徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

この十日ほどの間で

この十日ほどの間で、花壇の手入れをし、ゲリラ豪雨の浸水騒ぎに巻き込まれ、社員食堂の対応に追われ、自分の曲が形になってたくさんの人の耳に届き、27歳になり、台風に巻き込まれて大変な思いをし、残業時間を咎められた。

書かないでいると、たくさん書きたいことが溜まっていくのかといえばそうではない。書かないでいると、書きたかったはずのたくさんのことが自分の中から抜け落ちていく。嬉しかったことも悲しかったことも全部である。今は書くべきではないとか、書くネタを貯めているんだとか、それは言い訳にしか過ぎない。穴が空いたバケツのように、感情なんて簡単に流れていく。

書かない生活に慣れると、書いていた頃には間違いなく書いていたはずのアレコレすら、書く気がなくなっていく。恐ろしいことだ。水は低きに流れるとは良く言うが、書き続けること、何かをし続けることがこうまで難しいことだとは知らなかった。

体力が体の力ならば、脳力も気力も存在する。それらの力強さとバランスで僕たちは生きているように感じる。体力だけがあっても脳力がお疲れだったらぼーっとするし、逆に気力だけがあっても体力が限界だったら動けなくなる。そうしたいくつかの力の余剰分で僕たちは能動を貪り、趣味に浸る。

余剰を作る方法はいくつもある。ただ温存するだけではなく、うまく脳力を使って利回りを体力に補填したり、気力に充当したりなんて使い方もできる。楽しい仕事はいくらでもやっちゃえる現象は様々な力の循環によるものである。

だが、社会一般に命ぜられる仕事は大抵粛々とやるもので、粛々の利回りはほぼない。だからこそ、皆温存に走り、ワークとライフを分断し、仕事と趣味を区別する。正しい姿なのだろうが、温存しきれなくなるともうほんとワーク勘弁してくれよみたいな気になるし、ライフはワークのお疲れ分を回復するためだけの代物に成り下がる。

 

感情と力のあまりを表現できる方法がいくつかあるだけよかったかなって思う。

この十日、なんとも無為な十日であった。水のような、空気のような十日間であった。

噛みしめるために書こうと思う。改めて。