徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

満腹表裏

満腹は幸せでもあり、苦痛でもある。

雇われの身で、ある程度身分が保証されているため、幸い食いっぱぐれてはいない。小腹が空いたら食べものはあるし、買うこともできる。恵まれている。

空腹からの逃げ道はたくさん用意されているが、満腹は話が違う。吐く以外ない。と言うか吐きたくないから最早手段がない。

ここのところ満腹になることが多かった。「食べな!」と言われたら断れないため、あらゆるものをストマックホールに吸い込み続けた。結果、どことなく胃袋が随時重く、朝起きてもドヨーンとした感じを引きずっていた。

昨夜もめっちゃ食っての本日。あまりの胃袋の重さに辟易し、セルフラマダンを決行した。食べない。お茶しか飲まない。一度胃袋を清算しようと思ったのだ。あんなに重たかった胃が、夕方すぎると「食べてもいいカモ…」って機嫌直すんだから、胃に物を入れない力は凄い。現状復帰が早い。

日中は食わずに首をもたげた食欲のために、夜にたまごスープを飲んだ。至高のうまさだった。

やっとコントロール下に晩飯が入ってきた。たまごスープだけなのでやはり空腹なのだが、満腹に苛まれたことを考えれば心地いい。

明日から平常運転にする。

込み入った文章が書けなくなってくる

息をするように文章書いていると評される昨今。ありがとうございます。細々と長く続けるのは得意分野なようです。毎日毎日鉄板の上で焼かれ続けるように書いているのだけれど、毎日毎日書くことが先決になって込み入った思考ができなくなりつつある。

飲み会とか飲み会とか、例えば飲み会とか、あと飲み会とかのせいで更新できない日というのがまず存在する。それ以外の日は確実に書いていくスタンスであるのだが、考えを寝かせる暇もなく時間はやってくるので、全く記事に根拠も深みもない。ボジョレーヌーヴォーが美味しくない理由がわかる。

2日3日同じことぐるぐる考えて、しっかりまとめてから書き出したほうが余程自分のためになるし読みやすくもなると思うのだが、一度走り出した車輪を止めるのはなかなか難しく、とりあえず今日もこれ書いとくか…みたいな妥協に次ぐ妥協で構成されているのが本ブログだ。採れたてホヤホヤの考えだらけ。

たまに読み返してみると、これもうちょっといい頭で考えてもらったら面白いかもしれないってタネが出てきたりするんだけど、馬群に消えている現状である。


小食に徹すると胃袋が縮むように、インスタントシンキング・インスタントライティングに徹していると、思考が縮む。ありありと感じる。積み重ねがモノを言う勉強は毎日すべきだが、積み重なりもしない発信は毎日する必要あるのかしら。

それでも書くのですが。立ち止まってみたい気もする。

人の特徴に名前が付くのは良しか悪しか

なんとなく怠くて喉が痛くて熱っぽいけどまだ頑張れると気持ちを奮い立たせて仕事をしていたとする。案外人間気合いでなんとかなるもので、多少辛くてもやっていけてしまうのだが、ふとした出来心で熱を測って、38度とかって数字を見てしまうと気持ちの突っ張り棒は虚しく折れる。現実に気合いは弱い。

「熱」という数字は逃げようのない事実だ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

上の記事にも書いたのだけれど、人間は言葉で考える。言葉で通じ合う。すなわち、言葉が事実となる。例えば未知の食べ物(仮にここではミミガーとする)に出会ったとき、僕らはそれに対して何も語ることはできない。「これ」とか「それ」とかっていう代名詞を用いて指差すしかない。しかし一度「ミミガー」と呼ぶものだと知ると、「それ」でしかなかったものは途端に「ミミガー」になる。言葉が世界を形作る好例である。

 

モノを指す名詞が増える分には便利だが、人の特徴を指す名詞が増えると、単純に便利ではなくなってくるように思う。

近年急激に聴くようになった「発達障害」。生きづらさを抱えて生きてきた人がこの言葉を手に入れて、やっと自分の悩みの輪郭が縁取られたと言った話も聞く。多分それは良い影響だ。けど一方で、名詞が増えて流行るということは他人へのレッテル貼りを簡単に許すことでもある。「根暗」と「根明」なんて最たるものだろう。

発達障害」や「アスペルガー症候群」と言った名詞がもたらす影響は、良い影響が多いのか、悪い影響が多いのか、どちらなのだろう。これは巨大な生きづらさに悩まなかった僕みたいな人間が判断できることではない。フォアグラを食べた者しかフォアグラについて語れないように、当事者にしか判断できないことだと思う。

名前がついて理解が進む世界となるか、名前がついて区別が進む世界となるか。前者であるべきだと、発言権は小さいなりに考えている。

「苦しみを糧に」みたいな話は全部成功者の論理だ

日頃購読している日経新聞には「私の履歴書」という、財界人や業界の第一人者が半生を振り返る名物コーナーがある。戦時中の壮絶な経験が自分のルーツにあるとか、幾多の困難をくぐり抜けてきたとか、先頭集団を走ってきた人の生き方・考え方はやっぱり強い。毎日楽しく拝読している。

義務教育、高等教育、大学、社会人と、多くの人が想像しうる道をおざなりなスピードで走って行くと、当たり前のごとく凹凸があり、それを乗り越えたり打ちひしがれたりする。「私の履歴書」に記される波乱万丈もその類である。時代や場所や大きさは異なれど、人生における凸凹という点では同じ種類のものだと思う。

成功者は成功しているから成功者。凸凹を越えまくってきている。他者からの評価も高ければ自己評価も高い。すると、凸凹を振り返った時にどう思うか。「あれは必要不可欠な凸凹だった。」こう思う。もっというと、いじめられっ子が大成した場合とかによく話題に上がる「いじめがあったから」論や、田舎出身の人が語る「田舎に生まれたから」論。こうした感想や振り返りは全部、今、上手く着地できているという裏付けがあるから生まれうる。思い出で美味い酒が飲めるのも記憶が淡く良いものであるからだ。思い出したくない記憶なんて吐き気以外何も催さない。

旨い人生を送り、苦難を良しとするためには、結局のところ成功するしかないのだろう。別にそれは人並み月並みスッポン並みでもいい。ほんのひだまり位の成功や幸福でもいい。

人生のひと時でも上手く生きるのは難しい。成功するのなんてもっと難しい。でもその一瞬、ほんの一瞬でも人生に光が刺せば、それまでの苦悩がひっくり返る。ちょうどオセロに似ているんじゃなかろうか。めっちゃくちゃに黒が並んだ苦渋まみれの人生でも、遠く遠くの白は消えていない。大切な良い思い出は消えない。大連鎖した黒の果てに、たった一つ、ただ一つ白が置かれたその時、黒が全部ひっくり返って白になる。

何も勝ち続けなくとも、一瞬一瞬の勝負を降りさえしなければいつか白が置けるかもしれない。勝つためには勝つまでやる勝負し続けることが大切か。別に一つの種目にこだわらなくても、人生だけは続けていく。いつかどこかの勝負で勝った時、多分過去の苦しみもひっくり返る。そこそこ悪くない思い出に変わる。

続いていけ。止まるな。

言葉のベール

言葉遊びが過ぎると言われた直後であるが、それは褒め言葉だと捉えてもいるし、弱点にも違いない。

「空っぽのコミュニケーション」という言葉を見たのは多分どなたかのブログの記事だったかと思う。挨拶に代表される、具体的内容を伴わない(限りなく少ない)コミュニケーションは、全く無駄ではなくむしろ円滑な人間関係を促進している…みたいな話だった。確証は持てない。電通社員のカラオケやべぇって記事も同時期に出ていて、なるほど空っぽのコミュニケーションとはこういうものかと納得したものだった。


なんの本質にも触れない言葉の安心感はすごい。腹を割って話すって言葉の対義語にも相応しいであろう空っぽのコミュニケーション。僕も好きである。得意かどうかはさておいて。確かなことは、圧倒的に滑らかに喋ることができるのは中身が伴わないときであるということだ。

言葉でコミュニケーションを取る僕たちは、言葉によって喜び傷つく。愛や恋を語るも言葉、憎悪や敵意を伝えるも言葉。言葉がなければ人間ではない。ただのヒトとヒトだ。

だから腹を割るにも言葉。しかし、空っぽのコミュニケーションが心地いい間は腹の底なんてマリアナ海溝のそのまた向こうである。一生懸命深いところに潜ろうとしても、水圧にヤラれてどんどん舌は重くなり、息は苦しくなる。

あれ、もしかしたら俺なんも考えてなかったんじゃねーか。喋れない。言葉が出てこない。なんていうかさぁ、難しいよね、なんていうか…

ラインをなんて返そうか迷っているような、親指が空中浮遊しているような、そんな感じで間を埋めるだけの音を発して、心の底のことなんてなんも出てこない。


不意にMr.Children箒星の歌詞が浮かんだ。

最近ストレッチを怠っているからかなぁ

上手く開けないんだ 心が 照れ臭くて

慣れない筋肉がうまく使えないように、閉ざされっぱなしの扉はなかなか開かない。慣れない言葉も喋れるわけがなかった。

上辺の上辺でお話を回すのにはある程度慣れた。だからもう数メートル、潜ってみなきゃいけない。最初は苦しいだろうけど、どうせすぐ慣れると信じている。

僕自身も知らない僕を語りたい。喋って気がつく自分に出会いたい。

電車になって2時間ちょっとの田舎

母の実家は千葉の佐倉という街だ。じいちゃんの生まれとか育ちとかを書いた記事を以前書いた覚えがあるので時間があったらそれも貼り付けておこうと思う。

佐倉といえば。

野球が好きな人は長嶋茂雄と答える。陸上の好きな人は高橋尚子と答える。そして、音楽が好きな10代を過ごした今の20代半ばから30代の人はBUMP OF CHICKENと答える。当方、陸上やりながら思春期をBUMP OF CHICKENに捧げたこれまでである。佐倉の血が流れているのは全く悪い気がしない。

何しろ祖母の老け込みがなかなか煮詰まってきているということで、母が上京してきた。合わせて、僕も佐倉に行く。勤め先は横浜。自宅のある錦糸町を過ぎて、さらにずっと奥の千葉県佐倉市。およそ2時間の旅だ。横浜を出て、一度明かりが少なくなり、品川が近づくごとに灯が増し、首都東京、錦糸町のネオンを超えると、じわじわと田舎の香りが漂う。そして千葉を過ぎると清々しい空気に包まれる。

北海道で暮らしていたころは関東ってすごく狭いもので、どこも都会なのだと思っていた。だが、住んでみると関東は関東なりに広く、ちゃんと田舎もある。それこそBUMP OF CHICKENの「続・くだらない唄」にある一節、「電車に乗って二時間ちょっとの都会に出てきた」の通りだ。藤原基央は確実に上京していた。狭くて広い関東の中で。

人にぶつかりまくるような駅を離れて二時間、電車は暗夜行路を行く。灯りはない。ブラックアウトだ。漆黒の向こうには、季節になればチューリップが咲き乱れる畑があるはずで、とてもじゃないけど人と人とがぶつかりようのない空間が広がる。

電車に乗って二時間ちょっとの田舎に出てきた。

生き急ぎ猛ダッシュ

昨日、マジで自分の時間が欲しい云々と、そんな文章書いたんだったら風呂でも入ってさっさと寝ろな日記を書いたのだが、どうやら体内では思春期の尾崎豊よろしく自由を希求する気持ちが相当に高まっていたようで、今朝は5時に起きた。

弁当を作り、掃除をし、今死んでもギリギリ恥ずかしくない程度の身辺整理を行う。その姿たるや、それこそ思春期の子供が朝練行く前のお母さんの如し。テキテキのパキパキである。ちなみにiPhoneの画面はバキバキである。

朝を究極に飛ばした上でのスーパーフリータイムほど清々しいものはない。誰にも邪魔されない1時間はほど尊いものはない。しかも1時間後の電車ではない。1時間後に家を出ればいいのである。なんと自由。

マジでキレキレのサラリーマンとかだったら、一目散に家を飛び出してカフェとか入って新聞読みながら世の中の趨勢を伺いつつ今日の仕事の動きとかを練り込むんだろう。誠に残念なのが1時間僕はパソコンの前でギターとシンセを抱えてえっちらおっちらやっている点である。新聞なんて読まない。ダメダメだ。この、強烈な伸び代を持ちながら堕落して行っている感じ。なんと贅沢。

ギリギリまでiMacと戯れ、ギターに遊ばれ、シンセに弄ばれて出て行く朝。2度目の朝がきたようだ。この時間になって、レバーブローのようにじわじわと5時起きのダメージが効いてきている。学生の頃は朝勉とかやっても1日元気だったのになぁと、若いなりに昔を儚んでもみるが、よくよく考えたら寝る時間が全然違う。そりゃ眠いわけだ。

もうしばらく、もうしばらくしたら休日が来る。少しだけゆっくり寝られるはずだ…と考えるんだけど、どうせ休日になったらなったでワクワクして早く起きてしまうのだ。遠足の前日のように。思春期を前にした少年少女のように。

自分の時間がないとマジで苦しい

一人っ子あるあるなのか何なのか知らないが、ここのところ如実である。

基本的に人が好きで、懐きたい。誘われれば断らない。誘いたい人もいる。そんな中、自分の時間を確保するというのがなかなかにシビアだったりする。お仕事がいかんせん繁忙期という社会的モテ期に突入しているので、余計である。

自分の時間とはどこまでをいうかと考えてみたのだが、一人の時間とは意味を異にする。例えば朝とか、通勤とか、帰宅中とかは一人の時間なのだけれど、それは自分の時間ではない。

自分の時間とは何か。それは次の予定に全く起因しない時間だ。

朝の時間を考えてみると、一人の時間には違いないがしかし全ての行為は出社に繋がる。通勤もそう。一人でスマホぽちぽちしているけれど、身体は目下出社ないしは帰宅中。家事なんてこの上ない。行為が生存・生活に起因している。

つまり、寝っ転がって天井に向かって呻いていたり、一人で窓に向かって真剣にライブをしていたり、行為自体で完結しているような行為ができる時間こそ、自分の時間だ。

一人の時間の中に自分の時間は存在しているのだが、どれだけ一人の時間を首尾よく終わらせ、自分の時間に還元できるかが直近の課題である。皿洗いとか、洗濯とか、ほんと何とかなってほしい諸々をさっさと片付けたい。でも、面倒臭い。しかし片付けないことには自分の時間は訪れない。気になるから。頭の中に汚れた食器がちらついたら最後、自分の時間は脆くも崩れ去る。許容できる範囲の汚れと散らかりの中で、全く何にも囚われない一瞬を過ごす贅沢さを追い求めている。

このブログも最初は自分の時間だったんだけど、ここまで続いてくると一人の時間と化してくる。別に誰が望むでもない文章を垂れ流しているだけなのだが、意地半分で書き続けているところもある。何しろここ2年間で3日間記事を書かなかったことがない。マメだ。意地で維持している。だからなんだ。

さて、明日明後日とお呼ばれデイズである。それはそれで幸せなんだ。

ブログも書くんだ。

めっちゃキツイのが気持ちいい

今、友人の結婚式に出て、二次会の幹事して、その後諸関係者で飲んだ後にさらに飲み会が入ってもうダッシュしてたところ乗り換え案内のアイフォーンが落下して、折角取り替えたばっかりの画面がバキバキになったんだけど、なんか幸せ。

それだけ。

幸せ。

マウスピース初夜

虫歯ついでに食いしばりを指摘されたことから、マウスピースを作った。僕の歯ぎしりとの戦いは以下を参照されたい。割と歴史は長い。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

一昨年の歯ぎしりインシデンツの時は適当に歯を削ってもらって自然治癒に持っていったのだが、いよいよ歯を大切にしたいなと。そこで物理的に歯ぎしりから身を守りに入る体勢をとった。

歯並びはいい方だった。だから歯科矯正とは無縁の生活を送ってきた。小中学生の頃よく見かけた、鎖で縛られたような歯。違和感凄いだろうなぁと思っていたが、マウスピース初夜、確信に変わった。

異物感。この上ない異物感。

たまに歯と歯の間に肉とか詰まって、苦心して取り出したらめっちゃちっちゃいカケラだったりってことがある。この上ない異物感だったのにこんなちっちゃいカケラかいなと驚く。割と口腔の感覚は鋭いようだ。

それの凄いバージョンがマウスピースだ。寝づらい。ベロで遊んでしまう。食いしばりから逃げるために快眠をサクリファイスしていいのだろうか。

まぁ、どうせ慣れるんですけどね。

二夜目に続く。