徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

月初の祈り

月初。昨日が月末の金曜日だったこともあり、一つの山を乗り越えた感があるサラリーマンが多いのではないだろうか。そんな中僕は今日も出勤です。

実家には神棚があった。別に神道じゃない。バキバキの仏教徒だ。でもなぜだか実家にも、祖母の家にも神棚があった。

親父は毎早朝何かを祈っている。榊の水を替え、二拍手一礼の後、飯を作って食べている。母と僕は大抵その頃寝ているかぼんやりしているのだが、月初だけは必ず一緒に祈る。居間で二度寝しているところを揺すられ、起こされ、月初の祈りに参加させられる。

当時自分が何を祈ってたのかよく覚えてない。多分学校とか部活とか青春っぽい有象無象への祈りを捧げていたのだろう。何かのテレビ番組で、他力本願に祈るのではなく自分はこうすると宣言をして、見守って下さいとお願いするのが正しい作法だと聞いてからは、まじで頑張るしまじで振り絞るので見ていて下さいと祈るようになったことは覚えている。覚悟の祈りである。

果たして、現在。神棚もなければ寺社仏閣にもいかないここのところ。ものの見事に祈らなくなった。宣言もしなくなった。秘めた覚悟がないわけではないだろうが、認知しなければ本当も嘘になってしまう。

 

今朝も親父と母ちゃんは神棚の前で並んで手を合わせていたことだろう。商売の繁盛と家族の健康。その祈りの端っこにあやかり、今日も元気に出勤です。

絶対にインフルエンザ菌が繁殖しないであろう湿度と温度の中、駅へと歩く。梅雨寒という言葉を知った時、梅雨は冷えるものだと思っていたがそれは違った。梅雨だとしても着実に夏へと歩みを進めている。高温多湿。日本の、日本による、カビの為の気候だ。

暑さへの対処法は様々である。犬なんかずっと舌出してる。奴らは毛があるから汗かけない。体毛が退化した人間たちは懸命に汗を出して気化熱で皮膚を冷やそうとする。

しかしそれを衣服が邪魔する。

さっきまですし詰め電車に揺られていた。やっと空いたので着席したが、全身の不快感がすごい。シャツもスーツも体に張り付いている。なぜかこんな日に限って薄いパープルのシャツを着てしまったもんだから薄いパープルがところどころウルトラバイオレットに変わっている。染みだ。

梅雨が終われば…梅雨が終われば…と題目のように唱えれど、梅雨の後は猛暑日ラッシュが訪れることは目に見えている。多分秋めくまではペタペタのスーツとシャツで駆けずり回る。

この月末、月初、月中にかけて、ワンダフルな忙しさに塗れ、いろんな汗をかきながらやっていく。向かいに座った外国人のにいちゃんがマジで涼しげでジェラシーしか感じないので筆を置こうと思う。

居酒屋の5000円、玉ねぎの150円。

人の価値観というのは出費のメリハリに如実に現れる。車をガッチガチにカスタマイズしているのに草を食んでたり、毎日おんなじ服しか着てないくせしてめっちゃいいもの食べてたりする。そこに金をかけるかとびっくりすることも多い。

交際費という茫漠としたお金に惑わされ続けて早幾年。糸目をつけない気概を持ち続けた結果、どうなるかっていうと玉ねぎが10円でも安いところを探す。もやしが30円だと買わない。19円だと買う。

なんだろう、すごくバカらしく感じやしないか。

例えばそこに桶があったとしよう。水がなみなみと溜まっている。しかし、穴がいくつか空いている。さぁ、あなたは今、水の流出を止めたい。空いている穴は大小様々。どこを抑えるだろうか。無論、一番大きい穴を止めようとするだろう。そこを抑えて、次に大きい穴、次の穴。次々に埋めていくに違いない。

最大の穴が、交際費。最小の穴が、もやし。なぜもやしの穴を抑えようとするのか。なぜ、玉ねぎの穴を抑えたがるのか。

僕は経験則で知っている。交際費の穴の下には土壌があって、水をやると育つ命がある。水のやりすぎで腐らせてしまわぬよう、かといって乾かしすぎてしまわぬよう、ほどほどの水をやり続ける。もやしや玉ねぎの穴の下には特段何があるわけでもない。水を出しっぱなしにするメリットがないのだ。

そうだ、俺は日々命を育てるために交際費を垂れ流しているんだ。自分の言葉に励まされながら繰り出していく。

桶の水が底をつく日も近い。

絵が下手な人間は何も見てないんだと思う

100人を無作為に選んで一斉に絵を描かせたとしたら90番目くらいに位置するであろう壊滅的な画力を搭載した人間が僕だ。被写体デストロイヤーと呼んでほしい。

この間、「〇〇さんってどんな人だっけ。」という疑問を投げかけられ、持ちうる語彙をフル稼働させて〇〇さんについて伝えようと試みた。「スラッとした体型で小顔。丸顔と逆三角形の中間くらいの顔の形。肩くらいの髪の長さでおかっぱ。色は栗色。目は切れ長で…」散々話してみたはいいものの、全くもって伝えられずに力尽きた。その後、じゃあちょっと描いてみてよと言われ、滑らかに書けると噂のジェットストリームボールペンで描いた〇〇さんは棒人間に二本くらい毛が生えた代物でしかなかった。人と呼ぶのも憚られれるそれは、おぞましかった。〇〇さんには間違っても見せられない。

「描いてみて。」

これを言われた時、言葉で必死に伝えていた際には鮮明に結ばれていた〇〇さんの像が音を立てて崩れていくのを感じた。真白なメモ紙が脳内の像を塗り潰していった。そうして気がついた。僕は世界を見て把握しているフリをして、何もみていない。

〇〇さんに限ったことではなかった。犬とか猫とか動物を描こうとしても、必ず左から見た断面図になってしまう。正面から描いた時に奥行きがどうなっているのか全くわからない。丸みを帯びたものとか躍動しているものを描くなんて及びもつかない。

多分全部の原因が見ていないところにある。

昔から漫画を読むのが早かった。週間少年ジャンプが育ての親なのだが、それこそテニスの王子様BLEACHに関しては数十秒で読み終わった。速読だ。何しろ絵を大して見ていない。めっちゃ挿絵が入っている小説を読んでいるようなものであった。「ドォォォン」「ズバァァァァ」が僕の1週間であった。漫画家たちの技術の粋が詰まっているはずの絵の方をないがしろにし続けた。

犬猫に代表される動物さんたちも、犬を犬足らしめているエッセンスは把握しているものの、詳細については全くの盲目を貫いている。見たフリ、知ったフリだ。

先日ひどい二日酔いになって、飲んだものがそのまま出て来る状況に追い込まれた。吐きながら、苦しみながら、人は飲んだものしか吐けないんだ…と何かを悟った。吸った息しか吐けない。飲んだ酒しか吐けない。聴いた曲しか歌えないし、見たものしか描けない。

そんな折、不意に〇〇さんに会った。まじまじと〇〇さんの顔をみる。次は描けるように、次は歪んだ棒人間にしてしまわぬように。ふと我に返ると、〇〇さんは怪訝と不快感を足して2を掛けたような表情をしていた。「次はうまく書きますからね!」〇〇さんは怪訝と不快感を足して2乗したような表情になって去っていった。

 

浴衣は視覚の涼

今日の帰り道、浴衣の集団と出会った。正面衝突だった。飛行機が雲の中に消えて行くがごとく、しなびたスーツ着て虚ろな足取りのサラリーマンが赤白緑青色とりどりな浴衣の積乱雲に突っ込んだのだった。

浴衣に独特のフェチズムを感じたことはない。和装は好きだけど、浴衣が好きでたまらない!花火といえば夏といえば浴衣!みたいな盲信は持っていない。しかし今日、浴衣の乱気流に巻き込まれてみて、浴衣は視覚から取り入れる涼なのだという考えが飛来してきた。気流に乗って。

北海道の夏に青春があるから、きっと僕は浴衣が恋しくないのだ。北海道の夏の夜は涼しい。寒い寄りの涼しいである。黙っていても乾いた風が流れる。湿気がない。本州の、東京の夜は全く違う。熱帯だ。ジメジメムシムシ。どう背伸びしたって気候から涼を取り入れられない本州の人たちが選んだ道が、せめて他の五感は涼しくあろうとする道だった。風鈴しかり、冷麦やそうめんしかり。

皮膚からではない、視覚からの涼。それが、浴衣だ。

びっくりするくらいジメジメと浴衣は相性がいい。着ている人はどうかわからないが、みている人からすると不思議なほどだ。鮮やかな色使いが多い。高温多湿には鮮やかさが求められでもしているのだろうか。大好きな図鑑に載っているアマゾンの動物連中はみんな毒々しい。そのギトギトした色使いと艶やかさとの間をうまくたゆたっているのが浴衣だ。アマゾンほど苦しい気候ではないけど、モタッとする日本の夏。本州の夏。浴衣は馴染む。当然そこにあるような存在感を放つ。

いよいよ夏が始まるなぁと思う。いつでもどこでも夏を感じられる場所にいる。海もある、花火大会も国内最大級のがすぐそこである。でも僕に夏の始まりを告げたのは浴衣だった。それこそカラフルな積乱雲がもたらす夏。

そういうわけでエアコンをつけました。めちゃ涼しい快適幸せ。

無性に牛乳が飲みたくて

飲んでる。

小さな頃から乳製品の英才教育を受けてきた。ヨーグルトと牛乳に塗れ、乳臭いと言われたら僕のことですかといつもビクビクしていた。乳臭いの意味が比喩的なそれだったと知ったのはしばらくしてからである。

牛乳が好きだったかと言えばはてなが浮かぶが、それは多分日本国民に味噌汁好き?って聞いているようなもので、全く意識しないまま飲んでるから好きなのか嫌いなのかわからなくなってしまっている。新一と蘭もそう、犬夜叉と桔梗もそう。

上京してからも毎朝のようにコーンフレークに牛乳かけて食べてた。甘いそれが好きだった。仕事を始めてしばらくしたら朝飯の買い出しするのに疲れてきて、牛乳買うのもったいなくね?という考えのもと、牛乳も久しく飲まなくなった。が、最近訳あってとんでもない量のコーンフレークを手に入れたので牛乳ライフが再開されている。

朝と夜、食後にコーンフレークしてる。コーンフレークしたくて起きてる。コーンフレークしたくて夜ご飯少なめとかにする。コーンフレークがなかったらどうなってしまうんだろうと思うほどに、コーンフレークしてる。無ければ無いなりにやるんだけど、あったら無性にそれを求めてしまう。

ここまで書いて気がついた。牛乳よりコーンフレークが好きだった。

もうすぐ僕は寝る。明日のコーンフレークを楽しみに。朝どんなに食欲なくても、胃がもたれていても、食べる。牛乳の白に埋まって行くコーンフレーク。今日一日が白く塗りつぶされて行くようだ。何色にも彩れるんだって背中を押されているようだ。

ってことで、少し太り気味なので反省します。

顔なじみのキャッチが帰ってきた。

駅から家までの10分間で調子いいと5回は「おっぱいいかがですか!」「飲みないっすか!」と元気に声をかけていただけるナイスな治安の街、錦糸町に住んで2年もすると、おっぱいの人たちと仲良くなる。嫌でも。

二人特に仲のいいキャッチがいるんだけれど、そのうちの一人のことを最近みてなかったら少し心配をしていた。ところが、今日本当に久しぶりに出会った。変わらずに「お兄ちゃん、いい服着てるね!かっこいいね!」と夜の街に笑顔を振りまいていた。

彼はガーナ人である。

久しぶり、最近どうしてたのって聞いたら、半年間ガーナに帰っていたらしい。奥さんは日本人だけど、親と兄弟がまだ向こうにいるらしい。なんで帰国したって、親の面倒とかもあるんだけど、何より疲れてしまったんだと言った。もう本当に疲れた。日本人は働きすぎだ。ガーナは本当にのんびりしている。でも俺も仕事があるから帰って来なきゃならないし働かなきゃいけない。また頑張るよ。で、今日はどうなの?飲まないの?

僕はこの二年間夜の街的貞操を守り続けている。もちろん彼に誘われて店に入ったこともない。でも、もし行くなら、彼からがいいと思った。ただのキャッチが血の通った人になった瞬間だった。

 

僕ら当たり前のように働いていて、みんな職業の仮面をつけて生きている。だから忘れがちになってしまうんだけど、大前提でみんな人だ。みんな生活があるし人生がある。その辺のBUMP OF CHICKENとかが歌っていそうな話だが、違いないことだ。

2年かけて二人のキャッチと仲良くなって、彼らとは上っ面でも身の上話をするようになった。びっくりするくらい二人とも普通の人だ。身体も壊すし、寂しくもなる。彼らと仲良くなる間に無視を決め込んできた無数のキャッチたちにも間違いなく普通の暮らしがある。知らないだけで。

どうせなら、お仕事のベールを脱いだ人をたくさん知りたい。きっかけがなかなかないけど、たぶんいつも行くスーパーのレジにいる全くやる気を感じられない学生っぽい人も話したら普通の人だ。絶対友達に慣れないと思ってるけど、仮面がそうさせているだけなのかもしれない。みんな血の通った人間と知った上で、今までの暮らしをしてみるとたぶんすごく楽しい。仕事より深いコミュニケーションがそこら中で生まれる世界。いいものだろうと思う。

でも今の形に落ち着いているところを見ると、世の中的にはそれを求めている人は少ない。ある程度線引きした上での関わり合いに心地よさを感じる人が多いのだろう。

 

今日は僕もなかなか疲れていたんだけれど、キャッチの彼と話した後は歩みが軽くなった。不意な人間味がいいのかもしれない。

また明日も同じ道を通る。きっと彼もいる。どうせお酒に誘われる。それ込みで二言三言、すっからかんのコミュニケーションを楽しみにしている。

社会から「なんでもない時間」が消えた

待ち人来ず。最近こそすぐ連絡取れちゃうから悩むことはなくなったが、携帯電話なしの待ち合わせはなかなか難しい。咄嗟の出来事でいくらでも時間はずれ込む。

この度、珍しくそうしたのんびり待ち合わせを行なった。「今どこで何をしているのでこれくらいの時間に着きます」と、リアルタイムで所在を伝えることをせず、来た時が会う時で、すべての状況がわかるときという古来の待ち合わせである。

折角だからとスマホをしまって、待ち人中をひたすらにぼんやりとした。それは本当になんでもない時間だった。今、社会から失われつつある時間だ。

びっくりするくらいに四六時中何かが出来てしまう。待ち時間にスマホ、歩きながら音楽、家ではパソコン、テレビ。出来てしまうから、やらなきゃ損なような気がする。別に見たいわけじゃないネットニュースを見る。見られらから見る。何もしていないことがどうももったいない感じがするから、親指を動かしたり、耳を忙しくしたりさせる。

多分現代人の大半は寝ている以外で何かをしていない時間がほぼない。古き良きを踏襲すべきとは思わないし、それが時代の流れであると言うなら、そうだ。でも、なんでもない時間を本当に久々に過ごしてみて、悪くなかった。小さい頃の日曜日、朝早くに誰か来るかもしれない公園に1人で行って、誰かをあてどなく待っていた時の気持ちを思い出した。なんでもない時間を過ごしていたあの景色は、今も心象風景として胸の奥に閉じ込められている。

20年後の未来、社会人駆け出しの頃の景色がスマホになってしまうのは、少し寂しい。

なんでもない横浜の景色はスマホよりも何処か良いように映った。

駐輪場で自転車を取ろうとしたら隣の自転車の所有者も時を同じくして自転車を取ろうとしている確率の高さが凄い

僕は、都内も都内23区内に居を構えている独身男性である。つまり、日常の移動は電車と徒歩と自転車が大半を占める。車なんて持てるはずもなく、持つ気もなく、通勤は電車だしその辺の買い物等は自転車で済ましている。

23区内にはきっと同じような境遇の人が多い。そのため、コンビニにしろスーパーにしろ、駐輪場が手厚い。郊外のコンビニが馬鹿でかい駐車場を用意しているように、都内の商業施設は自転車の管理が行き届いているのだ。

「二時間無料 それ以降は一時間ごとに100円」

こんな看板が其処彼処に掲示されている。案外空いていないもので、空き駐輪場を結構探すこととなる。何しろ違法駐輪した時の撤去の早さも凄いのだ。都会は世知辛い

やっとこ見つけた駐輪場。チャリを入れようとすると、後ろから人の気配がする。もしやと思ってさっさとチャリを入れて場所を開けると、隣のチャリの人がすかさず自分のチャリを出していく。

こんなシチュエーションが本当に多い。僕だけだろうか。

逆も然りで、チャリ出そうとすると隣のチャリの人が丁度チャリのところにたどり着いたところだったりすることも多々ある。一つの駐輪場で200は優に停められる駐輪場の隣り合う2つのチャリの主が邂逅する確率を誰かに求めて欲しいものだ。多分平たい確率論を超えて、僕はそのシチュエーションと対峙している。

後ろに着かれるにしろ、後ろに着くにしろ、なんとなく急かし急かされているようで気まずい。回避できないものかなと思うが、どうせ確率の話だからなと諦める。ある種天に愛されているんだと納得して、今日もチャリを走らせる。

NHKの朝の情報番組「おはよう日本」の時報についての考察

敬虔な日本国民の一人として、僕は学生の頃からNHKにお金を納め、より良い番組制作を全力でバックアップする姿勢を取っている。頑ななまで企業名や商品名を紹介しないNHKの「国民みんなの放送局だよ!宣伝しないよ!だからお金納めてね☆」って集金方法に応じて久しい。

さて、たかだか月に数千円の視聴料を払っている程度で何を語れる訳ではないが、どうしても書きたいことがあった。書く。

 

「おはよう日本」

www.nhk.or.jp

 

NHKが誇る朝の情報番組。

早朝4時半から朝ドラまでの時間を大小緩急織り交ぜて様々なニュースを紹介してくれる。なんとなく真面目放送局の印象が拭きれないNHKだが、朝ドラ後の情報番組「あさイチ」と合わせて、フランクな一面を朝に持ってきている。

 

朝の番組に重要な要素として、時報がある。

とにかく忙しい朝の時間、テレビをつけっぱなしにして支度をする僕たちに黙っていても時刻を知らせる機能。

 

おはよう日本の時報は、スゴい。

www.youtube.com

 

Youtubeより拝借。

ざっと聴いていただければお分りいただけるかと思う。時報とジングルの融合である。時ングルとでも言おうか。上手いこと言った。

例えば、朝の番組の横綱的存在、フジテレビ系の「めざましテレビ」では、マスコットキャラクターの「めざまし君」が「6時ぃ!6時ぃぃ!」って怒号を飛ばしてくださる。そこには音階もなければ、リズムもない。ただのケツ叩きである。

しかし、国民みんなの放送局は一味違う。歌う。

僕は7時の時報を聞いて衝撃を受けた。動画だと最後に収録されている。

 

「しちじしちじしっちじ〜〜♪」

 

最初、何かの聞き間違いかと思った。今、めっちゃ7時って言ってた気がする…って翌朝落ち着いて聴いてみると、やっぱりめっちゃ7時って言ってた。試しに検索してみたところ、ほぼ全ての時刻において時刻を連呼している。美声が爽やかなメロディに乗って。

曲の仕組みは簡単で、「おはよう日本」のジングルのメロディに時刻を当てはめているだけだ。しっかしこの時報、拝聴した後のザラザラ感が拭えない。濃いカルピスを飲んだ後の喉のゼロゼロ感のような、いいとも悪いともつかない独特の違和感を残す。

 

おはよう日本の時報がなぜ、僕をザラザラさせるのか。

違和感の出所を探る。

大前提として、情報番組は読んで字のごとく情報を伝えるために存在する。番組ごとの差異を単純化してしまえば、

「情報(伝えたいこと)」を「どう伝えるか(伝え方)」

でしかない。

そんな中、各局様々な番組を放送している。局の差はあれ、同じ日の同じ朝を伝える情報番組たちである。仕入れてくるニュースは大抵横一線だ。

だからこそ、「どう伝えるか(伝え方)」に各局知恵を絞る

まだエンタメ系のニュースであれば、番組ごとに編集の余地が残されているが、政治の話や宮家の話、経済の話になると、情報の純度がだんだん高まってきて、捻りようがなくなってくる。

中でも、最も純度が高い情報の一つが、時刻。

 

そもそも、時報とはなぜ流すのだろう。

考えるまでも無く、時刻を知らせたいからだ。それ以上でも以下でもない。時刻に付随する感情は全てかなぐり捨て、淡々と時刻を知らせたいがための時報である。政治も比較的純度が高い情報だとしたが、仮に豊洲移転問題を考える時、コメンテーターたちがヤンヤヤンヤと口を出す隙がある。

一方、時刻を考えてみてほしい。「7時です」の声にチャチャを入れるコメンテーターがあろうか。まずいない。褒められもできなければ文句もつけられない、剥き出しの高純度情報である。

 

だからこそ時刻の伝え方は難しい。アレンジのしようがない。

 

工夫の余地が非常に少ない中、NHKの技が光っている。

ここで改めて、『情報(伝えたいこと)をどう伝えるか(伝え方)』という構造を用いて、各局どのように時刻を伝えているのかを考えてみたい。

 

おはよう日本

『時刻(伝えたいこと)をジングルで流す(伝え方)』

めざましテレビ

『時刻(伝えたいこと)をめざまし君が叫ぶ(伝え方)』

ZIP

『時刻(伝えたいこと)をメインパーソナリティ等が言う(伝え方)』

あさチャン

『時刻(伝えたいこと)をぐでたまが言う(伝え方)』

グッド!モーニング!

(未確認ですが、どうやらZIPと同じようにパーソナリティが伝えているようである。Google調べ)

 

 

上記の通り、NHKのおはよう日本のみ*1が、果敢に時刻を音楽に乗せて伝えている。事実として動かしようのない高純度の情報をあえてジングルに乗っける試み。

 

COWCOWのあたりまえ体操を思い出して欲しい。

右足を出して 左足出すと 歩けるっ!

うん、そうだよね、歩けるよね。

 

「あたりまえ」。

人々の脳裏に刷り込まれまくり、今更どうこう言う余地の少ない高純度の情報を、大げさにかつメロディに合わせて動くことに面白さを見出した例である。そこまでしなくてもわかってるのに…と言う心情を呼び起こさせる。

NHKも似たようなことをおはよう日本の時報でやったわけだ。「あたりまえ」を「時刻」に変えて、COWCOWがネタとして仕込むようなことを朝の情報番組にぶち込んだのだ。これを挑戦と言わずにどうするか。

 

重ね重ね、良くも悪くも画一的になってしまいがちな情報番組。慣習的な部分で朝の番組を決めている国民が多い中で、4月に大きな番組改編があったNHKが仕掛けた攻めの一つが、あのジングルだろう。

誰もやらないことをやる。特殊な民間企業として保守的になっても不思議じゃないのに、時報という隙間に注目してこれほどまでにザラつかせる気概と技術に舌を巻く。

 

で、結局ザラつかせてどうなんのよって話だが、炎上商法とかっていうザラつきどころじゃないマーケティングが蔓延る昨今である。ある種ザラつかせたもん勝ちだ。炎上だと印象が酷く悪くなってしまうが、多少のザラつきであれば話題を呼ぶ。一度捕まえたらそこからは自力勝負である。天下のNHKが国民をスポンサーとした潤沢な資金で作り出すハイクオリティな番組群が口を開けて待っている。そこに飛び込むか否かは僕ら次第。

少なくとも僕は、「しちじしちじししっちじ〜〜♪」を聴いてからというもの、時間の許す限りNHKに張り付いている。分りやすくNHKの術中にハマってしまった。

 

別にどうってことはないのだが、ザラッと感が心地よくなりだしたから書いた。別に見てとは言わない。

*1:グッド!モーニング!は許して