適温適度が過ぎつつある
どことなく、蒸し暑さが近づいてきている気がする。ついこの間までオールニードイズニットな毎日を送っていたのに、今や街には勝俣よろしく短パン小僧がのさばっている。なにしろ夏日が度々訪れているらしいのだ。そりゃ暑いわけだ。
我が家はアパートとマンションの境目のような集合住宅の6階にある。窓からは晴海方面の正真正銘スーパーマンションがみえる。最大公約数的な人生の幸せを獲得した彼らが放つ光を恨めしく見つめる、一億総中流の一億分の一が僕だ。
冬になれば夏を忘れ、夏になれば冬を忘れる。北海道にいた頃、ー20度という厳寒の中、これより50度暑い夏ってなんなんだよ…って考えていた。しかし夏になったらなったで、これより50度も寒い冬って…となるのだ。終わらないイタチごっこである。
春であるが、すでに夏のそれの入り口にいる感じが否めない。冬のことなんて信じられないし、これより暑くなるのも勘弁なのである。
北海道と九州で日の入りの時間が若干なりとも違うように、時差にはならない範囲での時差が日本では存在する。微妙な差。則ると、6階にある我が家の空気は、暖かい空気が上にいくのであるなら確実に下階よりも暑いはずである。気温差にならないような差において。かといって冬になれば、上空7000フィートの極寒の話を持ち出して6階の寒さを説き出すのだ。
適度ってなんなのだろうか。適度な瞬間、適度だってわからない。胃袋が不調をきたしたとき初めて主張をするように、適温適度のとき僕らはそれに気がつかないものなのだろう。不満をこぼし出す少し手前、その瞬間きっとその人にとっての適度が享受されていたはずである。適度を褒めもせず、適度からはみ出した諸々に不平不満を散らかす日々。
ー20度が少し恋しいのは、春がきたからか。故郷を離れたからか。