徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

新年あけまして。

おめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。

当ブログのアクセスは検索流入がほとんどであり、日日更新するたびに読まれている分はそう多くありません。1200ほどある記事のわずか数記事、およそ0.数パーセントの記事のみよく読まれている状況です。なので、ブログに訪れる大多数においては、去年と今年、一昨年と一昨々年のような時の流れはほとんど意味のないもので、グーグルの魔力によって過去の記事と今の記事が検索という同じ土俵で相撲を取り、たまたま有用と認められた記事が僕のブログを生かしている、形作っていると言えます。

しかし、検索されることや有用であることが、どれほど価値のあることなのかと言われれば、疑問です。少なくとも僕はそこにスタンスを置いていません。

世のために文章を書き、人のために読点を紡ぐような慈善の塊であれば話は違うでしょうが、僕はそこまで出来た人間じゃありません。ただの感情の整理と吐露の記録でしかない、屑々しい文章を連ねていること自体に意味を見出してしまっています。だから、誰かが知りたい有益な情報を更新して、世のためを装ったアクセス稼ぎゲームに身を置くことには興味がないのです。

なので、2019年始まった感じの話をしたいです。

それも、抱負とか反省とか気合い入れた話じゃなくて、なんでもない話です。

とはいえ、びっくりするくらい昨日と今日の境目がなく、なんでもない感じで年を越しました。一年の計は元旦にありとはよく言いますが、元旦に決意しなきゃ出来ないようなことなんてどうせ出来ないのではないでしょうか。きっとそうです。そんなこと考えているので、結局今年の僕も去年の僕と大差ない感じで淡々と生きていくものと思います。ただ、心にいつ磁場風が吹いて、コンパスが振れるのかはわかりません。何かに突然入れ込んだり、何かを突然辞めたり、始めたりするかもしれない。少なくともここ何年かの経験則で、生活や価値観に大した変動はないだろうとタカを括っているだけで、本当のことなんて何もわからない。それが人生なのだと思います。

トゥルーマンショーを先日観ました。

あの映画を、人生における変数を完全に排除された世界に生きる男の物語としてみると、ショーを演じさせられていたトゥルーマンの惨めさがよくわかります。何かが起こるかもしれない。1万回目の先、1万1回目に何か変わるかも。蓋を開けてみないとわからないところが、人生の面白さだったりします。それが、第三者の書いた筋書き通りに動いてしまう悲しさと恐ろしさ。人生の醍醐味を全て奪われていると言っても過言じゃないでしょう。酷い。

一方で僕は蓋を開けてみなきゃな人生をこれからも続けていくわけですが、この感じってとても危ういのはおわかりいただけるかと思います。一種のピーターパン症候群でして、可能性が広がっているらしい万能感にとりあえず浸っているだけみたいなところがめっちゃでかいです。意思を持った船出は航海になりますが、意思を持たない船出はただの漂流になります。

現在、ひとまず定職についていて、それも結構頑張らないと務まらない感じの職務なので、ひたひたと、半死半生でやっています。すると形では全く漂流している感じにはならないのですが、本質的に、気質的に、どこか漂流欲求みたいなものがイドの中にある気がしてなりません。そろそろいい歳になってきているので、是正したいなと思います。よく考えれば、その辺りが今年の目標になるかもしれません。欲しいものが思いつく才能が欲しい。と大森靖子も言っていましたね。そんな感じです。

明日も早いので今日を終えようと思います。

そういえば、東京では大晦日にたくさんの人身事故が起きました。わかりやすい区切りというのは、何かを始めるにも、終えるにも、丁度いい言い訳になるのかもしれません。花見にかこつけて酒を飲み、歓送迎にかこつけて酒を飲む、かこつけ上手な日本人だから、何かにかこつけて始め、終える。当然なのでしょう。けど、いのちは終えたらもう始まらないので、間食とか、タバコとか、終えてもいいようなものを終えていきたいものですね。

というお正月でした。