徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

110mHで起こっている事態について

人知れず、凄く凄いことが起こっている。ヤバすぎてヤバい感じである。日本記録で二人飛び込んで、着差ありで決着。普通じゃない。それこそ、同じレースの中で、ハキームと桐生が9.97を出してるのと等しい。

ここ数年、トッパーのレベル上がってきてるよねって話は、5年くらい前から界隈で話されていたことである。13秒台出しても日本選手権の決勝に行けない。13.5台6台あたりがベストな人間がひしめき合っている。わずか10年前だったら日本チャンピオンの記録がその辺の記録会でぴょこぴょこ出るようになっている。ちなみに400mの日本記録は28年前のものだ。お分かりいただけるだろう、この異常事態。


ヒカルの碁をご存知だろうか。なんの変哲も無い小学生ヒカルが、おじいちゃんの家の納屋にある碁盤を見た際、平安時代の天才棋士・藤原佐為に取り憑かれてからというもの明けても暮れても囲碁囲碁囲碁。ふと気がついたら天才棋士進藤ヒカルとなり、碁界鳴動の旗頭として、やれ棋戦やれ碁会所と八面六臂の活躍を見せるアレだ。

その作中、桑原名人がこんなことを話す。

「のう、天野くん。知っとるか?碁は一人では打てんのじゃよ。等しく才長けたものが2人いるんじゃ。そう、2人揃ってようやく神の一手に…一歩近づく。」

ちなみに天野くんは作中の囲碁新聞週刊碁の記者である。


2人必要なのだ。等しく才長けたものが、2人。

陸上なんてどこまでも個人プレーで、1人で完結できる競技で、勝手に頑張って勝手に記録が出るようにも思う。だが実情は違う。日々の練習のなかの半歩、100分の1秒、そこに賭せるのは、等しく才長けたものの存在があるからこそである。

遠くの国で、どこかの県で、隣の街で、隣のレーンで、必死こいている等しく才長けたものがいて、初めて自分も半歩前に出る努力ができる。ただ頑張り、ただ走るなんてさらさら無理なのだ。だから、強くなりすぎたり、負け続けたりして、等しく才長けたものの存在が見えなくなってしまうと、脆い。レベルはどうあれ、等しく才長けたものを見つけられれば、ぐんぐん伸びる。そんなものだ。


これからの110mHはどんどん面白くなる。新陳代謝良く、次々選手が現れ、レベルが上がっていくことを心から願っている。

映画「アラジン」を観た感想

みんなが大好きなアニメ映画を僕は見ていないのですが、この度意を決して実写版を観に行きました。アニメとここが違う〜!といった、マスっぽい楽しみ方はではなく、展開も物語のアウトラインも知らない状態でワクワクドキドキしながら圧倒されるという、アラジン視聴者界隈では比較的稀有な楽しみ方ができたと思っています。感じたことを書きます。

 

もしも願いが叶うなら

三つだけ好きな願いが叶えられる魔法のランプとランプの魔人。さて何を願う。シンプルだけど相当考えてしまう。結果、悪の魔法使いジャファーは王になりたい、最強の魔法使いになりたい、最強の存在になりたいと、パワーアンドパワーな願いごとをして、天唾を食らった。

果たして、自分はどうだ。別に権力とかさして興味ないしなぁ、お金があったらいいだろうけどただ口開けてるだけでお金が入ってくるだけじゃ人生面白みもないだろうしなぁ。と、映画見ながら考えた果てに、「努力すると決めたことに対して飽きずに努力し続けられる能力が欲しい」みたいな回りくどい願いをするんだろうなって結論づいた。けど、アラジンは違った。

 

願いは自分のためならず

アラジンの願い事は清かった。何一つ私利私欲のためには使わなかった。洞窟から出る、海の底から抜け出す(ジーニーが代理で願う)、ジーニーを自由にする。自分一人が得をし、助かるために使った願いは一つたりとしてなかった。

金は天下の回り物。情けは人の為ならず。自らのエゴではない、誰かを思った願い事は、巡り巡って自分に返ってくる。世界はそうなっているらしい。アラジンも例に漏れず、街のコソ泥から王族へ。アラビアンドリームである。

しかし、夢物語の裏には歯を食いしばった一人の男がいた。

 

ハキームという名の僕たち

王国の衛兵部隊の隊長、ハキーム。魔法と地位と権力のカクテルである本作において、もっとも人間らしいのがハキームである。とはいえ、一般人ではない。衛兵部隊の隊長なのだから相当出世している。実直に努力したのでしょう。

権力につくか、人間につくか。

ジーニーの魔法によって国王となったジャファーと、ジャファーにより国王の座を追われた前国王。ハキームを諭すのはジャスミン。三者の間で揺れるハキーム。

この判断、この葛藤。

社会は僕たちにたくさんの判断を迫ってくる。一見答えがないものが多い。いや、答えは存在するのだが、情や地位に本質が隠され、答えが見えづらくなっている。

ハキームだって、職務を全うするするだけであればジャファーにつくべきだ。王国の衛兵は国王に従うもの。何も迷うことはない。しかもジャファーは結構まともな政治戦略を立てている。隣国を攻めて自国の繁栄を画策する。隣国がジャスミンの母の故郷であることを除けば、歴史の中で沢山繰り返されてきたであろう、利害を巡った戦争が一つ起こるだけに過ぎない。もちろん、戦争を起こさず、穏健に、自他の利益を求めるのも正解だ。だが、どっちが正しいも間違っているもない。目的はほぼ一致している。手段の問題である。

しかも、揺れるハキームの後ろには、たくさんの衛兵がいる。自分の判断が、何千といる人間の行く先を決めてしまうのだ。感情が導く正解と理性が導く正解がせめぎ合い、そこに責任が降ってかかる。震える。震えてしまう。

子供向けアニメかと思いきや、きっちりおじちゃんたちの琴線もブルンブルン震わせてくるディズニーまじで恐るべし。

現代の苦しさ、寂しさは、ハキームだけではなく別の形を取っても現れる。

 

ジーニーの孤独

最強は寂しい。

どんな願いも叶えられるジーニー。でも自分の願いは叶えられない。魔法も使えて、想像する程度のことならなんでもできてしまう最強なジーニーの願いは、自由になること。魔法が使えなくても最強じゃなくても、自由になりたいと願うジーニーは、やはり寂しい。

ランプの中は狭く暗く、魔法すら使えず、誰かの願いも叶えられない。

「無敵の人」とは、昨今の凶悪事件の犯人を評してよく使われる形容である。捨てるものがない人のことを無敵の人と呼ぶらしい。敵とは誰なのか、何なのか。最強は誰と何と張り合うものなのか。社会か、他人か。

強い・弱いのような関係が、絶対評価でなく誰かと比べた相対評価で為されるとすると、社会との繋がりは大変重要なことである。ジーニーの最強は、魔法にしろ願い事にしろ、オンリーワンかつナンバーワンの最強であった。が、寂しかった。しかし今や、ランプの中同士が繋がれる世界である。最強と最強、無敵と無敵が鍔迫り合いをし、片や勝ち、片や負ける。

ランプの内外で山ほど戦い、敗れた先には何が待つのか。そんな現代にもしジーニーがいたとして、寂しさを感じ得るのだろうか。

 

 

ぐでぐで書いたがヒューマンドラマがどうこう以前に、冒頭からパルクールよろしく街中はちゃめちゃアクション、ジーニーのアラビアンヒップホップ、王子アリ一行入場、ジャスミン歌唱、空飛ぶ絨毯、A whole new worldなどなど、見所満載である。脳みそを止めてみるのもよし、日頃の恨み辛みをトランスさせてみるのもよし。どうしたって楽しめる。

損はしないから皆の衆、興行収入に乗っかるべきである。

以上、感想でした。

品川駅港南口前広場のカオス

オフィス、酒場、広場、駅。ぐちゃぐちゃだ。渋谷や池袋は娯楽に寄っている。丸の内と八重洲はオフィスに寄っている。けどここ品川。オフィスと娯楽が組んず解れつ、取っ組み合いを繰り広げた末のカオスが織り成されている。

各企業で働き方改革が革新的に繰り広げられ、午後6時を回る頃のオフィス街は家路を急ぐ人で溢れる。帰宅ラッシュ第一陣。健全な帰宅である。それを待ち受けるはキャッチのお姉ちゃんだ。前掛けのように料金プランをかけて、明らかに駅に向かっているサラリーマンたちの足を引き止めようと躍起になっている。半袖にショートパンツ。肌寒くなってきている夕刻の品川で真夏の格好。四方のサラリーマンに声をかけるべく、テニスの構えのような姿勢で獲物を狙っている。その対面では、広場に行き交う人に訴えかける街頭演説。幸福実現党。かつて高校生の頃、幸福の科学に勧誘されたことがあるため、幸福の科学という存在にどことなく親近感を感じている。思想に関しては全く親近感は感じていない。街頭演説では香港のデモについての言及だ。陰謀を大いに語り、そこに絶妙に絡んでいく大川隆法の存在。もうやばい。熱意がすごい。さすが大川。ナイルですか、長江ですか。これら帰宅ラッシュとキャッチ、演説を囲むように、待ち合わせの僕たちがいる。箱庭の端っこに傍観者のごとく佇み、それぞれ忙しなく動き回る人たちを見ながら、ただ待つのみ。最も生産性がなく意思のない存在として、壮大な演劇に参加しているようである。ませてきた小学生あたりが学芸会でやりたがる役柄だ。なんの思い出にも残らないぞ。やめておけ。


それから数時間。

帰り際にはもう一山帰宅の波が生まれ、選挙カーは立ち去り、キャッチのお姉ちゃんはなんとまだ広場に立っていた。殊勝なことである。

さっきの傍観者は、帰宅の波の一員として役柄を変え、家路につく。一目散に、キャッチなどにも目をくれず。

カオスが緩んだ夜の品川であった。

創作のタネ

仲のいい友達が大変に悩んでいる。恋愛についてである。元カレのことが忘れられない。ケンカ別れではなく、ほんの少しのボタンのかけ違いで別れたという。別れてしばらく経ち、ボタンを掛け違ってしまった原因はもうクリアできた。だから、今の私なら。もう一度。

そんな相談にときたま乗る。男性目線でどうなのよと、聞かれる。果たして自分の感覚がマジョリティかどうかは棚に上げ、俺だったらこう思うね!こうしてほしいね!と、無責任極まりないアドバイスを撒き散らかし、あとは当人の努力次第である。頑張れ。

 

新鮮な感情がこもった言葉の礫には、ものすごい力があるものだ。ひとつも責任を負わない立場で彼女の話を聞いていたとて、火山礫のごとき言葉にぶつかり、殺されそうになる。感情が揺れる。

揺らいだ感情。それこそ創作のタネである。


youtu.be

 

友達でいいのか、もう一度付き合いたいのか。野暮である。そんな質問は全くもって野暮なのである。you're in love. 忽ち恋。

人間、遺伝子レベルで見たらほぼみんな同じ構造をしている。あいつの悩みもこいつの幸せも彼の嫉妬も彼女の自惚れも、同じような感情は万人の中にある。彼女の歌を歌っても、まるで自分の歌のように聞こえる。これだから創作は面白い。自分を直視するのが苦しいから、誰かを鏡写しにした姿に自分を重ねるのだ。

昔からそうだった。高校生の頃からずっと、誰かの曲を作っては、自分語りをしていた。10年経っても何も変わっちゃない。だからきっとこの先10年経っても何も変わらない。悩みの中身が少しずつずれても、揺れる感情は変わることないだろう。


これからも山のように出てくるであろう曲の一つでした。

粛々と

粛々と。

 

 

 

粛々と仕事が出来る人を、本当にすごいと思う。粛々と仕事ができるからこそ、仕事と日常を分離できるのだろうし、日常に仕事がはみだしてほしくないのだろう。日中サラリーマンを演じるから疲れもする。

そうあるべきなのかもしれないし、今の人事屋さんというお仕事を考えるとそうでなきゃいけない。ルールに則り、会社を良くしていくのだ。そこに私情は挟み得ない。

しかし、個人的にどうなのよと尋ねられると、もうエモと私情にまみれた心模様なわけで、粛々とのハードルは大変に高い。コツを教えて欲しいくらいですね!まったく。

粛々とマンは楽しいのだろうか。仕事をしていてあまり楽しくないんじゃないか。どうせやるなら楽しくやりたいとか考えないのか。そうか、楽しいとかそういうことを考え出すと正しさや良さから離れていくのか。とかく均質であろうとする世の中である。個人のスーパープレーは求められない。ただ、誰がやってもうまくいくような仕組みが求められる。そこに楽しさはない。正しさだけがある。

 

僕も大概若いけど、もっと若い新入社員の子たちやこれから就活する子たちは、やりがいにも似た魅力的な何かを労働に求めている。粛々にはないものである。

勤める身としては、感情や趣向に訴えるなにかを保ち続けないといけないなと感じている。仕事は結果なのは百も承知だけど、過程が楽しいことで動機付けが強くなる。二兎を追わないといけないですね。

 

梅雨の中休み、頑張ってやっていきましょう。

雨の通勤が面倒な理由がわかった

みなさん気づいているかもしれませんね。なぜ雨が億劫なのか。雨が憂鬱なのか。答えは後ほど。


梅雨入りした東京。向こうしばらくは曇り雨曇り雨と、インフルエンザウイルスがまず生きてはいけないような、湿度にあふれた毎日が待っている。ウイルスに厳しい環境はまず良しとして、宇宙を感じられるような青空が見られないのは苦しい。何しろ当方の故郷オホーツクは年間の晴天時間で全国トップランカーなのである。生来、曇りに向いてない。10年も東京にいると、そこそこ梅雨も淡々と過ごせるようになるけど、心底どうかといえば、及び腰である。


今日も雨降って肌寒い。ちゃんと梅雨だ。会社に行くのが億劫である。気圧か、気温か、イオン的ななにかか。目に見えないものに理由をつけるのは容易い。それが真実なのか、嘘なのかはさておき、罪を着せるのには格好の相手である。

でも、そんなに難しい話じゃないと思うのだ。この面倒くささ、億劫さは、日常の通勤や行動に「濡れない」というファクターが加わることに起因するに違いない。

朝の時間、ただでさえ業務過多になりがちだ。身支度して出かける。無から有を生み出す作業に似たそれは、相当なエネルギーを使う。

その上、濡れないと来たらどうだ。毎日一生懸命クリアしている「朝の支度」というハードル。その最後の一台が異常な高さなのである。ミッションインポッシブル。心が重くなるのも避けられない。


それでも平気な顔して会社へ通うサラリーマン諸君、学校へ通う学生諸君、文句なしに偉い。諸手を挙げて、褒めてあげちゃう。

ハンプレッダーズ「銀河高速」

これを聴いて、僕は歳をとったなぁと思いました。

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175Rや、ロードオブメジャーなのだ。彼らは。難しいコードを使わず、特に英詞を歌うわけでもない。みんながわかる言葉を、ギターを学び出して1週間で覚えられるコードで歌う。ど真ん中ストレート。誰の気分を害することのないロックチューン。

たまたまオススメの動画で上がってきた。今の10代はこういうバンドに夢中になっているのだろうか。確実に、歴史は繰り返している。それも、たった10年の間で、ぐるぐると回っている。

歳をとったと感じたのは、どことない既視感を曲に感じたからか、それとも、あまりにもまっすぐな歌に特別な感動を抱けなくなったからか。端的に、いい曲だなとは思った。とかく、気だるい雰囲気でチルチルするような曲が流行っている。JポップやJロックの土壌で、様々な音楽がひしめき合っている。そんな中で、純度100パーセントのJロックは気持ち良い。でも、それは未知との遭遇ではなかった。昔よく通った道を辿るような、オガクズで燻した香りが漂うものだった。

 

オリンピックを見たって、皆既日食を見たって、自分が歳をとったとは感じないが、「深夜高速」を聴いて、猛烈に加齢を感じた。時間は経つし、星は巡るし、歴史は繰り返す。繰り返す日々のなかで、少しずつ中心から離れながら僕らは周回しているのだろう。同じようなところで気持ちよくなり、同じようなところで苦しみながら。

眉村ちあき「めじゃめじゃもんじゃ」

ゴッドタンで即興ソングを披露し巷に知られるようになったという、眉村ちあき。その、メジャーファーストアルバム「めじゃめじゃもんじゃ」。

 

私事だが、最近iTunesStoreで2週間に1回程度、新しいアルバムを購入するようになった。同じ4000円なら、飲み会一回分の泡沫よりも、1枚のアルバムに資本を。特段飲み会の頻度が減ったわけでもないため、ただただ自らのお金をサクリファイスしているだけなのだが、なんだ、知らない曲に触れることは新鮮でいいことじゃないか。

そういうわけで、特に思い入れがあったわけではなく、雰囲気でポチっためじゃめじゃもんじゃ。まじでいいアルバムである。ここのところこれしか聞いていない。

 

めじゃめじゃもんじゃ

めじゃめじゃもんじゃ

 

 

16曲入。

早く熟した曲からとって出しました!みたいな、特にコンセプトに縛られるわけでもなく、多彩な曲が突っ込まれている。

息をするように曲を作っているのだろう。それは、才能とも言えるのかもしれない。曲を聴いて、その曲を自分の中に取り入れ、自分なりにアレンジして吐き出すのがとても上手い。

ポリシックスを聴いて作ったらしき、「奇跡・神の子・天才犬」

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在日ファンクを聴いて作ったという、「荻窪選手権」

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King Gnuの真似をしたと言っているものの、GOGO1178にも寄っている、「開国だ」

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何か他のアーティストの要素を取り入れても、メロディを掴むセンスが圧倒的にいいから、先人の曲調に引きずられることなく、サビでは自分の曲に持っていく。音楽的体幹が抜群に強い。

 

「書き下ろし主題歌」もすごい

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聴いていて楽しい。好きなことを全部やった様子がよくわかる。

ビヨビヨしたイントロからめっちゃ語感のいいラップ、転調してBメロで一回落ち着いてから、サビへの転調が熱い。半音上がる。ただシャープ一個つくだけなのに、高揚していく。サビのメロがまたキャッチーだ。メロディセンスは天性のものか。羨ましい。

 

ごちゃごちゃした曲もあれば、代表曲とされる「大丈夫」や「なんだっけ」では、天才と言われる自らの心境を赤裸々に綴る。思ったことを素直に言う強さを持っているのは素晴らしいと思う。とかく言葉の陰に隠してしまうものだ。

 

僕が何を語るより、聴いた方が早いと思うので、iTunes Storeで視聴してみたらいかがだろうか。一回の飲み会よりは間違いなくいい投資になると思う。

 

僕も、曲を作る端くれとして、瑞々しい気持ちになった。書きたい曲を書く。日々あった面白いこと、つまらないことを、ただただ、曲として昇華する。それだけでよかった時期が僕にもあった。社会人になり、薄給を砕いて小賢しい機材を揃え、曲も一定のクオリティでアウトプットできるようになった。けど、面倒くさい作業が発生することを学んでしまった手前、レコーディングへの敷居が高くなってしまって、曲作りにポジティブではなくなっている。

でもいいのだ、最初はギター一本、ピアノ一台である。そこで歌いたいことを歌えばいい。いい曲の切れ端ができたら、きっと一目散に曲を作り出すに違いない。

 

 

ともあれ、すごい熱量で曲を作っている人の紹介でした。

社会の生き方

能力のバラツキとか、デコボコとか。ダイバーシティが叫ばれる世の中においてはよく話題に出る。ADHD、ASD、自閉症はスペクトラム状。みんなが働きやすい世の中がいいよね!障害者の雇用立とかを国から定められながら、銘々、企業は多様化を取り入れている。

健常者と呼ばれる人間でも、もちろん能力にバラツキはある。学校の授業レベルからそうだ。算数ができなかったり、国語が得意だったり、体育は走るのが速くても水泳はダメだったり。十人十色、みんな違ってみんな良い。

しかしこう、高校大学社会人と、資本主義の淘汰に身を委ねて、ハッと気がついたら周りがまじで優等生かつスーパーマンしかいなくなっている。心底、ビビる。能力のバラツキが少なく、しかもそれぞれ能力値が高いように見える人間ばかり。何度浄水器にかけたらこんな水出てくるんだってくらい、清廉な水。清廉な人間だらけである。みんな無理してるのかもしれないけれど、取り繕ったふりするのすら上手い。


一方、僕といえばなのですが、スケジュールの管理がどうやら凄く苦手らしいのと、すごーく小さくて面倒なことを棚上げしまくる性質を持っているらしいので、結構頻繁に失敗をする。

なんでできないんだろうね、どうしたらできるようになるんだろうね、みんな心配しているよ、僕の、私の、指導が悪いね、大丈夫?

みたいな、心があるようで心がないようなご心配を賜り誠に有難うって感じなんだけど、心配されたって仕方がないから、なんとかしようと、さまざまなツールを使って使って、それでも漏れていくものが山ほどある。どうしろと。


誰彼にヤイヤイ言われようと、ヤイヤイ言っている人よりたくさん曲作ってるし、かけっこじゃ負けないし、囲碁で戦わせたら絶対勝つ。自分の能力の中でダイバーシティを担保できてるから、別に気にもならない。けど、社会でちゃんと生きていく能力を身につけるというのはなかなかどうして大変なことらしい。改めて実感している。当たり前にしなきゃいけないことが多すぎやしないか。手帳に予定を書く癖をつけようね、とか、面倒くさいことでもちゃんとやらないと困る人がいるからやろうね、とか、簡単な人には簡単なんだろうけど、僕にとってはもう一大事なのである。


個人的には、愛すべき能力のデコボコなんだけれど、どうやら大変ご迷惑をかけている側面もあるようなので、長短の短の部分には真摯に取り組ませていただく。そもそも、かけっこを含めたその他の部分で、大勢には大きく勝ち越しているのだ。これで短が埋まってしまったらいよいよスーパーマンが誕生してしまうのでは…?と思う。冗談です。


そういうわけで、辛い思いをしながら働いている社会人一同には、ぜひ自分の総合能力を考えてみることをオススメしたい。社会人はとかく、一長も一短も、同じ部分で伸ばしたり凹んだりしている節がある。そんなんで何がダイバーシティだって話だ。一長の長の部分が、社会人偏差に届かなかったからって、それだけの話。大したことじゃない。連中が短してる部分で勝ち越してやれば良いだけだろう。

すると、だいぶ気持ちが楽になる。

そうして開き直りをぶちかまし続けたら、僕のように社会の癌化するのですけどね。

やれる範囲でやっていきましょう、現代。

午前三時は朝か夜か

僕の家路は、寂れた商店街になっている。昔はもっと栄えていたと言うが、見る影は大変に薄い。中途半端に距離が長いから、店と店の間が開いてしまっており、商店街感を今ひとつ損ねてしまっている。そして、寂れた商店街に生きるのはお年寄りが多い。僕の地元もそうだ。新陳代謝が適切に行われなくなると老いていくのは、人間も街も変わらないらしい。

おじちゃんおばちゃんたちの朝は早い。どの世の中でもそうだろう。だからなのか、土曜の朝に商店街は朝市を催している。のっぺりと広い商店街にポツポツとある八百屋さんやお魚屋さんが、朝早くから店前で出店をだす。少しだけ、商店街が活気付く瞬間である。

 

今日の家路で商店街を通ったら、すでに朝市の横断幕が垂れ下がっていた。準備がいいなぁ、前の晩からもう幕を準備しちゃうんだなぁ。ぼんやりと考えながら家に帰った。

道すがら、ふと疑問が湧いた。何時からが朝なのだろうか。

前日の21時前に見た「朝市」の垂れ幕は、明らかにフライングだった。では、当日の何時からだと、朝だなぁと思えるのだろう。子供のなぜなにレベルの疑問である。

この問題、昼と夕方の間や夕方と夜の間は、比較的わかりやすい。

午後3時は昼だ。夕方ではない。しかし、午後4時となると一気に夕方の様相が深まる。午後6時は夕方だけれど、午後7時は夜。日本の社会通念的な時刻感覚なのではなかろうか。

 

でも、朝と夜、これは互いにとろけあっている。

午前2時は深夜である。

午前2時踏切に望遠鏡を担いで行った

これは、誰がどう聞いても深夜の描写だと感じるはずだ。朝早くに望遠鏡担いで行ったんだね〜〜とは思わない。午前2時に朝市の垂れ幕を見たら、夜なのに…と思うだろう。

一方午前4時はどことなく早朝の匂いが強くなる。始発が出る頃だからだろうか。夏の日の出がその頃だからか。朝市の垂れ幕もそこまで違和感はない。

間の午前3時は、どうだろう。午前3時に食べるご飯は朝食か、夜食か。夜食っぽい。けど、午前3時に見上げる朝市の垂れ幕は朝市っぽくもある。明確に朝とも、明確に夜とも言えない時間、午前3時。夜更かしも3時に寝ればなんとか明日も戦えそうだが、4時になってしまうと途端に弱気になってくる。朝の音が遠くから迫ってきている深夜であり、夜の淵から抜け出したての朝だ。

 

真夏日を観測した東京都。まだ乾燥した夏である。日が長くなってくれる分には、本当に嬉しい。明日も晴れるようである。朝市が賑わうといい。