徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

歌が上手いダルビッシュ有の話をしようと思ったらカーリングの話になってた

僕はかねてよりダルビッシュは絶対に歌が下手であると標榜している。ダルビッシュは歌が下手だ。いや、歌が下手でなければならない。世界有数のピッチャーの上、世間一般で言うイケメンでありスタイルがいい。完全体セルの如き完璧さを誇る肉体の上に、文化的活動にまで造形があった日には、僕ら一般人が少ない資本を一生懸命トレードオフしながらかき集めた諸々があまりにも虚しくなりやしないか。そう言うわけで、ダルビッシュには申し訳ないが歌が下手であり、ちょっと変わった絵を描くくらいが丁度いいと思っている。

福山雅治も同じ意味で、スポーツがあまりできないくらいでいい。そうあってくれ。文化的な活動に秀でたスポーツマンなんて存在があっていいのか。否。断固否。


連日報道が過熱しているカーリング。昨日は北見に凱旋したようで、おらが空港である女満別空港に報道各局・応援団・運良く立ち会えた人たちが勢ぞろいでチームを迎えた。帰省のたびに母か父が迎えに来てくれる女満別空港の到着ゲートだが、降りた瞬間に親がどこにいるのか判るような閑散とした到着ゲートしか僕は知らない。押し寄せる人、人、カメラ、人。にわかには信じられない光景であった。

空港と常呂との二ヶ所で会見を行ったようであるロコソラーレ。どこに行っても押し寄せる報道。ただのオリンピックの銅メダル以上の加熱がそこにはある。

ダルビッシュが「世界有数のピッチャーでイケメン」であれば、福山雅治は「多くのヒットソングを持つシンガーソングライターで大河で主役張るレベルのイケメン俳優」だ。では、ロコソラーレの面々はどう表せるだろう。たぶん、「カーリングめっちゃ強くていいヤツ」みたいなことになるんじゃなかろうか。雑だろうか。


世の中に存在を気づかせるために、ひとかどの人物になるためには、まず結果が必要だ。めっちゃ速い球投げるとか、めっちゃヒットソング飛ばすとか、オリンピックでメダル取るとか。

ひとかどの人物になった時点で、今度はひとかどの人物界でのせめぎ合いとなる。そこで重要なのが付加価値。イケメンとか、俳優とかのそれだ。

付加価値として、ロコソラーレが持っていたのが多分「いいヤツ」。

北海道の右隅で生まれ育った彼女らの、一種特有な間の抜けた話し方。極寒の森林を開拓して部落を築いた者たちを先祖に持つタフさと、移民の街をルーツとするがゆえのおおらかさや人懐っこさ。それらが、彼女たちを芯が強く明るい人間に映したのだろう。


また、僕らが彼女らの人間性に気付けたのは、競技がカーリングだったからである。

他のスポーツでヒーローヒロインとなった人達は、総じて端正な顔つきだった。なぜなら、スポーツは概して寡黙。人間性以前に、人間の一番わかりやすい部分にあるパーツである顔に目がいく。わかりやすいシンボルが整っているほど人気が出る。

でもカーリングは違う。長い試合時間に、筒抜ける競技音声。他のスポーツではありえないほどに人となりが滲み出す。見た目ではない、もっと人間の本質的なところが垣間見えた結果、彼女たちは「いいヤツ」だった。

僕らはそれに惹かれたのだ。


これが一過性のものにならないようにと、本人たちも自治体も躍起になっている。今はカーリングがめっちゃ上手い彼女たちがすげー魅力的な人間だったってことに国民が湧いているところで、この湧き具合をカーリング自体へとシフトさせるのはきっと難しい。

でも、「中継の方法柄、人間性が滲み出るスポーツ」として市民権の片端を掴んだのだ。スポーツ界のさんま御殿的な立ち位置で人気が定着しやしないだろうか。環境面、人材面、資金面等、気軽なスポーツになるまでは時間がかかるかもしれないが、ぬるーっと、それこそウエイトの軽いストーンのように茶の間に忍び込む予感もある。


地元のくせして、全くカーリングにタッチしてこなかった。ウインタースポーツは全般において苦手だった。でも、活躍は素直に嬉しい。ミーハーだ。地元だからって知ったかぶりする嫌なヤツだ。僕は。

とはいえ、地元。どういう形であれ、応援はしやすいだろう。知ったが吉日と言い聞かせて、できる範囲でできる応援をしていきたい。

あぁ、何が書きたかったかわからんけど、かけるままに書いた。寄り道こそ人生。以上。