徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

未来がいい?過去がいい?

今週のお題「行ってみたい時代」

よくそんな話をした覚えがある。小学生中学生のころはそれは頻繁にした気がする。

未来の自分を見たい、未来の旦那を、未来の娘を、未来の孫を。未来を知れたらと思うことは多々ある。小指から出ているやら知らない、至極こんがらがった何色かの糸をほぐして行った先に誰がいて、何が待つのか。誰もが興味のあるところの筈だ。

心では、それが幸せな春色ピンクのものに限らないと知っている。しょぼくれた自分が膝と頭を同時に抱え込んでいるかもしれないし、その場所が高架下のダンボールの上なんてことだってなくはない。およそ文化的な生活を送れている保証もない。

だが、反面黄金色の未来だって可能性があるわけだ。宝くじなんていう幸運と自分がつがいになっているかもしれなければ、まだ見ぬ才能が眠っていて、そいつが金になるかもしれない。

つまり一種の射幸心が、未来を見たいと叫ばせる。未来を見ることは未来の自分への賭けなのだ。

パチプロが胡散臭いように、競馬場に人生を賭けた駄馬券がばら撒かれるように、射幸心の行き着く先はあまり美しいものではない。一歩引いたところから見ると、ちょっとそれお前どうなのよと言いたくなる姿勢を司る心、それが射幸心だ。誰もが夢みて、大概儚く散るものである。

保守的すぎるかもしれないが、個人的にはほんの少しでも自分の未来にワクワクやドキドキが潜んでいる限り、未来は見たくないなと思う。なにしろ賭けに勝った覚えがない。性分として合わないのだろう。

いやね、別にそこまで深刻でない未来ならいくらでも見よう。未来のプロレス界とか。喜んでみよう。なにしろ興味ないから。でも自分や関係のある物事人が絡んだら別だ。いやだ。

だから過去が見たいんですね。見られるなら過去がいい。それこそバックトゥザフューチャーみたいに、自分の両親の馴れ初めを見に行くのもいい。恐ろしく古い時代に行くもいい。かつてそこに確かにあった歴史をなぞる安心感。未来のデコボコ不安定とは違う。今でこそまっすぐに伸びている運命の糸とやらが、どう解けたかを確認したい。賭けよりも答え合わせがいい。自分のルーツも、古代文明も、へんないきものも、宇宙の不思議も、あらかたの答えは過去にある。むしろ過去にしか正解がない。

光の速さで動き続けたら未来に行けると、相対性理論は叫んでいるらしい。けど、一般に我々が生きる今現在が最先端だ。まだ存在しないが作れる未来と、確かに存在したけれど二度と作れない過去。どうだ、過去の方が愛おしくはないか。一秒前よりも千年後の方が物理的に近いのだ。なぁ、愛おしきかな過去。