徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

日なたの窓に憧れて

君が世界と気付いた日から

胸の大地は回り始めた


Spitz - 日なたの窓に憧れて Togemaru tour Live (Korean subtitles)

「空も飛べるはず」から連なる爆ヒット連発時期のほんの少し前、スギの木が花粉を撒き散らす直前の如きスピッツがリリースした、「日なたの窓に憧れて」。確変直前ということもあり、有名な曲じゃない。ベストアルバムを持っている人だと知っているだろう程度の曲。昨日あいみょんの「マリーゴールド」を聴いて、あの曲の素直さはスピッツにも通ずるな、たまには聴いてみようかなと手を伸ばしたスピッツだった。

この歌い出しに、改めて心を持って行かれた。

君が世界だと気付いた日から

胸の大地は回り始めた

君を世界と言い切ってしまうあたりの盲信具合。僕ら世代だとRADWIMPSが気持ち悪いくらいの好き表現で有名だ。野田洋次郎の手にかかれば、女性は心臓にも愛にも神にも機械にも国旗にも、殺すべき対象にすらなる。彼が痴情のもつれで過ちを犯したら数え切れないくらいの歌詞を持ち出されて、なるほどこういう思想の持ち主だったら犯罪の一つも起こすだろうとワイドショーで取り上げられるだろう。まぁいい。

「日なたの窓に憧れて」の歌い出しの美しいところは、「君は世界」なんだけれど、「これまで気付いていなかった」点にある。

「君が世界です」と断定するのではなく、「君が世界だと気付いた日」に言及しているのがなんとも美しい。誰でも「君を世界に」してしまうのは、「君を世界」として恋に酔うのは、容易い。aikoとかそんなイメージ。RADも。しかし、「君が世界だと気付いた日から」、「胸の大地が回り始めた」。この瞬間こそ、恋の到達地点。ベロベロに酔っ払うのはぶっちゃけ蛇足だ。君が世界だと気付いた日、すなわち、胸の大地が回り始めた時。こんなにも恋の最大瞬間風速をうまく表す歌い出しがあろうか。いや無い。

君と出会って世界が変わったと語るのもまた簡単だ。君と出会って世界に色がついた。君と出会ってから歩いた街はいつもより少し輝いて見えた。いくらでもどれだけでも言いようがある。しかしだ、「君を世界」としてしまう。相当の飛躍だ。世界に色がついたのではない。「君が世界」なのだ。さらに、「気付いた」ということは、出会いではない。お判りいただけるだろうか。「あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら」と小田和正は歌うけれど、これは「会った」である。草野マサムネは違う。「君が世界だと気付いた」だ。「気付いた」。つまり、これまで近くにいて、なんでもなく一緒に過ごしてきた女性を、「あれ、この人のことなんか好きかも」と、「気づく」瞬間のことを言っている。出会いが急転直下で恋を呼び寄せるドラマより、よほどリアリティがある。「君が世界だと気付いて」初めて「胸の大地が回る」のがわかる。

あぁ、到達点だ。到達点以外のなんでもない。

そのあとの歌詞なんて、君に触れたい、君とやりたいしか言ってない。それもまた真。だが、本当この歌い出しばかりは、筆舌に尽くしがたい。

この先の人生、僕はどれだけの君を世界と言えるのだろうか。というか、これまでの人生、どれだけの君を世界としてきたのだろうか。君が世界と言えるまでの恋なんてしたことがあったろうか。もしかしたら僕の世界は未だ回っていないのかもしれないし、これから回るかもわからない。すでに回ってしまった可能性だって、回らない可能性だってある。回してーな。回してーわ。

家で一人、豆腐と揚げ物をつまみながら書きました。以上。