徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

伊東家はもう食卓を囲むことがない。多分。

伊東家の食卓を覚えているだろうか。

知る人ぞ知る家庭の便利知識を裏ワザとして紹介していく番組である。伊東四朗がお父さん役、五月みどりがお母さん役。子供達(三宅健RIKACOしか覚えてない)とこたつみたいな卓を囲みながら裏ワザを検証していた。学校でも人気で、手軽にできる裏ワザは翌日瞬く間に広まった。なかなかの影響力。

昨日大先輩と、PP紐をハサミ無しで切る裏ワザってあったよねって話題になった。あれですか、伊東家の食卓ですか。忘れていた番組を不意に思い出したのだった。ちなみにPP紐って雑誌とかをまとめる紐です。

「検索」がまだ浸透していない時代。個々人の不便は個々人の中にとどまっていて、誰かと共有する手段としては身近な誰かと話すことが1番手っ取り早かった。一人の人が不便とか知りたい気持ちとかをどんなにシャウトしても響かなかった。

熟成されていく不便が工夫を生み、「裏ワザ」を生む。テレビないし伊東家の食卓は、ある面で一人一人の創意工夫の発表の場として、また別の面でひとつの集合知として、さらには「この裏ワザいつも使ってる!」というような共感の場として存在していた。

しかし今や検索検索検索。伊東家の食卓の何十倍何百倍の知識が手元にいつでもある。毎週何曜日かの放送を待たずとも、不便の瞬間に不便が解決されていく。

まず、巨大な集合知を形成する土壌として、創意工夫を発表する敷居は低くなければならない。知が集まらないから。集まった知を自由に引き出せるようになると、共感のレベルも下がる。「それ知ってる!」の瞬間、脳みそに電波がビンビン流れるはずが、不感症になって行く。それでも便利だからひたすらに検索をし続けると、創意工夫をしなくなる。困った時にグッと考えることなく、すぐ検索。まず検索。

伊東家の食卓が機能していた理由が、大検索社会においてことごとく失われているのがわかる。一家離散待った無し。不憫極まりない。

さっきの論法の逆だ。

簡単に手に入る便利が無工夫を生み、「裏ワザ」つまり創意工夫の芽を摘む。その中でも考えられる強い人間はいい。でも多くはそうじゃない。おとなしく便利を享受する。便利に骨抜きにされて行くのである。

すごーく便利な世界。しかしもしかすると、便利の美酒はひどい二日酔いを残して去って行くかもしれない。伊東家の食卓で整っていた栄養と健康はもう、そこにはない。