徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

朝キャバ帰りのお姉ちゃん

大田区の方に引っ越してきて1年半ほどになるが、蒲田は治安が悪い割りにキャバクラが少ないように思う。錦糸町はすごかった。アブナイ感じのお店から危なくない感じのお店まで、ありとあらゆるキャバクラがあった。いろんなお姉ちゃんがいた。

キャバクラのお姉ちゃんは、その空間においては女優である。おっさんの金を夢に変えなきゃいけない。1人の人間としてではなく、キャバクラのお姉ちゃんとして。だから、露出の多いドレスを着ていたとしても、人間性の露出は少ない。キャバクラのお姉ちゃんをずっと演じている。


この間横断歩道の赤信号を待っていたら、朝キャバ帰りのお姉ちゃんが隣に並んだ。ボディコンキメキメのドレスに、秋口の北海道を原付で走ったら雪虫が大量付着しそうな髪の毛。絵に描いたようなキャバクラのお姉ちゃんだった。

青信号に変わり、お姉ちゃんが先に歩き出した、その足元はエアージョーダン。

僕はお姉ちゃんが愛おしくてたまらなくなった。足首から上と足首から下がまるで別人である。ヒールが辛かったのであろう。僕たちサラリーマンがネクタイを外すがごとく、彼女はヒールを脱いでエアージョーダンに履き替えたに違いない。演じ終えた女優の素顔。すっぴんのエアージョーダン。かかとのくたびれ方からして、相当履きこんでいると見えた。やはり実利。花より団子ですね。


厳しい上司が飲み会で砕けた時のような、卒業後に先生と宴席を囲む時のような、あの感じ。公から少し私がはみ出した時の愛おしさったらない。

誤解を恐れず、また会いたい。

たった今不動産販売の飛び込み営業とお話しして感じたこと。

一週間のうち、もっとも静謐な時間はいつだろうか。月曜日の朝か。土曜日のお出かけを控えた金曜日の夜か。いや、それは、セイコーゴールデングランプリをじっくり観戦したのち川崎まで出かけて、映画館で「名探偵ピカチュウ」を観て、自宅付近の銭湯でとっぷりお湯に浸かった後、コンビニでおかずを買い、日本酒をちびちび飲みながら晩御飯を食べる日曜日の夜である。

そう、今のことだ。

激情の作家・三島由紀夫氏が山本常朝の葉隠が好きすぎて葉隠のブックレビューを書いたら60回くらい重版がかかってしまった曰くの書、葉隠入門を片手に、豚モツ煮込みをつまみながら粋一選の大吟醸を飲んで、山本常朝の原文に合いの手を入れまくる三島の殊勝な姿勢に感心をするとともに、日頃の自らの行動を省みていた時、不意にピンポンが鳴った。

アマゾンを頼んでいた記憶はない。しかも時刻は21時を回っている。

皆の衆、考えてほしい。仮に、僕が銭湯上がりのぽかぽかな状態で酒飲みながら三島を読むという稀有な幸せを享受していなかったとしても、常識的に、日曜日の夜って静謐な時間だろう。確かにここは単身者が多く住むマンションであるが、明日から仕事の人間が多くいるはずだ。単身とはいえサザエさん症候群に罹患している人もあるかもしれない。よくもまあ、そんな時間に。どうせ在宅率しか見ていないのだろう。そちらの都合で仕事をするな。こちとら三島を読んでいるんだ。葉隠してやろうか。

まぁいい。逃げも隠れもせずに、僕はインターホンに出た。

結論、そのベルの主は不動産の営業のものだった。

開口一番、社名を名乗り、このエリアの担当をしているなにがしですが…ご挨拶周りに伺いました…と言う。そこで相手のターンは終わりのようだった。

僕は、社名も名前も心当たりはなかった。この時点では、「知らない会社の知らない人がエリアの担当を名乗りご挨拶周りにピンポンをしてきた。」という状況である。

エリアの担当とは…?エリアの担当…?なぜご挨拶周り…?

私「なになに会社のなになにさんは、このエリアの担当で、なぜ僕に挨拶をしにきたのでしょうか。」

エリアの担当「不動産で節税対策の関係でのご挨拶を…」

ここで飛び込み営業と気がつく。その辺の空き部屋を節税を謳いながら買わせる魂胆らしい。僕はこの部屋の家賃でデフォルトを起こしそうだというのに、よくもまあ数多ある部屋からハズレくじを引いたものだ。残念だったな。

しかし、しかしこの時点で、宗教や思想ではなく、財力というわかりやすい観点から僕にそぐわないものであり、背伸びしてもどうにもならないし、どうしようとも思わない類の営業だと判明したので、一旦通してあげようと思った。

私「ご挨拶しましょう」

とりあえずオートロック開けてあげると精悍そうな男性が一人、ドアの前に立っていた。話に寄れば齢30らしい。同年代ですね。デジモンとか、好きでしたか。

名刺をもらってご挨拶をしたところで終わりかと思ったら、どうやら違うようで、僕にもろもろ質問をしてくる。世間話のふりをした値踏みだ。恐ろしい。

何歳か。この部屋に住んで長いか。勤務先はどこか。業種は。一部上場ですか。大手か。大手ですね。大手と見ました。年収ってこれくらいですよね。ですね。違いますか。でも誤差の範囲ですよね。

思い出していただきたい。僕は今し方まで日本酒をちびちびしながら三島を読んでいた。重ね重ね、静謐な時間をそこそこなプライベート質問ラッシュで埋め尽くされる日曜日の21時。そこそこなQOLの死に具合である。飛び込みとはいえ家を知られている以上、知らないのは名前と携帯電話の番号くらいじゃないか。恐ろしい。しかしよくもまあズケズケと初めましての瞬間に世間話を装った僕の話をしてくるものだな。君は名乗っただけなのにな。

とはいえ、一度こんにちはしてしまったものだから、嘘とも本当ともつかない会話で濁していたのだが、いい加減相手のターンが長かったので、端的に要件を伺った。が、やはりマンション一部屋どうですかビジネスだったので、金は持っているふりをしながら丁重にお断りを入れ、帰ってもらった。

で、またちびちびと粋一選している。

 

果たして、静謐な日曜の夜が帰ってきたのだが、とりあえず飛び込み営業を受けてみて、あれほどまでに勝ち筋の見えない営業はないなと改めて感じた。

まず、在宅か留守かで分岐点。ここの確率をあげるための日曜夜なのだろう。ずるい。

在宅だとして、出るか出ないかで分岐点。なんとなく清潔感があるお兄ちゃんであるところで、なんとか確率を上げてきているようだ。しかし、今のご時世、この時間に不意にピンポンされてのこのこと出て行くお人好しがどれだけいるだろうか。40世帯ほど入居している弊マンションだが、1割もいないんじゃないか。

出たところから、やっと土俵である。

あくまでご挨拶周りという名目だから、僕はもしかすると彼にとっての成功事例となるのかもしれない。が、何度も言う、この静謐な時間に水を差した彼の責は重い。彼にとっての成功は僕にとっての迷惑でしかない。なのでこの先巨万の富を築き、マンションを買って節税したいなーとか思ったとしても彼には頼まない。

しかも、エリア担当と言っていた。

ご存知ないかもしれないが、僕が住む京急蒲田から徒歩15分ちょっとのエリアは、もはや住宅街で、僕のような単身者が住むマンションが多くあるかといえばそうではない。このエリアを受け持っている時点でなかなか勝率低いと思う。いばらの道を歩まれているのだなぁと、しみじみ思ってしまった。こんな夜中に、美味しい食べ物でもない不動産商品のご案内。いや、ご挨拶周りだ。金にすらならない。できれば将来の金に繋げたかったのだろうが、少なくとも僕は2000字ちょっとの文章を叩く程度にマイナス方向へ感情が動いている。積みゲーの様相である。

 

僕にもっと余裕があれば、開口一番の言葉をどうしたらよかっただろうかとか、もっと勝率をあげるにはどうしたらいいのだろうかとか、色々話してみたいなとは思った。

僕は絶対買わないけれど。

働き方改革と公立高校のハングリー魂について

今、右手のテレビではミライモンスターなる番組をやっている。ゴルフ界注目の双子ゴルファー。二人の通っている高校が埼玉栄だった。泣く子も黙るスポーツ界の雄である。恐怖のオレンジ軍団。オランダかな?

 

サニブラウンが9秒台出したり、世界リレーをはじめとしたトラックシーズンが開幕したり、陸上の話題が世にでるようになってきている季節。どうしても青い記憶が蘇りがちになる。いい歳のお兄ちゃんになりつつあるのに、未だ10年前のレースの景色などをありありと思い出して感傷に耽る。馬鹿らしいけど楽しいものだ。

青い感情がひたひたの土壌に、埼玉栄に代表される私学のエッセンスが加わった時、僕の心に芽生えたのは当時燃やしていた私立に負けるか精神であった。懐かしい。

スポーツの強豪校と言われる学校、北海道だと当時の室蘭大谷だとか、北海道栄、白樺は、もう部活にじゃぶじゃぶ時間を使うで噂だった。朝から部活、昼から部活、夜まで部活。高校生段階でもう筋肉武装である。恐ろしい。

一方、我々が通った北海道はオホーツクの公立高校は、文武両道・質実剛健を掲げ、全部やってこそ本校の生徒であると、事あるごとに生徒たちの脳内に刷り込む大変優秀な学校であった。ピュアな心情を抱えて入学した中学生に毛が生えた高校生たちは、素直に素直に文武両道・質実剛健を履行。するとどうなるかというと、私立の奴らの部活の仕方は許せない…みたいな、ある種倒錯した価値観を抱くに至るのであった。

 

24時間働けますか。

昼夜を徹しての業務が囃し立てられた時代から早幾年。今や生産性と業務効率化が世界を回している。昔ながらの仕事の仕方と、今やらなければいけない仕事の仕方。これは、ある種私立の部活と公立の部活に置き換えられるのではないかと、まぁなんだ、ぼんやり思ったわけだ。

あの、限られた時間の中で部活をしなきゃいけなかった高校時代。雪に閉ざされた環境下でこそ培われた体幹やらその他諸々の能力。どう考えてもハンデとしか思えない状況を、なんとか味方につけて私立の連中をやっつけていくことに、面白みを覚えていたものだった。

長時間必要な業務を、どうアプローチして短時間のそれでなぎ倒していくか。テーマが違うだけで、高校当時やっていたこととなんら変わらないらしい。

埼玉栄のオレンジが想起して奮い立ったこの気持ちが、明日まで持っていたらいいなと思う。雪解けのごとく消えてしまわぬよう。

喉痛い体熱い風邪ひいた

原因はわかっている。昨晩窓開けっ放しで寝てしまった。僕の寝床は窓際にあるからして、夜風に7時間ほど当たり続けた僕の体は見事に冷え、外気を吸い込み続けた咽頭は赤く腫れた。最近不意に寝てしまうんですよね、疲れですかね。不調に感づいたリンパは今も頑張っている。全力で仕事をしてくれている。主張し過ぎなくらいだ。

この間、ついひと月前もそこそこな体調不良に襲われた。1ヶ月ぶりのこの感じ。前回の体調不良時に、くたびれた鳥類のような顔をした医者にもらった薬が余っているので、ひとまず抗生剤をぶち込んでいるが、どこまで抗生できるものやらわからない。

 

あなたの風邪はどこから?僕は喉から。そう、喉から風邪に転落していくのだが、26年この体で生きていると、ヤバイ感というか、風邪引くフラグは敏感に察知できる。これキテるな、やられるな。イガイガする。ゴロゴロする。喉の痛みのとっかかりを感じた時、喉に刺激物を与える癖がある。ニキビをつぶすように、筋肉痛の部位を動かしてしまうように。熱々のコーヒー、お茶。逆に氷。メントス食べた瞬間に水。熱々とスースーの交代浴に晒された僕の喉は、うたかたの清涼感を得た後、刺激に耐えかね、静かに風邪の扉を開いていく。

もう、アホである。どう転んでも風邪引くんだからわざわざ痛みのるつぼに飛び込んで行かなくたっていいのだ。しかし、けれども、痛みに痛みを重ねることをやめられない。熱病に罹って水風呂に飛び込んだ平清盛の気持ちがわかる気がする。冷静に考えたらどう考えても逆効果なのに、やめられない。刺激を求めてしまう。

清盛は熱で冷水をお湯に変えたという。徹頭徹尾、スケールが大きい。奢れるものはひさしからず。喉の痛みもひさしからずで結構だというのに。

えにし

結婚式があり、この土曜日に行ってきた。

大学の同級生同士が結婚したのだが、新郎に対しても新婦に対しても、それぞれに死にかけの巨大恒星ほどの思い入れが同じくらいにあって、我が事のように喜んだ。何しろプロポーズにも立ち会い、婚姻の証人にもなったのだ。メモリーから行政まで。滅多にないえにしの深さである。


これまで参列した結婚式や披露宴は、仲が良くなればなるほど飲酒の様相は深まり、瓶ビールがルクソールあたりのオベリスクのごとく突き立てられ、紅白のワインが満ちては欠け、記憶が欠け、気付いた時には朝なんてことが往々にしてであった。しかし、此度の宴会は違った。僕が大学生の頃。そう、それは年に数回の酷い深酒以外は飲酒をしなかった極めて潔白な時代。当時に良く良く付き合った友人同士の結婚だ。極論、酒など必要ない。嗜む程度に口にしたが、その程度である。

確かな自分で臨む披露宴。えにしの深さも相まって、感動した。涙腺に直撃するような感動ではなく、一つの家庭が生まれる節々に、自分が関われた事実を噛み締め、じわりと味がしみ出すような感動だった。それはきっと、僕たちの人間関係をそのまま表したような感動だ。ドラマティックな出来事が特別にあるわけでなくとも、くだらないやりとりがたっぷり詰まった歴史の地層の断面をゆっくりと振り返ったとき、激情は起こらない。よくもまぁこんなに歴史を重ねたなぁ、くだらないことを積み重ねたなぁ。そんな気持ちがじんわり滲む。

三次会までのロングランではあったものの、どの会もやっぱりどこか日常の延長のようだった。あってもなくても変わらないけど、どこまでも面白い話で笑い、だれも肩肘張らず、だれも寂しい思いをしない。ユートピアのような空間。


かのSF作家、アイザックアシモフはこう言ったそうだ。「人間は無用な知識を喜ぶ唯一の動物だ。」無駄なこと、無意味なこと、生産性のないこと。そういう意味で、2人が作る空間というのは人間らしくて、高尚な空間なのだろうと思う。

少し時間が空きましたが、やっぱり、おめでとう。

わかりやすい敵意

今の今、目の前で小太りのおじちゃんと小太りのお兄さんがぶつかった。お兄ちゃんはよろけて、おじさんはスタスタと歩みを進めた。お兄ちゃんはイライラしたのだろう、振り返りざま追っかけて右足一閃。おじちゃんのリュックを蹴り上げた。おじちゃんはびっくりして後ろを振り返るも、スタスタとやはり立ち去った。お兄ちゃんも怒りが収まったのかわからないが、会社に向かったようであった。あのお兄ちゃんのわかりやすい敵意に燃えた顔はひどく醜くかった。


見ているこちらとしては、ただただ、衝撃的である。まず、怒りの感情と、動作のタイムラグの少なさがすごい。レイテンシーがほぼゼロだ。思い立ったが吉日を体現している。吉日とは…?人のリュックを蹴り上げてまでの吉日とは…?また、自らを顧みることもないらしい。僕も結構カットインしながら歩いちゃったからさ…ごめんよ…みたいな譲り合いの心が見受けられない。オマエが悪いんだーっ!って右足一閃である。さらに、怒りのキャパの少なさ。2006年のW杯決勝、ジダンがマテラッツィに頭突きをした。もう、13年前の話ですか。時の流れとは。あれもキャパが少ないなと傍目からは感じたものだが、W杯決勝の延長、アドレナリンの洪水の中で、お母さんを侮蔑される言葉をキャンキャン言われたらそりゃ頭にも来る。納得である。しかし今朝は出勤時である。10連休明けの憂鬱がそんなに心のキャパを埋め尽くしていたか。理解できなくもないがやっぱり理解できない。そして、後先の考えなさである。僕がよく行く下町の銭湯には、全身にお絵描きがされているおじちゃんが度々やってくる。何でもなく入浴して帰る。万が一、そうした筋の方だったりみたいなことを考えないのか。すてみタックルにも程があろう。反動で大ダメージ食らうぞ。


一人っ子でぬくぬく育ってしまったからか、僕自身、人に敵意を剥き出しにするのがひどく苦手だ。自分がさっさと折れてしまう。容易い生き方を学んで育ってきてしまった。だからこそ、人の敵意をまざまざと見せつけられると、大変に困惑するし、悲しい気持ちになる。

今の会社にも、ちゃんとした人が多い。情操を育み、感情のコントロールができる人が働いている。余計に、免疫がなくなる。


書かないと心が荒みそうだったので書きました。

お兄ちゃんも、おじちゃんも、朝はお互いに嫌な思いをしたでしょうが、いい連休明けになるといいですね。僕も、朝少し苦しい気持ちになりましたが、いい一日になるといいなと思います。

幸あれ。

低予算にかかる魔法

時にはブロムウィッチプロジェクトが引き合いだされたり、最近だとカメラを止めるな!もその類だろうが、低予算映画が思いもよらず傑作になるケースがある。無名監督と無名俳優が趣向を凝らしまくって、予算何百億のスピルバーグと鍔迫り合いをする。やはりジャイアントキリングには夢がある。

別に映画に限らず、低予算寄せ集めチームの奇跡だったり、低予算番組のゴールデン進出だったり、同様の話は結構転がっている。

金があればいいものができる、金がなくてはいいものができない。どちらもある面では真実だろうが、ある面では真実ではない。僕自身、自由に使えるお金が決して潤沢にあるわけではない企業に勤めている。感じることを書く。

 

翻訳機としてのお金

奇跡の発明と言っていいだろう。お金は本当にすごい。

日常生活には欠かせないものとなっているお金だが、あれの本質は何かと言えば、2者間で価値を交換する際の翻訳機である。

佐藤さんはお米をたくさん持っているけど、お魚が欲しい。高橋さんは綿をたくさん持っているけど、お米が欲しい。高橋さんはお米が欲しいから佐藤さんに交渉をする。ねぇねぇ、綿あげるからさ、お米ちょうだいよ。でも佐藤さんは綿を必要としない。お魚が欲しい。するとどうなる、交渉決裂である。逆も然り。お魚を潤沢に持っている鈴木さんがいたとして、佐藤さんは鈴木さんにお魚をが欲しいと交渉をするも、実は鈴木さんはたまねぎが欲しかった。これもやはり交渉決裂となる。

お金は通貨ともいう。共通の貨幣。通じている価値。佐藤さん、高橋さん、鈴木さん、それぞれの取引の間にお金が挟まることにより、スムーズな価値の交換を行なっている。

それはまるで、日本語とスワヒリ語間のコミュニケーションに翻訳機を挟むようなものだ。言葉のコミュニケーションか、価値のコミュニケーションか、コミュニケーションに使用するものが違うだけで、前者では翻訳、後者ではお金が使用されている。

 

今のお金の立ち位置

4年前に亡くなった父方の祖母は口癖のように、「お金がないのは首がないより辛い」と話していた。小学生にも満たない孫にお金の大切さを擦り込んだ教育方法の良し悪しは不明だが、事実、今の社会ではお金がないと立ち行かなくなる。

それはなぜかといえば、社会全体がお金に価値を見出しているからだ。

佐藤さんのお米より、高橋さんの綿よりも、国が発行している通貨に価値を見出し、あらゆる取引が価値の翻訳機である通貨を介して行われれている。お金がないというのはすなわち、「たくさんのお米」や「たくさんのお魚」のような交換材料になりうる資本の不足を意味する。資産家・資本家だとかファウンダーが存在し、資本の後ろ盾が人間の力や価値を決めうる資本主義社会に生きる上では、やっぱり「お金がないのは首がないより辛い」。

だからこそ、お金に左右されるのは、今や当然の価値観だ。

「それだけしか払えないならやれませんよ。」

「この仕事するならいくら必要ですよ。」

何かを企てて、誰かを仲間に入れようとした時、当然のごとくペイが発生する。それは、仕事をする人に対する価値表明でもあるし、仕事自体に対する価値表明でもある。もちろん仕事を受ける人も、社会の共通言語としてのお金がないと社会生活を送れないから、お金を要求するし、お金をもらってうからこそやらなきゃいけない。お金は仕事のクオリティへの保証でもある。

 

社会の当然に慣れてしまった僕らは、忘れてしまっている。お金には本来、価値がない。

あくまで、コミュニケーションを行う上で便利だから、価値を見出しているだけで、本当に欲しいのはお金の向こうにあるお米やお魚だ。

 

低予算の追い風

「低予算」。これはお金がない分、本質的なコミュニケーションで物事を動かすしかない。それ自体、そのものに価値を見出してくれる人たちが集まらないと、低予算は成立しえない。

お金はないんですけど、こんなことやろうと思っています。

なんとか力を貸してください。

資本主義に逆行する、前時代的な取引。だが、前時代的だからこそ本質的で、これに突き動かされた人間はお金と時間を天秤にかけることなく、一目散に動き出す。

共通の母国語同士でのコミュニケーションがスムーズであるように、お金を介さない価値のコミュニケーションも、やはりスムーズで、さらに強固だ。動機付けは不純物が少なければ少ないほど強い。組み木で作った建築物が、ボンドで作ったそれよりも圧倒的に頑丈なのにも似ている。

 

そういった背景から、低予算すなわちパッションの塊であると言える。でなきゃ低予算足りえない。あらゆる本気が密集したそれを、社会がどう見るか。

哀しいかな、低予算で生まれてくる作品は、多くの場合、小さな集団の中だけの通貨となってしまい、社会で通用しない代物が出来上がる。学生の制作物などを考えるとよくわかる。文化祭とかのアレやソレは、お金はないけど、同じ価値観とやる気を持ち寄って出来上がる。パッションだけは溢れているから、セルフ満足度はめっちゃ高い。

社会に出て無味乾燥な資本ライフに突入すると、パッションで物事が動かないことを学ぶ。金しか見てない。みんな、金で動いている。しかし稀にやってくるのだ。低予算を喉元に突きつけられる時が。チャンスだ。何も持っていないからこそ、何かが生まれうる。わらしべ長者が最初にお金を持っていたら家を買えただろうか。無理だったろう。藁から始まる物々交換だったから、お金という不純物を挟まない価値のコミュニケーションだったからこそ、あの物語が生まれている。

 

 

億千の有象無象のパッションの上に、低予算の殿堂がある。揺るぎない事実だ。

でも、生活や資本を度外視して人の気持ちで動き出した仕事は、走っている時もすごく楽しい。一円の金にもならないけど面白そうだから加担するプロジェクトほど面白いものはない。僕の仕事と線を引いていては出会えないものがそこにはある。

自分がしたいことを、どう伝え、仲間を増やすか。人の余力を、どう本気にさせるか。

 

これから先勤め続けるのか違う人生に突き進むのかはさておき、低予算のツボを少しでも垣間見れているのは貴重な経験だと思う。明日からもまた。

平成と天皇

平成最後の、平成最後のと、ここ数ヶ月で猛烈に喧伝されている。そうして、平成最後の日曜日とか、平成最後の朝とか、だんだん平成最後が切迫してきて、いよいよ平成最後の夜を刻々と刻んでいる。

今の今まで、平成が終わることに対しては特に感想も抱いていなかった。けどどうだ、30年続いたものが終わっていく、しかもそれが全国民が共に生きた時代が終わっていくと思うと、いよいよになって寂しさが湧き上がってきている。

 

日本人であれば一度は、天皇とは…?と考えたことがあるだろう。時には政治の長であり、時には軍の長だった天皇は、昭和から平成にかけて、象徴となった。

平成、こんなことがあったねという振り返り番組が傍で流れている。昭和以前の天皇の方が実権は圧倒的に握っていた。けれど、象徴としての天皇が作った時代を見てみると、変に実権を握り、政治に関与していない方が、国民としては時代を共に生きたように感じるのではと思った。僕も平成始まってから生まれているので何をいえた口じゃないのだけれど。

政治が切り離されて、具体的国の方針の評価対象から天皇が外れたというのは、天皇を時代の象徴として捉える側面においては大きいように感じる。いい施策、悪い施策、諸々あるだろうが、それで印象が左右されることがなくなるから。一種冷静に象徴を見つめることができる。

この間日本橋高島屋で天皇即位30年の展示を見てきた。皇室の、いや、天皇の、個人的なアルバムやクローゼット、食器棚の中を見ているような展示だった。人生が時代なのだ。天皇は。天皇の生き方がそのまま時代を映す。そして時代をいずれ名乗る存在として、象徴然として生きた今上天皇、明日からの上皇は、実務から離れ、祈り、国事行為に専念し、国民に寄り添った。優しい人で、優しい時代だったのだろう。

 

このあり方が普通になった次の時代は果たして。

どんな天皇が、どう時代に寄り添うのだろうか。

映画「クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン〜失われたひろし〜」の感想を綴ります

観ました。

www.shinchan-movie.com

 

経緯という経緯は無い。時間が空いて、映画をなんとなく見ようかなと思い、その時間にたまたまやっていたのがクレヨンしんちゃんだったから。それだけである。ゴールデンウィーク初日の映画館はママ友と子供たち、家族づれ、少年少女たちの団体で溢れ、いい歳した青年が一人クレヨンしんちゃんするのは酷く特異に映ったことだろう。しかしそんな瑣末なこと気にしていられない。なぜなら僕は時間が空いて、なんとなく映画を見ようと思ったのだ。映画館に行くのに他に理由がいるだろうか。ゴールデンウィークだからって、家族連れだけが映画館にいける資格を持っているとでもいうのだろうか。否、映画館の門戸は誰にでも平等に開かれている。お金さえ払えば、1800円さえ払えば、クレヨンしんちゃんだろうがプリキュアだろうがアイマスだろうが、僕らは映画を観られるのだ。だから僕は胸を張り、顎を引き、振る舞えうる限り堂々とクレヨンしんちゃんの半券を受付に差し出し、可能な限りスマートにシアターまで歩き、最高にキザに着席、足を組んで、開始を待った。受付の人の怪訝な顔、僕が着席した時、両サイドに座った家族連れが放った若干の違和感を僕は知っている。が、知ったこっちゃない、クレヨンしんちゃんは皆に開かれているのだ!


そんなことはどうでもいい。映画の話である。

クレヨンしんちゃんの映画が好きな人を僕は多く知っている。「オトナ帝国の逆襲」「ヘンダーランドの大冒険」この二作は傑作だと聞いていて、確か僕も観た記憶がある。詳細までは覚えておらず、記憶に定かではない。

元をたどれば少年時代、実家のテレビは地域柄もありテレビ朝日の写りがとてつもなく悪かった。ほぼ砂嵐に近い写りのテレビ朝日を前に、僕ら家族はMステもドラえもんもない生活を強いられていた。もちろん、クレヨンしんちゃんも映らなかった。幼いころクレヨンしんちゃんをちゃんと見た記憶がない。だからそもそもクレヨンしんちゃんへのコミットがものすごく弱い人間なのだ。アニメにコミットしなければ、映画も然もありなん。

 

上記の通り、環境的にはアウェイだった予備知識もヨレヨレのままの鑑賞だったのだが、クレヨンしんちゃんは全く侮れなかった。素晴らしい映画だった。

 

今回は夫婦の愛をテーマにした作品。ひろしとみさえ。つまりしんちゃんの父と母が旅行中の大冒険を通じて、改めて夫婦の絆に気づく。

本線はあくまで夫婦の話なのだが、この作品はもっと多様な楽しみ方ができる。野原一家が持つ、物語へのアプローチの多様さが見事に光った作品だった。

 

クレヨンしんちゃんを語るにつき欠かせないのが野原一家の存在だ。

父ひろし

母みさえ

長男しんのすけ

長女ひまわり

ペットシロ

四人と一匹。春日部の一軒家にすむ何処かの会社の課長さん一家。この登場人物構成が、クレヨンしんちゃんの妙である。

今回の映画の内容詳細は割愛するが、作中の面白ポイントは以下に集約されると思う。

・ひろしとみさえの夫婦愛

・ひまわりを守る母みさえの強さ

・しんのすけの下ネタ

・一家総出のアクション


子供は映画にわかりやすい面白さを求める。おならで笑い、うんこで笑う。そう、下ネタ。普段隠されているもの、恥ずべきものが解放された時の面白さは、万国共通、全年代共通だ。シンプルな笑いと言えるだろう。

一方、大人は映画に現実からの逃避と感情移入・共感を求めがちである。相反する内容ではあるが、アクション映画は前者を、ヒューマンドラマは後者を満たす存在であると言える。

破天荒な幼稚園児しんのすけを自由に動かし、子供たちのわかりやすい笑いを喚起しながら、ひろしとみさえの夫婦愛と、母・みさえの強さを魅せることで、大人の共感を生む。さらにアニメ映画ならではのアクション。本作では舞台となる「グレートババァブリーフ島」に伝わる伝説を巡り、野原一家・トレジャーハンター・原住民の仮面族、三つ巴になったひろし争奪戦が繰り広げられる。予定調和の結末を迎えるとしても、派手なアクション、ハラハラドキドキは面白い。改めて噛み締めてみるとグレートババァブリーフ島って名前もめちゃシュール。

こうしてみると、家族にまつわるあらゆる切り口から物語を紡げるのがクレヨンしんちゃんの強みであり、野原一家が野原一家である限り面白い映画が生まれ続ける。恐ろしい一家だ。


綿密なマーケティングは作中の挿入歌にも現れている。

 本作には二つの大きなクライマックスがある。

一つは、グレートババァブリーフ島到着初日の夫婦喧嘩のあと、ひろしが一人レストランで酒を飲みながらいつも持ち歩いている家族写真を見返し、みさえと付き合っていたころや新婚の頃を思い出すシーン。新鮮な当時の気持ちを思い出し、みさえに花を買って駆け出す。

この時の挿入歌が、福山雅治のHello。

もう一つは、囚われのひろしを奪還すべく、みさえが原住民を駆逐しながら突き進んでいくシーン。

この時の挿入歌が、MISIAのeverything。

おわかりいただけるだろうか。1995年のヒット曲と、2000年のヒット曲。当時の小中学生が今のパパとママだ。クレヨンしんちゃんの皮を被ったエモ。見た目は子ども、頭脳は大人とはクレヨンしんちゃんのことだったか。確実に両親に刺さるような選曲をする狡猾さに震えた。

さらに畳み掛けるのが、主題歌である。歌うのは今を輝くあいみょん。少年少女たちが大好きであろうあいみょんだ。もはやこの映画、全身凶器である。曲ですら全方位に向けて殺しにかかっている。


さらに夫婦愛と並び立って強く込められたメッセージが、母の強さだった。

みさえは、娘のひまわりを抱っこ紐で抱えながらオムツとかが入ったリュックを背負って、ひろしを奪還しにむかう。前には赤ちゃん、背中にはリュック。お母さんの標準装備を常に抱えて、グレートババァブリーフ島の密林をかき分けていくのだ。時にはおっぱいをあげ、時にはオムツを替えながら。ひろし奪還にはトレジャーハンターのインディ・ジュンコが同行する。みさえやしんのすけとは全く異なる、財宝を目的にしてひろしを追っているため、当初は全く協力的な様子は見せないのだが、みさえの強さ、母の強さを目の当たりにする中で、徐々に心を開いていく。インディ・ジュンコの心が動くのもよくわかる。みさえは強い。子供を守る母は強い。トレジャーハンターという、常に宝を探し続ける人間ではなく、すでに守るべきものを持つ人間の強かさが対照的に映されていた。

それにしても、作中に散りばめられた「ママあるある」の量たるや相当なものがあったと思う。ひろしが主となった旦那に対する共感ポイントよりも、みさえが主となった妻・母への共感ポイントをより多く突っ込んでいる。客層の把握が完璧だ。やばい。



小気味いいテンポで展開されるストーリーを追いながら、僕はファミレスを想起していた。

ファミリーレストラン。家族のレストラン。洋食も和食も中華も、ソフトドリンクもお酒も。居酒屋にもレストランにもなる、あの懐の深さ。クレヨンしんちゃんはファミリーレストランなのだ。しかも、ファミレスほどピントが散っていない。何でも屋さんだが、器用貧乏にはならない。今回は明確に夫婦愛と母の強さに焦点を当てているが、おそらく、作品ごとに主題を微妙にずらしながら製作しているのだろう。

それもこれもすべて、普遍的な「家族」のなせる技だ。「家族」の器に何を注ぐか。家族写真の、家族の歴史の、どこに焦点を合わせるか。それによりけりで、物語はいくらでも広がり、あらゆる人の心に寄り添うことができる。


映画はもとより、クレヨンしんちゃんがキラーコンテンツすぎて恐怖を覚えた。30作近く映画作品を作ってもなお、この面白さだ。

時間が空いていたら、いや、時間を作ってでも、観て損はない映画だ。ゴールデンウィーク、暇を持て余しているのであれば、家族連れに埋もれながら見てみてほしい。そして、会場の気まずさと映画の巧妙さを語らいましょう。

以上です。

現代人は赤血球に似たり

品川から横浜あたりまでの京急の駅は全駅高架になっている。飛び込む人が多かったのか、開かずの踏切が多かったのか知らないが、必ず地面から浮いている。今僕がよく使う京急蒲田駅も例に漏れず高架であり、3階に上り、4階に下りのホームがある。さらに羽田に向かう路線が加わり、初見の来訪者をことごとく駆逐している様子を見受ける。

京急蒲田駅の東側から歩いてくると、ちょうど羽田に伸びる線路と横浜に向かう線路が枝分かれしている部分を見上げることができる。毎朝見上げているのだが、この頃それが血管にしか見えなくなってしまった。生々しい弧を描きながら分離していく二つの巨大な道。大動脈が太もものあたりで分かれているようにしか見えない。高速道路もそうだ。生麦のあたりに大きなジャンクションがあるが、あそこも血管にしか見えない。ぐるぐると螺旋上に上昇していって、大きな道路につながっている。毛細血管から徐々に大きな血管へと寄り集まっていき、大動脈に流れ込む様子に見える。碁盤の目のようにきちっと区分けされた道以外の、道路、線路、うねって伸びる道という道、全て血管に見える。

 

以前、一生懸命資格の勉強をしていた。何の試験だったかといえば、これである。

 

 

第2種衛生管理者 過去7回 本試験問題集 '18~'19年版

第2種衛生管理者 過去7回 本試験問題集 '18~'19年版

 

 

無事に合格できたのだが、試験内容には生理学も含まれていて、否応がなしに血液がどうだ、臓器がどうだと学ばなければならなかった。人間の体は恐ろしく良くできている。進化の歴史が最適化していったとはいえ、栄養配給から老廃物の再利用、本当にいらないものだけを排出する循環システムだったり、五感や平衡感覚を司る耳目、口、全てを統括する脳、奇跡としか思えないバランスで進化を遂げているのが人間、生物だ。

体内での赤血球の役割といえば、酸素や栄養分を全身の細胞に巡らせることにある。肺から出た赤血球は細胞に酸素を、肝臓から出た赤血球は細胞にアミノ酸やブドウ糖を巡らせる。そして細胞から老廃物をキャッチアップして戻ってくる。血液の運搬屋さん、赤血球。

線路が血管に見え出してからというもの、人間が赤血球に感じられて仕方がない。自宅でご飯食べたり寝たりして蓄えた力を、血管を流れる電車に乗って会社までいき、働くとともに老廃物をキャッチアップしてまた家に戻る。上り線が動脈で、下り線が静脈か、はたまた逆か。人によりけり。脳細胞だかシナプスを拡大した映像が銀河に似ているから、脳内にも無数の銀河が広がっており、もしかするとこの銀河系ももっと巨大な何かの細胞に過ぎないのかもしれない。そんな説が一時期流行った。真偽はどうあれ、自然の摂理も人間が作ったものも、大抵同じような場所に着地するのかもしれない。そのうち、人間が動くことが少なくなり、今以上に電波が血液・赤血球の役割を担っていく世界が待ち受けているのだろう。でも、中身が変わっただけで、システムは変わらない。

 

会社という巨大な臓器に首根っこを掴まれて赤血球をロールプレイしている日々。頭が良過ぎてどうかしていた高校理科教師が、自分の首からぶら下がっているネクタイを掴んで、「このネクタイの先っぽは誰が握っているんですかねぇ〜〜」と話していたことを良く思い出す。そのうち自分が臓器担ったとて、今度は他の臓器とのバランスや身体との関係で頭を悩ますのだろう。腎臓や肝臓は脳みそとの臓器関係で悩んだりしているのだろうか。なんかありそうである。ガンになっちゃってごめんな、お前らには転移させないようにするからな。みたいなやりとりとかありそう。

 

今日もドクドクと京急線は電車にたくさんの血球を積んで走り出した。

ちなみに赤血球の寿命は120日。なんか人間っぽくないっすか。