徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

天秤の上で踊る

昨晩友人と飲んだ。大学の同級生で、付かず離れず、離れず付かず、程よい付き合いをしてきたような友人だ。僕の出自の学部にある連中は大抵が物腰が柔らかく優しい。パプリカと言うよりはピーマンだし、もやしだし、舞茸って感じのお友達が集まっている。非常に居心地がいい。

まぁ、本当に何の利にもならない形而上の話から、仕事したくない話から、漢字の成り立ちまで様々話したのだけれど、一つテーマがあったとすれば、人の好みや趣向はどうしたって天秤にかけないことには決められないってことだった。

好きな子も、嫌いな食べ物も、明るいも暗いも、楽しいも寂しいも、全部対比によって白日の下に晒される。やりがいの天秤、お金の天秤、物を乗せる天秤は様々あるだろうがやってることは変わらない。

残念ながら、社会から見て望ましい天秤の上がり方あるらしく、それに左右されてるよねって、割と望ましい側から論じると言う屑極まりない飲み会であった。休むよりも仕事してる方が暇潰せていいんじゃねっていう、超ワガママ論理であるが、暇つぶし以上に楽しさを感じているのも事実である。

ふさわしさとはなんなのだろう。ふさわしさが世の中を作るのだろうか。それは違うだろう。でも、相応しくないなりにやっていっている。相応しくないとされている層こそが相応しいを作り出している。訳わからん。

確かなのは、世の中的に明日の日銭を掴むモチベーションが必要であると言うこと、そのモチベーションを作り出す職業があると言うこと。

大波小波のような感情の満ち引きに身を委ねながらフリックをしたこの文章を読み直すことはないだろう。以上。

水無月

梅雨に突入して行くというのに、なんだって水無月と言うのか。ぐずついた天気が続く間際の空は良く晴れて、水無月の始まりにふさわしい水気のなさであった。

晴れた空の下、当たり前のように僕はELLEGARDENのチケットを外し、忙しいような忙しくないような1日を過ごした。新人がだらしないと言えばちょっとした先輩ヅラをぶら下げて喝を入れるまでも行かないお話をしに行き、困った人がいたらその人を助ける。お願いされたらやるし、おかしなことがあったら変える。

忙しくなる少し前の変な静けさである。こういう時に仕事を見つけてゴリゴリやれればそれがいいんだろうけど、どうせ受動的繁忙期が目の前に迫ってるからそこまで頑張る気が無くなってしまう。忙し沼に突っ込んでいくのはもう十分だ。

いくつものプロジェクトに関わる日々も終わり、本業に腰を据える。さして楽しくもないそれに注力できるのか。やらねばならない。仕方なしから生まれる何かもあろう。水無月から生まれる水もあるのだ。

マッサージ

人に体を触られるのが好きなのかもしれない。美容院ではシャンプーされるのが好きだし、小さな頃は親父に耳かきしてもらうのが好きだった。そしてその延長線上に整体・マッサージがある。

別に凝ってなくたって、なんだっていい。ただ、マッサージをされたい。陸上やってた頃、毎日のように整体に行っていた。確かに怪我がちだから足繁く通ったのもそうだし、ただマッサージされたいがためだったのもそうだ。揉み返しすらもいとわず、痛気持ち良さの波に飲まれる。セルフマッサージじゃ到底及びつかない気持ち良さである。

自分で行う洗髪やマッサージは、動きが想像の範囲内に収まってしまう。動かした通りに体は動く。全て思い通りだ。他人は違う。想像を超えてくる。というか、想像し得ない。そしてなにより人肌は気持ちいいものだ。それが皮膚だろうが頭皮だろうが、構わないのだ。

納期に追われる日々がもうすぐ終わる。そこからは通常業務が繁忙を迎える。その間に一揉みしてもらいにいこうか。OMRONのマッサージ機に寄りかかりながら思ったいくつかのこと。

ごめんよ、身体

人を突き動かす情動は数多ある。怒り、喜び、愛。しかし、恐怖と痛みはどの感情も比肩し得ないレベルで人間を動かす。拷問がそうだ。恐怖と理性を天秤にかけさせる。痛みが迫る、死が迫る恐怖と、理性。究極の瞬間がそこにはある。

お腹痛くて会社を早退してから数日。僕は昨日も元気なふりして飲み会に行ってやはり腹を下すアホさを見せ、本日も同じ轍の上に乗っかろうとしているのだが、同僚のお姉さまからは非難轟々病院行け行けの大合唱を浴びせられ、果たして僕のお腹はそうまで大変なことになっているのだろうか…果たして…果たして…と諸々考えちゃってる。そう、恐怖が生まれている。

大丈夫、若いから、大丈夫と言い聞かせている自分と、もしかしたらやばいんじゃないなこれ?重い病なんじゃ?とチキン極まる自分。酒が、つまみが、万能薬であればいいのにと嘯きながら今日も戦場へ向かう。

素直に恐怖に従えばいい。だが、一番融通効くのが自分の身体だ。企画の発信が遅れて一番バカを見るのが下請けであるように、身体にはあらゆる無理がかかる。身体の優先順位を上げてやる必要があるのだろうけれど、それが若さなのか、パワープレイでゴリゴリやれちゃう。やっちゃう。

不毛な飲み会は減らすようにしている。こいつすげーなって奴と同席する飲み会か、人と人を繋ぐ飲み会か。この頃はどちらかである。役に立ってる、役に立ってるを言い訳に。ごめんよ身体。近いうち労わるよ。それまで頑張ってくれ、一緒に頑張ろう。

汗〜数ヶ月ぶり数回目の胃腸炎

汗が、汗こそが、全てを洗い流す力を持っている。僕は確信している。

何に当たったかわからない。わからないが、猛烈な腹痛と腹下しマンと化している。最近どうもパッとしないな、どうも喉や鼻がグズグズしているな、もやもやするな、そんな折に食べた鳥刺しか、ムール貝か。わからないが、完璧なインパクトとともに僕の体調は球場奥の池へと着弾した。Oh, San Francisco

多分熱あるなぁと体調を勘ぐりながら働くも、力を入れると流れ出る何かがありそうだったので早めに見切りをつけて会社とおさらば、一旦はしんどさにかまけて眠ったものの、うまく汗をかけずにいた。

体調が斜めになりすぎて昼飯を食べられなかったから胃袋には何も入っていない。代謝の問題なのでは、代謝だろう。久方ぶりの食、素うどんをかっ喰らったが最後、滝のような汗が出てきて猛烈に気持ちがいい。あ、これ治るな、熱引くなって予感に満ち溢れている。春の予感にあれだけの大作を描き残したボッティチェリの気持ちがサジ1杯分くらい理解できた。

 

どうでもいいんだけど、明日からモリモリな日々が待っているからさっさと治れや、さっさと一難過ぎ去れやと念じながらまた床に就く。正岡子規は寝ながら庭の様子を観て、たくさんの句を残した。僕が残せそうなのは布団の汗じみ、それだけだ。

士気をあげていきたい。

チャンピオンズリーグ決勝

中学生の頃よくサッカーを観ていた。WOWOWではリーガ、スカパーではチャンピオンズリーグ。朝早起きしては親父と並んで観た。

その始まりの頃。僕がサッカーに興味を持ち始めた頃、イスタンブールの奇跡が起こった。ミランに前半ボコボコにされながら、ジェラード、スミチェル、シャビ・アロンソ、そしてデュデク。リーグ戦では決して強くないリバプールの大逆転劇に親父とともに沸き、それからというものリバプールはなんとなく好きでいる。ウイイレやるときもよく使う。

時は経ち。

まるっきり選手層が入れ替わった13年後。実家を離れてサッカーを追うこともなくなった。今日たまたまトイレに起きたら寝られなくなって、そういえばと思いテレビをつけたらやっていたチャンピオンズリーグ決勝。

 

民報のサッカー中継を観るたび親父と話していたのが実況がうるさいということだった。WOWWOWはサッカー好きな人しか観ないしから実況も言葉少なだ。というかあまり実況する気がない。ほぼ観戦してる。

一方民報の実況は変にサービス精神が旺盛だ。なんだろうか、選手の名前を呼び過ぎているのだろうか。変に饒舌で、自分の言葉に酔っているのかなんなのか。お調子者のごとくペラペラと喋る彼らとはなかなか友達になれないかもしれないなって思う。久々にこの気持ちを味わった。

 

果たして、レアルが優勝した。

サッカーの知識はからっきしなんだけど、やっぱり今日でいえばベイルのん2点目みたいなゴールを観られるから楽しいし、マネの殊勲の一点も心が熱くなった。ワイナルドゥムのゴリゴリ前に上がっていく姿をダンプカーと重ね、カリウスとは飲みに行ってあげたい。

昔より表彰式が短くなった。これを観て、朝ごはんを食べる食卓が懐かしい。

さーて、働きまーす。

よく通った店のマスターに会ってきた

突然電話が鳴った。スマホを見てみると、しばらく行っていなかったインド料理屋のマスターの名前があった。一時期足しげく通ったのだが、引越しで錦糸町を離れたこともあり相当ご無沙汰してしまっていた。ひとたび足が離れると再び行くきっかけを掴むのが難しい。ずるずる行きにくさを引きずっていたところだったので、マスターからの電話は嬉しかった。

「最近どうしてんの。元気?来てくれないのさみしいじゃん。待ってんのに…え?引っ越したの。どこ?蒲田。え〜来にくくなるね〜。実はね、うちも移転したんだよね。今新小岩に店があるんだ。よかったら来てよ。ね、来てよ。」

マスターからの唐突な電話は、移転報告を兼ねてのものだった。どういうわけかは聞かなかったけど、どうあれ移転したと。で、久々においでよと。

何かの縁でもないけど、せっかく電話もらったのもあるし、電話があった翌々日に会いに行った。新小岩まで。

 

御年68歳のマスター。半年強会っていなかったけど、全く元気そのものだった。新しい店も前の店の印象を何処と無く残しているような内装で、いい雰囲気が出ていた。

通っていた頃から、僕はよく店の手伝いをしていた。インストアライブがあると言われれば、机を運び出し、楽器のセットをし。ホールスタッフが足りなければホールになり、客引きをして欲しいと言われれば客引きをした。それもマスターの人間性によるもの。彼は自分の懐に人を入れるのが驚異的にうまい。なんとなく可愛げある人懐っこい声で頼むよ〜〜って言われたらやってあげたくなる。

この度の訪問でもほとんど僕はスタッフだった。というか、コックさんが体調不良で休んじゃってて開店休業状態。晩酌のアテはセブンイレブンのお惣菜と、向かいの居酒屋から取ったおつまみだった。インドカレーとはなんだったか。そんな中でもお客さんはポツポツやって来る。常連らしいフィリピンパブのお姉さんにチーズナンをテイクアウトしたい言われれrば、たまには違うの食べなよ〜ってごまかしながらマスターと二人でサンドイッチを作って提供した。カレーばっかりは作れなくて諦めてもらった。

チーズナンが食べたくても特製の(物は言いよう)サンドイッチで満足してくれる人がお客にいるあたり、場所は変わっても流れてる空気感とかは変わらないもののようだ。マスターがマスターである限りは。

 

雰囲気とかお客さんとの空気感とかは変わらなかったけど、商売の風向きは変わっていた。セブンイレブンのつまみと、自分たちで作ったサンドイッチを食べながら、ポツリポツリと話した。

 

前の店は家賃が高くて出た。新しい店は家賃がだいぶ下がったけどお客さんが全然来ない。まだ焦るタイミングじゃないんだろうけど、大家さんとの折り合いが良くなかったりする中で思い通りの店づくりができなくて、それもお客さんがなかなか来ない原因の一つだと思っている。本当は近所の店に行って親交を深めたいし、そこでお客さんを作りたい。けど、今はその一万円が惜しい。

 

生々しい話だった。家賃、コックの給料に材料費。どれだけ純利益が残るのかわからない。

 

お前が電話出てくれて嬉しかったんだ。会いたかったのもあるし、一人でもお客さんを増やしたかった。今回はコックがいなくて本当に申し訳なかったけど、また来てほしい。歓待するから。

またくるよ、もちろん。

インドカレーもそうなんだけれど、結局はマスターに会いに行っている。場所がたまたま彼の店なだけ。カレーがないのも、自分で料理するのも問題じゃない。月一くらいで顔をだすって、約束もした。

 

藁をも掴む思いだったのかもしれない。マスターは少しずつ追い込まれて行っているようだった。彼の人生は僕がこれまで出会った誰よりも起伏が激しく、アメリカで餓死そうになったと思えばポルシェに乗り、ポルシェに乗ってた時期もあればデリヘルの運転手をしていた時期もあるという。懐の深さとか、底知れなさは多分そうした人生が形作っているもので、あらゆる起伏を乗り越えて70才になろうとしながらもまだ商売に苦しみ、それでも人と笑っている。素敵だし、残酷だ。

この何年間か、僕は普通にサラリーマンをしていて、当たり前のように今日も明日も来年も働いている気がしている。でもそうじゃない。どんな人生もあり得て、一ミリとか一寸とか、たったそれくらいの差でちょっと苦しくなったり楽しくなったりする。錦糸町の頃は良かった。今は苦しい。でも引き出しはまだまだあるからこのままじゃ終わらない。素直で人間っぽい彼からは多くを学ぶ。

 

とかく、こき使われがちなんだけれど店にとっては大切なお客様だと思うので、無理のない程度に顔を出していこうと思う。 

日大アメフト事件で抱いた感想ぜんぶ

我が家は日大閥の一族だ。父親が日大芸術、伯父は日大鶴ヶ丘高校から日大。母方の祖父・伯母も日大。見渡す限り広がる日大。環境がそんなだったから、幼少期に箱根を見てた時なんかは問答無用で日大を応援していた。外国人留学生が入ってきてから強いチームになって行った日大の様子をよく覚えている。

 

さておき。

今回えらい騒ぎになっているアメフトの一件についての私見。

 

大前提として部と部員の関係性について

学生スポーツにしろ会社にしろ親子にしろ、二者間の関係性においては「労使」や「主従」のようなそれが敷かれやすい。とかく、「経営>労働者」「主>従」「親>子」のように大なり小なりで関係を表したくなる(表しやすい)。

しかし、主人と奴隷の弁証法という考え方がある。

主人と奴隷の弁証法(しゅじんとどれいのべんしょうほう)とは - コトバンク

ヘーゲルが唱えたお話。

「主人が奴隷を使用している・奴隷は主人に使われている」といった構造でみると、主人と奴隷の関係性はイメージ通りのものだろう。ただ一方で、主人は奴隷がいなければ主人たれない。つまり、主人が奴隷に依存していると考えた時、真に自立しているのは奴隷の方である。労使、主従は一概に不等号で結べるような話ではないということだ。

たとえば、ある程度大きな企業や団体においては「組合」がある。経営や使用者が労働力を一方的に搾取しないよう、均衡を取るために存在する組織。主に賃金や労働時間を主とする労働待遇改善を求める。機能しているしていないは別として、組合のような団体が労働者の拠り所となっている側面は間違いなくある。一種の輔弼機関である。「実態はどうあれ、どっちが偉いとか強いとか、偏りの少ないようにやっていきましょうね。その上で利益を追求していきましょうね。」会社はそんな題目の元で動いている。

学生スポーツに置き換えてみても、部と部員の二律構造が見受けられる。

部がなければ部員たれず、部員なければ部たれない。持ちつ持たれつの関係を念頭に置くとすると、部を運営する側(監督やコーチ)は学生本位の頭でいなければならないし、学生側は部本位(部のために)の頭でいなければならない。お互いを慮ることで均衡が図られる。

今回の日大アメフト部の騒動で顕在化した問題は、部の運営側が部のことばっかりを考えている点にある。労使関係における使用者側の論理ばかりで話が進み、労働者の意見に全く耳を傾けていなかった。学生たちに組合はなく、使用者にものを言えない。また、賃金を与えられている訳でもない。自身の趣向、大学への帰属心が学生のモチベーションだ。スポーツをやりたくて大学に入り、スポーツが拠り所である学生たちは、驚くほど視野が狭くなる。スポーツ以外のなにも考えられなくなり、スポーツの調子が悪いと死の淵に立っているような気持ちにまでなる。

そんな学生たちの体力とやる気とを搾取し続けた結果が、これだ。

大学スポーツのコーチや監督にまでなっている人間は、学生時代にスタープレーヤーだった可能性が高い。もしかすると挫折を知らないまま大人になったのかもしれない。自分が当たり前にこなしてきた要求に答えられない学生たちに歯がゆさがあったりするかもしれない。でも、試合に出られず、結果が出ないで喘いでいる学生たちの心を手玉のように転がして自らの利益ばかりを追求するような人間は、たとえスタープレーヤーだったとしてもコーチとして、人間としては三流以下である。

学生スポーツの実態を詳しく感知していないが、おそらく似たような統治体制が敷かれている部活は多い。たまたま日大のアメフトが大地殻変動の末に顕在化したけど、まだまだ地中には似たような問題が埋まっている。これを契機に、他学の体育会学生から不満がボロボロ出てくる事態も考えられないくない(Me tooみたいな)から、部活のガバナンスを見直す大学も多いのではないだろうか。引きの目線で見ると、改善の第一歩になっている側面もあるように感じる。

 

謝罪について

そもそも、部と部員との関係性がグズグズだったことが一番の原因なのだが、その上で油を注ぎまくったのが対応である。世の中の誰もが日大の対応に不信感を抱いている。

「申し訳ない」から謝罪をする。じゃ、「申し訳ない」を伝えるために必要な情報は何かと言えば、

「誰」に「何」をして「どういった状態」にさせたことが「申し訳ない」

である。これらが決まって初めて先方や世間は納得するし、気持ちを納めた上で、「だからこのような対策を講じる」とか「このような処分とする」といった対応が可能となる。

タックルした学生の会見と、監督・コーチの会見を見て、謝罪のロジックがわかりやすかったのはタックルをした学生の会見だった。

関学のQBにプレー外でタックルをして怪我をさせてしまったことが申し訳ない。

大筋はこれである。付随する状況として経緯とかが絡まってくる。学生の会見においては付随する状況説明も生々しく説得力があり、大筋から異なる質問(自身にとってアメフトってどういう存在?これからのアメフト部はどうなったらいい?)に対しては答えないという、極めて懸命な判断をしていた。個人的にもすごく頭がいい人だなと感じたし、大変意義のある会見となっていた。

一方、監督・コーチの会見はどうだったか。端的に不信感が募った。

そもそも何に対しての謝罪すべきだったかといえば、

関学のQBにプレー外でタックルをして怪我をさせてしまったことが申し訳ない。

である。これは一貫して変わらないはずだ。タックルをした主体は学生であろうと、学生を管理監督しているのは指導者であり、部である。 だから謝罪の論点はずれるはずが無い。仮に指示していようと指示していなかろうと、指示までに積み重なった指導がある以上、責任は逃れられない。それくらいの常識はある程度の大人なら誰でも持っている。そのはずなのに、大きなフォーカスが当たったのは指示の有無である(刑事事件になるかもしれないって話が出ているからなのかもしれないけど)ため、謝罪をしたいのか釈明をしたいのかがわからなくなってしまった。

謝罪の軸がぶれた上、真実か嘘かもぶれいていた。

学生と監督・コーチ、互いの主張の乖離は甚だしい。部側は認識の違い的な落とし所を懸命に探っているのだろうけど、もはやそんなレベルではないだろう。潰せと言われて額面通りに受け取られちゃ困るんだよね〜って、それも管理監督不足。学生があまりに朴訥と話すから、監督・コーチが大いに事実をごまかしているように見えた側面もあるだろうが、どうあがいても自分に矢が刺さる状態である。

こうなってしまうと、最初の監督の辞任会見で話していた「何とは言わないけど全ての責任は私にありますので辞任します。言い訳しません。」ってスタンスはある意味正しかったかもなって思う。足りなかったのは神妙な面持ちと声色と、シックなネクタイと誠意。

 

そのほか諸々

指導の過ちか、認識の相違か、ボタンの掛け違いか、原因はさておき、結果として試合中プレー外で怪我人が出て、一人のアスリートが競技から退くこととなった。しかも加害側である日大はその日の試合に負けている。びっくりするほど誰も得をしていない現状である。

そのうちもっと大きな事件が起きて、世間からはすーっと忘れられていくのかもしれないけれど、少なくとも、関学の学生に 日大側の誠意が伝わる日がくるといいなと思う。

静観を続けます。

結局バック・トゥ・ザ・フューチャーを全部観た

あっけなかった。次、次、と勝手に物語が進んでいった。

1985年、1955年、2015年、1885年。四つの時代の違う時間軸をいったりきたりしながら、マクフライ君がタネン君をぶん殴った歴史が正史となっていく。タネン一家側からすると2015年のビフがスポーツ名鑑を1955年のビフに手渡した偽りの1985年こそ栄華を極めた歴史軸なのだけれど、マクフライ一家ないしは劇中の世界、視聴者心理を含めた公共の福祉的観点からすると、1885年でクリントイーストウッドことマーティがマッド・ドッグ・タネンをぶん殴り、1955年にジョージがビフ・タネンをぶん殴り、1985年でビフがマクフライ家の車を磨いている歴史こそ気持ちのいい歴史だった。(よく考えたら歴史改変前の1985年と正史となる1985年だけが誰一人欠損していない。ジョージとロレインは結婚してるし、ジョージはビフに殺されてないし、ドクもマッドドッグタネンに殺されていない。)

最高の1985年に降り立ち、デロリアンが列車に轢かれたことで他の歴史はいよいと消えたのかと思いきや、ドクがクララ以下ジュールとヴェルヌを連れてホバー付Time Machine蒸気機関車でやってくる。ただ、ドクも歴史改変をこれ以上する気はないようで、「未来は白紙だ」と散々未来を見てきたにしては白々しいほどのキメ台詞を吐いてどこかの時代へ旅立っていく。ドクずるい。

未来を見て、過去を見て、歴史を変えたからこそわかる、「未来は白紙だ」と「未来は自分でつくるもの」。二人はバック・トゥ・ザ・フューチャーとバック・トゥ・ザ・パストを繰り返したけど、ドクもマーティも未来の今と過去の今を必死で生きたからこそ正しい1985年にたどり着けたとの確信があるのだろう。時間と速度に追われ、ドキドキハラハラ覚めやらぬ興奮の中で、「未来は自分でつくるもの」と言われてしまったらそんな気しかしなくなる。

緊張させて緩和させて、最後に教訓を残して終わる。清々しさとなんかやれそうな気持ちを視聴者に残す。素晴らしいエンターテイメント。

ぼんやりとした感想は以上です。

Back To The Futureを多分15年ぶりくらいにちゃんと観た

何を隠そう、めっちゃ面白かった。

初めての鑑賞ではない。はるか幼い頃、WOWOWか何かで「三部作一挙放送!」的な特集組みをされているBTTFを観た。テレビの前ベタ付きで三作とも観てたんだけど、きちっと覚えているのシーンはほとんどなかった。1だとダンスパーティでマーティがドギツイギターを弾いて会場ドン引きの場面だったり、3だとビフの先祖か誰かに銃を乱射されて、ドクとマーティがタップダンスみたいなステップで避けまくるシーンだったり、ほとんど本筋と関係のない場面ばかり覚えていて、じゃあ何を持って名作とされているのかの把握がほぼできていない状態だった。

数ヶ月ぶりの連休ということで、昨日も昨日とて夜深くまで飲み、外泊し、朝早くに自宅に帰還。諸々片付けをして小ざっぱりした部屋でパソコンをいじっているとアマゾンプライムにBTTFが出てきたものだからすぐに見始めた次第だったのだが、やはり何を隠そう、めっちゃ面白かった。

結局は歴史改変の物語だ。

うだつの上がらない父親のジョージと生活習慣病に罹患しまくってそうな母ロレイン。二人の出会いに息子マーティが絡むことで、戻ってきた未来の二人の姿は全く違うものとなる。でも本筋はそこではなく、ドクとマーティの友情だったり、ジョージとロレインの接点をマーティがどう取り持っていくか。そこには必ずタイムリミットが存在する。未来に戻る(バック・トゥ・ザ・フューチャー)のには11月12日午後10時4分の時計台への落雷がリミットだし、ジョージとロレインの縁結びは過去改変によってマーティの存在が消えるまでがタイムリミット。きっと間に合う、きっと間に合うと思いながらもハラハラして、案の定うまくいったときのカタルシス。緊張と緩和。病みつきになる。

リビア人とプルトニウム、マーティの手紙と防弾チョッキ、ビフ一味、仔犬アインシュタイン(長生きが過ぎるから同犬種の別犬かもしれない)、チャックベリー、時計台広場。伏線が張りやすい題材なのだろうけど、視聴者にわかりやすく伏線を提示してわかりやすく回収していくストーリーは本当に無駄がなくて美しいものだと思う。大好きで何度も観てこその良さももちろん、水たまりくらいの見識しかない人間が見てもわかるんだから優しいことこの上ない。娯楽大作の名に曇りなし。

 

寝不足もあるからさっさと寝るけど、2までは今夜中に観たいなぁ。