徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

三島由紀夫はやっぱりどうかしている。

図書館が徒歩2分の場所にあるので最近になってよく行っている。あらゆる生活をダメにして篭りっきりになっても簡単には読みきれないほどの書物が並ぶ。図書館にしろ本屋にしろ、読みきれない量の活字にぶん殴られる感覚が好きで、本を手にとってはあっちでパラパラこっちでパラパラ、結局勝手知ったる作家の本を借りて帰る。

三島由紀夫は前に潮騒を読んでいて、なんと綺麗な文章を書くかなぁと感動した。で、試しに仮面の告白に手を伸ばした。三島由紀夫のデビュー作のようである。

やはり、どうしたってこの人はどうかしている。日本語が上手い。男色家の見えている世界があまりに精緻に描かれすぎて、なるほど男の体は画して魅力的なのかと納得させられてしまう。情景描写の明瞭さに比べて、心情の複雑さも飛び抜けている。一つの気持ちを表すのにどれだけの言葉を尽くしているのか知れない。恥ずかしがり屋なのだろうか、そこまで複雑怪奇な表現をしなくてもいいのにって思うほどに入り組んでいる。でも、読みにくいわけではなく、ふんふん読み進めていける。わからないけど読みやすい。

倒錯とか、劣情とか、そんな類の言葉がにょきにょき茂っている言葉の森。ワールドカップの観戦に疲れたので、またちょっと潜ってくる。

W杯です

せっせせっせと観ている。

1998年のフランス大会が確かに覚えている一番古いW杯だ。まだ建ったばかりの実家。僕は幼稚園に通っていた。両親ともにスポーツ観戦が好きで、日本が初めて出場したW杯を熱心に観ていた。僕の記憶にあるのは日本代表の姿ではなく、決勝戦だ。フランスとブラジル。青と黄色の対決。一階で両親が観戦しているのを、僕はベットの中で気が付いた。サッカーだ。決勝戦だった。思い出して階下に降りた時にはジダンのヘッドが決まっていた。勝負はもう決まっていた。ブラジルこそ最強のチームで、負けることはないと頭のどこかで考えていた少年に、フランスの勝利というのは衝撃的なものだった。2年後、そのフランスがユーロ2000でも勝ち、最強だと思った束の間2002日韓のW杯でグループリーグ敗退を喫し、盛者必衰の理を学んだのは記憶に新しい。

それから20年。

早起きをするほどの気力はないものの、サッカーを観ている。一緒に観る人いたらいいなと思いながら、好き勝手独り言呟いて観るサッカーも悪くはないと感じている。傍にiMac、傍にAQUOS。誰得なのかデュアルモニターである。目は二つしかないというのに、観ながらパタパタ文章を書いている。

気づけば各チーム、同世代が主力を務めている。サラーにポグバ。20年前に観ていたイエロは代表監督になり、ジダンもレアルを率いた。なんだろうか。サッカーを観ている時ほど時の流れを感じることはない。あと5回、多分こんな感じでW杯を観た時、僕は果たしてどこで何をしているのか。その頃多分ハリケーンあたりは監督になって、ムバッペはチームの精神的支柱とか言って召集されるされないで物議を醸している。

幼稚園で観たあの日が確実に今に繋がっているし、今は確実に2038年のW杯に繋がっている。サッカーだけは変わらずそこにある。

ほんと、一人の観戦は余計なことを考えるからよくない。W杯のたびに成長して、老いて、出会って、別れる。ほんとよくない。

ディマリアが寂しそうなのでもっとボールあげてください。

僕の知ってる野田洋次郎と

HINOMARUが話題になっている。

 

軍国の精神を感じると言われればそんな気がするし、軍国以上にこれだけ話題に上がるあたり、いやはやRADも売れたなぁと感慨の方が大きかったりもする。

野田洋次郎の語彙力がどうだ、野田洋次郎の思想がどうだ、野田洋次郎のような人間を生んだ教育がどうだ、大小様々な意見が出てきているようである。教育まで飛び火しちゃったらどうしようもない。戦後教育が戦中日本のイカれっぷりを教えなかったのが悪いと言われたらそれまでだし、その通りですおっしゃる通りですとしか言えない。無知にさせられたのは教育が悪いと我々世代が開き直ったところで学べと言われるのが関の山だ。八方塞がり。

そもそもである。

野田洋次郎、ないしRADWIMPSは結構特殊な売れ方をしている。

僕の知っているRADWIMPSは2006年あたりの彼らだ。僕がちょうど中学生、高校生のあたり。BUMP OF CHICKENの亜種として出てきたバンドの中では圧倒的人気を博していた。これがおそらく、彼らの第一次ブーム。その後、なんかパッとしない時期が続いたのだが、転機が訪れる。誰もが知る、「君の名は」であり、前前前世である。これが大ヒット、インディーズで一度ブームを起こしたバンドが国民的知名度を誇るに至った。

野田洋次郎は終始RADWIMPSのエンジンとして作詞作曲をし続けているのだが、第一次ブームの頃、つまりRADWIMPSが最初に認知された頃の作風といえば、もう君と書いて恋と呼んで僕と書いて愛と読む以外のことはない。男性版aiko。恋と愛に塗れた、僕と君、私とあなた、二者間の諸々についてを書き殴っていた。愛があれば、恋をすれば、染色体なんて簡単に2つくらい増えるし、星間飛行もしちゃう。結構不安にさせられる思想の持ち主である。

一つの側面としてだけど、得意技じゃない部分で今回の騒動が巻き起こってる感じがある。オムライス職人がカレーライスの味にケチをつけられているような、そんな感じ。正直、恋愛のような二者間かつ答えのない物事をどれだけ歌ったところで大きな批判は生まない。正しい歴史感があるわけじゃないからだ。元恋人を殺めてかっ裂いて膓取り出してそれで縄跳びしたいたか言い出しても、ヤバイやつだとは思うけど今回ほど問題は膨らまないだろう。

いかんせん愛国の件は、立ち向かう主語が大きい。そしてRADWIMPSも大きな主語となった。結果としての騒動だ。「閉じた光」の頃とは大きく変わってしまったことを、彼らも我々も知らなきゃならない。


サラー厳しそう…

才能じゃない。これは努力だ。

仕事関係でしたためた曲がある程度形になり、周りの人たちにも徐々に曲を作れる人間であるという認知をされつつある今日この頃。クリエイティブな業界でないことも手伝い、周囲に作曲ができるとかライブハウスで歌ってるとかいう人はとても少ない。

そうした環境下。曲作れます〜曲作りました〜というと大抵皆から才能あるんだねーというリアクションをされる。嬉しいようなこそばゆいようなもぞもぞする感覚を覚える反面、僕のこれは才能なのかどうなのかと少しヒネてしまうところもある。

多分だけど、僕のレベルの作曲は才能じゃない。概ね努力である。自分では想像つかない行為や制作に対しての当たり障りがない感想が「才能あるんだねー」なだけだ。確かに、好きで作曲を続けたのはほんの少しの才能かもしれない。音楽を続ける過程で、ピアノを学び、ギターを齧り、パソコンに吹き込むことを覚えた。日頃の鬱憤を音楽で解消することも。でもそれは退屈しのぎで始めた鉛筆回しが人より少し上手くなるようなレベルの話。ただ音楽を使って気持ちをスッキリさせるのが好きで、続けて行くうちにちょっとずつ上手くなっただけだ。

昨日作曲を始めていきなり亀田誠治くらい出来ちゃったらそれは天才に違いない。でもそんな奴はいない。亀田誠治や小林武史が天才だと思うのは、今結実している彼らを見ているからなだけで、あのレベルに達するまで血の滲むような試行錯誤があったはずである。誰よりも音楽が好きで、誰よりも貪欲に音と向き合い、沢山の曲を聴いて、自分で消化した果ての、今の彼らである。どうやったって努力を抜いては語れない。

音感やリズム感、多少の誤差はあるだろう。それも含めて趣向となり、趣向を続けられるのが才能であるというなら間違いない。でも、とかくそういう意味では使われないのが、「才能」。

人のふり見て我がふり直せじゃないけど、自分の計り知れないものに出会ったときに才能で片付けるのはやめようと思う。

努力の結晶は才能に似ているのだ。

言葉にできる強さとできない弱さ

新幹線での死傷事件と、目黒の幼児虐待事件。どちらもいたたまれず、憤りも遣る瀬無さも覚える。

二つの事件を眺めて、言葉にすることや説明がつくことの強さを改めて感じている。

赤ちゃんは泣いて笑って感情を表す。あれは言葉がまだ拙いからで、もし赤ちゃんが雄弁であれば泣く必要もない。「オムツを交換してください。」「いないいないばあの顔が面白いです。」説明がつけば言葉にしてしまうだろう。

大人になっても僕らは如何ともし難い感情に襲われることがある。言いようもなく辛い。言いようもなく悲しい。そんな時、たまに壊れたりしながら僕らは問題と向き合っていく。過食とかカラオケとかスポーツとか、ある時は自傷行為とか、代表的な代償行為で目先を変えたり、ごまかしたり。もし、「言いようもない」ことがなければ、僕たちは壊れることもない。

「言葉にできる」「説明がつく」これは何に起因するかといえば、言葉の数だし、触れた思想の数だ。たくさんの伝記に触れ、考え方を感じ、自分の悩みや辛さがごく個人できなものではなく、誰かが抱き、何度も繰り返されて来た類のものだと知る。何が辛いのか、何故悲しいのか、自分の言葉で考えて、一生懸命噛み砕く。それを語るか、文章にするか、はたまた胸の内にしまっておくか。どうあれ一度噛み砕き、飼い慣らした感情は、自分の肥やしになっていく。

幼児虐待事件の手記は、被害にあった女児が懸命に自分の境遇と向き合っている姿だった。理不尽な暴力に言いようのない辛さが募ったことだろうと思う。想像を絶する。でも、彼女は書いた。言葉に長けていたのだろう。5歳児とは思えないほど自分の感情を吐露できていて、あの手記があったから世の中に虐待の凄惨さが世に伝わっている。命を賭して書くようなものじゃない。感情が噛み砕けても、暴力には勝てなかった。やるせない。

教育に明るいわけではないのだが、人文的な教育が軽んじられる傾向にある反面、道徳を必修化する動きがあるというのはどこかで聞いた。

一定水準以上の教養がある人間においては、人文・哲学は当たり前のように身につけている知識で、今更最高学府まで行って研究する必要があるのかって思うのかもしれない。でも、国民の九割五分が普通の人間である。当たり前のようにヘーゲルを読んできた人間なんて殆どいない。そういう普通の人間たちが感情と向き合う術として、人文や哲学、思想は必要だ。自分を映す鏡として、時にはイライラのサンドバッグとして、言葉は助けてくれる。

言葉の数と思想の豊かさがあれば防げた事件や守れた命がたくさんあるはずだと、この二つの事件を見て確信している。何も僕らはテクノロジーで生きていくわけじゃない。テクノロジーもお金も、圧倒的に生活を便利にしてくれるけれど、それは1を1000とか10000とかにする作業であって、1を2にするような、もっと人間に近い部分で、言葉と思想、説明ができる力に支えられている。

 

果実ばかりを追うんじゃなくて根を生やすことの大切さをもう一度見直さなければなと、身をつまされる思いをしているという文章でした。

どうせ金払ってんだから楽しくやりたい

金払ってやってんだから物言う権利あるだろ!って、文句の典型だ。「金払ってやってんだから」を盾に、横暴な主張を通そうとする輩ども。成敗してやる。

でもまぁ気持ちはわからないでもない。お金払って、正当な対価を得られなかったと感じたら、「金払ってんのに」と思う。それはいたって正常な感情だろう。声を大にして言うか、心の奥に一旦しまって後日吐き出すのか違いはあれど、誰もが感じる。言わなきゃわからないし、言ったら角が立つ。難しいものだ。

考え方を少し変えてみる。「金払ってやってんだから」の論理は、「金払ってる」ことにより顧客が主導権を握っていると言い換えられる。サービス業なんかは顧客のリズムに合わせて会話をする。まさに、顧客が主導権を握っている。

何が言いたいか。顧客が主導権を握っている以上、その場の雰囲気ないしは幸せの総量を決めるのは顧客に委ねられている、ということだ。


僕はタクシーに乗ると、大抵ドライバーさんと話す。美容室もそう。たまに行くマッサージとかもそう。そんなもんだと思ってたけど、多数派ではないらしい。最近知った。

ドライバーさんや美容師さんとコミュニケーションを取ろうとする裏には、どうせ金払ってんだからお互い楽しく時間を過ごしたい気待ちがある。相手が全く乗ってこなかったら別だけど、サービス業に従事する方々は大抵会話を好む。心のどこかでは喋りたいと思っている。僕も喋るのが好きだ。だったらなおさら、喋った方がいい。その日1日が終わったときに、あのお客さんを乗っけてよかったって感じてくれたらいい。


どうせ金払ってんだからそれくらいはしたい。

アルトバイエルン

夏といえばビール、ビールといえばソーセージ、ソーセージといえばアルトバイエルン。




言わずと知れた伊藤ハムの大ヒットソーセージ。ソーセージのメッカであるバイエルンに、「伝統的な」という意を表すアルトをつけて、アルトバイエルン。伝統的でスペシャルなバイエルンソーセージである旨を僕らに伝えている。素晴らしい。

なーんてことはアルトバイエルンを見た瞬間に理解できるはずもなく、スーパーの肉コーナーにアルトバイエルンを認めてからというもの、ソプラノバイエルンってあるのだろうか…テナーバイエルンは渋い肉汁を湛えてそうだな…バスバイエルン強そう…って考えが頭をぐるぐる回っている。


いつだって、主役はアルトだ。

サックスを吹きたい。ジャズバーでソロを取るサックス奏者に憧れて手にするサックスは大体アルトだし、昔々はアルトころにだ。これについては野田洋次郎が10年前に考えてた。リコーダーだって、そう。ソプラノリコーダーだと音色が華奢すぎる。アルトリコーダーの、高音をカバーしながら響く豊かな音色はソプラノのそれにはない。テナーリコーダーがあるのかなんて知らない。

というかソプラノとかアルトとかテナーってただの音の高さかと思ってたら、アルトには「伝統的な」なんて意味があるとか聞いてないしズルい。他の奴らが呑気にピヨピヨ音階の上で踊っているのを横目に、1人「伝統的な」を標榜するその賢さ。少年探偵団に属するコナンくんの如し。見た目は音階、中身は伝統的な。その名も、アルト!


でも僕がよく買うのはお徳用ウインナー。

アルトにはなれず。

たまに狂いたくなる

狂うというのはなかなかキワドイ表現らしい。気が違うとかもそう。一つの差別的用語として認定されて久しいようだ。

でも、時を忘れて何かに熱中したり、我を忘れて感情に身を任せたり、あのトランス状態をどう表すかというとやはり狂っているとするのが一番しっくり来る。よく考えてみればケモノの王で狂。恐ろしいほど。そんな様である。

大人になるにつれて、狂ったようにことを為しにくくなってきている。幾つになっても上手くトランス出来る人もいるのかもしれないが、少なくとも僕は年々難しくなっている。気にすることが多いからだろう。

一人暮らしなんてトランスのユートピアかと思えば、そうでもない。洗濯に掃除、お腹が空けばご飯。何も気にせずにいる時間が実は少ない。瑣末な面倒ごとに蓋をできてしまえばいいのだろうが、幸か不幸か真面目らしい。全部人並みにやる。すると時間がなくなる。時間を、我を、忘れられなくなる。狂えなくなる。

ましてこれが2人で3人で住みだすともっと狂えなくなるのだろう。狂気に取り憑かれた人間と同居なんて誰もしたくない。それなりにお互いがうまい距離感でやっていくためには、狂気なんて最強の邪魔者だ。


狂気を遠く離れた日々のための反動なのか、どこか狂いたくなっている。酒の力を借りてもいいが、シラフの方がより深くより確かにクレイジーの渦に身を委ねられるから好きだ。

感情の海に溺れ、没頭のクレパスに堕ちたい。

殊に、今の話でありました。

枕木 昼下がりの線路

ひさびさにレミオロメンを聴いている。

僕にとってのレミオロメンはetherであり、ether以外の何でもありえない。

ether[エーテル]

ether[エーテル]

一歳にもならない時分に北見市屯田東町の公園にて奇跡の邂逅を果たしてからの付き合いであるゆうちゃんが、出会いから14年後くらい後、レミオロメンのetherが良いと熱弁をふるったのを聞いて、なるほど粉雪の人たち!とetherを借りてからというもの、etherは僕の人生の所々に顔を出している。

もっと暇でもっと時間があるときにでもetherについて書きたい。今は時間がない。

etherを一周したのち、レミオロメンをシャッフルする。iPhoneにはetherとレミオベストが入っている。次に流れてきたのがスタンドバイミーだった。

最早その音像はさっきまでのetherとは全く違うものだ。ether時点ではもさもさで若干ミュートがかかったような音だったのに、スタンドバイミーのイントロなんかは完全に売れっ子バンドのそれである。小林武史のおかげでもあり、小林武史の所為でもある。

これ、レミオじゃないなー。ここまで洗練されたらetherの頃のレミオではないよなー。etherからホライゾンまで一年しか経ってないのに、プロデュースってすげーなー。でも明日に架かる橋なんかに比べたらまだまだレミオロメンしてるんだよなー。

ぼんやり考えながらイントロが終わって藤巻亮太が顔を出す。

枕木 昼下がりの線路 ひとりじめ

もう、レミオでしかなくなる。あれだけレミオも変わったなー。って思わせたのに、藤巻亮太が一言歌っただけでそれはレミオロメンになる。そんなレミオロメンが好きです。

探さなくても南風が熱波を運んでくる東京にて。

キャバクラへ行った

行ってきました。

取引先と飲みすがら、男同士の汗と涙に塗れたむさ苦しいお話に嫌気がさしたおじちゃんたちが女の子と話したくなっちゃって、僕も素直にそれも従った。半年くらい前、引っ越し祝いで同期とおっパブに行って以来、人生3回目の水商売訪問である。ちなみに1度目は4歳の時に親父とその友人と3人で行った北見のキャバクラ、アーバンギャルである。全然アーバンじゃないところでアーバンギャルが存在し得るのか、甚だ疑問だ。

さて、キャバクラだが、あれは一定レベル以上のコミュニケーション力を持っている人間こそが行くべきであり、人疲れする人間は行っちゃいけない。冬のオホーツクに放り出したらすぐ凍りつくであろう薄着のお姉ちゃんとお酒を飲みながら楽しく話す。お姉ちゃんも仕事だからお客さんが気持ちよく話せるところを探す。それが嫌な人は行っちゃいけない。

僕はといえばこの四半世紀に毛が生えた人生で、申し訳程度のコミュ力とそれを補って有り余るサービス精神を培ってきた。

お姉ちゃんを笑わせたい。

お姉ちゃんと楽しく話をしたい。

どうせ話すなら楽しく…楽しく…。

この思いが僕を突き動かした。どこまでマジか知らないお姉ちゃんの素性、半生を聞き、共感した。

面白いんだかわからないような自分語りを話すのがキャバクラの真骨頂らしい。俺、凄いだろう。きゃー、すごい。俺、面白いだろう。きゃー、面白い。体型の決まりきったやりとりから一歩先んじ、お姉ちゃんの身を憂い、悩みを引き出し、お姉ちゃん本位でのお話をしたキャバクラ24時。これ全然お金払ってる意味ないんじゃ?って途中で気づくもすでに時遅く、一度もお姉ちゃんを替えることもなく僕のキャバクラは終了した。お姉ちゃんとは普通に仲良くなって連絡先を交換した。また来てって言われるけど、いやいやお金払って人生相談しにはいかねーよな。いかねーな。と思う半分、薄着のねーちゃんのビジュアル的破壊力も相当なもので、揺らいだり揺らがなかったり。

結論、もっと横柄な人間が行くべきところでした。