徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

昨日の試合のこと

例にも漏れずに観戦しました。日本対ポーランド。

案の定、僕の周りの小さなコミュニティでもあの幕引きに対しては紛糾した。サッカー経験者が多い中、あれはサッカーじゃないだなんだと、至極その通りの感想をぶうぶう叫んだ。ド級の未経験者である僕も似たような感想を持った。ブラジルみたいにちょろまかすわけでもなく、愚直に後ろの方でパス回しをする姿。ポーランドもポーランドで、勝ってるから特に波風を立てるわけでもなく眺める。テレビ越しでもブーイングがわかるレベルのスタジアム。そりゃ金払って見に来て最後の最後で戦略的戦意喪失をかまされたら怒るのも納得だ。


長谷部の投入が終わりの始まりだった。

ちょっと整理する。

大前提を確認したい。ワールドカップ最大の目標は、一試合でも多く戦うことだ。それはすなわち優勝であり、準優勝であり、グループステージ突破である。出場段階で三試合は保証されており、そこから一試合でも多く戦うためには、グループステージを突破しなければならないし、ベスト16を勝ち抜かねばならない。さらにグループステージを突破するには、グループステージの三試合で勝ち点を多く取らなければならない。これは相対的な問題であって、何点取れば必ずステージ突破できるとかいう保証はない。

昨日の長谷部投入段階で、日本がグループステージを突破するための条件として主だったものは、

・コロンビア対セネガルが1−0のまま終わる

・日本がイエローを貰わない

この2点。

この2点が揃った場合にのみ、日本がポーランドに敗北したとしてもグループステージを突破できた。

そこで、監督の判断となるのだが、監督はセネガルが追いつかないと踏んで、確実にイエローを貰わずに試合をこのまま終わらせる道を選んだ。これが後半82分からのお話。

結果は、自明のこと。

 

後ろの方でパス回しを始めた時点で、僕はどう思ったかといえば、「これでもしセネガルが追いついたらこの人たちはどれだけ後悔するんだろうか」だった。これだけコロコロ後ろで回して攻めることもなく試合を終わらせにかかって、もし他会場でセネガルが意地を見せたら。どれだけ情けない気持ちになるだろう。友人たちとテレビを囲む中で、そんな話をした。

一夜明けて考えたのだけれど、この、「もしも負けたら」論自体が多分間違っている。間違っていた。

もしも負けたら情けない。もしも負けたら悔しい。そんなこと、なんで負ける前に考えたのだろうか。何しろ最大の目標が「一試合でも多く試合をする」である。目標につながる最短距離を走るのは当たり前のことで、最大の目標を達成するための手段であれば凡そのことは構わないのではなかろうか。たくさんの波風が監督をはじめとしたベンチワークに吹き付け打ち付けているだろうが、「だって勝ちたかったんだ。僕は、僕たちは、こう言う戦い方が1番勝ち目があると思ったんだ。」って反論が何より強い。美しくとか、自分らしくとか、そんなのより余程強い。


散り際に心が動く民族だ。僕らは。

最高の負け方や美しい散り方が歴史に残りがちである。だから最低の勝利や醜い生にはなかなか光が当たらない。今回の試合に冷水を浴びさせられた気がする。目を覚ますいい機会だったのかもしれない。

一つの価値観として許せそうな気がする、一夜明けての心境。