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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

講釈を垂れるということ

やってみてわかったんだけれど、これは殆んど意味のない行為である。自分の知識等々ノウハウを棚卸しては相手に植え付けているふりをして、酷く身勝手な自慰行為をしているに等しい。大した意味も持たない言葉を並び立てて教訓めいた話をするのだが、どこまで相手本位で話せているかというとほぼほぼはてなマークの列挙である。

なるほど、年をとればとるほど講釈を垂れたくなる気持ちがよくわかる。あれは一種の娯楽だ。後輩等々を生贄に自らの気分を上げるためのツールに過ぎない。長い人生の中で承認欲求を他人から得られることなんて数限られている。だから講釈は絶好の自分上げの機会だ。マリオがスターを自ら取りに行くがごとく、僕らは自ら承認欲求を取りに行く。結果、講釈を垂れる。

講釈の最中、先輩ないしは上司の五感は後輩や部下を向いてはいない。全力を持ってして自らに向いている。こんなことを考えています!僕は!私は!こんなことを考えながら生きています!どう!すごい!?感銘とか受けちゃう!?でしょ?受けちゃうよね!?受けちゃってよ!五月蝿い。黙って鏡の前でやってろ。本当にそう思うんだけど、滑り出した口は止まることを知らず、加速度的に転がり続けて気づけば相手の目がお陀仏している。まだ気づけばいい。殆んどの場合気づかない。

その代わり、お金を払ってあげる。後輩の時間をお金で買うのだ。彼らは、僕らは。Winとlooseの関係をお金という共通項を持って解決していく。おごってもらうなら行ってもいいか。そんな考えが後輩に芽生える。今度は後輩の目が先輩や上司に行かなくなる。彼ら彼女らの目は、財布に行く。

上司先輩の財布を見つめる後輩部下と、後輩部下に映った自分を見つめる上司先輩。不毛な時間が蔓延る限り、居酒屋はほくそ笑み続けるのだ。

上りと下りの狭間にて

今、通勤の際に乗る電車は路線の乗り入れがあるので、途中まで上りだが途中から下りになる。そういえば田舎にいた頃は上りと下りの概念がわからなかったものだ。懐かしい。都会の色に染まりつつある。

上り電車ってのは通勤時に大抵ひどく混む。少し郊外のベッドタウンから都心のオフィス街へ向かうサラリーマンたちが静電気に吸着された埃のごとく集まってくる。満タンのゴミ袋を捨てに行くのが億劫だからって足で踏みつけて量を減らし、さらにゴミを突っ込むように、満員の電車に火の玉カミカゼアタックをかましてなんとか自分だけはその電車に乗ろうと苦心するサラリーマン。社会の歯車がネジがゴミか。悲しい喩えだがあながち間違っちゃないだろう。

モッシュの最中にいるような密度で運ばれる車内。強制収容所に向かうユダヤ人はこんな気分だったろうか。昔見た戦場のピアニストの映像を遠く彼方に思い出す。電車が上っている限り、ジリジリと車内の密度は上がる。ライオット寸前まで高まったバイブスが、上り切った駅(僕の場合東京駅)にて一気に放たれる。カマキリの卵から幼虫が飛び出していく様と上りきった電車からサラリーマンが飛び出していく様は酷似しているように思う。何百何千という数の同じような姿をした個体がぞろぞろわらわら。グロテスクが極まっている。

僕はというとそこからまた下りだすので、飛び出す幼虫達をよそに卵の中に残る。するとどうだ、あれほどまでに狭く苦しかった車内が恐ろしく広い大地に感じられる。普通にしていればなんて事のない車内なのだが、頬と頬、吐息と吐息が重なり合った先ほどまでの密度のせいでどこか物足りない車内に感じるのだ。

堂々と椅子にかける。足なんか組んでみちゃう。一寸前まではこんなポーズしたら膝の関節が砕け散っていたろうに。ちょっとした優越に浸る。さっき生まれていった幼虫達はこの自由を知らないのだ。ふふふ、ざまあみやがれ。こんな快適な電車に座っているぞ!


今日も頑張れそうです。

参議院予算委員会を傍聴してきた感想を書きなぐる

縁あって少しだけ傍聴することができた。

国会議事堂内を見学するだけであれば修学旅行とかでもコースに入るほど手軽なものであるようだが、委員会も予算委員会の傍聴となるととても敷居が高く、手荷物の持ち込み禁止、金属探知等のセキュリティチェックを受けての傍聴となった。飛行機乗るよりよほど厳重な関門である。身も心も律される。

傍聴席は委員会の会議場内あり、首相、財務大臣、委員長、委員会員と同じ目線に設けられていた。日々NHKのニュースでしか見られないお話がすぐそこの議場で繰り広げられている。独特の緊張感がやはりそこにはあった。再び、身も心も律される。

入るなり森友学園の問題が議題に挙がっていた。稲田防衛大臣が元本業の弁護士として深く関わっていた件の追求をビシビシに食らっている場面。森友学園は今や周知の話題であるし、とても認可できないけど言張ったもん勝ちという政治力の暗闇が飛び出てきているようで、どう着地していくのか見ものではある。

雑魚同然のサラリーマンがぼんやりと議論の様子を見ていて思ったことを書き留めようと思う。

僕の職業がサラリーマンであるように、彼らの仕事は国会議員である。国会議員としてお金をもらって、生活を為している。大きな違いは、サラリーマンは会社からの承認の元に職に就くが、国会議員は国民からの承認の元に職に就く点だ。少なくとも彼らは民意の元選ばれた人間で、間接民主制の権化でもある。だから国民の模倣になるべきだって言いたいけど、まぁお互い人間だし、大目に見合いながらうまくやっていければいいんじゃないのと思う次第ではあるのだが。

そんなサラリーマンは、日々、超勤に関する指導を上司から受ける立場にある。「その仕事は今やるべき仕事なのか?」「早く帰れ。」「超勤するのは計画的業務ができていない証拠だ。」「業務効率を上げて人件費削減に取り組もう。」救われない念仏の如く繰り返される指導。言われるがまま超勤削減を目指すし、会社としても社内インフラをうまく使うべく事業構造を再編するなどして効率を目指し続ける。

会社がなんでこうも躍起になって仕事の効率化や女性の参画を進めていくかというと、もちろん社としての営業利益を確保するためでもあれば、国からのお達しでもあるわけだ。弱小ながら一部上場企業である弊社は、立法府ないしは行政府の政策に沿いながら事業を展開していく必要がある。一億総活躍と言えばダイバーシティ云々、様々な雇用体系を作り出すし、働き方改革といえば、社のインフラのリストラに取り組む。素直なものである。

本日眼前で繰り広げられた国のお仕事は、果たして効率的かつ計画的業務と言えるのだろうか。超勤をせず、業務を時間内に終わらせるための働き方と言えるのだろうか。

大きなパネルに敷き詰められた森友学園関係の疑惑を時系列に落とした表。別のパネルには現場の写真。掘削作業の簡易図。確かにマックロクロスケもいいところの疑惑であるからして、妥当な追求であるのだろうが、記憶にございませんと野次と委員長の声が入り乱れる押し問答に果たして幾許の生産性があったのかといえば甚だ疑問である。フリップを作る仕事とか原稿を作る仕事を考えると、あの一悶着に費やされる人的経費は相当であろう。恐ろしい。

そもそも、一番仕事が増えるのはミスの後処理である。これはたった数年しか働いていない僕なんかでもわかる。余計な仕事を増やさずに確実に仕事をこなしていけば爆発的に仕事が増えることはそうない。もちろん会社である以上誰かのミスの後処理とかは回ってくるので、自分だけきちんとしても仕事は増えていくし、自分のミスで誰かの仕事が増えても行く。だが、ミスさえしなければ超勤こんなにならないで済んだってことは往々にしてある。すると、ミスを減らす・未然に防ぐことが計画的業務の最優先事項であることがぼんやりと見えてくる。

政治に限っては大きな流れがあるわけだし、お金と力が絡み合う中で千差万別のグレーな便宜が図られまくっているのであろう。それが政治と言われればそれまでだが、バレてくれるなと思う。見えなければわからないが、発見された時点でそれは事件であり、ミスだ。森友学園のそれなんて、国有地・8億円割引セール・最右翼的教育・首相の関与等々、叩けば叩くほどミスの埃が飛び散り続ける大惨事である。本来前を向いて業務をしていたはずの関係各所が、一斉に後ろを向いて火消しに動いていることだろう。無論、超勤をしながらである。

国が先頭を切って始めている諸改革。その手となり足となり動き出す企業。さらにその細胞となって働くサラリーマン。自分のミスを棚にあげるのは上司として監督者としては時に必要な行為であろうが、あまりに無様だとその上司にはついていかなくなる。国に対しても同様ではないだろうか。記憶にございませんと野次とが仕事の大半を占める状態の行政府を持つ国に働き方を改革しようと言われても、企業は頷きにくいはずだ。

国会議員のスキャンダルで儲ける企業がたくさんある以上、議員は常に監査と好奇の目にさらされている。疑惑が浮上しては突っつき、確信に変わっては破裂していく政治家たち。バレてくれるな。バレるならやるな。心からそう思った。あなた方が規範だとは思わないけれど、あなた方は船頭に違いないわけだから。せめてかっこいい船頭でいてほしい。

しかし、朝9時から昼の1時間休憩を挟んで夕方5時までの時間、ビッタリ張り付いての会議となる予算委員の方々は本当にお疲れさまだ。連日連日の会議。さぞ疲れるだろう。頭が下がるばかりであった。頭をさげるにふさわしいあなたでいてほしいとも思った。