徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

声が張れない人

声が張れない人。

多分、たくさんいると思う。大きな声を出すのが苦手、大声で叫ぶなんてできない。羞恥からくるものか、はたまた気質からくるものか、体質か。原因は諸々あるだろう。

現行の教育方針や社会の向いている方向は、「元気な子 is 正義」みたいなところがあって、今でこそダイバーシティダイバーシティと叫ばれ始めたものの、どこまでそれが浸透しているのかは疑問である。

僕の浅い経験の中でも、大きな声が出せなくて苦労をしている子をたくさん見てきた。国語の音読の時、音楽の授業、先生に当てられてしまった時。教室が「へ?」みたいな空気になり、いたたまれない気分にさせられる。僕は身勝手な奴だから、〇〇くんもっと大きな声出せばいいのに…と、心の中で強者の論理を振りかざしていた。

 

一昨日辺りから猛烈な体調不良が襲ってきていることは、僕の全細胞が周知している。誰も知らなくったって、僕が知っている。

喉の痛みと熱っぽさから始まったそれは、ルルアタックの力を持って制圧をかけているものの、未だしぶとく身体に変調をきたしている。

 

外見からしたら全く元気な男の子なのだが、一度声を出してみるとその異常さがよくわかるというものだ。全く声が出ません。

弾丸引っ越しツアーをしたから、転居届だしたり買い物したりなんなりと、休み時間等々を使い、必死こいて町中を駆けずり回る。窓口に行けば係員とお話し、レジに入ればレジさんとお話をする。

僕は必死に伝えようとする。

転居届です。クレジットは一括です。

でも、僕の声は彼ら彼女らに届かない。3回くらい聞き直されて、口づけするくらいの距離まで近づいて話す。

「持ち帰りで。」

この距離で、しゃべることなんて愛の言葉くらいなものだと相場は決まっているはずなのだが、どういうわけか日常会話を愛の距離にて伝えていかなければならない。ジョンレノン、玉置浩二、数ある愛の伝道師たちでも、この距離で「お持ち帰り」を伝えようとは思わなかったろう。そこに確かに、愛はある。

 

教室に立ち尽くし、大きな声を出せなかった彼ら、彼女ら。あれはきっと、僕らが近づいて行くべきだった。大きな声を出す事が当たり前の正義ではない。声が出せないこともまた一つの当たり前なのだ。車がないから歩いて行くのと同じように、声が出せないなら近づいていけばいい。どちらからともない優しさがあれば、それが一番いい。

 

鼻が詰まったりすると気づくことは、今まで呼吸をしていたこと。

喉が壊れて気づくことは、今まで大きな声で話していたこと。

声出ないと仕事にならんので、なんとかして行きたい気持ちでいる。