徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

何を書いても前に書いたものと同じようなものを書いているような気がする

記事にして450を数えようとしている本ブログである。ちょっとした誇りをもってもいいんじゃないかと思える数である。いや、むしろ既に誇りである。
ほぼ毎日更新するようになってもう一年以上たつが、ライフワークとしてエッセイを書き続ける人の凄さを、ここに来て思い知っている。
例えば外山滋比古だ。
思考の整理学が引っ張りだこになっている彼だが、エッセイストとしてものすごい量の文章を執筆している。文学教授ってこんなに博覧強記じゃないとなれないのですかってくらいに日本語を操るし、思考を操る。
ブログのように雑記をひたすらに続けるという行為は、自分の考えを整理するのにも役立つ。時間があるときにでもデーターベースとして整理したら、僕という人間の考えが体系的にわかるのだろう。
つまりは、一個一個、日常のなんでもないことに自分の考えを紐付けしてまとめていく作業。これが雑記である。
しかしいま、日々の風景を切り取って自分の考えをそれに添えても、既視感のあるものしか出てこなくなってしまっている気がする。前どこかの記事で書いたようなことが頭に浮かんでくるのだ。
石油はいい。あいつはもう枯渇すると言われ続けて、新たな油田が見つかり続ける運命の元に生まれている。この頭はどうだろう。積極的に新しい刺激を求めないと、内省だけで文章が書ける時期は過ぎたのかもしれない。
インプットのないアウトプットは存在しないと誰かが言っていたような。それを聞いた時、僕は自分の中の世界も外の世界も等しく広がっていると頑なに信じていたから、内省でやれるところまでやってやるって意地になった覚えがある。
いい加減外に出来事を求めなきゃいけないのかもしれない。映画を見て、本も読んで、街を見て、歩いて、自分をもっと耕さねば文章が書けなくなってきているのかもしれない。
今後自分を棚卸していくためにも、棚に荷物を詰めていくことをして行きたい。
凝り固まった考えのループから抜け出した自分になることを、そのうち成し遂げられたならいい。