徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

だから、同期とは。

今の今まで、同期と飲んでいた。

同期同期とはいえ、至極仲のいい同期が何人かいて、そいつらとは諸々を超越して飲み明かしては後悔するような日々を続けていたのだが、今回は久しく結構な数の同期が集まりあっての会だった。

最初の最初からおらが城で商売をするでもなく、世に言う企業に勤める経験を持ち、同期を持つということは本当に意味のあることなのだと思う。大企業に横並びで入社し、同じようなことをやらされながら次第に分化していく。あいつはあんなことをやっている。こいつはこんなことをやっている。俺はこれをやっている。男性的な比較かもしれない。幼くて情けない比較かもしれないけど、他山の石ではない生きた石がそこにはあって、石の形や輝きに悔しさと安心を覚えながら自分の商売をやっていく。

諦めでもなく憧れでもない存在が同期であり、考え方ひとつでどんな人生でもあり得ると思わせてくれるのが同期だ。みんなと一緒に商売をやれてよかったと思う。平たく。


企業に属する人としてどう生きるか、人としてどう生きるかの勝負だ。いや、勝負ですらないかもしれない。比較すらも出来ない人生を並べているだけかもしれない。それでも僕らは横並びで、勤める限りは比較をされていく。それでいい。なんだっていい。勝つ気で戦うし、別に戦う気もない。負けない気で働くし、負けるかもしれない。そんな諸々を乗り越えて、人として認め合えたらいいし、人として認め合うことこそが一番尊いと思う。

こんな思いにさせてくれる同期で良かった。

ほんと、それだけです。

足首と乳首

右の足首を捻って数日。当初の腫れ方や痛み方からすると相当重度のダメージかと思われたが、大変に腫れの引きは良い。Hey,Jude.Don't let me down.一向に無理はできない様相ではあるものの、快方への方角は見定められた。あと二週間もすれば完治するのではないか。光明は見えてきている。とはいえ、現状はケガ人である。足首がヤラレて、地面の凸凹をえらく敏感に感じるようになった。これまでどれだけの凹凸を足首のクッションで乗り越えてきたのか知れない。ちょっとした坂道も、ちょっと隆起しただけの地形も、いまは全部を必死で超えていかなければならない。

やっぱり、なんだって首は大切なのだ。

職を失い食い扶持がなくなることをクビという。首が飛んだら死んでしまう。手首が動かなくなったらスマホを持つのにえらい難儀するだろう。百人一首からは、句を首と数えることで俳句がどれだけ大切な存在だったかを説かれている気がする。

手首足首、首。

しかし乳首、お前はなんだ。

大切じゃないとは言わない。乳首の存在意義だって、そりゃでかい。乳首があるから幼子は母とのコミュニケーションを育む。さらにおっぱいを俯瞰して見たとき、乳首の存在は絶妙なポジショニングで造形を整えている。やっぱり乳首の存在でおっぱいが締まる感じがする。ドログバが入ってチームが活性化するコートジボワール代表みたいな話。

でも、別に乳首に首をつける必要はなかったんじゃなかろうか。首ってほどの唯一無二を乳首は有しているのか。もっとなんだろう、乳印とか、乳点とか、そんな感じでよかったんじゃないか。

 

英語は固有に名詞を授けている。

Neck,Wrist,Ankle,Nipple

多分、ここに首の概念は存在しない。アメリカ人はそれぞれの部位をそれぞれのとして把握している。

一方、漢字からも分かるように、日本語はグルーピングが発達しているように思う。

人体にまつわる漢字には「月」をつけましょう!これを「にくづき」って部首にしましょう!木に関係するものには「木」を、水に関係するものには「さんずい」を!ところで人体の中でも首って大事だよね!首飛んだら死んじゃうもんね!じゃあ足と手の重要な部分に「足首」、「手首」と名付けましょう!乳のここは、乳首です!

やっぱ乳首だけ浮いてる。絶対浮いてる。ここが首である必要性があるだろうか。あるだろうか。いやない。よほど乳首をどうこうされるのが好きな人が乳首を乳首と名付けたに違いない。私利と私欲が見え隠れする。

 

しかしまぁ、乳首が乳首であるから、久本雅美はチクビームを発射できるのだ。平和な世界ではないか。よしとしよう。

【悲しみを書き留める】カラオケにて踊り狂い足を捻挫する

バカと言われればバカだし阿呆と言われれば阿呆である。本件について被害者兼加害者である僕本人に対する罵詈と雑言の類は甘んじて受け入れるし、なんなら貶して欲しいくらいである。じゃなきゃやりきれない。辛すぎる。

要旨を掻い摘めばひどく簡単なお話で、深夜のカラオケで踊り狂い跳ねたところ着地がおざなりになり、足をグネッて全く使い物にならない状態だと、たったそれだけの話だ。しかし、それだけの話がどうしても辛くて、それだけの話で僕が働けるかどうか怪しくなってくる。

 

捻挫には縁深い。高校三年生、ハードルを跳び越えた際の全治二ヶ月大捻挫が記憶に新しいところだが、よく考えてみたら体育でとか休み時間のバスケでとか、ちょこちょこ捻挫している。捻挫と懇ろである。

捻挫、すなわち靭帯の損傷。骨と骨をつないでいる靭帯に傷がついて関節がグラグラしたり、勢いよくリンパ液が出てきてぶくぶくに腫れたり、内出血したりする。酷いのになると、骨まで召されている場合もある。靭帯切れちゃったりしたらグラグラじゃ済まない。

済まないが、済んでしまったものは仕方ない。甘んじて痛みと向き合うより他ない。

 

全ての原因となったカラオケ。踊り狂うってなんなのそれって思うかもしれないが、僕はカラオケで恥も外聞も捨てて踊り狂うのがとっても好きだ。特に酔っ払っているとそういう楽しみ方が主になるし、酔っていなくてもガンガン踊る。跳ねる。

このルーツは何を隠そう教育番組「えいごであそぼ」であるし、「みんなのうた」だったり「ポンキッキーズ」。幼児の脳みそを揺らしにかかる中毒性の高い音楽でトランスしていた当時のメンタリティを今も尚高純度で秘めている。じゃあライブに行くのか、フェスに行くのかと言われればそうではない。フェスは行ったことないから全然わからないんだけど、ライブに関しては本物のアーティストが目の前にいるため、どうも畏まった気持ちになってしまう。聞かねば。見届けねば。しかし、カラオケだったらどんない歌が上手くとも素人だし、なんなら歌唱力に関してはどいつもこいつも団栗の背比べである。恥と外聞捨てるにはもってこい。タンバリン叩きながら乱舞、跳ぶ、跳ねる。リズムに合わせて体を動かし、頭をふる楽しさったらない。

この度もいつも通り酒を飲み終電を余裕で見送りカラオケに入り、見事キマった。泥酔二歩手前くらいの程よい酔いの中、なんの曲だったかわからないが派手に跳んで、派手に着地を失敗した。右の足首が内側に入った状態での着地。瞬時に腫れを感じた。酔っ払った頭で海南戦でのゴリを思い出していた。

 

シラフだったらどうだったろう。すぐアイシングしていたはずだ。何しろ捻挫と懇ろにしていた身である。理想的な初期対応をよく知っている。

しかし場所はカラオケ。状況は酩酊。次の曲がかかったらどうするかといえば、踊るしかない。アルコールで痛みが誤魔化されているのをいいことにEver lastieng dance。Do dance.Do dance.

何時に捻ったか知らないが、結局始発まで踊り狂って、足を引きずりながら家に帰り、一瞬寝て仕事に行こうとした際には右足は我が物ではなくなっていた。まだ酒が残った頭と、遅刻ギリギリの時間。酒焼けと歌いすぎでぶっ潰れた喉は叫び続けた長州力さながらで、動かない足を引きずる。あの瞬間、23区内で自業自得を最も体現した男だったろう。

 

結果から言うと、大した捻挫ではなかった。初期対応がワーストに近いそれだったため、必要以上に腫れただけだった。だが、怪我は怪我だ。怪我をしてみると健康がとにかく恋しくなる。しかも声が出ない。「痛い」の声も、全然響かない。職業柄、足と声が封じられるというのは飛車と角が落ちたような状態である。だが封じられたわけではない。自ら失った。ただそれだけだ。

しばらくはこの業と向かい合って行く。けどすぐ忘れる。

だからこそ人間は美しい。

って美化していないとやってけないわ。辛いわ。

クリエイティブという罠

狂ったようにピアノを弾いている。練習が嫌いで嫌いで、ピアノの先生宅で必死こいて練習するような子供だったのが嘘みたいに弾いている。左手の五の指、つまりは小指に痛みが走っているのは筋肉の異常か骨の異常か。構わん、弾く。

昨日今日、たった2日の狂気のピアノプレイだが、そこには大きく分けて二つの時間がある。一つはお馴染みの曲のコードをじゃんじゃん弾いて陶酔するタイム、もう一つは弾きたい曲を真剣に練習するタイム。自己陶酔は感情に、真剣な練習は己の技術に立ち向かっている。どちらも日常にはそうそう現れない瞬間なので、新鮮で瑞々しい気分にさせてくれる。

技術的に立ち向かっているのは、この二曲だ。


フジ子・ヘミング~トロイメライ(シューマン)

 


「千本桜」を弾いてみた【ピアノ】

 

シューマンのトロイメライと、初音ミクの千本桜。

トロイメライは往年弾いたことがある。ピアノと縁遠くなってからも実家に帰るたび確かめるように弾いていた。ゆっくりした運指だから技術がサビサビになっても立ち向かえる数少ない曲。楽譜見ながらやっとやっとなのを、暗譜してきちっと弾けるレベルにまでしたい。

千本桜はやっぱりこのまらしぃ氏のピアノが絶妙で、なんとか攻略したい気持ちでいる。そもそも原曲がキャッチー極まりない。弾いてて楽しそう。弾けそうな雰囲気だけど全然指回らない。超悔しい。

 

そういうわけで、1日2日だけどものすごく弾いてる。練習してる。

技術に立ち向かっていると、ちょっとずつ上手くなっていくのがわかる。回らなかった指が、少しずつ解れていく。

この熟達のプロセスというか、上手くなっていくフローは、何かのプレイヤーになっていくためには欠かせないものだ。運動も、音楽も、もっと文化的な活動も、機械技術系のそれも。で、そういう人がめっちゃ練習して辿り着く高みに、これからAIとかが簡単に辿り着いちゃうから人間は人間にしかできないクリエイティブな活動をしようぜって躍起になってる。プレイヤーよりクリエイティブ。プレイヤーよりクリエイティブ。働き方改革とともに呪詛のように唱えられる言葉。

この間まで就職支援の一環で学生と話す機会が多くあったけれど、学生達も世の流れを察しているのか、はたまた純粋に楽しいからか、企画をやりたい宣伝をやりたいとクリエイティブに熱を上げているのが多くいた。すげー気持ちはわかるよ、自分のアイディアとか産物で世の中動かしたいよな。すげーわかる。

 

しかしだ。

この度ピアノに躍起になってみて、プレイヤーになっていく階段を再度登り直そうとしてみて、プレイが上手くならないとクリエイティブもへったくれもないことがよくわかった。回らず動かない指で何が表現できるというのか。プレイヤーの階段を上っていくことはすなわち、クリエイティブに必要なツールを増やすことに他ならない。技術は創作の材料で、その組み合わせにこそ独自性が出る。

それを無視してクリエイティブだ創作だと宣うことは、野菜がないのにカレーを作っているようなものだ。仮にルーがあり、辛うじて作り方は知っていて、具なしカレーらしき何かが生まれたとして、それは美味しいだろうか。万人に食べたいと思われる代物だろうか。クリエイティブにどんな効能を求めるかは人それぞれだろうが、食べたがられないカレーに需要はないことは確かだ。仮に野菜無し肉なしルーだけカレーがマイフェイバリットカレーで、誰に褒められなくてもいいというならば、それはそれでいいと思う。チラシの裏にでも書いてればいいのにこういう文章をブログとかに書いてしまっている僕も具なしカレー人間だ。超わかる。

 

ある意味でクリエイティビティは逃げなのかもしれない。プレイヤーとして一定程度認められるレベルに達する前に創作に走る行為は、プレイヤー同士切磋琢磨しているフィールドから自分しか競合のいない無敵のフィールドへの逃避とも取れる。歯を食いしばってプレイヤーをやりきっていた者程、上質なクリエイティブに辿り着く。プレイヤーとしての熟練度がモノを言う。

「プレイヤーとしての研鑽」や「プレイヤーとしての熟練度」は、ピアノを始めとした楽器だとかスポーツの類であれば大変にわかりやすい。正確で速く複雑な運指ができることがテクニックだし、地面へと自分の力を的確に伝えることが加速だ。そのためのドリルとかトレーニングが「プレイヤーとしての研鑽」であるし、難度の高い技術を身につけていくと熟練度が上がったとみなされる。ピアノを再開した僕は大変わかりやすい努力を始めたところで、続けていけば再来月あたりには相当の効果が出ているに違いない。ワンランク技術のレベルが上がったところで、また新しい曲のタネが生まれてくる循環に入れたらいいとも思う。


この考え方を横移動させて、学生たち憧れの企画を始めとした、「仕事っぽいクリエイティブ」に活かそうとすると、すごく難しい。

プレイヤーってなんだろうか。クリエイティブをひねり出すための、プレイヤーとしての研鑽とはなんなのか。

多分これには二つ側面がある。一つは通常業務・本来業務の反復。もう一つは人生経験の類。

例えば高卒よりも大卒の方が給料が高いのはなぜかを考えてみる。

通常業務をゴリゴリやっていくだけであれば、より早く社会に出て、業務に慣れていく方が有用な人材が育ちそうなものである。大学の4年間なんて、何を学ぶでもなく無為に過ごす者も多いのだから。でも、この四年間に企業は人生経験を見る。通常業務・本来業務と、人格形成の終わりの時期に育まれた感性や知識や価値観を撹拌して、それぞれのクリエイティビティを発揮してほしいと思って採用する。まぁ大卒の方が地頭がいいとかで投資効率がいい側面もあるだろうけど。

十人十色の学生生活があって、人生がある。飲みに行っておじちゃん達と話すのも、本読んで誰かの頭の中を垣間見るのも、どちらも本質的には他人の人生を疑似体験することであって、それをまたタネにして自分の考えやら価値観を煮詰めて、クリエイティブしていく。形になった産物なんて海洋上に飛び出した氷山のようなもので、水面下にこそクリエイティブのエッセンスがある。


つって、全部やろうと思ったらどうあがいても時間がちっとも足りないので、ひとまず目の前にある仕事とトロイメライと千本桜と全然読めてない積ん読本を順番にボコっていくしかない。途方もなさが結構極まってる。

こんなん書いてる場合でもないっぽいけど、致し方なし。

電子ピアノ、来襲

呼び鈴と共にやってきたのは、ここ何年か心待ちにしていた遊び道具であった。6歳、7歳の頃からはや20年。人生の大半を音楽と歩いていきた。ピアノ、ギター、応用してベース。小学生の頃に挑んだピティナのピアノコンクールで世のプレイヤー達との差を歴然と感じてからというもの、ただの趣味、ただの趣味と嘯いては音楽にまみれた生活を夢見た。

その夢が、趣味に浸かるという一つの夢が、一つの完成形を迎えたように思う。

 

今僕の部屋にはたくさんの楽器がある。

エレキギター、エレキベース、アコギ、サイレントギター、シンセサイザー。オーディオインターフェースとiMacがあるから、パソコンに楽器をつなげてそれらしき曲をつくることもできる。ヤマハのアンプもある。エレキとかの音はそこから出力することもできる。

そして、今日加わった新星、電子ピアノ。

考えようによっては、アコギと電子ピアノ、アンプからベースの音を出して、パソコンで適当にドラムパターンを鳴らしておけば我が家でバンド演奏ができる。夢のようである。

 

落ち着いて部屋を見渡してみる。

楽器がある部屋にオシャレを感じる人は少なくないのではないか。ものが少ない空間にそれとなくギターがおいてあったりする絵を浮かべてみると、洗練された印象を抱く。インテリアとしても楽器は優秀らしい。

だが今の部屋はどうだろう。キッチンは別空間にあるものの、居住スペースの六畳間に所狭しと並べられた機材楽器機材楽器。正面を向けばパソコンとモニターとシンセ。左を向けばエレキとベースとアコギ達。後ろを向けば電子ピアノ。右には大きな窓。四面から楚の歌が響いてきた時の項羽も真っ青の楽器と機材ラッシュ。窓だけが良心。

働き出して、自由なお金を少しばかりでも貰えるようになってからというもの、オシャレな部屋を作りたい気持ちはあった。一方で好きなことをやりたい、音楽を愉しむ中で、たくさんの機材を仕入れた。そうしてたどり着いた今、現在。いわゆるモテ部屋とは完全に一線を画してしまったように思う。この部屋で得をするのはどう考えても僕だけだ。普通の人が来ても苦笑いでしかない。走り過ぎたかもしれない。

 

さて、ピアノはどうかという話。

これを買いました。

 

カシオ 電子ピアノ プリヴィア スタイリッシュタイプ PX770WE ホワイトウッド調

カシオ 電子ピアノ プリヴィア スタイリッシュタイプ PX770WE ホワイトウッド調

 

 

楽器の性能は概ね優秀だと思う。多少低音域がモニョモニョするけど、別にこれで飯食うわけじゃないし、飯食うお金を割いてまで好きで買ったわけだから文句はない。

僕が伝えたいのは、ピアノという楽器、それも電子ピアノがもたらす精神的な効果である。

 

楽器にはいくつか種類がある。大きく分けると、弦楽器、管楽器、打楽器、電子楽器。この辺りではなかろうか。弦を弾いて音を出すもの。管に息を吹き込んで音を出すもの。叩いて音を出すもの。電気信号を用いて音を出すもの。ギターは弦を弾くから弦楽器だし、フルートは息を吹き込むから管楽器だ。

ではピアノはどうかというと、弦楽器である。

グランドピアノを思い浮かべてみてほしい。あのエイリアンの後頭部みたいな形をした空間の中には弦が張り巡らされている。鍵盤を叩くのに呼応して、ピアノ内のハンマーが上がり、弦を叩く。そして、音が鳴る。つまりピアノの音は弦が叩かれて鳴る音なのだ。

構造としては弦楽器だが、ピアノを弾く様を思い浮かべてみると弦楽器っぽくはないだろう。どちらかといえば、打楽器だ。鍵盤を叩く。打つ。屈曲な指先で、鍵盤を殴る。

 


上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト - 「MOVE」ライヴ・クリップ

 

ほーら、ぶん殴ってる。

 

ギターなんか、めっちゃ繊細に指を使わなければならない。左手で弦を抑え、右手で抑えた弦を弾く。ただ叩いたところで、何もならない。アコギは野太い音を出すが、エレキだったらうんともすんとも言わない。

でも、ピアノは叩けば音が鳴る。不協和音だろうが、なんだろうが、とりあえず鳴ってくれる。

これが気持ちいいんだ。本当に気持ちいい。

大人になって、何かを全力でぶん殴ったことはあるだろうか。僕は無い。子供の頃も、そう多くはない。でも、ピアノであれば、特に電子ピアノであれば、臆面もなくぶん殴れる。ぶん殴って、曲を弾ける。音はヘッドホンから脳みそを揺らす。こんなに楽しいことがあろうか。どんなに辛い日も、悲しい日も、楽しいことがあった時も、喜怒哀楽に呼応した叩き方ができる。スッキリするに違いない。曲を作るとか文章を編むとか、そうしたスッキリよりもずっと低次の、原始のスッキリである。

まだ届いて間もないが、すでに僕の日頃の鬱憤はピアノに向かい、久々のパッション炸裂プレイに右手前腕部分が悲鳴をあげている。明日あたりには取れているかもしれない。

 

最近の電子ピアノは省スペース化も進んでおり、狭小なりに寝床には困らなさそうだ。

一度ピアノやってたけれどご無沙汰な人とか、多少値は張るが買ってみるといいと思う。お金じゃ買えないスッキリとOh,Yeah感が味わえるに違いない。

 

日なたの窓に憧れて

君が世界と気付いた日から

胸の大地は回り始めた


Spitz - 日なたの窓に憧れて Togemaru tour Live (Korean subtitles)

「空も飛べるはず」から連なる爆ヒット連発時期のほんの少し前、スギの木が花粉を撒き散らす直前の如きスピッツがリリースした、「日なたの窓に憧れて」。確変直前ということもあり、有名な曲じゃない。ベストアルバムを持っている人だと知っているだろう程度の曲。昨日あいみょんの「マリーゴールド」を聴いて、あの曲の素直さはスピッツにも通ずるな、たまには聴いてみようかなと手を伸ばしたスピッツだった。

この歌い出しに、改めて心を持って行かれた。

君が世界だと気付いた日から

胸の大地は回り始めた

君を世界と言い切ってしまうあたりの盲信具合。僕ら世代だとRADWIMPSが気持ち悪いくらいの好き表現で有名だ。野田洋次郎の手にかかれば、女性は心臓にも愛にも神にも機械にも国旗にも、殺すべき対象にすらなる。彼が痴情のもつれで過ちを犯したら数え切れないくらいの歌詞を持ち出されて、なるほどこういう思想の持ち主だったら犯罪の一つも起こすだろうとワイドショーで取り上げられるだろう。まぁいい。

「日なたの窓に憧れて」の歌い出しの美しいところは、「君は世界」なんだけれど、「これまで気付いていなかった」点にある。

「君が世界です」と断定するのではなく、「君が世界だと気付いた日」に言及しているのがなんとも美しい。誰でも「君を世界に」してしまうのは、「君を世界」として恋に酔うのは、容易い。aikoとかそんなイメージ。RADも。しかし、「君が世界だと気付いた日から」、「胸の大地が回り始めた」。この瞬間こそ、恋の到達地点。ベロベロに酔っ払うのはぶっちゃけ蛇足だ。君が世界だと気付いた日、すなわち、胸の大地が回り始めた時。こんなにも恋の最大瞬間風速をうまく表す歌い出しがあろうか。いや無い。

君と出会って世界が変わったと語るのもまた簡単だ。君と出会って世界に色がついた。君と出会ってから歩いた街はいつもより少し輝いて見えた。いくらでもどれだけでも言いようがある。しかしだ、「君を世界」としてしまう。相当の飛躍だ。世界に色がついたのではない。「君が世界」なのだ。さらに、「気付いた」ということは、出会いではない。お判りいただけるだろうか。「あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら」と小田和正は歌うけれど、これは「会った」である。草野マサムネは違う。「君が世界だと気付いた」だ。「気付いた」。つまり、これまで近くにいて、なんでもなく一緒に過ごしてきた女性を、「あれ、この人のことなんか好きかも」と、「気づく」瞬間のことを言っている。出会いが急転直下で恋を呼び寄せるドラマより、よほどリアリティがある。「君が世界だと気付いて」初めて「胸の大地が回る」のがわかる。

あぁ、到達点だ。到達点以外のなんでもない。

そのあとの歌詞なんて、君に触れたい、君とやりたいしか言ってない。それもまた真。だが、本当この歌い出しばかりは、筆舌に尽くしがたい。

この先の人生、僕はどれだけの君を世界と言えるのだろうか。というか、これまでの人生、どれだけの君を世界としてきたのだろうか。君が世界と言えるまでの恋なんてしたことがあったろうか。もしかしたら僕の世界は未だ回っていないのかもしれないし、これから回るかもわからない。すでに回ってしまった可能性だって、回らない可能性だってある。回してーな。回してーわ。

家で一人、豆腐と揚げ物をつまみながら書きました。以上。

あいみょんの「マリーゴールド」について

そもそも、あいみょんってこんな人でしたっけ。


あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

僕の知りうるほんの少しのあいみょんは、腹から声だします系のしっかりした声質に結構エグい感じの歌詞を乗っけてバチバチに毒吐きちらすタイプの人だと思っていた。それこそミオヤマザキの並びというかなんというか。ミオヤマザキに関しては毒が一周回って面白くなっている。いい芸風だと思う。

 

あいみょん。そう、この曲はそこかしこでよく聞いていた。


あいみょん - 愛を伝えたいだとか 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

最初聴いた時に、めっちゃ病んだMISIAみたいな曲だなぁって思った。なんでMISIAっぽいと感じたのかはわからない。メロディでしょうか。終始後ろでグニグニなってる電子音がいい感じにチープさをトッピングしててとても良い。

 

言ってしまえば「愛を伝えたいだとか」からしてめっちゃキャッチーで、サビとかは明らかに売れ線のそれだ。冒頭のフランジャーらしきエフェクトかけてシャギシャギさせたストローク4連発で全て許したくなる。

しかし、この度聴いた「マリーゴールド」。これはなんだ。

一言で言うなれば、素直。

音楽には、いや、作曲界には、カノンコードという現人神がある。パッヘルベルなるスーパーマンが発明したのか、彼のアレが有名なのか、どうでもいいのだけれどとにかく「パッヘルベルのカノン」のコード進行に則ってメロディーを作ったら大体どんな曲でもめっちゃいい曲になるってそれである。

「マリーゴールド」はカノンコードをAメロとサビでヘビロテさせている。

カノンは有用でありすぎて、どんなメロディーを取ってもどこかで聴いたことのある旋律になる。ただ、欠点を補ってありあまる親しみやすさも生まれる。毒素吐き出し系歌手だと思っていたあいみょんが、突然清涼感マックスポカリアクエリアスなんでもどうぞって曲を歌っていた衝撃。あいみょんサイドの巧妙なマーケティングに裏打ちされた作品としか思えない。まんまと意表を突かれた。

麦わらの帽子の君が

揺れたマリーゴールドに似てる

なんだそれ。全盛期のAqua Timezかよ。カルピスのCMにでも抜擢される気なのだろうか。爽やかすぎて心が痛い。怪我していないと思っていた場所に塩を揉み込まれた結果古傷が発見されたような気持ちだ。無限にすっ転がってそうなメロディーに手垢がべったりくっついてそうな直喩を大声で叫ばれたときの感情の揺れ。なんだこれ。ほんと。

そうだ、フォークだ。これはフォークなのだ。

誰も傷つけず、自分も傷つかない。過激じゃない牧歌的なフォーク。昨今の日本ではいきものがかりの放牧以来忘れられていたような音楽。カノンがそうさせているのか、歌詞がそうさせているのか。鶏が先か卵が先かみたいな話だ。どうあれ尊い。hip-hopにかぶれた音楽が蔓延る中のアンチテーゼとしても受け取りましたよ僕は。

 

ぶっちゃけ意表を突かれたからこんな気持ちになっているだけで、冷静になってみたら誰でも作れそうっちゃ誰でも作れそうな曲にも聞こえる。いや、誰でも作れるに違いない。5分やるから曲作れって言われたら多分僕はこんな曲を作るだろう。でもそれが認められている。正解とは。売れるとは。売れたいのか。

あぁアイラブユーの言葉じゃ

足りないからとキスして

ほんとなんなんだこれ。

いよいよ我が家にピアノがやってくる

思い切って買ってやったんで、ここに記す。

大前提として、僕は大した給料で働いていない一般も一般の労働者である。東京23区で1Kのマンションに住み、家賃補助がなくなった途端貯金ができなくなるような、一介のサラリーマンだ。吹いたら消える芥も同じ。

僕らくらいの所得の人間が消費をするったって、マジで大したもの買えない。人付き合いが好きで月に二桁回数飲みにいったりするだけで消し飛んで行く給料だ。他に何を買おうというのか。とはいえ、何も残らないのかといえばそうではなくて、賞与たる日本の給与習慣であったり、雀の涙三滴分くらいの残業代だったりに助けられ、たまに何か買ってもいいかなくらいの余裕が出る場合がある。年2回くらい。

そういう勢いに任せた買い物で大きかったのがiMacである。iMacにまつわる音楽関係の出費で多分25万ちょっとぶち込んでいて、ギター等々を入れるとやや30万円。サラリーマンの気合・気概をご覧いただけるのではなかろうか。あと引っ越しもした。引越しにまつわって、テレビ買ったり洗濯機買い直したり、これもなかなか気合の入った出費であった。

周囲を見渡すと旅行にぶち込んでいる人が結構多い。皆がマイルでうはうはしているところ、僕はシコシコギターを弾いたりパソコンパタパタしているのである。なんか悔しくなってきた。趣味趣向とは。価値基準とは。

 

さておき。

先日フジ子・ヘミングの映画を見てからというもの、ふつふつとピアノを弾きたい気持ちが湧いてきていた。今でこそギターが便利だからよく弾いているが、そもそものところの音楽の原体験はピアノであった。僕が4歳の頃に両親が一軒家を建て、その際伯母の家にあったピアノを拝借したのであった。トンプソンのピアノ教本からラ・カンパネラまでのしっかりしたピアノ人生や、エルトンジョン、ビリージョエルを楽しんだ音楽体験を共にしたのは、そのピアノだ。

今、家には知人というか友人というか、大変良くしてもらっている人から頂いたシンセサイザーが転がっているのだけれど、鍵盤とはいえシンセはどちらかといえばパソコンに入力する機器的な立ち位置であるからして、これじゃ弾いた気に全くならない。録音に際しては大変有用なのだが、楽器としては物足りない。

 

で、ちょうど年二回のブーストシーズンがやってきていたこともあり、最近ギターとシンセだけでの創作活動がちょっと停滞していたこともありで、今日電子ピアノ買ってきた。

これ。

 

カシオ 電子ピアノ プリヴィア スタイリッシュタイプ PX770WE ホワイトウッド調

カシオ 電子ピアノ プリヴィア スタイリッシュタイプ PX770WE ホワイトウッド調

 

 

新宿に繰り出した。人に会うついでに寄ったビックロ。山のようなエアリズムを抱えている人と、山のようなルンバを抱えている人が交錯するカオスの一丁目一番地。猛暑とはいえ休日の新宿はえらい騒ぎだ。国籍も目的もごちゃ混ぜである。

正直、見るだけにする気でいた。とりあえず見てみて、帰ってアマゾンの方が絶対に安い。ただ、ピアノっていう商品性質上、弾いて見ないことには全くもって判断がつかない。試食だけ、いや試奏だけさせてもらおうと。

昔バンドマンだったらしきおじちゃんが接客をしてくれた。そもそも、電子ピアノって何がいいのか。どれがいいのか。

この辺りは届いてから何かしらの感想を書こうと思う。つまり何が起こったかというと、おじちゃんの親切さと詳しさと熱さとビックカメラのポイント率に見事負けて即決していた。予算からも見事ハミ出したのだが、ヘッドフォンを付けてくれるっていうからおじちゃんに免じて買った。人に弱い。人情にとにかく弱い。

 

寸法も測らずに買ってしまったものだから家に届いたら案外でかくて困るみたいな結末も十分考えられる。向こう見ずの買い物を殆どした事がないから、これはこれで身を委ねていこうと思う。

実家も含め、これが初めて自らの出費で購入した鍵盤楽器となる。貰い物でもなんでもない、僕のピアノだ。もうすぐ届くピアノからどんな曲が生まれるのか。また、どんな曲が弾けるようになるのか。クラシックのレパートリーを蓄えたいし、みんな知ってるポップスも、自分の曲も。楽しみである。

 

実際に弾いたらいろいろな事また思うはずなので、それは後日に筆を譲る。

以上です。

 

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」

(倦怠+疲労)感

ここんとこ、休日の前の日は決まって盛大に飲むなり遊んだりして、ベロッベロになるわけでもなく静かに終電を逃している。で、そうなると毎度逃げ場はカラオケとなり、人生の中で稀に見るコンスタントな歌唱を刻んでいる。酒灼けの喉で歌うのばっかり上手くなりました。ヤッタネ。

休みの日を寝て過ごして十分な人もいれば、不十分な人もいる。僕はどちらかといえば後者で、昼過ぎまで寝てたりなんかすると自己嫌悪でふて寝したくなってしまう。午前中の早い段階で瑣末な家事を済ませ、あとは気ままに自由を貪るのがベストな休日で、そんな日々は何にも代え難いものと思っている。ただ現状はカラオケで朝を迎え、家に帰ってからちょっと寝て、起きて家事して飯食ったら瞼の鉄扉が降りて来て、気付けば夕方、何もしないまま晩飯の時間となり、1日が終わって行く休みが非常に多い。

こういう気持ちになった時によく曲なんか作ったものだったけど、なかなかどうして創作意欲も湧かず、倦怠と疲労を両肩両足に装着したままやってってる感じがどうも否めない。まぁそんな時もあるだろうよと言い聞かせて、今日も何もしないで眠る。

休めてるだけいいな、休めてるだけいいや。

ここのところの話

閑散とした駅にいる。無人駅で、PASMOをタッチしようがしまいが誰もなにも言わない。7月もまだ盛りの空気は相も変わらずぬめっとしていて、吹きっさらしのホームでは佇んでいるだけで汗が滲む。この時間ですら、上り方向の電車はひどく少ないようだ。下りはさっきから幾度も通っているのに、上り電車はなにを載せているやら知らない貨物列車が通りすがるだけで、人を載せる列車は待てど暮らせど来ない。ちょっと歩いて時刻表を見ればいいのだが、億劫なのと、根性で待っていたいのとで、あえて見ないでいる。地元ではこの間花火大会があったらしい。北見市の中高生がこぞって意気がり出す大イベント、ぼんち祭り。そのクライマックス、何年も前からお馴染みになっている大花火大会。川東の河川敷に市民が大勢押し寄せる。極東北見市の若者たちが織りなす恋愛模様がそこでは大絵巻として描かれ、やれドラえもんの花火だ、ピカチュウの花火だ、スターマインだとやいのやいの言いながら隣どうしでやいのやいのする。お馴染みの光景である。このくたびれた駅のホームから花火を思ったのはなぜかと言えば蚊のせいだ。僕は生来蚊に好かれるタチらしく、真夏に半袖短パンで外に出ようものならたちまち蚊が寄ってたかって僕を求める。上質なビュッフェに等しいらしい。蚊にやいのやいのされたところで僕の大絵巻が彩られるわけでもないし、ましてスターマインは上がらない。成敗してやる。今回は仕事ということもあり、スーツを着ての待ちぼうけだ。半袖短パンではない。が、最近の蚊はふてぶてしいことこの上なく、堂々と繊維をぶち抜いて服の上からチューチューする。汗の匂いの方へ一心不乱に突っ込んではチュウ。さらにチュウ。だから君らとやいのやいのしたいわけじゃない。

そんなこんなで、無事に電車が到着した。チューチュートレインである。

あぁもうやかましいわ。