新幹線での死傷事件と、目黒の幼児虐待事件。どちらもいたたまれず、憤りも遣る瀬無さも覚える。
二つの事件を眺めて、言葉にすることや説明がつくことの強さを改めて感じている。
赤ちゃんは泣いて笑って感情を表す。あれは言葉がまだ拙いからで、もし赤ちゃんが雄弁であれば泣く必要もない。「オムツを交換してください。」「いないいないばあの顔が面白いです。」説明がつけば言葉にしてしまうだろう。
大人になっても僕らは如何ともし難い感情に襲われることがある。言いようもなく辛い。言いようもなく悲しい。そんな時、たまに壊れたりしながら僕らは問題と向き合っていく。過食とかカラオケとかスポーツとか、ある時は自傷行為とか、代表的な代償行為で目先を変えたり、ごまかしたり。もし、「言いようもない」ことがなければ、僕たちは壊れることもない。
「言葉にできる」「説明がつく」これは何に起因するかといえば、言葉の数だし、触れた思想の数だ。たくさんの伝記に触れ、考え方を感じ、自分の悩みや辛さがごく個人できなものではなく、誰かが抱き、何度も繰り返されて来た類のものだと知る。何が辛いのか、何故悲しいのか、自分の言葉で考えて、一生懸命噛み砕く。それを語るか、文章にするか、はたまた胸の内にしまっておくか。どうあれ一度噛み砕き、飼い慣らした感情は、自分の肥やしになっていく。
幼児虐待事件の手記は、被害にあった女児が懸命に自分の境遇と向き合っている姿だった。理不尽な暴力に言いようのない辛さが募ったことだろうと思う。想像を絶する。でも、彼女は書いた。言葉に長けていたのだろう。5歳児とは思えないほど自分の感情を吐露できていて、あの手記があったから世の中に虐待の凄惨さが世に伝わっている。命を賭して書くようなものじゃない。感情が噛み砕けても、暴力には勝てなかった。やるせない。
教育に明るいわけではないのだが、人文的な教育が軽んじられる傾向にある反面、道徳を必修化する動きがあるというのはどこかで聞いた。
一定水準以上の教養がある人間においては、人文・哲学は当たり前のように身につけている知識で、今更最高学府まで行って研究する必要があるのかって思うのかもしれない。でも、国民の九割五分が普通の人間である。当たり前のようにヘーゲルを読んできた人間なんて殆どいない。そういう普通の人間たちが感情と向き合う術として、人文や哲学、思想は必要だ。自分を映す鏡として、時にはイライラのサンドバッグとして、言葉は助けてくれる。
言葉の数と思想の豊かさがあれば防げた事件や守れた命がたくさんあるはずだと、この二つの事件を見て確信している。何も僕らはテクノロジーで生きていくわけじゃない。テクノロジーもお金も、圧倒的に生活を便利にしてくれるけれど、それは1を1000とか10000とかにする作業であって、1を2にするような、もっと人間に近い部分で、言葉と思想、説明ができる力に支えられている。
果実ばかりを追うんじゃなくて根を生やすことの大切さをもう一度見直さなければなと、身をつまされる思いをしているという文章でした。