徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

満員電車内の冷房ヘヴン

電車という名の型の中にぎゅうぎゅうに押し込まれ、ネタを乗せられることもなく人間シャリと化している毎朝のサラリーマン諸君。お疲れ様です。冬だろうと夏だろうとそこは不快指数のカンストプレイスだ。人と人、汗と汗、肌と肌のファンデルワールス力が働かなくてもいいのに存分に発揮される。僕らが分子だとしたら、駅に着くごとに核爆発が起きていることになる。それでエネルギーが生み出されるのであれば電力なんて秒で供給されることだろう。満員電車があるから田舎に住んでいる人も多いと認識している。東京が嫌いな理由になり得るほど、満員電車の不快さは特筆に値する。田舎に住んでいるとまずありえない距離に他人が寄ってくるのだ。慣れるまでは辛い。慣れたくもない。

悲しみの淵、絶望にくれている時、本当に何気ない優しさに感動しちゃう気持ちを察することはたやすい。ふられた直後に相談に乗ってもらっていた異性にクラッときてイチャっとなっちゃうお話は稀によくある事案である。北海道の春、それまでマイナス20度が平常運転だった気候が0度になった時にものすごくポカポカ陽気に感じるのも同じ原理だ。

満員電車だからこそ、不快の極致だからこそ、何気ない冷房にオアシスを見る。車掌のさじ加減かもしれない。もしかしたら、オートメーションで一定気温になったら冷房が出る仕組みになっているのかもしれない。どんな力が作用していたとしても、冷風の第一波が皮膚に押し寄せてきた時、そこに神を感じる。天を感じる。

僕はキリスト教系の幼稚園を卒園し、流れで小学生の6年間をなんとなくキリスト教に触れてきた。イエスの巡礼の不思議さを日々感じていた。なんで見えない目が目が見えるようになるの!なんでワインとパンが無限増殖するの!なんで!

大変浅はかな知識で宗教的なことを語るのは危険を承知で話そうと思うが、イエス一行はマイナスをゼロにするお仕事をしていた。そこに宗教のミソがあるのではないか。僕が満員電車の冷房に神を見るように、当時のイスラエルあたりの人々はキリストの説法に神を見たのだろう。目が見える見えない、パンが増える増えないの逸話は尾ひれみたいなもので、宗教のエッセンスは哲学とお話である。


すると僕たちは飴と鞭にこそ真の喜びを感じるのかもしれない。真の喜びを偽りの飴と鞭で感じてしまった果てに、DVとかが待っているのは想像に難くない。もし絶妙なタイミングで冷房が効いてくれるなら、満員電車も悪くないななんて思ってしまう。そんな僕はもう頭がおかしいのだろう。

核爆発を起こして会社に向かう。弾かれるように勢い良く飛び出し1日が始まるが、惰力がどこまで続くか、はて如何に。