徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

打ちっ放しが楽しくてもう

楽しくて。

2週間前、友人の結婚式に準じて帰省した北見で15年ぶりに持ったゴルフクラブ。小学6年以来のスイングは僕に旨味にも似た後味を残したらしく、次の瞬間には伯父より余ってたクラブを東京に取り寄せ、クラブが5本くらい入るソフトケースを買い、ゴルフ練習場を調べたら走って10分ほどの場所にあったものだから比較的足繁く通うようになった。

東京の打ちっ放しは高いという。それは実際間違いではなく、ボール単価で行くと北見のゴルフ場の3倍程度のコストがかかる。更にクラブだボールだティーだなんだとなると本当にお金のかかるスポーツだ。趣味にするにもコストが大きな参入障壁になっているように思う。


恵まれたことに棚ぼたでクラブを貰って、最低限の支出でゴルフができる環境が整っている。あとはランニングコストだけという状況。コースには出ないまでも打ちっ放しで練習をする。

端的に、ゴルフは面白い。多分、僕の性格と合っている。

何が面白いのか。


まず、相手がいない。

これはボウリングにも言えることだし、ピアノにもギターにも、生業としていた陸上競技にも言えることだ。試合となれば話は別だが、基本は自分との戦いである。当方一人っ子にて、淡々と黙々と自分と向き合って作業するのが好きだし得意だ。

相手がいないということは、変数が少ない。

僕と、止まったボールと、クラブ。3人しか登場人物がいないのだ。ピッチャーもいなければ、ゴールキーパーもいない。ただ、静止した空間に僕とボールとクラブ。僕がどうやってクラブを使い、ボールを打つか。ただそれだけの単純さが性に合っている。陸上なんて身体一つだし、ピアノもそうだ。黙々系スポーツである。

さらに、トライアンドエラーのスパンが大変早い。

一度打ちっ放しに行くと300球くらい打つ。打ち放題プランである。単純に、300回トライアンドエラーが繰り返されるって凄くないか。300回打つ前と打った後だったら確実に打った後の方が上手くなる。集中して、一球一球丁寧に打つ。右に曲がったら理由を考え、試す。上手く当たらなければ小さな動きに立ち戻り、少しずつ大きな動きにして修正していく。一球前より一球後、一球後より二球後と、どんどんとトライアンドエラーが積み重なる。よく、「PDCAを早く回そう」と賢そうな人たちが言うけど、ゴルフのPDCAは爆速である。ガンガンいこうぜ。

そして何より、没頭できる。

クラブを背負ってジョギングした後にゴルフと向き合う。血行が良くなりポカポカしてきて、ポジティブな気持ちが心を埋めつつあるときにひとつのことに専一になるのだ。夢中である。あの気持ちは適度な難易度の横スクロールアクションゲームをやっている時のそれに近い。マリオとか、ドンキーとか。果敢に挑んでは跳ね返され、試行錯誤をする。前回とは違う動き方を考え、ステージをクリアを目指す。あの時のピュアな試行錯誤を、ゴルフに感じている。飛ばしたい方向に飛ばしたい距離だけ飛ばす。微修正で済む時もあれば、根本的にダメな時もある。どちらにせよ、ダメだった時と少し動きを変える。クラブの握りなのか、角度なのか、腕の上げ方なのか。そして少し修正されて、不意に会心の当たりが出る。これ!これだ!と同じ動きを意識する。まさに横スクロールアクションである。

徐々に上手くあたるようになってくると、単純にスカッとする。

ちっちゃなボールを鈍器でぶっ叩いて遠くに飛ばしているのだ、スッキリしないはずはない。上手くいかない時のストレスと表裏一体のスッキリ。裏と表で全く違う面を見せるゴルフに哲学を感じてしまう。


会社の先輩とかに連れられてそのうちコースに出ると思われる。ひとまずそれを目指して打ちっ放しを重ねる。

ほんと、いい趣味になるかもしれない。

携帯を変えました

少し前に変えた。iPhoneXRと言うやつだ。どうやら最新機種らしい。

この間まで使っていたiPhone6xは社会人一年目からの付き合いだった。色々な思い出がる。トイレの便器に落としたこともあった。飲み会の度、泥酔の度に顔面を傷つけ、幾度か修理に出したが最後はもう諦めてスカーフェイスのまま引退することとなった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。もう一回iPhoneとして生まれてくることがあったら、俺のところに来るんじゃないぞ、幸せになれよと、下取りに出す間際の先代iPhoneを見て思ったり思わなかったり。

 

最新のiPhoneはこれまでのiPhoneと全く勝手が違う。まず、ボタンが消えた。押すと言う概念がなくなった。その代わりに、顔認証がついた。取り急ぎ確認されたのは、メガネを取ると僕のことを僕と認識してくれなくなることだ。メガネがなくても、風邪を引いても、元気がなくても、あなたはあなたよと言って欲しかった気はする。しかし、iPhoneにそんなことを求めた日には世も末だとも思う。複雑な気持ち。

あと、容量が増えた。これまで16GBの容量しかなかった。これは写真一枚でファミコンのソフトの数百倍の容量を占める現代においては極端に全時代的な容量であり、僕は基本的に写真ほほぼ保存できないマンと化していた。それが現iPhoneは128GBである。なんでしょう、ほぼ無限の容量です。何しろプレステ2のメモリーカードが16MBとかである。インフレが過ぎる。

そして、画面が大きくなった。ドからファまで届くで有名な我が手のひらであるが、全くもって今回のiPhoneは持て余す。手に余る。がっちりホールドしようとすると親指で操作しづらくなり、親指をフリーにしようとするとホールドできなくなり安定性が失われる。結構重さもあるからホールドはしたいところなので、結局両手が塞がることとなる。一周回って歩きスマホへのアンチテーゼになっているのかもしれない。一方で、操作性は抜群でサクサクぬるぬる動きまくる。会社用の携帯がはるか昔のXperiaとかなのだけれど、操作性を比較したら雲泥である。月とスッポンである。

GarageBandがデフォルトで搭載されているのも大変嬉しい。これで屋外でもDTMごっこができる。一人でやって満足するレベルの作曲ができるわけではないが、作曲やってますトークからのGarageBand実践みたいな浅ましい合コン芸みたいなのが今後展開できるかもしれない。爪を研いでおこうと思う。

 

まあなんでしょう、古くなったから変えただけで特になんの感慨もない買い替えでしたが、雑感でした。

高橋弘希「指の骨」

読みました。

 

指の骨 (新潮文庫)

指の骨 (新潮文庫)

 

 

ここのところほろほろと、無理のない程度に軽い小説を読んでいる。短編ばかり読んでいるので、特段感想を書き留めるほどのことでもないと踏んで書かないでいたけれど、この本はちょっと書いておこうと思う。

 

戦争小説だ。

東南アジアの野戦病院での日常が描かれる。強烈な銃撃戦があるわけでも、恐怖体験があるわけでもない、淡々とした戦中の生活。個別具体的なエピソードは置いておいて、この小説全体に流れる当然のような死が、どんな戦闘よりも戦争の恐怖を表していたように思う。

登場人物は皆二十歳そこそこの若者である。それぞれに手負い、それぞれの事情で運び込まれてきた熱帯の野戦病院で、傷を癒す。運び込まれた段階で死を待つよりない人間もあれば、一度は回復の見込みがあったのにも関わらず風土病やマラリアに罹かり、やはり死んでいく人間もある。敵はアメリカ軍だけではなく、蚊であり、蠅。

激烈極まる戦線から離れると、日常は穏やかに回る。東南アジア(おそらくパプアニューギニア)の景色が、主人公たちには内地の景色と錯覚する。沢で洗濯をし、水を汲み、原住民との交流があり、穏やかな日常の中で当たり前のように人が死んでいく。陸の孤島のごとき場所に設営された野戦病院には人が運び込まれてくることは少ないが、人は死んでいく。空きの病床が増えていくたびに、戦争が戦闘のような正面からやってくるようなものではなく、四方八方から迫ってくるものだと学ぶ。

そして死は人を選ばない。

主人公の幼馴染で一番優秀だった、誰もそいつには勝てないと思っていた人間がいの一番に戦火に散っていく。それも、敵軍と見間違えて発砲してきた日本軍の銃撃に倒れる。第一線において、能力や技術はほとんど関係ない。運がいいか、悪いか。それだけしかない。

 

平等に、無作為に訪れる死を辛うじて躱した者が集う野戦病院で、また訪れる平等で無作為な死。そして、死に日常がまとわりついて、回る。

戦争を知る世代は若くても落ち着いて大人っぽかったという話をよく聞くが、本書を読んで然もありなんと思った。時間は余っているが、死が近い。自らの死なのか、他人の死なのかがわからない。でも、確かに簡単に、昨日まで元気だった人間が死んでいく。思考の余裕がたっぷりある一方で、死を喉元に突きつけられると人は死生観について猛烈に考え、達観する。抗えないことには抗わず、諦め、老成する。

 

文体や描写もくどくなく、一方で説明に過不足がない。

戦火の中に静かな死は多くなく、戦闘での血が迸るような死や、栄養失調で熱帯の中行き倒れたグロテスクな死、熱に浮かされ気が狂って夢も現もわからない中での死が交錯する。それぞれを、一種の叙事のごとく訥々と描写している。戦争のリアルなおぞましさを損なわない程度に、作者のエゴのようなものを絶妙に感じない、素敵な文体だと感じた。

 

 

戦争を体験した世代がもういなくなりつつある。僕の母方の祖父が大正15年生まれで、若年の戦争体験者だったが、10年も前になくなってしまった。ゆっくりゆっくりと戦争の記憶と事実が日本から押し出されていっている。僕らは文献を読むか、本書のような文献を基にした創作物を読んで、戦争を確かめるより他ない。

本を読んで、戦争に触って、なんの意味があるのか。

平和を願う心を養うとか、不戦を改めて誓うとか、色々あるだろう。本書を読んで改めて感じたのは、戦争とは無作為な死であり、改めて死とは何かを考えることが戦争に触れることであるということだった。

小学三年生のころ、戦争の話を祖父に聞いた。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

祖父が戦争から家に帰った時の話をして、嗚咽を漏らしながら泣いている記憶が、今も脳裏に焼き付いている。

祖父と曽祖母の親子の愛が涙させたのもそうだろうが、涙の理由は、ただひたすらの安堵だったのではなかろうか。祖父は第一線に置かれることはなく、サイパンで船が入る防空壕を掘っていたとのことだが、死の香りはきっとそこかしこを漂っていたろうし、防空壕を掘るという単純作業を繰り返す中、脳裏には何が浮かんでいたか考えると、それは故郷の光景だろうし、自らの死だったのではないか。

苛烈な体験だと思う。僕は死を身近に感じないままここまで大人になってきた。多分それは何より幸せなことで、担保されるべきものなのだろう。でも、死を感じることは無駄じゃないと思う。リアルな死ではなくとも、戦火に巻き込まれて死んでいった人の残り香を感じることで逆説的に生を考える。生をありがたく思う。

生きているからこそ嬉しく、生きているからこそ苦しい。全て、生きてこそ。


様々社会との軋轢はあれど、生きていて死の恐怖を感じたことはない。そういう人が今、日本の世の中を埋め尽くしている。

戦火の日常は、日々と当然を見つめなおさせてくれる。


文体と相まって、大変良い読書体験となりました。

虚無の共有、広大な時間

友人の結婚パーティーでまた歌うこととなっている。先日はギター弾きながら高校時代の友人と二人で演ったが、今度はピアノ弾きながら三人で歌う。楽器が弾けてよかったと本当に思うし、こういう人間が親になった時に子供にピアノの習い事とかを強制するんだろう。気をつけねば。まず相手を見つけねば。

昨日、三人とも休みだったのでスタジオを借りて練習してきた。一人は同じゼミで最後の一年間卒論と共に戦った人、もう一人は4年間丸々よく遊んだ人。スタジオで練習もそこそこくだらない話を訥々と紡いだ。たった2時間、たった2時間だったけど、そこには5年も6年も前の学食の空気が確かに流れていた。お酒の絡まない、ただ喋るだけの空間がとてつもなく楽しく、何か忘れていた感覚を思い出させてくれた。

 

社会に出て4年経つが、「遊ぶ」ことがどんどんなくなっていっている。いや、遊んでいるには違いないが、何かに急き立てられるように遊んでいる。時間の消費とお金の消費をひしひしと感じながら。明日明後日からの仕事が頭の片隅に影を落としながら。

学生時代、僕は体育会で走っており、当時は当時で練習の影に怯えながら生きていた。それでものっぺりとした緩い時間の中、虚無な時を過ごしたとて勿体無さを感じるでもなく、明日も明後日も同じような日々が続いていくものと考えていた。お金は本当になかったけど、部活の友人とは寮の中にある据え置きのゲームで時間を溶かし、学部の友人とは学食の席を陣取って言葉遊びで時間を砕いた。

仕事の隙間で遊ぶのが今で、広大な空間にポツリポツリとやらなきゃいけない仕事があるのが当時。心持ちとしては当然違うし、遊び方も変わってくるのは当然だ。

 

また、人間なんて色々な面がある。一面では全く語りつくせない。

僕はお祭りのような喧騒も煩い音楽も好きなのだけど、気質的にはそこまでアッパーなパリピではない。酒飲んでネジ外れれば当然のごとくぶっ壊れるけど、そもそも育んできた性格は大変に内気だ。どちらも欠かせない一面で、どちらの自分もうまく楽しませてやることが僕の精神衛生を保つのに重要な作業となる。

社会に出てからはどうしても前者の自分、アッパーの自分ばかり表立っている。今僕が属する世の中的に望ましい姿は前者であり、期待に応えてやろうという気持ちもある。仕事の隙間での遊びには体力か金銭の消費が伴うことが多いのも、アッパーが際立つ原因でもあろう。

少なくとも、昨日行った2時間のスタジオで満たされたのは後者の自分だった。それは最近忘れていた、久々に皮膚呼吸をしたような充足感であった。

 

友人二人がどう考えどう感じたかはわからないけど、個人的にはとても有意義な時間を過ごしたと思っている。全く何にもならない時間だったけど、それ自体、時間自体が尊かった。たまにやりたいものですね。僕はそう思います。

「最高の飲み方」なんて存在するのか

この本についての話です、

 

マンガでわかる 酒好き医師が教える 最高の飲み方

マンガでわかる 酒好き医師が教える 最高の飲み方

 

 

 

先に断ると、僕はこの本を読んでいません。

 

当方、京急線ユーザーである。京急の車内広告にここ最近猛烈に取り上げられているのが、本書。酒好き医師が翌日に残らないうまい飲み方、太らないような飲み方を教えてくれるらしい。実は唐揚げとお酒を一緒に摂るのは悪くない⁉︎みたいな見出しが踊っている。

僕もそこそこに酒を飲む。人並みに愉しい思いも、失敗もした。酒さえ飲んでなかったら僕の財布にはもう何十万円か何百万円か、余分に取っておけただろう。地獄のような二日酔いの苦しみのなか出勤することも、その苦しみに耐えて吐きながら出勤したのに、酩酊中に財布と名刺入れを紛失したのに気付き途方にくれることもなかった。けど、泡沫の愉しみは後先を考えさせてくれない。その場が、その会が、楽しくて、面白くて、酒が進み、地獄に飛び込んでいく。

 

そうした幾らかの経験より導き出せる、酒の鉄則はただ一つ。健康的でいたいのなら、後悔に身を浸すのも良しと思えないのなら、太りたくないのなら、飲みすぎないことである。それ以上でも以下でも、それ以外のなんでもない。

個々人、酒との相性はあるだろう。僕は比較的ビールと日本酒と焼酎は得意だが、ワインはそこまでじゃない。紹興酒も簡単に酔っ払う。けど、全てに通ずるのは、たくさん飲んだら激しく酔っ払い、翌日二日酔いになるということである。単純明解。面倒臭い理屈は存在しない。飲んだら酔っ払うし、飲まなきゃ酔っ払わない。ただ、それだけだ。

正直、「飲み方」の介在する余地があるレベルの飲み方であれば、大して酔っ払っていないのではないかと思う。百薬の長になり得る、たしなみ程度の飲酒だろう。怖いのはその先だ。その先の恐怖や苦しみを、もし「飲み方」で帳消しできるのであればぜひ教えて欲しい。が、おそらく無理だ。ほとんど病のごとき状態に陥るのだ。方法でどうこうできるレベルではない。

 

一方、お酒の楽しみ方は酔っ払うだけでないのも事実。大勢で飲むときは酔っ払うのも楽しいが、本当に良い酒を美味しく美味しく味わって飲むのも楽しい。また、ワインや焼酎、日本酒の知識を深めると含蓄の深い面白い人間になれもするだろう。それら全て、お酒の楽しみ方として紛れもなく正しい。

一刻も早く、後者のような楽しみ方ができる大人になりたい。

だが僕らは日々、人に囲まれて生きている。皆が世の中をうまく歩けるように、社会の隙間を仕事で埋めて生きている。人のために皆が働き、その対価で飯を食う。するとどうだ、酒を飲むのは必然的に人と会う場となり、大衆居酒屋となり、結果、大酒を食らうような退廃的かつ刹那的な愉しみ方に終始してしまう。情けない。

 

そういうわけで、僕は飲み方には全くこだわらず、来るもの拒まず、淡々と日々の飲酒を重ねていく次第である。量だけ、量だけ気をつけましょうね、年の瀬ですよ、みなさん。無用な嘔吐、無用な痴態、無用な物品破損にはくれぐれも。

語れるほどの夢とか

もっと本格的に曲を作りたいからと、大学入学当初に買ったVAIOのパソコンをやめてiMacを買ったのはもう一年と半年ほど前の話になる。このMacともそこそこの付き合いだ。僕が趣味趣向のために使った人生最大の出費。どんな彼女にも、どんな友人にも使ったことのない金額を投資している。回収できているかといえばいまいちはっきりしないが、自分の満足感としては十分である。購入当初は副業的な制作活動ができればと考えていたが、正直人様に胸張って堂々と聴かせられるかといえば、難しい。いいところまではいっている気がするけど、マスタリングの面、作業環境(アパートの一室)の面で、最後の最後で違和感を払拭できていないように思う。それでも、VAIO時代を考えると格段に良くなった。

そのVAIOを使っていた頃、僕の音楽を管理していたのはウォークマンであり、つまり「xアプリ」というウォークマンでいうiTunes的なアプリだった。そのアプリの中には僕の音楽の全てがあった。何千曲入っていたかわからない。Macに移行する際 、xアプリからiTunesにデータを引っ越ししなきゃならないと知り、懸命にやったのだが、技術不足か不手際か、何千曲と入っていた曲群の中の2/3程度しか移行できなかった。その時、気合い入れて工夫を凝らし、移しきれば良かったのだけれど、そこまでの根性もなく、諸々の設定がめんどくさかったことやMacをいち早く体感したかったこともあり、移行を諦めてしまった。今でも少し後悔している。あの曲が、あのアルバムが聴きたいなんて気持ちに突き動かされたとき、痒いところに手が届かない。もどかしい。

もどかしさを極めるアルバムに、スピッツの「さざなみCD」がある。何枚めのアルバムかは覚えていないが、スピッツの爽やかで明るいイメージを凝縮したようなアルバムで、大変明るくキャッチーな印象を受ける。いわば、大衆的なスピッツ。実のところは、スピッツの深淵はマリアナより深く、草野マサムネの精神は終盤のジェンガよりも繊細で盛りの猫よりも猛っている。スピッツに一度でもハマって書き込んだ人なら誰でもわかる。そんな彼らの人様に見せても困らない面ばかりを集めたのが、さざなみCD。ずっと聞いていると物足りなさすら感じるが、たまに無性に聴きたくなる。

語れるほどの夢とか 小さくなった誇りさえ

無くしてしまうところだった 君はなぜだろう暖かい

 

さざなみCD3曲目の群青の歌い出しだ。

今、ふたご座流星群が日本の上空を通過しているらしい。ニュースを聞いて、小さい頃天文学者になりたかったのだと不意に思い出した。天体が好きだ。宇宙が好きだ。上下も奥行きも始まりも終わりも時間もあるのかないのかわからない空間にぷかぷか浮かんでいる天体。何も関係なく物憂げに浮かんでいるようで、実は太陽ないしは大きな恒星にぶん回されているだけだったり、恒星は恒星ではるか大きな銀河の一部だったり、途方もなく、わけのわからない存在に惹かれていた。γ線の話をするはるか手前のx軸とy軸の時点で脱落したため、天文学者の夢は華麗に絶たれたのだったが、もしかしたら、自分の能力が足りてさえいればそんな未来もあったのかも知れない。

これは、もう語れない夢である。今僕が語れる夢は今の僕の延長線上にあることがほとんどだ。今の僕にとって天文学者は夢ではなく、もはや過去の夢、パラレルワールドな自分とかの話になってしまっている。群青の文脈では、波が押し寄せても笑って立ち向かう強さを諭してくれているが、夢は得てして潰えるものだ。それも、気づかないうちに。それでこそ夢なのかもしれない。

かつて天文学者を夢見た男の子は、今寒いからってふたご座流星群も見上げない大人に成り下がった。悲しいな、でも、これが大人である。

小さくなった誇りは無くさないでいると、かつての天文ボーイに見せてやりたい。

案ずるより産むが易しとは

諺。この文字1つで「ことわざ」と読ませる。今や当たり前だが、ノーヒントじゃ絶対わからない、難読漢字に位置付けられるだろう。そんな話は今回全く関係なく。

案ずるより産むが易し。何も手につけないまま不安がってくよくよ悩むより、とりあえずやってみたら思うほど悪くないよ!みたいなことを一言でうまく言い表している言葉とされている。すごくわかる。そういう場面は生きてたらたくさん出くわす。

一方で、蓋を開けてみたら思ったよりひどい状況だったりすることもある。案じまくった数々の最悪パターンを、現実が軽々超えてくる。そこまでとは思ってなかった、そんなに酷い話だとは思ってなかった。どこから手をつけてどうしていけばいいのか判らず、途方にくれたりもする。


諺は的確に物事を言い得ているような気がする一方で、あらゆることが起こり得る世の中だ。どんな物言いをしたって全部真理なんじゃなかろうか。

案ずるより産むが易い場合もあれば、案ずるより産むが苦しい場合もある。果報は寝て待った方がいい場合もあれば、待ちの姿勢じゃ物事が動いていかない場合もある。そもそも人事を尽くしてないから天命が来ないだけかもしれない。

どれも本当だ。自分の力じゃコントロールできないところから降ってくる現実を、それはそれとして捌くしかない。


淡々と、レッツエンジョイ東京。

Dive into 日常

束の間の帰省も終わり、今期一番の冷え込みを謳う東京に戻ってきている。徒歩と電車で少しのところにある会社にはきっと一面銀景色レベルの仕事が溜まっており、えっちらおっちらの片付けてあげなければならない。道無き道を進むような日々が口を開けている。そこに僕はDive intoするわけだ。

年の瀬も迫ってきているが、我が業種に年の瀬もへったくれもなく、目にも留まらぬスピードで年末年始を駆け巡ることとなる。その直前、最後の休止がこの度の披露宴帰省だった。北見はやっぱりぶっちぎりで寒く、4次会終了時点でマイナス16度を記録。酔った頭と体でタクシーもまばらな街を歩いたのは多分いい思い出となっていくだろう。

結婚式はこれもまた良かった。花嫁は綺麗で、花嫁のお母さんも綺麗で、お父さんは落涙の嵐、地元の同級生もたくさん集い、古い話と最近の話をカフェオレにして楽しんだ。10年も前の中高生時代となってしまったが、当人たちの記憶の中ではいつまでも鮮明なものである。人の門出を使って、僕らは懐かしい話をする。人の門出の間際に、僕らは最近の事情を語る。その日の主役も脇役も、みんな主役の人生があり、それぞれに生きて、それぞれに楽しかったり苦しかったりしている。話さないわけにはいかない。


嘘のような寒さに集って祝った同級生たちも瞬く間、今日からはそれぞれにそれぞれをやっている。僕もそう、彼も彼女も。どんなに来て欲しい朝も明けて欲しくない夜も、起きたくない朝も、時間は等しい。

さて、頑張りましょうね日常。

そしてさらに結婚式

結婚式連戦である。

今度は北海道北見市。勝手知ったる地元のチャペルにて1人の可憐な女性がしおらしくお嫁に行く。40になってお互い独身だったら結婚しようという時限爆弾のような契りを交わした女性であったが、一抜けされたのは果たして幸か不幸か。僕は静かに40で結婚の梯子を外され、空中浮遊をしながら彼女を祝うこととなった。時限爆弾は不発弾となった。彼女が仕込んだ爆弾は誰に向けて爆発するやら。ひとまず、未来のお嫁よさようなら。

結婚式にかこつけての帰省だが、都会で毎日毎日、温い鉄板の上であっちにへいへいこっちにへいへいを繰り返していた日常から嘘でも一瞬離れることとなる。こちらも幸か不幸かであるが、現職になってからというもの、結構な感じで忙しみを喉元にくっつけられていたもので、日常を離れる分には悪くはないかって気になっている。全部投げ出して逃げてきたこともあり、二泊三日後の自分の首をタイムリープして絞めている側面は否めないが、つかの間の休息を用意してくれるあたり、ロストした未来のお嫁は案外いい働きをしているかもしれない。

 

さて、どうあれ帰省だ。

実家はやはり落ち着くものだが、何を勘違いしたか試される大地北海道は僕を歓迎するあまり吹雪としばれをプレゼントしてくれたようで、行きの飛行機は断末魔のごとく揺れ、無事ランディングしたと思ったら実家での雪かきが待っていた。帰省といえど甘くはなかった。最高気温がプラスにならない真冬日がぶっ続く道東の地。タイムリープをせずともダイレクトに首を絞めてきている感じがある。寝たら死ぬな、気を失ったら死ぬな、と、細心の注意を払いながらも調子乗って運転した車が雪にハマって身動きが取れなくなり、懸命のプッシュの後かろうじて全身に成功したなんて事件もすでに勃発している。雪道の怖さを心底思い知りました。恥は、雪が溶かしてくれる。助けを呼ぶ大切さが、そこにはある。

 

まもなく花嫁を祝いに出陣するのだが、今の今まで15年ぶりの打ちっぱなしに赴き、望外の楽しさに浸らせてもらった。これは東京帰ってもやりたいものですね。しかし、-8度の外気の中の打ちっぱなし。体幹は温かいが寒いものは寒く、いったん家に帰って小休止している今、猛烈な眠気に襲われている。ごめん花嫁、今僕は眠いよ。

さて、行ってくる。

言葉にできないから、僕は何も知らない

また唐突に本を買い出した。有用な実用書でもなんでもない、小説ばかり。なんの役にもたたないけど、切羽詰まって来た時に無理やり心の隙間をこじ開けてくれるのが小説であり、言葉である。

「コンビニ人間」を買ったのがきっかけだった。

どえらく流行っているらしいことは知っていたけど読んでいなかった芥川賞受賞作。なんとなく気分がいい時に本屋を通りかかったら平積みされていたので、衝動的に買ったのだった。これがよかった。

同調圧力が理解できず、一方で心の赴くままに生きていると白い目で見られる。他人が吐いている言葉を飲み込み組み合わせ、さも自分の言葉のようにしながら毎日を誤魔化す。コンビニという箱の中ではマニュアルが圧倒的な正義であるのに、世間の渡り方にはマニュアルがない。コンビニではお客様を喜ばせられればいいのに、世間では誰を喜ばせればいいのかわからない。ひとまず、周りの人に不審がられないような生き方を取り繕って生きていく。

誰でも理解できるであろう葛藤がテーマだ。それを包むのが言葉である。

 

ストーリーで泣かせる小説というのがある。人や動物の死と友情と恋愛を二重螺旋構造に編めば泣ける物語となる。また、どんでん返しのミステリーもある。密室とミスリードをミルフィーユ状に折り畳めば、「衝撃のラスト15ページ!あなたは戦慄する!」とかいうポップが平積みにされた上に踊る本が生まれる。

物語の起伏や謎で読ませる本も人並みに読んだが、あの類の本は斜め読みがしやすい。言の葉の端々までくまなく読まなくても大枠が把握できてしまうし、泣けるし、びっくりできる。エンターテイメントとしては極上だ。労をかけずに楽しめるのだから。

芥川賞、純文学と呼ばれるジャンルはどうも少し様相が違うようで、物語もそこそこ、言葉で心を動かしてくる。絶妙な比喩、未踏の表現がたくさん並ぶ。取るに足らないことや当たり前のことを丁寧に丁寧に描写している様は美しい。斜め読みしてしまうと全部見過ごしてしまうけれど、ゆっくり立ち止まりながら読んでみると素晴らしい表現が詰まっている。

 

疲れている時に読みたいのは起伏がある峠のような本より、田舎のあぜ道のように平坦な本だったりする。アップダウンで内臓が浮くスリルを味わうのでなく、稲穂の一本一本まで丁寧に、でもぼんやり見つめるような緩やかさを求めてしまう。日常生活の起伏で疲れた心をを一生懸命になだめようとしているのだろう。

 

日常を書き続けてややしばらく経つが、僕は多分日常の少しも言葉にできないでいる。改めて本を読んで、読み返して、思う。文章を書くことは子供に名前をつけるようなもので、日々の取るに足らない心の動きや感情に言葉を添えて、解きほぐして理解することだ。作家たちが理解している世界は、僕が理解しているそれよりよほど広くて深い。自分のことや他人のこと、世の中のことを知った気でいて、何も表現できていない。ほとんど、知らないのと一緒だ。

もっと本を読めばもっと日常を細かく描写できるだろうか。これまでなんでもなかった景色や物事に言葉を添えてあげられるだろうか。

 

言葉を食んで、戻して、改めて少しずつでも全てを理解していこうと思っている。