徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人依存症

新年会が落ち着いたと思えば歓送迎会が始まり、花見が始まる。そしてやっと世の中に平穏が訪れたはずが、平穏に乗じて各々の会を開催する。つまり一年中僕らは何とか会とかって名目を付けて誰かと会い続けている。


人と喋るのは楽しい。

これが世の大前提だ。人と会うことが趣味みたいな人も多いんではなかろうか。予定を詰めたい。誰かとご飯に。誰かと飲み会に。

僕も宴だらけの日々からぽかっと予定が開くと、おやおやと思う。たまには誰か懐かしい人と会ってみるかな。声かけてみるかな。

自発的に声をかけるのが苦手な性分で、本当に気心が知れた人でなければ行こうとはいえない。だから何やかんや一人でふらふらしたり身辺を整えたり、お約束の創作活動に精を出す。


人と会うという行為には、2つのパターンが存在する。

人と会うために人に会うパターンと、何かをするために人に会うパターン。二者は大きく異なる。

日々暮らしていてこれは危険だなぁと思うのが、人と会うために人に会うパターンだ。日頃の愚痴のはけ口としてだったり昔話に花を咲かせたり諸々あるだろうが、中身のあるようでない内輪の話に花を咲かせるのがとにかく楽しい。中毒になる。次第にいつものメンバーが形成されていく。

これ自体は悪いことではないのだが、恐ろしいのは話が対外的に通用しないことだ。Aと言ったらBと言う。それにCと返す。みたいな条件反射が成立する間柄ほど気の置けないものはない。絶対に必要だし、貴重なコミュニティだからこそ、依存する。人依存症になる。

対して、詩吟でも俳句でもボルダリングでも何でもいい、何かをする結果人と会うパターンは、人への依存が少ない。極端な話、相手は誰でもいいのだ。「何かをする」というツールがある限りは、人の輪は広がり続ける。人に依存せずに人に会うことが可能となる。脱人依存症。


世に蔓延る何とか会の殆どは人に会うための会で、例に漏れず全部楽しいから酒を飲むし街に繰り出すんだけど、何となくこのまま転がっていくと空き缶みたいになっていく気がしたので書いた。

別にどうこうしようって気持ちはない。楽しいから。