徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

記事の数合わせだけのための酷い文

月末になると一年の何分の何が終わったのかって考える。6月とかは特に折返しだから考えがいがあるというものだ。そういったところで、1月が終わる。12分の1が過ぎる。

何の因果か、1日は24時間であり、12時間を2度回すことで成り立っている。そういうわけで時計は12の目盛りが用意されているのだが、12分の1のちっぽけさに驚く。恐ろしく僅かな割合だ。

のぺーっと生きてしまった12分の1。北海道は楽しかった。酒はうまかったが飲まれてはいけなかった。もやしの消費期限が切れそうだ。つまり、恐ろしく進歩のない日々なのではないかと、ハイパー危惧真っ只中であるわけだ。

せめて月に20の記事は上げようと必死で今文章を書いている。12分の1の達成は12分の12の達成の一歩目だ。コツコツ人間は今日も行く。

ファールチップで繋ぎ続けているような現状だが、分子が大きくなるにつれてボール球を見極め、あわよくばヒットを打てるよう、精進を重ねたい。

思えば最後の乳歯が取れたのもハイチュウのせいだった

ガムを噛んでいたら銀歯が取れた。たった10分前の事である。実家には必ず常備されているガム。一昨年に顎関節症に罹患し、顎がどうしようもなく痛くなって以来僕はガムを買わなくなったのだが、無条件に置いてあるならば食べてしまう。口寂しさを紛らわすにはうってつけのガム。しかしその口腔内ハプニング大賞っぷりと言えば正月における餅とタメを張る。何かと色々なものに粘着しては剝がす暴君っぷりは天国の松方弘樹も震えあがるほどであろう。

僕が最後の乳歯とロング・グッドバイしたのは今からおよそ12.3年前の事。僕はその時友達たちと近所の体育館を借りてバドミントンだかドッジボールをやっていた。学校の体育館ではボールを使って遊ぶのを禁止されていたため、近所の市営体育館を借りないと球技が出来ない環境だった。休みの日や放課後に体育館が空いていたらここぞとばかりに予約して遊んだのが懐かしい。その日も変わらずに遊んでいたのだが、友人の一人が珍しくおやつを持ち込んでいた。北見市内に一店舗しかない地場コンビニ「ダックショップ高橋」で買ってきたと胸を張っていた。お買い物の一つでさえ誇りになる年頃。かわいいものだ。その中にハイチュウがあった。歯ごたえをこよなく愛する僕は、今でもつけ麺が好きで、コシが強い麺が好きで、ご飯は固めで、ぬれ煎餅はせんべいの風上にも風下にもとても置けないと信じているのだが、当時からその趣向は健在で、ハイチュウなんてナンパな食べ物は食べないと意地を張っていた。グミ?馬鹿にしているのかい?しかしどうしても友人がハイチュウおいしいと言ってきかないため、僕は仕方なくグレープ味のナンパなチューインガムを食べることとなった。一粒食す。悪くない歯ごたえに続き口の中の温度で溶けてふやふやになっていく触感。ハイチュウはせんべいこそすべてと高らかに謳っていた僕にカルチャーショックをもたらした。ハイチュウ旨い!うまい!僕は人が買ってきたハイチュウの虜になり、ハイチュウをむさぼった。ちょうどそのころ。僕の口腔内は大人の階段を昇っている真っ最中で、左の下の奥歯が最後の乳歯として生き残っていたのだがついに地盤が緩んでぐらつきだしているところであった。気になって気になって仕方ないものだから朝から晩まで柳葉敏郎のごとく奥歯をベロで触っていた。痛いのは嫌だった。抜ける時に抜けて欲しいと思っていた。ビバ無痛分娩。だからハイチュウも慎重に慎重に右側の奥歯で噛み、とろけさせていた。だが、目下球技の真っ最中である。歌いながら踊るのが至極難しい様に、口の右サイドでハイチュウを噛みながら球技をするのは至難の業だ。力んだ瞬間、ハイチュウは不意に左サイドにうつり、食いしばった歯の板挟みになったと思えば僕の左下の奥歯を吸着して離すことはなく、次の「クチャっ」いわゆる咀嚼で最後の乳歯を介錯したのであった。なめ腐っていたハイチュウに心を許した瞬間に裏切られたようだった。「信じた瞬間裏切った」とは、BUMP OF CHICKENの楽曲「ラフメイカー」の一節だが、BUMP OF CHICKENに出会う遥か昔に僕は身をもって信じる怖さを知っていたのだった。

取り急ぎ、歯医者を明日予約したので銀歯を入れる目途はたちました。

歌うたいの風呂ット居間ット家ット

もうすぐ北海道から東京へ戻らねばならない。ここ一週間、毎夜毎晩出かけては飲み食いをしていた。外は白い雪の夜。でも居酒屋の中は本当に温かくて思い出話に花を咲かせまくっていた。百花繚乱であった。

外出先でも羽を伸ばしていたのだが、何しろ実家である。父と母が仕事に出た後、僕が自意識をこじらせに図書館に行くまで、実家で一人になる。お留守番状態。東京の集合住宅で出来ない事をしようと、ギターを弾き、ピアノを弾き、歌う。なんだ、一人の時間は兎にも角にも歌い散らかしている。特に中島みゆきが堪らなく気持ちいい。衒うことなき環境下、歌のうまさなんてどうでもいい自意識が底をつきた状態で歌う中島みゆき。特に用もないのに風呂に行って、エコー効かせて歌う。叫ぶ。腹の底から声を出す気持ちよさを僕は思い出す。

集合住宅でも別に気を使いまくっているわけじゃないのだが、やはりどうしてもボリュームは下がる。隣の部屋の物音がたまに聞こえるたび、部屋の中で歌うことがはばかられ、カラオケに行くのも面倒だから鼻歌で我慢する。ウィスパーボイスで中島みゆきを歌っても何も面白くないもので、たいていそういう時は昔聞いていたバンプオブチキンあたりのつぶやきソングを口ずさむ。

抑圧された欲求はのど元迄せり上がり、一軒家で隣の家とも十分に距離が保たれている実家に着た後解き放たれた。無意識のうちに溜まった鬱憤を晴らすかのような叫び。「地上の星」「命の別名」「たかが愛」「浅い眠り」。

あぁ、なんでしょう、東京戻りたくありません。

緊張感を持ち続けるということ

今、図書館にいる。地元の図書館だ。去年だか一昨年に建て変わったピカピカの図書館。そこはかとなくおしゃれな気分になれる。一生かかってもまず読み切れないであろう量の蔵書に圧倒されながら、手の届く範囲の本を読んだり、どうしても受けろと言われて受験を決めた微細な資格試験の勉強をする。1月末というと全高校生が毛羽立つ時期でもある。センターが終わり、悲喜交々の点数を掲げながら各人志望する大学に突っ込んでいく。二次で逆転。二次で逃げ切り。センター利用。昔懐かしの受験用語が飛び交う。僕が今腰掛けている机の両隣と向かい側が受験生だ。自己採点と復習を繰り返し、知識を何度もなんども擦り付けては自分のものにしていく様は、雪だるまを作る過程によく似ている。転がして転がして大きくしていく。ミクロでみたら反復にしか過ぎないが、マクロで見ると大きな塊を生成しているのだ。

家でやるより図書館でやったほうが捗る経験は誰もがなんとなく理解できるだろう。家だと誘惑が多いからといって、いそいそと出かけては学びに励む。家よりも外が集中できる理由は誘惑の数などではなく、他人の目があるという一点に尽きる。他人の目に晒される緊張感こそ、最高のスパイスである。

人間誰もがよく見られたい欲を持って生きている。着飾るのも、髪の毛をなんとかするのも、化粧も、髭剃りも。たいていの人の寝まきが絶妙にだらしがないのは、誰にも見られない代物であるからだ。緊張感がまるでない。例えば勉学に励む時。息するように勉学できるような勉の申し子はいいだろうが、僕のような怠惰マンは律して律してやっと机に向かう。緊張感がないとすぐにダレる。だからこそ、自室でコトを運ぼうとするとびっくりするほど上手くいかない。気づけば歌い出し、踊り出している。しかし図書館での僕は違う。背筋が伸び、颯爽とノートを開き、ミミズの這ったような文字をそこに刻みつけていく。そう、巧みに勉の申し子を演じるのだ。どうやら情けないほどに人前ではいい格好をしたいようで、大したことやってないのにさもやったったる感を滲ませてしまう。

自意識が華麗に大車輪しているとはいえ、結果として自意識ゼロになりがちな自室とは見違えるほどの捗り方をする。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」とは孫氏の言葉だが、まったくその通りである。この自意識を飼いならし、自ら緊張感を生成できるようになった先に、百戦危うからずな未来が待っているはずだ。

もちろんこの文章をしたためている間も、僕はさも大層なビジネスを進めているかの如きすまし顔でスマホを叩いている。たまに物憂げな顔して外を見つめたりして、世界経済を憂慮してるふりしてはせっせとスマホを叩いている。もう暗い。夜だ。窓ガラスに映った物憂げな顔は、とてもじゃないけど一戦すら危ういマヌケ顏であった。

北山修作詞の歌詞に秘められた覚悟と寂しさ

一昨日我が家と叔父夫妻で飲み会をした後、叔父と二人でカラオケバーに行って二人でさんざん歌った。両親のおかげで50代60代の方との最大公約数的楽曲に多少の耳なじみがあるおかげで、叔父とも盛大に盛り上がれる。現在68歳の叔父だ。年の割には若くて、肌のしわこそなかなかに深いもののその気持ちといで立ちからしたらうちの会社の定年間際の方々と大差ないくらいの老け方だと思う。まぁなんだ、若い。

洋楽だったらビートルズだったりストーンズLennon-McCartneyが楽曲提供した歌なんだとか言って、耳なじみのいいR&Bを歌ったりしていた。日本の曲だと、僕は伊勢正三が精一杯の抒情フォークなのだけれど、叔父にとってはグループサウンズであり、はしだのりひこであるからして、北山修の歌詞なのだ。また叔母がめちゃくちゃ歌が上手い。一昨日は一緒に行かなかったのだが、帰郷の度に一緒にカラオケに行く。そこでよく歌ってくれるのが「花嫁」である。

花嫁は夜汽車にのって とついでゆくの

あの人の写真を胸に 海辺の街へ

命かけて燃えた恋が 結ばれる

帰れない 何があっても

心に誓うの

 一番。

言葉少なに紡がれる花嫁の状況。親から、周囲からはいい顔をされずに半ば駆け落ち同然に飛び出してきた姿。強情なほどに恋にすがっているのがわかる。この危うさが曲が持つ寂寥の念を増している。

帰れない 何があっても 心に誓うの

この一節が堪らない。とにかく危うい。危ういからこそ切ない。

たぶん僕がこの花嫁の友人だったら嫁ぐのを止めるだろう。事情は知らないが、そんなに反対されているならやめといたほうがいいんじゃないかなぁ…どうしてもって気持ちはわかるけどなぁ…って言いながら止めるだろう。どこか現実離れした危うさ、自分にはない勇気、これらにひどく心を打たれる。花嫁がこの先どういった人生を送るのかはわからない。もしかしたら周囲の忠告の通りに思うような生活が出来ず、頭下げて帰ってくることになるのかもしれない。でも、この瞬間の覚悟は本物だ。帰らない。帰れない。

叔父が好きな歌が「風」だ。 

人は誰もただ一人旅に出て

人は誰もふるさとを振り返る

ちょっぴりさみしくて振り返っても

そこにはただ風が吹いているだけ

人は誰も 人生につまづいて

人は誰も 夢破れ振り返る

故郷を思って振り返るときは辛い時が多い。現状がつらくて、あの頃はよかったと振り返る。でもそこにはただ風が吹いているだけ。思い出が転がっているわけでも、慰めが待っているわけでもなく、ただ風が吹く。辛いことから逃げられればいいのに、北山修はそれを許さない。「人は誰もただ一人旅に出て」「人は誰も人生につまづいて」と全員に挫折を経験させ、「人は誰も夢破れ振り返る」。でも、「そこにはただ風が吹いているだけ」。四面楚歌のような状況だ。曲の最後の一節、こう締められる。

何かを求めて振り返っても

そこにはただ風が吹いているだけ

振り返らずただ一人ただ一歩ずつ

振り返らず泣かないで歩くんだ

さみしさに負けちゃいけない。振り返らないで、歯を食いしばって泣かないで歩くことしかない。風しか吹いちゃいないことは判り切っているのだから一歩ずつでも歩を進めていこう。すごく建設的なメッセージでありながら、感情を突き放したさみしさを内包しているように思う。

 

僕たちは何かを選ぶ時、当然のごとく他の可能性を排除していく。北山修が書く歌詞は、優しい言葉に包みながらも取捨選択にまつわる覚悟を迫る。決定とは裏腹の寂しさや後悔を認めたうえで、「負けずに歩け」「振り返るな」「もう二度と帰れない」と時に諭すように、時に自分を鼓舞するように語る。

リズムに言葉を乗っけることに苦心して、意味が分かったようなわからないような曲が多く産み落とされている。そういう曲は歌っていて、聴いていて、とても気持ちがいい。現代人の耳になじむのだろう。この帰郷の折、北山修の詞をしみじみ聴いて、読んで、あらためて日本語を日本語として消化し、ジーンときている。振り返らないで歩かなければならない。振り返ってかまってくれる人はいつまでもいるわけじゃない。自分で自分の道を切り拓いてこその人生。一歩ずつでも歩くんだ。

僕たちは自然には勝てない。繰り返す。自然には勝てない。

帰郷三日目。順調にあいさつ回りに邁進しております。北国オホーツク、極東の地にて。

高校時代の恩師が理科専門のために天気図が読めるもので、彼独自調べの天気予報はyahoo天気以上気象庁未満の的中率を誇ると巷では噂である。ウェザーリポーター恩師と一昨日会った際、「明日の未明から明後日にかけて暴風雪になるよ、君はこのために帰ってきたんだね、仕事できるね、よかったね。」と嬉しいようで苦しいような労働宣告をされていたのだが、ものの見事に昨日の夕方から天候が荒れだし、夜のNHKの天気予報で「オホーツク海側は明日夕方までに60センチの積雪」なる最後通告を突き付けられたが最後、朝の光景は一面の大雪原であった。

風の中のすばる 砂の中の銀河

中島みゆきが歌った地上の星であるが、今朝の北見近辺に吹きすさぶ風の中には粉塵の如き雪が散っているのみであり、すばるは間違いなく含まれていない。すばるって何なのかよくわからないけど、すばるだけはない。上から降っている雪か下から巻き上げられた雪か、 甚だわからないまま二車線あった道路は吹き溜まりとなり一車線に狭まり、平らだったはずの台地に丘陵を作り上げる。なに、公園とか空き地に丘陵が生まれる分には全く構わないのだが、玄関の前とか車の前とかに率先して積りよるからほんとふざけんな雪ふざけんな。

田舎の朝は早いもので、父は6時半に雪の中へ消えてゆき、僕は8時前より父が何とか出勤していった後のハウスキーピングに繰り出した。父が車を出してから一時間半、父が通ったはずの轍は消えており、やはりそこには一面の銀世界が広がるばかりであった。スノボ用のダウンにズボンを履き、ミシュランのイメージキャラの如きもこもこルックスが黙々と銀世界に挑む。ママさんダンプ、スコップ、クジラスコップ。雪かきにおける三種の神器を駆使し、雪原をかき分ける。お分かりいただけるかとは思うのだが、雪かきは全身運動である。雪を投げる時に足腰腹筋をうまく連動させない事には雪山の上に乗っからず逆に雪が中途半端に風にあおられて飛び散り、余計に散らかる羽目になる。だから雪を丁寧にぶん投げる必要があるわけだ。全身運動で火照る身体からは汗が噴き出るが、外気はマイナス10度なので指先などの末端は冷え切る。極地を赤道が同時に体の中に存在する不思議体験ができる。熱い!寒い!熱い!と夢中になって雪かきに邁進し、ふと後ろを振り返ると、かき分けたはずの雪原がまた雪原になっている。原状復帰の能力が高すぎやしないか。僕は雪かきを諦めた。市の除雪車が来るのを待っている。

 

雪かきをしながら、東日本大震災における原発事故において、果たしてあれは天災か人災かといった議論が巻き起こったことを思い出した。確かに、対応や予防など諸機能がうまく働かなかった面もあるだろう。その点では人災なのかもしれない。しかし一度、北見に雪かきに来てみるといい。山のような雪を崩したと思ったらまた後方に山が出来ているのだ。自然とのどうしようもない力の差を思い知る。勝てっこない。都会ではうまく自然の力を抑え込んで自然と共生している(むしろ自然をコントロールしている・勝っている)気になっているが、そいつは気のせいである。天災から引き起こされる不具合を人災と置き換えるから、テクノロジーが進歩していく面はあろう。ある種自然と切磋琢磨出来ているのかもしれない。でも基本、勝てない。自然には勝てない。自然の掌の上で踊るしかないのだ。雪かきで精も根も尽き果てた後の所感であった。

にしても身体がなまった。鍛えなおさねば。

洗濯をお任せするということ

実家初日。持ってきた洋服が持ってくるなりよれよれであることを指摘され猛烈な勢いで洗濯機にかけられ、ぐるぐる回された上にアイロンとアイロン台との板挟みにあったと思えば生まれ変わったように律儀な真人間のような状態に更生されてくるのを見つめると、今まで僕がやってきた洗濯はまるで意味のない水遊びのようなものであってこれこそが洗濯だったかと感動してしまう。洗剤の香りと柔軟剤のふわふわを洗濯物に若干付与するだけの洗濯は誰にだってできる。凍らないように窓辺に吊るされた洗濯物達はまるでラオニッチの髪の毛のごとく整然としている。全豪オープンテニスは面白い。

僕は普段、仕事・炊事・洗濯という名の水遊び・掃除を一手に手掛けるプレイングハウスキーパーなのだが、どれも中途半端になっている現状を見つめなければならないかもしれない。考えてみればお休みの日なんか午前中に買い出しと洗濯と掃除を済ませることに躍起になって、すべて予定通りにこなせた達成感で午後何もしない。同僚のお姉さま方から言わせると「とても偉いけど全くもって若さがない生活」を過ごしているのだが、もしかすると家事をアウトソーシングできれば僕の生活は一変するかもしれない。僕が持ち得るバイタリティの何割が家事でぶんどられているのだろうか。家事をあっぱらぱーにこなすことを覚えるまたは誰かに委託することに成功すると、猛烈に前を向いて勢い果敢に動き出し、大海のごとく揺蕩う世の中にチャプンと一波を起こすことだってできるはずだ。そうだ。家事が足かせだ。どうせ洗濯機を回したって僕が回した洗濯物は台風の後で主をなくしたビニール傘のようにくっしゃくしゃになって出てくるだけであり、パタパタさせてから乾かすも今ぶら下がっているような規則正しさを一向得ることなくまた僕の肌を隠す戦いに駆り出されるだけなのだ。お互いにとってデメリットだ。lose-loseの関係に終止符を打ちたい。

だが本当は東京での「偉いけど干からびライフ」にある程度の充足を得ているのは事実であり、生活リズムを変えたい欲求はさして強くなかったりする。バイタリティ吸い取られ人生は続く。今は英気を養う。

冷気を斬り裂け。

地元に帰ろうとしている。今は機内である。地平の向こうまで広がる雲海と夕日が沈んだ瞬間の空が水と油のように層をなし、なんとも幽玄な景色を作り出している。淡いスカイブルーに鮮やかなオレンジの空は、どこかの高校の陸上部のウインドブレーカーにそっくりの色合いだ。網走南ヶ丘高校陸上部ってこんな色じゃなかったでしたっけ。うろ覚えになってしまって悲しい。

昨日まで眠気を切り裂き続けた。本日からしばらくエイヤと仕事を休み、北海道へ高飛びするにあたって、なぜだか昨日も無駄な睡眠我慢をし、休日だというのに今日も今日で眠気を切り裂いている。機内なんていう絶好の睡眠スポットにおいても、新聞を読み機内誌を読み今ブログを書いている。睡眠欲に両足を引きずられながらも匍匐前進をしている格好だ。どうでもいいけど葡萄と匍匐はよく似ていますね。ぴおーね。何しろやりたいことはたくさんある。やらねばならないことがたくさんある。足を引っ張る睡眠なんかに負けてなんかいられないのだ。なーんて有意義を求めて大風呂敷を広げるが、大抵畳きれないで終わるのがオチだ。あれもしたいこれもしたいでモリモリ実家に持って帰った荷物は、たいして触ることもないまま気づけば帰る日になっている。休暇何したかと振り返れど、色んな人と会いましたとしか言えない。それが休暇といわれれば、それまでだ。間違いない。

やりたいことだらけなのでここでとりあえず空の上での筆は置く。さっきまでは何某かのウインドブレーカー色をしていた東の空も遂に力尽き、1/20の日中の終わりを告げた。のんびりの一週間を告げる夜がやってくる。幸せな闇である。サザエさん症候群の対極にある暗闇のなか、極寒の街へ飛行機は降下を始める。

ただいま。

眠気を斬り裂け。

緞帳のように降りるまぶたと戦え。不足はしているが皆無ではない睡眠時間が織りなす朦朧と停滞のランデブーは、僕を遥か彼方獅子座の向こうまで連れて行ってくれる。だがお金を稼いで生きねばならないのは地球の日本の関東の東京。獅子座の彼方カシオペアの果てにフライアウェイしている場合じゃないのだ全くもって。

しかし、なんやかんやで、不足していても馬力でなんとかなる。鼻づまりや不可解な涙、節々の痛みさえ我慢すれば、いたって健康体である。別にウイルスと戦っているわけじゃなく、相対的かつ内的な原因とのせめぎ合いだ。ギリギリ限界の体力の中で坂道を延々走らされたことを思えばなんてことない。

ほんの少しの無理は人を追い詰めもするが、逆に活き活きさせたりもする。体力の切っ先、研ぎ澄まされた中でふわっと残り香のような集中力を発揮したりする。視点が上がって、よくわからない全能感が舞い降りたりする。ゾーンだ。若干の窮地に身体が反応したのだろうか。窮鼠猫をも噛む。鼠は猫を噛めるが、社会のバクテリアは捕食されるばかりである。ゾーンの意味とは、なんだったろうか。

さて、明日からは帰郷である。ゆっくりできるのだろうか。やはり色々顔を出すのだろうか。

咽頭焼き切れる

つまり喉がいたいということである。いよいよ来たかと、予定調和的なボス敵と対峙している気持ちである。常々喉は弱い。水槽をイメージしてほしい。4面が違う高さの壁に囲まれた水槽だ。そこに水を注いでいく。そのうち溢れ出す。どこから溢れるかというと、一番低い壁の面からだ。その壁こそ、僕にとっての喉だ。真っ先に解れる。

弊ブログでも数え切れないほどの喉記事が上がっているはずだ。「喉」でブログ内検索をかけるとゴマンと記事が出てくる。

 

扁桃腺がどうだこうだと小さい頃から言われてきたが、果たしてこれは扁桃腺なのだろうか。ただひたすらに喉が荒れやすいだけであり、扁桃腺が腫れているわけではないのではと思う。毎度同じような痛みに襲われるものだから、これが扁桃腺ですと言われてもそうですかと感じるし、扁桃腺じゃありませんでしたと言われてもそうですかと。

今でこそ自力で喉にシュッシュッする医薬品を仕入れてシュッシュッしているが、幼稚園とかの頃は知恵もなければ力もないので、親の対症療法に身を委ねていた。最たる療法が、ヴィックスヴェポラップであった。

僕はあれが本当に嫌いだった。ヴィックスヴェポラップ。胸にスースーする軟膏を塗って、息を吸うたびスースーして、喉と鼻によく効くらしいのだが、寝間着がベッタベタになって肌にくっつき、寝返りも打てやしないしなんなら僕はうつぶせ寝派なのでひたすらのヌルヌルを胸元で感じ、不快指数がうなぎのぼりの品物であった。こちとら生命の力がちょうど弱っている時点。普段は嫌がれるのだが、歯向かうのも面倒くさいものだから父も良しと思って息子の胸に塗ったくるヴィックスヴェポラップ。

僕はきっと子供ができてもヴィックスヴェポラップを塗ることはないだろう。自分がやられて嫌なことは人にしない。そう教えられてきたからだ。

 

喉痛い。余裕ない。