徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

めでたし

幼馴染の結婚式がありました。

幼馴染幼馴染とよくいうものだが、この度挙式を挙げたの幼馴染はいよいよ本格的な幼馴染で、親父同士の付き合いがあるものでお腹にいる頃からお互いのことを認知し合っている。彼は兄弟が多く、僕は一人っ子。同世代のお友達が少ない僕にとって、たまに遊ぶ彼は脅威だった。兄弟が多いと気が強くもなるのでしょう。2歳とか3歳の頃、彼が戦隊ヒーローの銃を持ち、猛烈に突き刺しながら追いかけられて泣きべそをかいたことをよく覚えている。ポケモンカードで理不尽なルールをその場で作られて勝ち筋を消された時も泣きべそをかいた。そんな過去も今は昔で、小学校は違うものの中・高・大と机を並べたり並べなかったりしながら生きてきた。確実にお互いの人生の重要な構成員として存在している。濃厚な幼馴染である。かと言ってベタベタに仲がいいかといえばそうではなく、幼馴染だからこそそこそこちゃんとした距離を保っているというか、なんというか、ほとんど従兄弟とか親族の間柄の感覚に近い距離感だ。

目黒雅叙園。ラグジュアリー極まる空間での式と披露宴。

幼馴染は立派に新郎をやりきっていた。

ここ3ヶ月毎月のように結婚式に出席しているが、家族同然の人の結婚式なんてそうはない。彼の人生のあらましをリアルタイムで知っているから、昨日の振る舞いは心底立派だと思ったし、両親の涙にも心が揺さぶられた。僕も同じ気持ちですよと思いながら。うまく説明のつかない気持ちで、式と披露宴を見ていた。

役割が人を育てる。家族を持ち、いよいよの意味で一人の人生じゃなくなると人間は強くなるのかもしれない。戦隊ヒーローの銃で猛烈に突き刺しながら追いかけられた過去。あの頃は暴力的な面での力の差を感じたが、昨日の式の中ではもっと別の人間的な面で敵わない感覚を覚えた。本当に、立派でした。

 

たくさん飲み、食べ、余興で歌い、カラオケで歌い、酔った勢いで路上ライブをして日銭を稼ぎ、四次会まで駆け抜けた昨日。不満を探せど見つからない素敵な一日であった。二日酔いだけが大きな後悔として残ったが、この苦しさすら認められそうだ。

また明日から。トロッコは走り出す。

各駅停車とスマホの電池

急がない道のりが好きだ。もっと早く着く移動手段があるのに、あえて歩いたり自転車に乗ったり各駅停車に乗ったりすると、なんとも贅沢に時間を使っている気分になる。

余分な時間はどんどんとなくなっていっている。便利になり、速くなり、手軽になっていく一方で、針に糸を通してチクチク縫うような、前時代的とも無駄とも言われそうな時間が駆逐されている。僕もAmazonやらなにやらで時代を享受している身で、そんな奴が何を言ってもたわ言なのだけれど。

不便を便利にすると、そこに隙間が生まれる。これまで10かかっていた時間が5になると、5の余分な時間が生まれる。僕らはこの時間をどう使うかと言えば、さらにお仕事を突っ込む。10の時間で2倍3倍の働きができれば万々歳だ。

そんな生産性からの要求に解き放たれる瞬間がすなわち、歩いている間であり自転車、各駅停車の上なのだろう。もう、どうしようもない。黙るしかない。生産性もへったくれもない。隙間なく物事が並べ立てられている世界にぽっかり空いている空白こそ移動時間。

丁寧に作られたハンバーグがやっつけ仕事の冷凍ハンバーグより美味しいように、生産性にとらわれないたっぷりした時間はどうしても魅力的に映る。空き時間に立ち寄るコーヒー屋さんもそうだ。


つらつらと文書を書いている間に、iPhoneは電池の半分を吐き出している。最近めっきり充電の持ちが悪くなり、そろそろ買い替えどきかと思いつつもどうやらiPhoneが値下げされるらしいニュースを見かけたものだからそれまで待とうかと逡巡している。

電池がなくなるからとスマホを触らない時間が多くなっているが、買い替えたらそうはいかないのだろう。贅沢だ空白だ時間は自由だと宣いながら、スマホに操られる日々となるのは目に見えている。

一昨日買った文庫がとても良くて、久々に文章の力を思い知った。言葉に心象風景が乗って、自分の中で再生されるあの感覚は決して動画には出来ないもので、貴重だ。心の余裕をこじ開けられたような気がした。


という朝でした。

大変健やかな休日です

本当に、大変健やかである。

去年、一昨年くらいまで、休日をどれだけ有意義に過ごせるかに腐心していた。早起きして、どこにいく訳でもない身支度を整え、洗濯して掃除して、いよいよ身辺が整ったらなんでもできる。本を読むもよし、音楽するもよし。それこそ有意義と考え、休日は判を押したようにそんなような生活をしていた。だが、今は昔となりつつあった。最近は掃除もせんと昼寝をし、起きては飯、寝て起きては飯。洗濯さえなんとかやっていたものの、部屋の隅に埃と髪の毛が組んず解れつしながら佇む。これはいかん、いかんとは思いながら、どうも腰は重く、頭も重く、しばらく前の自分がみたら消沈するような日々を過ごしていた。

さて、久方ぶりの休日である。特に目覚ましもセットせずに寝て起きたら7時。窓の外は晴れ。冷たく澄んだ空気。冬。体の中から何かが漲ってくるのがわかった。

飛び起き、とりあえず風呂に湯を張った。気合の湯浴みである。ガチガチに熱くした風呂に浸かり、眠気と煩悩とこれまでの不真面目な日々をリリースするとともに、健やかさとやる気をキャッチアップ。勢いで風呂の中を掃除する。午前7時半、とち狂ったかのように寝起きの全裸が風呂掃除をする様、鬼の如し。

心身と風呂場がさっぱりしたところで洗濯機を回す。シャツの襟が黒ずんでいた部分に関しては、なんと風呂掃除時にハイター漬け置きで処理済みである。寝起きの手際とは思えないレベルで漲っている。洗濯機回しながら髪を乾かし、服を着て辺りを見回す。ううん、散らかっている。なんとなく汚れている。

部屋が汚く見える主たる原因は、床に物が置いてあること・籠や入れ物に入っていない物が机の上に置いてあることだ。徹底的に是正する。捨てる。しまう。入れる。ある程度整ったところで上から掃除する。テーブルの上、テレビボード、テレビ、パソコン。順番に片付ける。迷ったら捨てる。逡巡すらもったいない。いらない何も捨ててしまおう。そうして床掃除に手をつける。マットの類も全部ひっくり返し、クイックル。クイックル。クイックル。コロコロ、コロコロ、コロコロ。髪の毛と埃の愛の巣を蹴散らし続け、フローリングは息を吹き返した。洗濯機が止まる。大快晴の空の下、洗濯物を干す。記録的に日当たりの悪い弊部屋であるが、風に当たっていればある程度服は乾く。しかし冬の風は気持ちがいい。換気だ、換気だ。薄着だろうがなんだろうが関係ない。寒い方が気合が入るというもので、漲りにも拍車がかかる。畳んであるだけのAmazonダンボールとかも今すぐゴミで出せる状態にし、いよいよ部屋が整ったのが9時前のことである。人間、やればできる。

さて、それから僕はコーヒー淹れながらパソコンで曲を作り、ピアノを弾き、iPhoneを買い替えるならいつがいいのかなどとベンチマークしながらコーヒーのお代わりをし、文章を書いている。なんという健やかさ。なんという理想の休日。

前の晩の酒に午前中を圧迫されるような休日は嘘だ。やはり休日は休日を生きなければならない。毎週やったら確実に疲れるのでうまく身をこなしていきたいとは思うが、今日、僕はすでに成功を手に入れた。

自由が転がっている。

人参は生きていた

久々に感動したので書く。

今の今まで大戸屋にいた。黒酢あん定食を食べていた。値上げして、大学時代よく行った当時の大戸屋より少し単価が高くなっていた。

異動する前までは会社にお弁当を作って持って行っていたのだけれど、ここのところはしばらくご無沙汰で、昼ごはんはコンビニだとか、その辺の立ち食い蕎麦とか、適当に済ますことが多くなった。それで致命的に栄養バランスを崩しているわけではないけど、事実として、弁当を食べなくなった。

コスパを求めての自炊だったのだが、お弁当の効果はどうもそれだけではなかったらしい。今日、人参を食べて痛感した。


大戸屋である。たかだか言ってしまえばチェーン店の定食屋。でも、大戸屋の黒酢あん定食に入っていた人参は生きていた。苦かったのだ。少し固くて、でも芯まで熱は通っていて、噛んだらほくっとくずれる。あんの甘酸っぱさに負けない苦さを確かに感じた。

単純な料理に苦味は存在しない。甘い、しょっぱい、甘じょっぱい。ほぼこれだけだ。出汁の旨味すらも単純な料理では単純な味になる。生きている味ではない、造られた味。疲れているときはとかく単純な味を求めてしまう。味を理解することを脳みそが絡むのかもしれない。

しかし、望まずして食べた、生きた人参のことを脳みそは歓迎した。本当に美味しかった。感動した。たけのことか、春菊とか、旬のものを食べた時のあの感覚。オールシーズン旬の人参がこんなにも美味しいとは。

弁当には何かしら旬の野菜が入っていた。旬の野菜は安くて美味しい。今考えてみたら、贅沢な食事をしていたのだろう。

余裕ができたらなぁと思う。旬の野菜を日々食べられたらなぁと、心から思う。人参一欠片に、揺さぶられている。

可愛いとカッコいいがもたらす接点

二重がどうした、鼻筋がどうした、口角がどうした、容姿がどうしたとどれだけ突っ張っても、どうしても一生ついて回るはこの身体。カバンやサイフはいくらでも取り替えが効くが、身長体型容姿を含めたボディはなかなかどうして取り替えが効かないものである。

時勢によるものも大きいだろうが、大衆に受け入れられる顔の造形は確実に存在し、知性や特技よりももっと直接脳みそに訴えかけてくる最強クラスの武器として使いこなす人がいる反面、足を猛烈に引っ張られたりもする。諸刃の剣である。しかもこればかりは生まれて育ってみないとどう出るかわからない。結構なギャンブルをやってるわけです、我々人類。


内面の綺麗な人がタイプです。見た目よりも性格重視。

よくもまあ宣ったものだ。どう考えても容姿の第一関門を突破した前提で内面を加味してるに過ぎない。ハジメマシテの段階で即内面にフォーカスできる究極のサイコロジストでもない限り僕らは人の外見をいの一番に見ることとなる。こればかりは仕方がない。しかし、究極のサイコロジストとて、表象している目耳鼻口を無視はできまい。人は見かけが何割とか言う話もあながちである。

内面を見つめるにも外身が必要なのであれば、内面と内面、本質と本質をくっつけるのが外見であるといった見方もできるのではなかろうか。外見が、接着剤となる。


僕の身近にいる偉い人が、乃木坂46のインフルエンサーを評してラテン音楽だと言った。なるほど、ラテンっぽい。サビのベースラインには熱いものを感じる。ラテンを知らなくともラテンっぽいのはわかる。多分偉い人は乃木坂46がラテンっぽい歌を歌わないことにはラテンのラにも触れない。そんな人がラテンっぽい曲を踊り狂う。アイドルの、可愛いの力、容姿の力の証左である。

なんかわからないけど新垣結衣が可愛いからメルティーキッスを買っちゃったり、広瀬すずが可愛いから風邪薬にコンタックを選んだり。容姿は目に見えるもの見えないもの全部をくっつけ、あるときは分かつ。どうしようもないギャンブルに振り回される我々の命運とは。なんと儚いものか。


あぁ、お腹空いた。

夜寝

なんの緊張感もない中でぼんやり映画を観ていたりすると、気づいたら寝ている。時間があってある程度暇だから映画を観ている訳で、別に寝たところで大したダメージにもならないんだけど、起きた時点で完全に夜になったりしていると流石に時間をアレしたかなと感じる。

保育園の時分から、昼寝が苦手だった。時間ばかりが余っていたはずの大学生の頃でさえ寝たらもったいない気がして頑なに睡眠から逃げていた。裏には有意義欲があるのかなんのか。でも、結局日頃雇用されの中での疲れとか、飲みすぎた後のリカバリーとかを行うには睡眠が一番であり、睡眠しかない。体は正直だ。

 

昨日明け方まで飲み、一度寝てから家に帰り、午前中一杯は元気に過ごしていたのだが、1日も折り返しに入ると途端にダメージが出るようで、いつどのように眠ったのかが全く不明瞭なほどの睡眠の沼に落とされた。突如として体とまぶたの自由が効かなくなったと思えば記憶が途切れ、次の瞬間、夜。そしてまた寝る支度をする。

生活と仕事が隔離されると、多分人はこうなっていく。仕事に疲れ、仕事の流れで酒を飲み、休みの日に一気に清算する。ワークライフバランスとはよく言うが、家庭がないとライフを持て余し、気づいたら夜みたいな話になる。


これだけ寝たから明日は早起きできるかなと思うけど、寒くて布団から出られない未来もありありと目に浮かぶ。

蓋を開けてからの勝負に、勝てるだろうか。

消費について

大抵の活動を、僕らは体力を使って行なっている。体力を使って仕事をしてお金もらったり、体力を使って走ってさらに体力にブーストかけたり。さらにそこには時間も関わる。ギターが趣味なのも、これまでの人生で結構な時間をギターに費やしてきたから今弾けている訳で、時間を使うというか、消費している。

何事もどうやらそうらしい。

何かを使って、僕らは何かを得ているらしい。

これ、大人になってくると変に体力を温存する動きが出てくる。子供の頃は資本が体力しかないからやれ鬼ごっこだやれバスケだと空き地に公園にと駆け回ったものだけれど、日頃の生活に疲れた大人は休日に体力を使うなんて考えない。すると、家から出なくなる。

そんな大人は、お金を消費するか時間を消費するかの二択を迫られる。

買い物に精を出す人、アニメを見つめることに精を出す人。既存の趣味に汗をかく人。

大人になってできることが増えると、漠然と子供の頃に考えていた。事実そうなのだけど、その実は体力以外の資本を持つことで、消費のバリエーションが増えているにすぎない。体力を使ってもいいし、お金を使ってもいい。ただ、時間は少ない。でも大抵のことは体力とお金を掛け合わせればやれてしまう。だから、なんでもできる。けど、子供の頃考えていたように自由自在に好きなことができるといったことではなく、確実に資本をじゃぶじゃぶ使っての、「なんでもできる」だ。

 

時間か、お金か、体力か、経験か、その全部か。

この先の人生を彩るのはこれらの掛け合わせである。その中で何を錬成するか、本人のさじ加減一つである。

明日はおやすみなので何かしようと思うけど、なんだかんだ時間だけがすぎていく気もする。それはそれかなとも思う。

町工場とヤクルトのおばちゃん

晩秋の東京は大田区。大量生産、インダストリアルな香りが漂う町。どこかの何かの部品を作る工場や、ネジ専門の小売店なんていうスーパーニッチな商店が軒を連ねる。めっきり肌寒くなってきたというのに、小太りなおじちゃん達が薄着で汗を垂らしながら何かの部品を作っては運び、側ではラジオがかかる。軒先に出ているホワイトボードには週末の競馬予想が書き出され、昼前になると工員たちがああでもないこうでもないと話しに花を咲かせている。

そこにヤクルトのおばちゃんがやってくる。おばちゃんは厚着である。冷え性なのだろう。真冬じゃないのにミシュランタイヤのキャラクターのように着ぶくれている。

工場にヤクルトを届ける。

半袖のおじちゃんと着ぶくれたおばちゃんが世間話に花を咲かせる。

寒くないのか、暑くないのか、昨夜の雨には参った、今朝は晴れてよかった、洗濯物が乾きそうだ、息子の受験が佳境だ。

たくさんのヤクルトで頭もお尻も重くなった自転車に跨ったまま片足をつけて話しているおばちゃんに気遣って、おじちゃんが話を切り上げる。お世話様、また。


そんな会話を日向で転がって見ている猫になりたい。

インスタント天国・風呂

たまに湯に浸かる。どんなに時間があってもシャワーしか浴びる気がない時もあれば、働いてご飯食べて眠る体制を一刻も早く整えたいくせして無理やり湯を張ることもある。特に入浴に対するこだわりがないからこそ、ナチュラルな状態で湯浴みと向き合っている。本当に気分ひとつだ。

しかし、割合からすると圧倒的にシャワーが多い。時間を取られることなく、簡単にさっぱり感を得られる。油と汗にまみれた皮膚を、整髪料で息苦しい頭皮を、靴の中で蒸れきった足元を生き返らせることこそ湯を浴びる最大かつ最高の効能だとすら思う。

そうして来る日も来る日もシャワーを浴び、安くて浅いさっぱりばかりを享受していたところで、不意に湯に浸かりたい衝動に駆られる。前頭葉を鷲掴みにされたが如く、湯を求める。湯を張れ、浸かれ、今日だ、今だ。面倒臭いを押し、眠気すらも圧縮して湯に浸かる。それでも時間を取りたくないから43度くらいの熱いお湯を張り、満を辞してずぁぁぁぁっと浸かる。細胞がうめき声をあげる。全細胞のうめき声が喉を震わせて一人のバスルームにこだまする。気功の達人でもこんな声出さない。深い森が突風にさざめいたかのような、奥底の方からのうめき。まさか自分から出た声とは思えない。

油も汗も蒸れも、全部湯に溶けていく。湯に潜る。湯で洗う。原始との触れ合いを感じる。遥か昔、爬虫類とも哺乳類ともつかない姿の先祖が陸に上がる前、激烈な環境の海を生き抜いたかつての記憶が戻ったような戻っていないような気になる。巡る。巡るのは記憶でもなんでもない、血液である。全血管が細胞のうめき声に目覚め、猛烈に広がる。上京して牙をもがれた元ヤンが地元に帰った時の態度かのようだ。都会の水に冷え切って萎縮した血管がここぞとばかりに広がる。片側二車線だった道路が四車線に。北見の国道がサンフランシスコのハイウェイに。どんどんと血は走る。5分もすれば末端が痒くなりだす。血が細胞を完全に目覚めさせているのだ。うめき声ではない、今度は動いている。喜びの声を上げている。ようやっと命が吹き込まれた細胞たちが喜びを歌っているのだ。手指、足、足首。ポカポカである。そう、ポカポカなのだ。ポカポカに乗じて、疲労感がグググと主張してくる。疲れが末端から滲み出てくる。血液の大河が栄養を運び、老廃物たちは川を遡上する。末端にたまっていた疲労を僕らはその時初めて認識するのである。末端が必死で向き合っていた疲れを、今度は心臓にリンパに戻してあげて、回復に努める。明日もこれでまた戦っていくのだ。

たまに浸かると、イイよ。

始まらない一日、終わらない1日

一日が始まるとは、1日が終わるとは、なんなのだろうか。

区切りは睡眠のように感じられる。特に子供の頃はそうだった。睡眠をとって、起きたら全く新しい1日が始まる。昨日の体調とか昨日の友達とかみんながみんな新しいものになって始まっているような気がしていた。

でも、そうじゃない。寝たって世界は変わらない。びっくりするくらい昨日と今日と明日は繋がっていて、なんの違いもない。だから明日から頑張るなんて詭弁は存在しないのだ。明日の自分なんていないんだぞ、今の自分がただそこに居るだけだぞ、頑張れ受験生。

 

働いて飲んで歌って一瞬気を失って、また働いて日をまたぐ。

そうした時果たして僕は何日をどう生きていたのかわからなくなる。1日を終えずして暦の上では「次の日」に突入しているが、一方で自分はなんの仕切りもない自分を生きている。当たり前だけどめっちゃ疲れるし、めっちゃしんどい。1日が終わらない。3日くらい続いている。

 

かと思えば、休みの日に起きていても何をするでもなく気づいたら日が沈んで終わっていく1日もある。勿体無い気はするのだけれど、3日分を生きた1日があるのであれば始まらない1日がないと釣り合いが取れないのだろう。

 

毎日が途切れることなく続いていくものだと把握してしまったあと、僕らは毎日、きちんと1日を終わらせ、1日を始める必要が出てくる。受動的に構えていると今が続いてしまうから、能動的に1日を終わらせなければならない。しかし、とかくグズグズになる。律していなければ、昨日と今日と明日が撹拌されてスムージーかの如くドロドロになる。

明日への扉だ、明日への希望だ、明日へのマーチだ、明日に希望を託すのは結構だが、大層なものが待っているわけじゃなく、風呂入って歯を磨いて着替えて寝た後の何も変わらない自分がそこにいるだけだと、みんながわかっている。でも、区切らないと怖い。何も変わらないことはわかっていても、宗教の如く明日を思わないといられない。

逆に、明日への恐怖から逃げたくて、今日を終わらせたくなくて、ずっと起きていても明日はくる。それは明日というより、当たり前に来る時間でしかない。

明日という存在に希望を抱くことも、逃げることも、ふさわしくないのだろう。

今ばっかり。全部、今なのだ。