徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ヤマモトヨウジのコートを貰った

ヤマモトヨウジといえば落合陽一しか出てこない世の中になりつつある。さておき、前職場で一緒に働いていた敬愛すべきおしゃれおじちゃんからヨウジヤマモトの春コートを貰った。「いらない服あるからやるよ」って、着払いで沢山のスーツが送られてきた中の一着。確かにかっこいい。かっこよさは伝わってくるのだが、使いこなせる気がしない。

高校生、大学生も成人してしばらくするまで、僕はファッションにからっきし無頓着であった。大学で同じ部活だった面々が中々おしゃれさんだらけだったこともあり、徐々に方向修正していき、現在はある程度人並みの服の感性を持っていると感じている。

しかし、ヤマモトヨウジ。

普通の感性を育てて育てて、成った実が落ちて、また芽が出て、雨風にさらされながらすくすくと育った芽は小さな枝になり、木になり、さらに実ができて…とこんな感じで感性をフルスロットルで回していかないとたどり着けない感性の境地がヨウジヤマモトだ。

Gパンに白のTシャツとか、黒いスキニーパンツに白のシャツとか、誰が着てもそこそこ綺麗に見える類のそれじゃない。しかも一点をヤマモトヨウジにしてしまうと他の大部分もそれに習って整えて行かねばならない。TシャツGパンにヤマモトヨウジなんて組合せは言語道断であり、ヤマモトヨウジを着るからにはアサシンのような格好をしなければならない。

100歩譲ってアサシンになれたとしよう。アサシンになれたとして、どこへアサシンで行くというのだ。職場にアサシンで行ったらきっと保安に止められるだろう。田舎にアサシンで帰ったら地元の広報誌・経済の伝書鳩の一面を飾るかもしれない。

着る人を選べば、着る服も選び、着て行く場所も選ばなければならない。複雑極まる選択の末、ヤマモトヨウジは存在しているのだ。


さて、僕は今渋谷に向かっている。着ているのはそう、ヤマモトヨウジだ。沢山貰ったスーツの中に入っていた3タックの黒いスラックス。40年前に流行ったらしきダボダボルックのスラックスを履き、なんとなく合いそうだから白いシャツに合わせて、カジュアルアサシンと化している。コスプレをしている気分とはこういう感じか。普段は確実にしない格好だけど、毎日こんな格好してますよ的な顔で街に溶け込む。今着ているアサシンルックが正しいのか間違っているのかもわからないが、日本屈指の雑多さを誇るスクランブル交差点である。多少のミスは許されよう。

生まれてからこれまでで、多分今一番ファッションしている。楽しい。楽しいぞ。


今日、渋谷の居酒屋で少し間違ってそうなアサシンがいたら、それが僕だ。ファッションに詳しい方、ぜひご指導願いたい。