徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

あなたが死にたいと思った今日は…的なやつ

あなたが死にたいと思った今日は、誰かが行きたいと思った明日。

僕なんかほんとザコい人生しか生きていないので特段死にたいなんて思ったことはない。腹の底から生きたいと思ったこともない。そもそも腹の底から生きたいって思う場面って死にかけてる場面がほとんどだろう。観測範囲内では死にかけたことがないので、切実な生を感じたことはない。本腰入れて頑張ってたことがうまく行き出したり、彼女ができたりしてよっしゃ生きるぞ!って思うことはあるけども、その程度である。

でも世の中真剣な人生を歩いて、生きたいと死にたいがカオティックな様相を呈している人々も一定数いると伺っている。そうした彼ら彼女らを奮い立たすべく、表題のような言葉が生まれたのでしょう。そもそも死の淵に立つほどの絶望の中、言葉で救えるのかどうなのかってところもあるし、奮い立たせるような言葉より共感の方が大切なんじゃないのとも思うけど、脇に置いておく。

 

まず大前提として、死ぬより多分生きる方がいいという考えがある。

実のところはわからない。極楽浄土なんてものもある。死んだほうがよほど良い世界が広がっているらしい。死者から見たら我々現世にしがみつきまくっている人間はまだ死んでいないダサいやつだったりするかもしれない。しかし人生を考えた時、人生は死んだときに終わる。死のあと何が待っているかはさておき、死が区切りになるのは違いない。

その区切りを迎える迎えないは、人生の向きに寄る。

人生の向きは、千差万別だ。誰の人生も比べることはできない。

あなたが死にたいと思った今日は、誰かが行きたいと思った明日。これは数多ある人生をおおよそ同じようなものとまとめた上の考え方である。あなたの人生と誰かの人生を並列させて、君の死にたいは誰かの生きたいとトレードオフできるものだと迫る。

そんなわけないと思うわけですね。

人生なんて超個人的なものだ。人生は人生でも、僕の人生と親父の人生ですらしじみとあさりくらい違う。友人同士の人生だって全然違う。あなたが死にたいと思った今日は、誰かが行きたいと思った明日って考え方は、「あなたが残したグリーンピースは、誰かが食べたいと思った秋刀魚」くらいのめちゃくちゃ論理なのだ。それらを並べ立て、生きろ、生きろと迫ったところで、だってあいつの秋刀魚じゃん。くらいの感想しか浮かばない。

 

だから、それぞれの人生をそれぞれの感性とそれぞれのキャパシティを持って生きていく以外ない。本とか居酒屋とかブログとかで他人の人生を垣間見ると、エグい人生を生きている人もたくさんいるし、その程度でナヨってんじゃねーよって思うものもたくさんある。けど、それもそれなのだ。僕は僕の、その人はその人の人生を一生懸命やるしかなくて、ダメならそれまでだし、やれるならそれがいい。

そういうことです。

粛々とやっていきましょう日本。