徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

言葉を考える

世界の共通言語は笑顔です!うふふ。なーんて歌が流行ったこともあった。ああ、なるほどな、言葉なんて実はいらなかったりするのか。笑顔や泣き顔、身振りや手振りで伝えられることの方がよほど貴重で愛おしいものなんだ。一理も二理もあるなぁ。そう思った時期が確かに少しはあった。

しかし。社会に出て、外国の方を普通に相手にするようになってみて。笑顔で伝えられることのまぁ少ないこと少ないこと。現実には、あの歌で歌われたユートピアなんて霧散していた。

実際に使われる笑顔。何が伝わるのだろう。

少なくとも、敵意がないことは示せる。あなたのことを受け入れる体制が整っていますよ。ニュアンスはいいとして、攻撃をしないことはわかってくれるはずだ。

それ以外何か伝えられるか。笑顔で確実に伝えられるものが何かあるか。

 

例えば、そこに猫がいたとしよう。塀の上を軽々ひょこひょこ歩いている。もしかしたら日向で丸くなっているかもしれない。そいつの頭の中で、仮に、宇宙の真理が解き明かされたとて、僕たち人間は知る由もない。なぜなら言葉がわからないから。猫の言葉で、あの叫び声で、宇宙の果てはどうなっていて始まりはこうだった!ってニャーシャー言われても、こちとらなんのこっちゃわからない。

 

結局のところ、言葉がなければ僕たちは通じ合えないのだ。思考も表現も、言葉にがんじがらめにされてしまっているのだ。

一部の天才はそうじゃないのかもしれない。イメージで考えられたりして、それを絵とか音楽とかで伝えられてしまう。ただこれも言葉以外の伝える表現を持たなければ、イメージで考えたところでアウトプットは言葉でしかできないので、結局のところ言葉に牛耳られるわけだ。

逆に考えれば、言葉に不自由がなくなると思考に不自由がなくなる。言葉に縛られているものの、言葉を学ぶことによって枷が取れていく。パラドックスのようなものだ。僕は日本語しか喋れないからわからないが、きっと日本語思考の枠の中で生きている。英語でしか考えられないこともあるだろうし、英語では考えられないこともあるだろう。

 

国際社会と言われて久しい。英語ができなきゃ社会人じゃないくらいの波が、さらさらと寄せてきている。全くその通りだと思う。コミュニケーションツールとしての言語を考えたときに、英語ほど有効な言葉はない。

一方で、思考のツールとして英語を使える純日本人がどれほどいるのだろうか。コミュニケーションツールとして使える人の中でも、さらに一握りの人しか使えないのではないだろうか。

英語で考えられるレベルまで熟達した英語話者になれるのであれば、越したことはない。しかし、我々は日本人であり、日本語でこれまで考えてきた。きっとこれからも日本語に生きる日本人が大多数を占めるだろう。言葉が思考のツールとして機能する限り、日本語に自由極まりないことこそが、日本人として重要なことなのではないかと思う。

複数ヶ国語を話せても、どんぐりの背比べ状態であれば意味がない。どれか一つ、突出して話せる言葉をもって、他ヶ国語にて、複雑な思考を伝えられる。これが理想だ。

 

いくつもの言語を話せて当たり前の時代が、こんな島国にも来るかもしれない。だからこそ、日本語をもっと学ばなければならない、日本語でもっと自分を表現できるようにならなければ、自分を考えられるようにならなければならない。

 

しかしもしもこの先、宇宙の真理にたどり着いたときには、人類の最大公約数である英語で伝える必要があるだろうから、英語をやらねば。いや、そもそも英語でコミュニケーションを取らなければ。超えるべき壁は、高く固く大きい。

あぁ、笑顔が世界の共通言語だったらなぁ。