徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

旧友に会って来た〜何かを好きになるということ〜

旧友にあったシリーズ。

幼稚園の時分に家族ぐるみで付き合いがあった友人と会って来た。Facebookへの投稿というのは、いろいろな人と繋げてくれますね。

幼稚園で同じクラスだった当時はよく遊んでいた。しかし、小学校が離れてしまったがために、その後はそこそこの付き合いになり、小学5年生の秋に彼が東京に越して行ってしまってからは親同士の年賀状の付き合いが全てとなった。よくある人間関係の薄まり方なのだろう。

やや20年ぶりに会った彼は当時の面影たっぷりのお兄ちゃんになっていた。あの頃の君に男性ホルモンと成長ホルモンを適宜投与したらこうなるんだろうね、、、といった感じである。順当な成長。

 

彼は今富士吉田に住んでいるらしい。イエス、富士急ハイランドのすぐ近くである。何もないけれど日本有数の遊園地がある街だそうだ。何もないとはどういうことか…と思わされる。

そんあ、決してアクセスがいいとはいえない富士吉田から、彼は本州狭しと駆け回っているらしい。仕事ではない、趣味である。

声優と、野球。

ラブライブへの愛、プロ野球への愛。現地に行きたい、そのものを観たい、応援したい。この純然たる愛に僕は打ちのめされた。夜行列車と夜行バス。良好とはいえない移動環境に負けることなく、その先にある「好きなもの」に心を躍らせる。僕らが小学校に行きながら、放課後のゲームを心待ちにした、あの頃のような純粋な愛と楽しみを彼から感じた。

 

何かのために休みを取るということをしていないなぁと、思った。

金と時間と労力。ちゃんとした制度が整った、課題はあるにしろ法に抵触するような真っ黒労務環境ではない、きちんとした会社に入り、死にはしない程度のお金と、ある程度イキイキ生きられる程度の余暇を手に入れた。日々積もる感情のクズを集めて山にして、それに名前と詩と曲をつけてることで余暇を潰す。心はどんどん内側に向かっていくが、外に向かうエネルギーは欠けている。

 

この試合が見たくて、このゲームをしたくて、この曲を聞きたくて、この人に会いたくて、休む。生きる。

そんな彼を見て、健全な、というか、懐かしいというか、人間、かくあるべきかと思わされた。

 

今日の青空や、昨日の憂鬱に名前をつける生活に飽きて来たのかもしれない。10年もそんなことをしている。ただ、今更自分の心の動きに名前をつける活動以外に興味が湧き立つことがあるとも思えないのだが。

 

彼とはまた会う約束をして別れた。きっとその頃にはもう二つか三つの旅をしているのだろう。僕も二つか三つかの曲を作っているはずだ。

趣味や生活に貴賎はないか。