徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

終点までの

誘われることが本当に嬉しい。自分の存在が確かに誰かの中にあり、仕方なしにでも数合わせでも声をかけるかって思われることがとても嬉しい。

決して裕福では無いし、決して体が強いわけでも無い。スポーツが大好きなわけでも、酒にめちゃめちゃ強いわけでも無い。ただ、話をするのは好きらしい。それも好きな人と、比較的気の置けない人たちと話をするのが好きなのだ。そのためには、時間も金も惜しまない傾向にある。最近気がついた。

人の趣向は百人百色。何処に軸足を置くか、つまり価値観の違いで人となりが決まっていく。ソリッドな、ビジネスパーソンと言われるたちは、その飲み会がどの程度益になるかなんていう電卓を叩いて飲み会への参加不参加を決めたりするようだ。不毛だと電卓が弾かれた際には、会に参加せずに自らの知識を蓄えたり英気を養ったりするらしい。ビジネスパーソンという姿の見えにくい彼らの軸足は、利益に置かれており、それを徹底している。

対して、僕の友人に代表される、アイドルを追っかけて東京に出てきたあげくアイドルよりもメイドカフェに埋没するような人間は、虚像・偶像化された女性に軸足を置く。気持ちはわからないでも無い。割とわかる。

そして僕は、人との時間に軸足を置いているわけだ。時間とお金と体力を湯水のごとく犠牲にして、僕はごく個人的な楽しみを人に依存しながら生きる。だからこそ、人から、それも一緒にいて楽しい人から誘われることが本当に嬉しいのだ。口を開けて待っていたら餌が勝手に入ってくる状況である。願ったり叶ったり。至上の喜び。

一方で、人を頼みにして行かないと楽しさを享受できないほどに、負んぶに抱っこになってしまったらいけないと、意を固くもしている。なんやかんや、人は一人である。離合集散繰り返しはするが、結末は一人。すると、一人をどれだけ貪りつくせるかの才能も必要だったりする。

電車が終点に着くようなので、筆を置く。

母が来ているので、会ってくる。