徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ぱんぺんぽんっ!

息子が可愛い。目に入れても痛くないなど、明らかに過言な慣用句が存在する子孫界隈であるが、そうも表したくなる気持ちはわからんでもない。誕生から半年と少し、どんどん可愛くなっていっている。顔の造形だってそうだ。目鼻立ち、口の形、その配置、どれをとってもピカイチだ。彼を彼たらしめたのが僕と妻の遺伝情報であるならば、僕と妻が可愛かったということではないか。ということは、僕と妻の両親、そのまた両親、そのまた両親と、あらゆる先祖のスペシャルな遺伝のバトンリレーにより、この可愛さが結実しているといえる。先祖代々、皆、いい仕事をしてくれている。

僕はかつて毎日のように文章や曲を書いていた。これは生活をする上で溜まった垢を一掃するような、いわば感情のデトックスだった。悔しい気持ちや悲しい気持ちを、自分の言葉で表現することで、気持ちに意味を持たせる。ネガティブな出来事をポジティブに変換させる。そんな意味があった。

しかし、ここ半年ほど。宇宙一かわいい生命体がリビングにいる。少し前まですっ転んでいただけだったのに、いまはリビング中をずり這いで探検し、絵本を読めとせがみ、おもちゃを持って遊ぶなど、極めて能動的な振る舞いを見せている。見た目もかわいけりゃ仕草もかわいい。非の打ち所がない。僕はリビングをずり這いで徘徊する宇宙一かわいい生命体に対して、「ま゛っ!」とか「ぱんぺんぽんっ!」とか言って、なんとか笑ってもらおうとアプローチをかける。わかるだろうか。笑ったらもっとかわいいのだ。そして、僕も嬉しい気持ちになるのだ。

「ぱんぺんぽんっ!」の最中、僕は日常のあらゆる負の感情を失念している。というか、「なんとなく日々がうまくいかんなぁ。」みたいな気持ちを持ちながら「ぱんぺんぽんっ!」はできないように人体はプログラミングされているらしい。「ぱんぺんぽんっ!」時には「ぱんぺんぽんっ!」に専念せざるを得ない。そして、息子は「ぱんぺんぽんっ!」に笑う。彼はかわいい。僕は嬉しい。するとどうだ、これまで吐き出し続けてきた生活の垢の上にかわいいの塗料が重なり、デトックスせずとも生きていけるようになっている。

単純に、創作をする時間が足りないことも関係しているとは思うのだが、「ぱんぺんぽんっ!」と「かわいい」の往来で生きていけてしまっている状況にある。生活の垢にかわいいを厚塗りして、自分の感情がどこに行ったかわからなくなっている気にもなるが、感情の行き先を考えようとした矢先に気づけば「ぱんぺんぽんっ!」している。

憤怒と寂寞を言葉とメロディーに変えて叩きつけなくていいことは幸せか。果たしてわからんがぱんぺんぽんっ!