徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

父方と母方、2人の祖母に今聞きたい

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

誰しもが4人の祖父母を持つ。生命がそこにあるということは、4人の祖父母が生きていた証拠でもある。

僕が生まれた時、すでに父方の祖父は他界しており、三名の祖父母がじいちゃんばあちゃんの全てだった。どちらの家にとっても最後の孫となったこともあり、それは大事に育ててもらったと思う。

生まれて25年。その間に母方の祖父と父方の祖母が亡くなり、いま、母方の祖母のみが生きている。

何年か前から認知症を患った母方の祖母はいよいよ元気がなくなり、寝付き、しかし一生懸命に生きている。介護と医学のベールに包まれながら眠る祖母。ひたすらの老いと弱りに、生命が戦っている。

母の実家は千葉県にある。祖母の具合が悪くなってから、母は頻繁に実家に帰るようになった。母の帰省のたびに僕も祖母の家に行き、母と共に祖母の傍に佇み、語らう。

誰しもに4人の祖父母があるように、僕の母にも2人の母がいる。実母と義母。どちらも商家で、商売をぶん回してきた2人の女。2人の生き様を見てきた母は、商売のやり方が全然違ったことをしきりに話す。

損して得取れタイプが母方の祖母で、ひたすら得取れタイプが父方の祖母。製造業の母方と小売業の父方という違いもある中、どちらも過ぎたるは及ばざるが如しで、損し過ぎて苦しくなったり、がめつくし過ぎて人が離れて行ったり、色々な山と谷があったようである。しかし、各々の生き方で、各々の犠牲を払いながら、精一杯生きて、生きた。

 

祖母二人にはたくさん目をかけてもらった。北海道で育ったから、北海道の父方の祖母には年中会って話していたし、夏休みや冬休みの折に母と千葉に帰省するたび、母方の祖母からは「大きくなったねぇ」が飛んできた。大人が子供に使う常套句。聞き飽きるくらいに聞いた。

祖母たちの目から見た僕はどうひっくり返っても孫だし、母は娘で、父は息子だ。人生を数直線にすると、後ろから彼女たちの背中を見ていることとなる。今になって聞きたいのは、祖母たちはそれぞれの人生をどういう風に考えてどう生きてきたのかだ。孫として、数直線の後ろから背中を眺めてインタビューするんじゃなく、居酒屋で知り合ったとか、友達になったくらい距離感で、何してきたのか、どんなことを考えていたのか、何が辛かったのか、どう切り抜けたのか、折れたのか、全部聞いてみたい。父や母の口から語られる二人ではなく、本人から、本人の言葉で、彼女たちの人生を話してみてほしい。身近な先達として、どんな信念のもと商売していたのかを知りたい。ただ、きっともう叶わない。

 

話を聞いてみたいと思った時にはもう聞けなくなっている。知りたいと思った時にはもう知り得なくなっている。大概そんなもんなのかもしれない。

母の実家にある古いアルバムに、祖母が赤子を抱いて微笑む写真が収められている。ふっくらした祖母。自分と同じ年齢くらいの祖母である。しかし、腕に抱いているのが伯母なのか、母なのかすらも判然としない。写真に残っているものすら事実がわからなくなる。文章に残っていない思想は当然の様に闇の中だ。


史学者の磯田道史をご存知の方は多いだろう。メディアにもよく出ている、自他共に認める古文書オタクである。ぼちぼち彼の著作を読んでいると、名もなき大名、名もなき人にも当たり前のように大層な哲学が転がっていることがわかる。

先達がたくさんいるなら、そこから学ばないといけない。逆に、先達は先達で、経験と知識を残していかなければならない。背伸びしたって振り返ったって知る由も無い、身近な先達2人の人生を思う。

翻って、果たして自分がなにを残せたものかとも思う。残すだけの努力をしているかと言われると、甚だ苦しい。

台風を待つ夜に、ショパン「雨だれ」について書く

雨だれの入り口

父の方針だと思うんだけれども、実家の朝は必ずクラシックが流れていた。父の作業用BGM。伝票書くにも、料理作るにもクラシック。で、息子もいざ作業に向かう時、クラシックをBGMにすると捗る。歌モノだとほぼ確実に歌ってしまって作業にならない。

amazonプライムに加入してからというもの、ヤマト運輸と日本郵政の物流網を濫用しつつ、プライムミュージックとプライムビデオにうつつを抜かし、父の所為もあってか専らプライムミュージックではクラシックを流している。

なまじっかピアノをやっていたから、思い出を掠める曲も多い。弾いた曲もあれば、発表会で他の人が弾いているのを散々に聴いた曲もある。

殆どのクラシックベストのようなCDに入っている曲で、ショパンの「雨だれ」がある。バチバチの有名曲。確か、中一くらいの時に弾いた曲だ。プライムミュージックを流しっぱなしにしていると時折流れる。思い出補正も相まって、しみじみいい曲だと耽る。

素人ながら、雨だれについて書かなきゃいけない気持ちになってきたので、書く。

 

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雨だれの話

雨だれの魅力は大きく2つあると思う。

毒のない綺麗なメロディとわかりやすいストーリー。総じて名曲はどれもこれらの魅力を備えているものだが、中でも雨だれは格別だと思う。

特に、ストーリーのわかりやすさが白眉。

とかくクラシックは歌詞がないから退屈だったりする。わかりやすい音楽が溢れている昨今だから尚更だ。例えば、有名なショパンの曲で「仔犬のワルツ」がある。最初の右手を酷使するターンの連続で、自らの尻尾を追いかける仔犬を表現したのは有名な話で、名だたる作曲家たちはリズムと音階で情景を表現しようとしていた。

そこで、「雨だれ」

雨だれの特徴は何と言っても終始鳴り続ける「ラ♭」だ。上手い人が弾くほど、「ラ♭」が一定の強さで静かに響く。

この「ラ♭」が何を隠そう、雨だれの音を表現している。一度聴いていただきたい。雨どいを伝って地面に落ちる雨だれが簡単に想像できたのではないだろうか。仔犬のワルツのターンよりもシンプルで、強烈な表現だ。

鳴り続けるラ♭をよそに、雨だれは曲としてもストーリーを紡ぐ。転調するまでのメロディより感じるのは、薄曇りの中でポツポツ落ちてきた程度の雨だ。全く嫌な気分がしない。心持ちとしても明るい雨である。

しかし転調を機に猛烈な雨雲とうねりがやってくる。荒天にかわる。でも、常にソ♯(ラ♭)は鳴り続ける。オクターブ下で、重苦しく。余談だが、転調した後の荒天パートを下手な人が弾くと、ソ♯の連打がめっちゃうるさくて左手のメロディが聴こえなくなるのがあるあるネタだ。さておき、連打のなかで悠然と響くメロディがまた天気の悪さを助長させる。荒天パートの中の特徴は強弱の揺れにある。終始指示されているクレッシェンドでフォルテまで達した後に突如訪れるピアノ。風が吹き荒れているような情景が目に浮かぶ。嵐の夜、予想つかない強弱で吹き付ける風である。余談だが、下手な人が弾くと入りの音がデカすぎて全くクレッシェンドが効かなくなるのもあるあるネタである。

荒天パートは、重厚感たっぷりな和音の旋律を奏でた後、唐突に転調する。そして、冒頭の再現部が始まる。一転、薄曇りに戻るのである。薄曇りパートがしばらく続くかと思えば、そうではない。「シ♭」。これである。明らかに、日が射した。ハッとさせられる。雲が切れた!と思った瞬間、強烈なデクレッシェンドがかかる。雨だれのソ♭も段々弱くなる。そして、ゆっくりと終わる。

 

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クラシックと雨だれ

言葉を使わないクラシックに何を思うか。これはすごく難しい。言葉を使った方がよほど気持ちを伝えるのも共感するのも楽なのだ。その分、クラシックは曖昧で、ある種先述のように退屈でさえある。

でも、その曖昧さがクラシック最大の魅力だ。楽しそう。勇ましい感じ。悲しい。荘厳さ。音階と音色から受ける抽象的な印象は、人生の様々な場面に当てはまる。想像次第でいくらでも物語が広がる。

しかし、僕らは素人である。音への感受性には限界がある。バロックの無機質なカチカチした音に物語を見るのは至難の技だろう。そんな僕らがわかるクラシックが、ショパンで、中でも雨だれのわかりやすさが飛び抜けている。そういう話でした。雨だれの起承転結には多くの物語が当てはまるだろう。額面通りに天候の移り変わりを愉しむもよし、パーソナルなお話を投影するもよし。

今夜から明日にかけて、台風が日本を縦断していく様である。雨だれへの感傷をよそに、明日も仕事なのです。多分めっちゃ空いている電車を夢見て。

北朝鮮がミサイルを放つ度に弊ブログがフィーバーする

放つ度、僕のこの記事が猛烈に閲覧される。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

ほんと、びっくりするくらい閲覧される。

今朝、飛翔体がぶっ飛んだ直後、菅官房長官が会見を開いた直後には、アクティブユーザーが200名とかいうかつてない記録を叩き出した。一日400件程度のアクセスに終始するブログが一瞬にて200名をかき集めたのだ。不滅の大記録である。ミサイルを放つ度アクセスが集中するものだから、僕のブログの過去のアクセス数を見るといつ北朝鮮がミサイルを打ったかが瞬時にわかる。いらない機能だ。

しかし本当に今朝の報道番組の様子には戦争の中にいるかのような気分にさせられた。でも、北朝鮮情報のテロップが流れる中、電車の遅延情報も流れて来ていて、東京の大多数の人間にとっては北朝鮮よりも電車の遅延の方がよほどのリアルだったりする。遅延している電車に乗っている人はきっと誰も戦争してほしいなんて思っていない。けど、とりあえず今日出社することは戦争しないことよりも大切。いびつだけど、それが本当なのだ。

奇しくも、去年の今日、僕は当該記事を執筆している。

非難しないでいいなら、非難しないほうがいい。絶対そのほうがいい。

中年体型への恐怖

何故そうまでに美しく腹だけ出るか。中年よ。ベルトの上に生々しく乗っかった贅肉がパノラマになる電車内。はち切れんばかりにボタンが両サイドから引っ張られている。ボタンとボタンとの間が植物の気孔のごとく空いている。

贅肉、なのだろうか。彼らは贅沢をしているのだろうか。贅によってついた肉にしては、どうも幸の薄そうな尊顔である。右手に持ったスマホを虚ろに眺めながらせっせと親指を動かしている。贅がその中に詰まっているのであれば、もう少しにこやかな顔をしていてもいい。

ふと、気がついた。彼と、僕とを隔てるものは何か。それは腹が出ているか出ていないか、贅肉が多いか少ないかに過ぎない。両者ともスマホを虚ろに眺めながらせっせと親指を動かしている。ただ、彼は腹が出ている。僕はまだ、腹が出ていない。

ぽっちゃり体型が適応される年齢を過ぎたぽっちゃり。でっぷり。ぶっくり。その形に僕は恐怖を覚える。本当に贅を尽くした果ての姿ならいい。しかし、違う。大抵は違う。運動不足と人付き合いの合いの子である。

何故中年体型が広く受け入れられないか、すらっとした中年に憧れるのか、この辺りはわからない。多分中年体型が好きだという層は少ない。そういう前提のもと話すがしかし、なんとか蓄えずにいたい。カロリーと肉の自転車操業をしていたい。

ここのところ2年くらいの不摂生で、僕もアスリートではなくなった。脇腹がつまめる代物となった。筋肉じゃない理由で胸が大きくなった。太りやすいわけでも、太らないわけでもない、飲食の分だけ素直に太るタチである。自分の乗っているレール上になんとなく中年体型がチラつき出した。そこから、出た腹への恐怖が止まらない。

そういうわけで、走り出しました。いつまで続くか。肉が取れるか。

気休め程度になればいいと思う。

レンジャー訓練から帰還した元自衛隊の旧友と会って感じたこと

自衛隊に「レンジャー」という訓練があることはご存知だろう。

レンジャー (陸上自衛隊) - Wikipedia

YESもNOも、全てのレスポンスを「レンジャー!」と叫ばねばならないことで有名である。概要はWikipediaを参考されたい。

その友人は高校時代の陸上で知り合った。地元は違うのだが、同じ競技をやっていて、大会のたびに顔を合わせては仲良くなった。そういった付き合いだったもので、高校を卒業してからは全く疎遠になってしまっていた。彼がどんな人生を送って来たのかも全く知らずにいた。

なぜだか不意に連絡を取り出して、昨日会うことになり、話した。

あのレースはどうだった。あの時しんどかった。積もる話もそこそこ、彼の人生が面白かった。自衛隊、パチプロ、パチンコの台付け屋、キャバクラの店長。そして今は唐揚げ屋さんをやっているらしい。公務員も昼の仕事も夜の仕事も知ってるんだよねって何事もないかのように彼は言っていたが、途轍もない人生経験だと思う。普通に大学を出て就職した人間にはとてもじゃないが及びもつかない。

中でも、何につけても、自衛隊のレンジャーが辛かったと話した。

それこそ、僕も昨日までは「レンジャー!」って返事をすることしか知らなかったのだが、全くもって甘いものじゃない。生き地獄がそこにはあった。「レンジャーだけは何億何兆と金を積まれても二度と行きたくない。」パチプロで日々30万も勝ってきた、金をこよなく愛する彼がこういうのだ。約3ヶ月間続く、地獄。

 

以下、印象的だった話をざっくばらんに書いていく。

レンジャー初日、朝四時半まで走り続ける。翌朝5時半に起きる

レンジャーはとにかく走る。走って、寝ない。寝ないで走って、水を飲まない。初日の洗礼が印象的だったと彼は言う。グラウンドにフル装備で集合させられたレンジャー達は銃を持ちながらひたすらに走らされ続ける。いつまで走るのか。それは、誰かが倒れるまで。しかし、歯医者の痛かったら手を挙げてくださいシステムと同じ状態で、誰かが倒れても終了の声はかからず、結果四時半までフル装備と約4キロの銃を担ぎながらひたすらに走る。靴擦れで血だらけの足を引きずりながら、シャワーなんて浴びる暇もなく気を失うようにベッドに倒れたと思えば、1時間後には起床の笛が鳴る。

これが、初日。絶対嫌だ。絶対嫌。初日がめっちゃ苦しかったと彼は言っていたが、辞めたい気持ちや死にたい気持ちは初日から最終日までずっと全開だったらしい。最初から最後までフルスロットルの苦しみがそこにはある。

行軍が辛い。水が欲しすぎて殺虫剤を飲む

訓練には駐屯地で行うものと、山で行うものがある。山で行うものが、行軍。詳しくは覚えていないのだが、想定を示され、それに則って目的地を目指すものらしい。3ヶ月の間で10回近い行軍がなされる。多分、Wikiにも書いていると思う。

山登りだけでも苦しいが、何しろレンジャーである。ただの山登り・山籠りではない。40キロの荷物を担ぎ、銃を持っての訓練。しかも食料は二人で缶詰二つ。水分は二人で1リットル。行軍日程は数日間。気も狂うだろう。陥るのは圧倒的な脱水症状と栄養失調。行軍当時は雨が待ち遠しくて仕方なかったらしい。とにかく水が飲みたくて、水たまりがあったら転んで水を飲み、自らの小便を飲み、ついには殺虫剤を飲んで担架で運ばれたところで目覚めたと言う。担架の上で上司に行けるか?と問いかけられた彼は反射的に「レンジャー!」と叫び、無事、訓練に復帰したらしい。ヤバい。

走馬灯を見る。幻覚も見る。山の緑が生茶に見える

銃を構えながら歩いていたら不意に昔の光景が浮かんできたりする。親の顔がフラッシュバックする。そういったことが多々あったらしい。身体が限界になるとそろそろ死ぬよって見せてくれるらしいよ〜だそうだ。彼だけではなく、彼の周りのレンジャー経験者も同じような場面に遭遇している。レンジャーあるあるらしい。

幻覚の中でも、森の緑が生茶に見えたり、マルボロに見えたりした時は本当に辛かったと言っていた。「緑が生茶に見えた」ってイカれ具合にめっちゃ笑ったんだけど、笑い事じゃなかった。とにかく水が飲みたい限界状態で緑を見ると、綺麗だなよりも、澄んだ空気だなよりも、生茶や伊右衛門を連想するらしい。他にも、何かちょろちょろ聞こえた気がして行ってみたら遥か先に川があったりしたこともあるという。幻覚と研ぎ澄まされた感性は紙一重である。

最終行軍。散って行った仲間達の荷物を担ぎながらの帰還

最終行軍の日程は4日間。食料と飲み物は前述の通り、缶詰2個と1リットルの水。4日間で200キロを動き、様々なミッションをこなしていく。様々の内容はよく覚えていない。イジメ抜いた3ヶ月。最高に身体も弱っている中、最後の最後に待ち受ける地獄。水分も食料もないなかで歩き続けて走り続け、仲間達が続々と倒れていく。その仲間達が背負っていた荷物(40キロ分と銃)を生きている奴らが背負っていかねばならないルールがある。仲間がくたばる度に重くなる荷物。命の重みである。そうして、やせ細った身体と膨れた荷物を抱えて生存者は山から降りてくる。

彼の時はたまたま脱落者が少なかったらしい。助かったと行っていた。自助公助の究極系である。

 

まだ書くことがあった気がするが、酔っ払った頭を引きずって寝て起きたらこれくらいしか残っていなかった。過酷さが伝わるだろうか。

最初に書いた通り、彼はその後職を転々とするのだが、これより辛い経験はないと語っていた。物理的に、生命として死を感じたのは後にも先にもこれっきりだと。そりゃそうだろう。インフルエンザになっても全然余裕だったから普通に働いたなんて武勇伝を披露していたがそれは迷惑である。

 

そんな彼が語る戦争

「戦争は多分あんなもんじゃない。」

彼はそう話した。レンジャーをなんでもない国民が行う状態が戦争だと語った。僕らは昨日、錦糸町の居酒屋でレンジャーの話を笑いながらした。彼の思い出に僕が相槌を打った。

「じゃあ例えば今、北朝鮮がミサイルを撃ったとするじゃん。きっと一発目は防げないんだよね。不意打ちに対応できる装備がないから。どこ狙うと思う?自衛隊が一番たくさんいる東千歳駐屯地か、東京だよ。23区のど真ん中にミサイル落とされてみなよ。ここも焼け野原だよ。日本が止まる。みんな水を求めて動くんだよ。」

右手にウーロンハイを持ちながら、少しだけ酔いが覚めた。

危機がなさすぎて、日本は、日本国民は危機を危機と認識できていない。「いつ何が起こるかわからない国際情勢」と文字にするのは簡単だが、じゃあ実際何が起こり、僕らの生きるレベルでどうなっていくのか、具体的に想像ができない。でも、彼にはわかる。レンジャーこそ戦争体験だった。ギリギリの身体。助けの来ない山の中。死がすぐそこにあった。

 

死を覚悟させる訓練。それをくぐり抜けた人間が日本に一定数いる事実に、僕は頼もしさすら覚えたが、同時にそれは、日本国土において死を覚悟する場面が訪れるかもしれない証左でもあった。まして昨今。どう転ぶかわからない。持ち用のない危機感を持っていかねばならないのだろうが、どうすればいいのかわからない。身の守り方すらも知らない。

彼と酒を飲みながら、レンジャーを半分笑い話にできる今が平和で幸せだと結論した。全くその通りだと思ったし、レンジャーをくぐり抜けた彼が言うならその通りなのだろうと思った。

改めて9.98のレースを観てみて

通信制限にかまけてレースを観てはいなかったのだけれど、いよいよ家に帰って来てレースを拝見した。

9.99で止まった瞬間と、公式で9.98が出た瞬間。二度の歓声。そして、喜びを表現しきれない桐生の姿。酔っ払った頭を存分に揺さぶってくれた。

もはや、何が嬉しいのかわからない。別にそこまで9秒台を四六時中願ってきたわけでもない。でも動画を見て、公式で9.98が表示された瞬間の歓声を聞くと、「いやぁ…うわぁ…」とため息でも歓声でもない何かが溢れてくる。なんなんでしょうこれは。

速いなぁ…もそうだし、よく頑張ったなぁ…も、そうだ。もしかすると、羨ましいなぁ…もあり得る。多田に先行されてからの中盤。ひざ下を多少降り出しても地面を捉えられるハムストリングスの強さ。あぁ、ハム切れるよ…と他人に思わせながらぶっちぎりの疾走を見せる逞しさっていったらない。よくあの感じで走れるものだ。

いや、どうだっていい。そんなことどうだっていい。

「うわぁ…」こそ、真実だろう。9.98が表示された後、ホームストレートを逆走して来た彼の姿こそ真実だ。「自己ベストを出せて嬉しかった。」それが真実だ。高校までのトレーニングを無に帰することなく、大学でもコンスタントに成績を残し、最後の最後に壁をぶち破ったことは、きっと彼の人生に途轍もない影響を及ぼすに違いない。

日本陸上における歴史的瞬間をビデオだとしてもリアルタイムで感じられたこと、幸せに思う。

改めて、改めておめでたい。

9秒台

いよいよ出た。

桐生「やっと更新できた」 9秒98、おとんに伝えたい - 一般スポーツ,テニス,バスケット,ラグビー,アメフット,格闘技,陸上:朝日新聞デジタル

これまでの彼の努力や辛酸を、詳しく知らない。最初から最後まで雲の上の人だった。そういう人もいるんだな。足速い人もいるもんだな。そんな感想だった。

そうして、いよいよ出た。

多分、9秒台が出たってところに国民の注目が行くのだけれど、彼にとってはきっと四年越しの自己ベストってところがとても重要なんだと思う。これはきっと、全陸上競技者が頷くところだ。

陸上競技における自己ベストは、達成感でもあり呪縛でもある。

自己ベストを出した時点で、その時点の自分は過去のどの時点の自分より速く、これからの自分は現時点の自分より速くあるために走らなければならない。

高校生まではまだいい。ほぼ自動的に足が速くなる。何故自分のタイムが伸びたか考えずともタイムは上がって行く。がしかし、成長期は等しく訪れ、等しく終わる。桐生にも、山縣にも、誰にも。そこからはどれだけ理詰めで自分の体と向き合えるかでしかない。「Aという刺激を与えると、Bという反応が起きます」この繰り返しで、人間は速くも遅くも強くも弱くもなる。

桐生が前回自己ベストを出したのが四年前。成長期の真っ盛り高校三年生のことだ。

ある種、出るのが当たり前の時期に、日本記録ニアピンの自己ベストを出した。その後は自己ベスト即ち日本記録。それも、15年以上10.00という嫌にキリのいい数字のまま止まっている記録。意識しないわけもないし、レベルが高い以上、いつでも出せるわけじゃない。

彼が燻っているうちに山縣やケンブリッジ、サニブラウンから飯塚まで名乗りを上げた。桐生の独り相撲から、群雄割拠となった。いくらでも心が折れるタイミングがあったろうし、四六時中苦しかったろうと思う。それでも出した。桐生は凄い。これまでのどの自分より速く、これまでのどの日本人より走ったのだ。

僕はこの記録を聞いて事務所で鬼ほどはしゃいだところ、副部長に見つかって鬼ほど粛清されたのだけれど、兎にも角にもおめでたい日である。おめでとう。おめでとうを言いたい。おめでとう。

尋ねられないと考えない

会社で主任に進級させてくれるというので、お言葉に甘えて進級したいと手を挙げた。するともれなくレポートの提出と面接がくっついてきた。

日頃どんなこと考えて仕事してんの?君はこれからどう袖を振って商売して行きたいの?ねえ、どうなの?

なんとなく日頃考えているつもりで働いてきた。久々に「なんで?どうして?」と自らを深掘りされてみると、いよいよ物事を考えなければいけなくなった。やっぱり日頃大して考えてなかった。

黙ったまま胸筋を動かせる人がどれだけいるだろうか。そう多くはないだろう。でも、ちょっと胸を押してあげると、途端に動かしやすくなる。くいくい動く。何が言いたいかといえば、抵抗がないと動かないよねということだ。押されて初めて押し返せる。

尋ねられて初めて考えるのだ。訊かれなきゃ考えないことだらけ。知らないことだらけ。

小学生の頃ちょっとした村八分をくらい、図書室の伝記を読みまくってた時期があった。ハーシェルという天文学者の伝記が好きだった。宇宙の大きさや銀河の形の第一人者だったはずだ。彼は真性のなぜなに人間だった。幼い頃、目でモノを見ていることを突き止めて大騒ぎした逸話をよく覚えている。いや、そんなの当たり前じゃんって思うことに何故を突きつけられる力。抵抗が、向かい風がない中を飛んでいける力。それこそ尊い。

ものの見事になぜなに人間じゃない人生を生きている。尋ねられないと考えない。逆に、尋ねられれば考える。自問自答の果てを打ち明け、どうとかこうとか言ってくれる熱い友人が欲しいかもしれない。残念ながら今の環境からして、なかなか機会は得られなさそうである。まず、自問自答をきちっと行うことから始めたい。これを契機に。

自叙やめます

昨日誕生日で、何書こうかなぁと思いながら生まれた瞬間のことをちょろっと書いたが最後、つらつらと誰が読むか知らない自叙を始めてしまった。完全なまでの供給過多。在庫大量廃棄必至の文であった。

言葉遊びに圧倒されたい時に森見登美彦を読むのだけれど、彼の小説は半ば自叙伝である。自らの生活にピタピタに密着していた京都を舞台に、ほぼ森見登美彦本人である主人公が奔走する。よくもまぁ、あれほど言葉をこねくり回して自分のことを綴れるものだと、心底感心する。褒めています。小説は大なり小なり、1のことを100にして綴るものだろうが、宮部みゆきとかのJ-POP的ミステリー作家に比べると彼の文章はびっくりするほど前に進まない。心情が発泡スチロールの鎧で着膨れしているようである。褒めています。


過去の自分を語る時、過去の自分に興味がある人なんて多分ほぼいない。余程偉い人の自叙伝でない限り、他人の過去に興味なんてない。

それでも書きたい僕らがいる。読んでもらいたい僕らがいる。

じゃあどう書くか。言葉をこねくり回すしかない。事実に興味がないのであれば、言葉の使い方を面白くするしかない。過修飾に次ぐ過修飾で言葉を大きく大きくして、核心もそこそこ笑ってもらうしかない。

多分、自分のことを書く時に言葉数が多くなるのはそういう理由によるもので、無意識にたくさん言葉を盛ってしまう。極地が自叙伝的娯楽小説を多数生み出す彼らである。だから、「よくもまぁ、あれほど言葉をこねくり回して自分のことを綴れるものだ」というのは違う。あれほどまでに言葉をこねくり回さないと自分のことを綴れないし、言葉をこねくり回さない奴は自分のことを綴る資格はないのだ。言葉数の足らぬ者、チラシの裏以上の何処かに自叙することなかれ。

と、いうことで、自叙やめます。言葉足りねーわ。整わねーわ。無理だ。書いていて、読んでみて、生業にしている人たちの文がいかにキチッとしているかを知る。無限に日本語コネコネしているフリして、キチンと読みやすい。サジ加減を知らない僕は、ただのデブみたいな文章になってしまう。

もっと人の文章を読むことでしょうか。明朗な文も、面白おかしい文も書けないなんて嫌なので、乱読してみたいと思います。

昨日、誕生日につき

ゴルゴダの丘に磔にされた後、一度葬られたのですが今復活しました。書きます。

 

高校に上がったところで、僕の人生は大きく広がっていく。まず、二重になった。これはとても大きな出来事だった。幼き頃は「野村萬斎の生き写し」と言われるほどの切れ長の目と面長フェイスを持ち合わせていたのだが、中学生も終盤に差し掛かると、不思議と顔立ちもゴツゴツしだし、エラが飛び出て、端的にいうと親父に似出した。そこに切れ長の目が組み合わさるとなかなかどうして不細工である。そう、不細工であった。不細工!あぁ、ブサイク!ところが、なぜかある日を境にして二重が定着していく。女子達が必死にアイプチをする中、僕は望むべくもなく二重を手に入れたのだった。二重になってみて、二重の威力を知った。顔がはっきりする。ピントが合う。タマゴ型から長方形に変化していく顔に、やっとピントが合った瞬間であった。

 

それに前後して彼女ができた。二重の効果かは知らない。同じ部活で不意に出会った子と不意に付き合い出したのだが、部内恋愛禁止という香ばしい規則に縛られた、なんとも酸っぱ苦い恋であった。後に似たような歴史を繰り返すことになるのだが、それはまたしばらく後のお話。しかし、初めての彼女である。「自分に、彼女が、いる。」これだけで思春期の男子なんて喜ぶ。簡単に有頂天である。猿だもの。記憶を辿ると、テスト前、勉強しろよってことで部活が無い期間にひたすら電話して全く勉強しないなんていう青春をした。カワイイものだ。しかし、何しろ狭すぎる世間で秘密をなんとか守ろうなんて全く無理な話なのである。バレるかバレない前に終わるかの二択。バレない前に終わった。

その後すぐまた彼女ができたが、その彼女も別れた直後に僕と付き合いだしたみたいなことで、まじくそドロドロな人間関係が醸成されつつあったんだけど、北海道の片隅の人間関係の濃さからすると割と一般的なドロドロを生きていた。そういう面ではちゃんと高校生!って感じの高校生を生きられたのではないかと思う。

 

ではその他はというと、部活である。良くも悪くも僕の人生を狂わせたのは陸上だ。中学の頃楽しく健やかにしなやかにやってきた陸上が本気100%みたいな監督のもとで花開き出した。冬場雪道でガツガツに走りこんで体幹をバキバキにする、マゾヒスティック極まりないトレーニングがバッチリ身体に合っていたようで、突如として北海道で一番速いマンとなった。これは案外今でも名刺がわりに使えて便利である。関東大会ベスト8とかの方が人口密度からして絶対凄いんだけれど、「あの広大な北海道で一番!?」みたいなリアクションをいただける場合が非常に多い。得してる。彼女の存在もそうだが、北海道一番になってラジオとか新聞とか取材に来ると大抵の高校生男子は有頂天になる。自己肯定感の塊だ。今、高校野球で、それこそ清宮のような超高校級と言われるスラッガーがマスコミの取材をしっかり受けているのを見ると、本当にどういったメンタルをしているのかと思ってしまう。有頂天にならないのですかと問いただしたい。調子乗っていいんだよ。失敗しろよ。青臭い記憶を大人になった時のために今残しておけよ。

有頂天だった僕は有頂天のまま大怪我をして、目標に届かなかった。でも有頂天はいつまでたっても有頂天で、有頂天のままハイテンションなリハビリを続け、アクセル全開急ピッチな回復を見せ、復帰戦でそこそこ場を盛り上げて高校陸上を去った。僕の中ではこの復帰戦は忘れ得ぬ走りで、忘れ得ぬ物語なんだけど、今やこの話をできるのは僕と僕の家族と顧問だけである。歴史の端に葬られている。まぁそれもいい。自分だけが食べられる酒のつまみがあると思えばそれで。場を盛り上げただけで満足はしていなかった北海道で一番速いマンは、リベンジを期して大学でも陸上を続ける決意をする。これが後に自分を酷く苦しめる。

 

ピアノは中学三年生で辞めた。「ラ・カンパネラ」を弾いて、綺麗に尻を捲った。コナン君が新一の服を着るような身の丈の曲だったが、なんとか背伸びしまくって着た。弾いた。

ここからもっぱらの音楽活動はギターと作曲に移っていく。楽器できるやつがやはり何人かいたから、文化祭でバンドをやった。これはびっくりするほど稚拙なものだった。だが、寡占状態だったことも功を奏し、なんかそこそこ弾けるやつみたいなポジションに収まることができた。そこで僕は愚かなことに調子に乗ってギターボーカルに就任する。醤油皿くらいの大きさしかない技量で蕎麦を盛りつけようとした。無理だった。ヘロヘロの演奏で胸を張った。でも、校舎の中庭で演奏している時、ぎゅうぎゅうの観客と窓から覗く観客がパノラマで見えた。あの景色は本当に綺麗だった。下手でも嘘でもあの場所に居たことに意味があると思う。いつかは大阪城ホールで。いつかはさいたまスーパーアリーナで。

BUMP OF CHICKENのコピーをし続けたが、そのうちに曲を作り出した。「内科に行かないか」、「ありおりはべりいまそかり」など、今でも市民権を得ている曲の多くは高校生のうちに作ったものだ。僕からすると岡崎体育やヤバいTシャツ屋さんは全て僕のパクリに当たる。何しろ、その後の創作活動のタネが植えられた時期であった。

 

陸上やる!どこまでいけるか知りたい!そんな熱い想いを抱いて、ぱっちり二重で見定めて上京した。ここからは本当に最近の記憶になる。とりあえずまた筆を置く。気が付いたら誕生日終わってた。