徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

伝えられないということ

悲しい、寂しい、嬉しい、楽しい、辛い。体内には大抵感情という感情が渦巻いている。大恋愛も大失恋も、表象しているということは少なくとも形になっている。すなわち表すことができているわけだ。

言葉足らずやコミュニケーションの得手不得手、のっぴきならない事情において、感情を表すことのできない人が一定数いる。その程度は千差万別だが、表せないとそれは感じていないと同義になってしまう。andymoriなるバンドの「誰にも見つけられない星になれたら」であったり、ゆらゆら帝国の「ひとりぼっちの人工衛星」に代表される虚しさや空虚感は、「気づかれない=無い」という等式による。

特に言葉で表す能力が高い人は、こと人生において猛烈な徳を授かる。心の中に無いことも表せてしまう人というのがやはりこちらも一定数存在して、彼ら彼女らは驚異的といってもいい波乗り力を持ってして世の中を渡っていく。それが嘘なのか本当なのかなんて誰も知らない。また別途、芸術として昇華していく人もいる。言葉は足らないけど文章が達者な人もいる。もちろん彼らは認められる。むしろ世の中からは強い肯定をもってして受け入れられていく。

でも、その陰には平々凡々でありながらも感情を表せない層が山のようにある。気質からくるもの、育ち方からくるもの、それこそ多種多様だが、自分の考えを伝えるツールが無い人は相当大勢いる。表すことができるものからすればそれは考えていないも同然なので、いじられたりからかわれたりと扱われがちである。

小中学校の頃、特別支援に行くか行かないかの瀬戸際の子と仲良く付き合っていた。低学年の頃は大して差を感じていなかったものの、徐々に徐々に差が開いていくのを身を以て感じた。時には酷いことを言ったかもしれないし、したかもしれない。しかし幸い親の教育もあり、その子とは成人してもなお良好な関係でいられたと僕は思っている。

周りの子達と発達の度合いが少しずつ離れていく中で、その子の心の内ではどういう気持ちだったのだろうと考えることがある。もしかしたら周りの話がだんだんわからなくなっていく恐怖を覚えていたかもしれない。表せていなかっただけで。僕らはそれを汲み取ることもできず、同じように発達し同じような価値観を醸成していく友人たちとだけ付き合っていく道を無意識のうちに強く望んでいたのかもしれない。

「貧富貴賤の差なく…」とはよく言われる格言であるが、本質的な無差別社会は蜃気楼も同然だ。賢いやつは賢いやつで存在し、賢いやつに賢くないやつが雇用されていく。人間社会の弱肉強食である。わかってはいるが、伝えられない辛さを考えるとどうにかならないものかと考えてしまう。僕は商売に向いていないかもしれない。