそれである。自分がいいものを出力したいという、ジメジメした自意識と自己満足の螺旋こそ、創作の原動力となっている。

音楽だと歌詞と曲の二面があるから、曲は自分の気持ちいい曲を作り、そこに自分の感情を言葉で乗っける。リズムと節の制約をうまく味方につけながら、自分の深淵に降りていき、言いたいこと、表したいことをクリティカルに言う。詞も曲も全部気持ちいい作品が生まれる。自分の曲が一番好き。俺得のための創作。

従兄弟はなおのことストイックで、「自分の良い」を引き出すためには技術が必要だから…と、週40時間を目標に描きまくっていると話していた。狂っている。労働か。しかし、仰る通りで、100メートル10秒で走れる人は11秒でも走れるけど、11秒でしか走れない人は10秒では走れないんですよね。何言ってんだって感じでしょうけど、つまりは、表現したいことを技術的に完全に補完していないと表現しきれないってことが言いたい。そのためには筋トレ的なゴリゴリした練習も必要だと。そう言いながら、従兄弟、めっちゃデッサンしてた。昼夜問わずダビデ像を取り憑かれたようにデッサンしてた。日中、普通に働いているお兄ちゃんが家に帰ったらダビデ像をデッサンしてるのめっちゃ良くないか。良い従兄弟を持ったと思う。いいとして、やっぱこういう努力が必要なんでしょうね。僕も家帰るなりジェフベックのコピーとかをすれば良いんですよね。わかってはいるのだけれど、ギターもベースもピアノもあらゆる楽器がある中で、スキル向上しようったって優先順位が取っ散らかってしまう。別にギタリストになりたいわけでもないし…っていつもいつも逃げている。正面から向き合わなければな。でもやっぱり無理っぽいから演奏は外注したいな。バンドやろうぜ。

また、従兄弟は絵にリソースを投下するために仕事のストレスを能動的に軽減している。これがうまい。自分の得意とするフィールドで労働をして、時間的にも圧縮してたし、技術的にもストレスなく働いているようだった。今の自分に猛烈に足りていない要素である。やっぱり足掻いたところで人間の力って有限で、全部が全部頑張れない。仕事に時間と心の労力を持っていかれてしまったら創作に力が入らないと言うものだ。こればかりは自分じゃどうしようもない。けど、一つの生き方として従兄弟のそれは秀逸だった。サラリーマンは社会的な立場として楽だけど、その庇護の元で世の中で戦う別の柱を建てるのも大切なのだろう。


36歳と26歳、側から見たら漠然とした万能感をいだいている痛い青年2人なのかもしれないけれど、当人たちは至極真っ当に自分の創作と向き合っている。願わくば好きな創作だけを繰り返して生きていきたいと思っている。

そうなるためには、個人的ユートピアを確立するためには、一定程度の社会に自分の吐き出したそれを認めてもらわなきゃいけないし、一定程度の同類を倒さなければならない。修羅の道である。雇用されている安寧のほうが余程楽だろう。でもこればかりはね、趣味趣向ですから。

お互い、創作に精を出しましょうねと契り、別れた。

ほんと、話の合ういい従兄弟を持ちました。感謝。

茶渋・コーヒー渋に悩む前歯に救いのブラシを

電動歯ブラシの威力について何一つとして語る術を持たないのだけれど、個人的に、ここ最近の口腔事情への課題意識と問題意識はとても強い。止まない憂慮が渦巻いている。

何って、茶渋・コーヒー渋だ。

常軌を逸した飲み方をしているなら、話はわかる。湯水のごとく、ガス交換のごとく、コーヒーを消費する輩が、前歯真っ黒の業を背負うのであればそれはいい。背負え、墓場まで引きずっていけと思う。でも、私、そんなにコーヒー飲まないじゃんか。飲んでせいぜい1日1杯2杯じゃんか。コーヒーを覚え始めた高校生程度にしか飲んでいないと言うのに、無垢な笑顔に不可欠な前歯は茶渋に汚されていく。ふくよかな平安貴族だったらよかったかもしれない。平成末期の一般市民がお歯黒をしたところでどうにもならない。


数十歩譲って、ノーメンテナンスかつ適当歯磨きであれば情状酌量の余地もないと言うものだが、当方、歯のざらつきが嫌いな歯磨きマンであり、なんだったら1ヶ月前に歯垢落としをしたばかりである。抜群の口腔環境で然るべき条件が整っているのにも関わらず、この体たらくである。お先真っ黒。


どうなんですかね、これ、自助努力でなんとかなるものなのでしょうか。今、歯ブラシも歯磨き粉もデンタルガムを使っているのですが、機種変すれば大なり小なり歯垢や茶渋のつき方は変わってくるものなのでしょうか。

いーって、笑いたい。臆面もなく、いーって、したい。でも今のままじゃできないーっ。

歯医者もバカにならんので、どうにかしたいと思います。

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