徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

日大アメフト事件で抱いた感想ぜんぶ

我が家は日大閥の一族だ。父親が日大芸術、伯父は日大鶴ヶ丘高校から日大。母方の祖父・伯母も日大。見渡す限り広がる日大。環境がそんなだったから、幼少期に箱根を見てた時なんかは問答無用で日大を応援していた。外国人留学生が入ってきてから強いチームになって行った日大の様子をよく覚えている。

 

さておき。

今回えらい騒ぎになっているアメフトの一件についての私見。

 

大前提として部と部員の関係性について

学生スポーツにしろ会社にしろ親子にしろ、二者間の関係性においては「労使」や「主従」のようなそれが敷かれやすい。とかく、「経営>労働者」「主>従」「親>子」のように大なり小なりで関係を表したくなる(表しやすい)。

しかし、主人と奴隷の弁証法という考え方がある。

主人と奴隷の弁証法(しゅじんとどれいのべんしょうほう)とは - コトバンク

ヘーゲルが唱えたお話。

「主人が奴隷を使用している・奴隷は主人に使われている」といった構造でみると、主人と奴隷の関係性はイメージ通りのものだろう。ただ一方で、主人は奴隷がいなければ主人たれない。つまり、主人が奴隷に依存していると考えた時、真に自立しているのは奴隷の方である。労使、主従は一概に不等号で結べるような話ではないということだ。

たとえば、ある程度大きな企業や団体においては「組合」がある。経営や使用者が労働力を一方的に搾取しないよう、均衡を取るために存在する組織。主に賃金や労働時間を主とする労働待遇改善を求める。機能しているしていないは別として、組合のような団体が労働者の拠り所となっている側面は間違いなくある。一種の輔弼機関である。「実態はどうあれ、どっちが偉いとか強いとか、偏りの少ないようにやっていきましょうね。その上で利益を追求していきましょうね。」会社はそんな題目の元で動いている。

学生スポーツに置き換えてみても、部と部員の二律構造が見受けられる。

部がなければ部員たれず、部員なければ部たれない。持ちつ持たれつの関係を念頭に置くとすると、部を運営する側(監督やコーチ)は学生本位の頭でいなければならないし、学生側は部本位(部のために)の頭でいなければならない。お互いを慮ることで均衡が図られる。

今回の日大アメフト部の騒動で顕在化した問題は、部の運営側が部のことばっかりを考えている点にある。労使関係における使用者側の論理ばかりで話が進み、労働者の意見に全く耳を傾けていなかった。学生たちに組合はなく、使用者にものを言えない。また、賃金を与えられている訳でもない。自身の趣向、大学への帰属心が学生のモチベーションだ。スポーツをやりたくて大学に入り、スポーツが拠り所である学生たちは、驚くほど視野が狭くなる。スポーツ以外のなにも考えられなくなり、スポーツの調子が悪いと死の淵に立っているような気持ちにまでなる。

そんな学生たちの体力とやる気とを搾取し続けた結果が、これだ。

大学スポーツのコーチや監督にまでなっている人間は、学生時代にスタープレーヤーだった可能性が高い。もしかすると挫折を知らないまま大人になったのかもしれない。自分が当たり前にこなしてきた要求に答えられない学生たちに歯がゆさがあったりするかもしれない。でも、試合に出られず、結果が出ないで喘いでいる学生たちの心を手玉のように転がして自らの利益ばかりを追求するような人間は、たとえスタープレーヤーだったとしてもコーチとして、人間としては三流以下である。

学生スポーツの実態を詳しく感知していないが、おそらく似たような統治体制が敷かれている部活は多い。たまたま日大のアメフトが大地殻変動の末に顕在化したけど、まだまだ地中には似たような問題が埋まっている。これを契機に、他学の体育会学生から不満がボロボロ出てくる事態も考えられないくない(Me tooみたいな)から、部活のガバナンスを見直す大学も多いのではないだろうか。引きの目線で見ると、改善の第一歩になっている側面もあるように感じる。

 

謝罪について

そもそも、部と部員との関係性がグズグズだったことが一番の原因なのだが、その上で油を注ぎまくったのが対応である。世の中の誰もが日大の対応に不信感を抱いている。

「申し訳ない」から謝罪をする。じゃ、「申し訳ない」を伝えるために必要な情報は何かと言えば、

「誰」に「何」をして「どういった状態」にさせたことが「申し訳ない」

である。これらが決まって初めて先方や世間は納得するし、気持ちを納めた上で、「だからこのような対策を講じる」とか「このような処分とする」といった対応が可能となる。

タックルした学生の会見と、監督・コーチの会見を見て、謝罪のロジックがわかりやすかったのはタックルをした学生の会見だった。

関学のQBにプレー外でタックルをして怪我をさせてしまったことが申し訳ない。

大筋はこれである。付随する状況として経緯とかが絡まってくる。学生の会見においては付随する状況説明も生々しく説得力があり、大筋から異なる質問(自身にとってアメフトってどういう存在?これからのアメフト部はどうなったらいい?)に対しては答えないという、極めて懸命な判断をしていた。個人的にもすごく頭がいい人だなと感じたし、大変意義のある会見となっていた。

一方、監督・コーチの会見はどうだったか。端的に不信感が募った。

そもそも何に対しての謝罪すべきだったかといえば、

関学のQBにプレー外でタックルをして怪我をさせてしまったことが申し訳ない。

である。これは一貫して変わらないはずだ。タックルをした主体は学生であろうと、学生を管理監督しているのは指導者であり、部である。 だから謝罪の論点はずれるはずが無い。仮に指示していようと指示していなかろうと、指示までに積み重なった指導がある以上、責任は逃れられない。それくらいの常識はある程度の大人なら誰でも持っている。そのはずなのに、大きなフォーカスが当たったのは指示の有無である(刑事事件になるかもしれないって話が出ているからなのかもしれないけど)ため、謝罪をしたいのか釈明をしたいのかがわからなくなってしまった。

謝罪の軸がぶれた上、真実か嘘かもぶれいていた。

学生と監督・コーチ、互いの主張の乖離は甚だしい。部側は認識の違い的な落とし所を懸命に探っているのだろうけど、もはやそんなレベルではないだろう。潰せと言われて額面通りに受け取られちゃ困るんだよね〜って、それも管理監督不足。学生があまりに朴訥と話すから、監督・コーチが大いに事実をごまかしているように見えた側面もあるだろうが、どうあがいても自分に矢が刺さる状態である。

こうなってしまうと、最初の監督の辞任会見で話していた「何とは言わないけど全ての責任は私にありますので辞任します。言い訳しません。」ってスタンスはある意味正しかったかもなって思う。足りなかったのは神妙な面持ちと声色と、シックなネクタイと誠意。

 

そのほか諸々

指導の過ちか、認識の相違か、ボタンの掛け違いか、原因はさておき、結果として試合中プレー外で怪我人が出て、一人のアスリートが競技から退くこととなった。しかも加害側である日大はその日の試合に負けている。びっくりするほど誰も得をしていない現状である。

そのうちもっと大きな事件が起きて、世間からはすーっと忘れられていくのかもしれないけれど、少なくとも、関学の学生に 日大側の誠意が伝わる日がくるといいなと思う。

静観を続けます。