徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ガトリンが勝つということ

2008年の北京から山のような金メダルを積み重ねてきたボルトがいよいよ敗れて、ガトリンが勝った。多分ガトリンの金メダルには「ボルト敗れる」といった枕詞がつき続けるのだろう。

このガトリンという選手にどういった印象を持つか。ここ10年ほどの陸上界において、ボルトがあまりにヒーロー然としすぎてしまったが故、他の選手には光が当たりにくい環境だった。しかもガトリンについてはボルトが頭角を現した頃にドーピングに引っかかり、しばらく表舞台から姿を消していた。そのためか、カムバックしてからはヒーローとヒールのような関係になりがちであった。

ガトリンは12年ぶりの金メダルだという。

2005年。ヘルシンキ。今は仙人になろうかとしている為末大が400mhで銅メダルを獲得した大会。そこでガトリンは金メダルを獲ってから、日陰を歩んできた。一度勝った人間が勝てなくなる辛さといったらないだろう。陸上やってくる中でゴマンとそういう人を見てきたが、諦めないで突っ張り続けられる人間なんてそうそういなかった。性格が変わってしまうような人もいた。それが、世界一を極めた人間だとしたら尚更甚だしい。どれだけ気持ちが強いか。どれだけ真面目か。ガトリンの人となりを知らないが、12年間勝てなくても世界の一線を目指し続けるなんて所業は、相当の気持ちがないとできやしない。本当に素晴らしい。

一方、ヒーローボルトは10年間勝ち続けてきた。北京オリンピックで最初に勝った時はゲイとパウエルの二強を置き去りにして、世界記録を出しての金だった。当然のようにそこから世界大会での連勝を積み重ねてきた。あらゆるライバルの栄枯盛衰をずっと見つめ、最後のレースで、自分が勝つ前に栄華を極めたガトリンに負けた。

ガトリンに目線を向けた時、これほど劇的なストーリーもない。ボルトもヒーローだが、ガトリンもヒーローだ。どちらの物語も主人公たり得る。苦労人の勝利に拍手を送りたい。

寝不足でも頑張る姿勢を見せたい。

埠頭

埠頭が好きかもしれないと気づいたのは最近のことだった。物流倉庫に度々出入りするが、大抵の倉庫は船便のこともあり港湾地帯にある。そこはもれなく埠頭となっている。

工業の拠点となることも多い埠頭。今でこそ環境保護が声高に叫ばれているが、とてもクリーンな地域かと言えばそうではない。深呼吸をしたくない気分にさせられるような煙があがったり、臭いがしたりする。住みたくはない。少なくとも。

埠頭は自分のサイズがよくわかるから好きだ。馬鹿でかいトラックが連なって走ったと思えば波止場にはトラックの比にならないほどでかいフェリーが停泊している。さらにでかい物流倉庫が住宅街かのように密集している様は北海道の大自然とも、丸の内や新宿西口の画一なビル群とも違う、海と建物の圧力を感じさせる。やはり人間はどうしようもなく小さい。

小さい自分を認めて、悩み辛み嫉みがなんてちっぽけなんだ!という話はよくあるが、そこまで思い至らずとも、小さな存在だという事実が僕を安心させてくれる。とかく、僕らは何かを為すために生きようとする。しがない功名心や自尊心が疼くから。ただ、何かを為すのはなかなかに大変で、努力とお金と時間とアイデアと、盛りだくさんなインフラを投入して、それでも為し得なかったりする。そもそも努力のハードルが高いというのに。

埠頭を歩くと、為し得なくても仕方ないかなって気になる。自らの小ささたるや、布団のノミダニとなんら変わらない。何をしようっていうんだろうか、ノミダニが。なんて、ある種の諦観に浸ってどうしようもなさにヘラヘラしたいらしい。一種の心のバリアである。

品川の埠頭。モノレールから見下ろした埠頭では今日も変わらず重機が首を振り回していた。気温以上に蒸し暑さを感じる東京で、重機のそれは悶えているようにも見えた。そうか、お前も苦しいか。お互い頑張ろうな。

そんなことをふと思った。埠頭だけに。

ブログへの投資

嬉しいことがあった。

細々と光ファイバーの如く続けていたブログを、見ず知らずの人が日課のように読んでくれているという。何か話題になるわけでもなく、世間に問題提起できるわけでもなく、続けることしかできなかった。でも書き落として来た日々の出来事や考えがどこかの誰かに届いている。なーんて月並みでありがちなフリークエントを考える。

それを受けて、少しだけ時間以外の資源を投資したいと思った。

その昔、高校生の頃に初めて北海道で一番になった夜、部活の顧問から言われた言葉がある。もうお前だけの身体じゃないんだぞ。責任も伴うことをきちっとわきまえておけよ。怪我をするな、だらしない行動をするな。目立ちたいとかそういう邪心を捨てて、自分と地域のために走らなければならない。足りない頭で一生懸命責任を反芻した。

まぁ、なんというか、それに近い感情である。ブログについて。自分の満足だけじゃないぞ。きちっと書かなきゃ。読みやすくしなきゃ。

そういうわけで、はてなブログProにしました。ブログデザインも一新しました。

どのサイトを参考にしたかちょっとよくわからないくらいにいろいろなサイトを拝見し、つまみ食いしたような丸ごとパクったような、なんとも言えない感じなんだがしかし、そこそこに生まれ変わった。月別に記事が見られるようになった。ジャンルごとにも見られる。

どこかの誰かがこのブログを日課としてくれている事実に、なんとかして応えたかった。応えた。

どうか、ご覧ください。

もうダメかもしれない

洗濯機にゴミを捨てていた。ゴミ箱に洗濯物を入れた。

ゴミ箱に洗濯物を入れた段階で自分の行動の不可思議さに気づいた。なんで今ゴミ箱に靴下とシャツ入れたんだろうか…さっきまで両の手には紙くずと洗濯物。もしやと思い洗濯機の中を確認したらさもありなんといった顔で紙くずが出てきた。僕は心底自分に失望した。もう少し分別のついている人間だと思っていた。違った。

よく、メガネかけながらメガネ探したり、ハサミを手に持ちながらハサミを探したりみたいな笑い話を聞く。なんともベタな滑稽だ。でも、その渦中は甘くない。絶望的なほどの無力感に襲われる。今だってそうだ。洗濯機に間違ってゴミ捨ててたんだ!ゴミ箱に洗濯物入れてたんだ!こんな話をしたらありがちでインスタントな笑いを得られるかもしれない。しかしダメージの方が圧倒的に大きい。不確かすぎる。自分が不確かすぎる。確かに歩いていた足場が途端に崩れてしまうような恐怖。記してきた足跡が全て偽物になってしまうような不安。

叙述トリックの小説を読んだことがあるだろうか。

最近話題になったのだとイミテーションラブあたりが有名だ。ミスリードを読者にさせまくって最後の最後でどんでん返しを仕掛ける戦法。あれ、読んでいると種明かしの瞬間に自分の組み立ててきた頭の中の物語が総崩れする感覚に襲われるんだけれど、まさに今回のゴミ箱洗濯機錯誤事件にて同じ感覚を味わった。

これまでの仕事でも同じようなことをやってきたのではないか。バレていないだけで、途轍もないミスをしでかしているんじゃないか。洗濯機にマヨネーズを入れて、衣服をゴミ箱に捨てて、ゴミを冷蔵庫に入れてたりしてるんじゃないか。

疑心暗鬼が止まらない。もうダメかもしれない。

BiSH「Nothing.」のMVが公開されたのでめっちゃ洗濯物畳んでこれ書いてる

寝ようと思ったんだけれど公開されてしまっているものは見なければならず、見たところどうしても眠れるような状況じゃなくなったため、シャワー浴びるの明日にしようかなとか、食器洗うの明日でいいやとか、そういうの全部済ませてから机に向かっている午前一時。血行が良くなって発疹が少し痒い。

www.youtube.com

ミニアルバム「GiANT KiLLERS」よりのMVカット。

丁度一年ほど前、アユニ・DがBiSHに加わった直後のZEPP tokyo公演。その舞台裏からMVは始まる。アユニ加入後から幕張までのBiSHの断片が詰まっている映像だ。

正直、この映像に収録されていることをどうこう言えるほど僕はBiSHのことを知ってはいないだろうし、見てもいないと思う。ライブにも行っていないし雑誌を買ったわけでもない。曲聴いているくらいしかしていない。だから、書けることも多くない。感じることも多くはないはずなんだけれど、いやに揺さぶられる。

映像どうこう以前に、まず楽曲だろう。

松隈ケンタという方が作って編集する楽曲は本当にエモったらしい。どうしようもなく。既視感というか既聴感を抱くが、それが心地よい。耳馴染みなんてものは所詮これまで聴いてきた楽曲に大きく左右されてくるわけで、20代半ば、J-POPやJ-ROCKと共に生きてきた人間にドンピシャな曲をうまく作られてしまっている。乗せられてしまっている。それも心地よい。メロコアとかエモとか言われるジャンルにピアノを乗っけると漏れなく素敵なロックバラードができる法則に忠実である。また、歌詞はモモコグミカンパニーが書いている。彼女は彼女で恥ずかしくない歌詞を書く。BiSHの所属する事務所であるWACK界隈ではメンバー達が歌詞を書くことが多いらしい。BiSHでもメンバー達各々が歌詞を書いている曲が発表されている。が、中でもモモカンの歌詞の恥ずかしくなさは素晴らしい。主張を言葉に込めながら絶妙に本心をオブラートに包んでいる。書き慣れていないと生皮むき出しみたいな歌詞になって聴く方も恥ずかしくなるのだが、それがない。

孤独が運命なんて言葉虚しいな

そう思わない?

にしろ、

飛べない鳥と立てない僕が

悪口ばっかしょうがないしょうもない

はい あきらめない

にしろ、結構なパワーフレーズである。「孤独が運命…」のフレーズは多分放っておいたらBUMP OF CHICKENの延長線上に生まれてきているようなバンドたちが歌う気もするけど、「飛べない鳥」と「立てない僕」を並べて、「しょうがない」って言った直後に「しょうもない」と切り返して中指立てるのはモモカンしかできなかったんじゃなかろうか。「地上の星」と「現場叩き上げのサラリーマン」を並べた中島みゆきと同じくらいすごい。どうやらモモカン中島みゆきを並べたがる気があるらしい。まあいい。

映像は先述の通り。言わずもがな。

オフショットとライブ映像を織り交ぜたファン垂涎の内容。BiSHとしての努力のお話が紡がれている。

努力である。

BiSHまじで頑張ってるな応援しようって気持ちもそうだけど、自分自身がこれまでどれだけ頑張ってきて、今どれだけ頑張っていて、頑張っていなくて、これから何をどれだけ頑張っていくかをぼんやり考えさせられる。6人で何千人と集める商品がBiSHだ。言い方はあれだけれども。しかし、商品としての魅力を磨き続けるのはとてつもないレッシャーがかかる。晒される恐怖もあるだろう。何万人に好かれて何百人に嫌われるストレスなんて全くもって推し量れない。でも努力して立ち向かっていくわけだ。翻って自分は果たしてどうか。頑張ってんのか。深夜の自問自答は苦しいだけなのでやめる。

 

気持ちと言葉が纏まらなくなってきた。雑にまとめると、可愛い女子達が汗水垂らして涙流してのし上がっていくサクセスストーリーの5合目までをプレイバックしているような映像なんで、どうあれ見て全く損はないと思うという話でした。

以上。

同類項と気合い

今日は隅田川の花火大会があったようで、浴衣姿の方が散見されました。雨模様でも無事に決行されたのでしょうか。詳しくは知りません。神のみぞ知る。現場のみぞ知る。

さて、大学の同期と会った。福岡に転勤になった友人が上京してくると言うので同じゼミで親睦を深めた連中と集まった次第。それは毛の一本も生えない話をかき回して終わった。なるほど、山崎豊子もこの飲み会をして不毛地帯を書ききったか。勉強になります。

しがない学校の文学部に含まれる心理学科にて机を並べた連中数人。各々の道に進み、各々の酸いと甘いを少しずつ味わって改めて合間見えると、なんだかんだ言ってお互いの感性が近くて面白い。ぼやっとした話をぼやっと全員でかき回していけるのはとっても貴重な空間だった。話しがひと段落した時にはどこから話し始めたんだかわからなくなるようなごちゃごちゃ。今日の日経でも雄弁に語っていた孫正義が「朝起きた時は今自分がどこの国にいるのか確認してしまう」と言っていた。同じようなことです。

高校、大学、社会と、さも自分たちで選んだかのように選びとって来た人生ではあるが、学校であり会社に選ばれてきていたのだろう。本当に似たような人間が集まっている。少しずつど真ん中を外しながら同じストライクゾーンにいる人間たちが集まって生きている。それが学校の色であり、社風になっていくのだろう。

とかく同年代と関わることの少なくなりがちな社会。改めて自分がどう言った価値観を持っていて、どう言った話に興味と関心を持つのかを改めて咀嚼するのには十分すぎる一日だった。

それはそれとして、なぎ倒さねばならない連中がたくさんいるのでちょっと目瞑ったら気合い入れていく所存。以上。

西友 LIVIN錦糸町店。トイレットペーパー。実質値上げに技術の進歩を見る。

わが町錦糸町にはみんな大好きスーパーマーケット西友がある。歴史深い商業施設である楽天地の地下に入っている。安定した安価を実現してくれており、八百屋まで行く元気ないけど家に何もない緊急事態に対応してくれて憚らない。助かっている。そんな「西友 LIVIN錦糸町店」もこの10月で改装に向け閉店だということで、一抹の寂寞が胸に去来したりしなかったりらじばんだり。

さて、西友にはプライベートブランドがある。「みなさまのお墨付き」と「きほんのき」。「みなさまのお墨付き」は比較的有名ではなかろうか。定期的に消費者テストを行い、合格ラインに達しなかったものに関しては商品を見直す。安価ながら品質も良く、消費者の味方になってくれている。一方の「きほんのき」はさらに安価なのだが、品質は確実に落ちる。ハンドソープであれば洗えればいいんでしょ?泡だてばいいんでしょ?って最低限の機能だけを搭載した商品だ。想像の斜め上をいく安かろう悪かろうなので、本当にこだわりがないものだけ「きほんのき」で済ませている。掃除のコロコロとか。クイックルワイパー的なあれとか。

先日購入した「きほんのき」のトイレットペーパー。トイレットペーパーなんてどうせ水に流すんだから品質なんかどうでもいいってことで、「きほんのき」を使っている。いつもと変わらない安価で12ロールがハイスペックなロケットランチャーのようにゴツくも整然と並んでいた。いつものように買って、いつものようにトイレットペーパーがなくなって、いつものように付け替えた。

不意にトイレットペーパーを引っ張った時、どうも普段の感触と違った。薄いのである。ちょっと薄いとか、そういう話ではない。引っ張るとトイレットペーパーホルダーの上蓋の重さに負けてすぐ切れる。多分数グラムの重さにさえ耐えられないほど薄くなってしまっていた。文句を言うつもりはない。毛頭ない。何が欲しいって安価なトイレットペーパーが欲しいわけで、安価で品質の良いトイレットペーパーを求めて「きほんのき」を買っているわけではないからだ。それに別に重ねりゃ破れないし、なんなら貧乏根性でめっちゃ折って使うから問題ないっちゃない。むしろ、何したらここまで薄くできんのよって感嘆の気持ちがある。和紙をすごーく薄く梳く職人が取り上げられたりするが、利益を重視した結果そういった職人技の域まで技術が昇華されたんじゃないかとすら思う。まじで薄い。

野菜が不作で、同じ値段でも個数が減ってたり小さくなってたりって話は聞くが、トイレットペーパーを薄くするって発想が白眉だ。なんなら技術上がってるんでないっすか。

これからはおそらくあの薄さがスタンダードになるので、ぜひお近くに西友があるご家庭の方は一度買い求めたみるといいと思う。技術の粋を感じられる。無論、ウォシュレットには完全非対応なので、注意されたい。

ビジネスの創作と魂の浪費

この間、高校の同級生が泊まりに来た。彼とは幼稚園からの付き合いだ。大学院まで英米文学を突き詰め、今は田舎で教鞭を取っている。彼は読むのも書くのも好きで、かつてはノーベル文学賞を取ると言って憚らなかった。今その夢はどこにあるのか、彼にしかわからない。でも、すごく書きたいって言ってた。書けばいいと思うし、読みたいとも思う。

さておき、得てして創作にはエネルギーが必要だよねって話をした。これには誰もが納得するところだと思う。以前、ロックスターは統計的に見ても早世するといった記事がネットニュースに上がっていた。リンキン・パークのべニントン然り。人生がろうそくだとして、人の何倍もの火力で人生の蝋を溶かしまくって燃え尽きていくイメージをするとすごく分かりやすい。それだけ、創り続けるには命の火力が必要だし、むしろ人並みはずれた火力をもつ者のみが創作者たり得るんだろう。

このような生粋の創作者とは別に、ビジネス創作者もまた存在する。例えば大川隆法なんて、2000冊を超える著作がある。渾身の力を振り絞ってたら命がいくつあっても足りない量である。ここまでの例は極端であるにしろ、つんく♂秋元康小室哲哉などのプロデュースと楽曲提供を生業としている人たちは、多分だけれど創作に命を燃やしてはいない。いくつもいくつものプロットをストックしていて、それらを組み替えたり入れ替えたりしながら、数多の作品を創る。作業っちゃ作業だろう。

彼との話の中では、やはり命を燃やし尽くす創作こそ創作だろうなと結論した。言葉や音楽に魂をぶつけて散っていった先人達をみると、ある種早世こそが表現者だとすら思う。感情ど真ん中ストレートを表現するのは本当に辛い。苦しい。批評なんかされた日には生きていられない。人生を批評されているようなものである。思春期のころ誰でも一度はやるであろう生暖かいポエム執筆。あれこそど真ん中ストレートで、大抵は見せるに耐えない代物となり記憶の彼方に葬られていくが、一部、本当に一部の人だけ、むき出しが受け入れられる。受け入れられてしまう。心の擦り切れが商業ベースに乗った瞬間、スターが誕生する。そして燃え尽きるまでのカウントダウンが始まる。ポストロックのような凝った表現じゃなく、社会や市場のテーブルにポッカリ空いてた穴にすぽっと入っていって、それっきりである。

ある種、物理的に生き残っているアーティストの中に激情型なんていないのだろう。感情とある程度友好な関係を気付きながら、うまく創っている。一度は命をすり減らしながら、燃え尽きないために距離の取り方を学んでいくのだ。言いたいことを言えた気がしても、結局感情の遥か手前をウロウロしているだけだったりする。彼が文学賞をとるとして、どんな文章で取るのだろうか。どんな文章を書いていくのだろうか。燃やし尽くした文章を読みたい。毎日ブログを書くみたいなロングブレスダイエットではなく、大爆発で全部酸素をなくしてしまってほしい。

応援している。

帯状疱疹を発症した

なにやらここのところ左半身の皮膚がピリピリしていた。気のせいだと言い聞かせながらポイポイポイポイと日常をぶん回していたが、昨晩ピリピリで目が覚めてからというもの、どうしても左半身が気になり、どう考えてもニキビではない吹き出物が散見され出したのとリンパが腫れたのとで恐怖を感じたため、病院に駆け込んだ。帯状疱疹と言われた。神経がどうかなって疱疹が出る仕組みだという。僕の場合は胴体の方と下肢の方の二箇所の神経がどうかなってるらしい。「今ヘラヘラできる神経を疑う」と、他人以上友人未満の人にかつて言われたことがあるが、確かに神経を疑うべきだった。原因はストレスと疲れ。疾患原因打線の三番と四番を担うであろう二者が僕の身体を蝕んだらしい。昨今の原因探しはストレスと疲れ一辺倒過ぎやしないか。ストレスと疲れですね!と言われれば、誰でも心当たりあるじゃん。みんなそうですね…って気持ちになるじゃん。僕もそうですね…疲れてたかもしれないですね…ってなった。そんなヤワじゃないと突っぱねる力はなかった。お酒は一週間くらい控えろと言われ、運動も差し控えろと言われ、風呂もダメだと言われた。動きたくもないしシャワーで結構だが酒はどうだ。酒は…と思う先から左半身がピリピリピリピリしている。発電でもしてんのかよ。東電に売りつけてやる。とりあえず少なくともここ3日くらいは品行方正をモットーとして生きていきたい。しかし医師はまだまだ発疹広がるよ!と、やけにご機嫌な口調で教えてくれた。まだ股関節からわき腹にかけてのピリピリだが、これがしばらくするとお尻から太もも、腹部にまで広がってくるらしい。注射はしてくれたものの、すぐ効くわけじゃないからね〜とごもっともなお言葉を下さった。おっしゃる通りでしょう。帯状疱疹と病名がついてから、途端に余計具合悪くなってきた気がする。熱っぽいっちゃ熱っぽい。つーかピリピリする。ピリピリが止まらない。高温多湿のアスファルト砂漠も絶対良くない。服を脱ぎ捨てて草原を吹き抜ける爽やかな風にでも吹かれたいと思う。肌に触れるものを極力減らしたい。スーツなんてもってのほかだ。ベルトも苦しい。締め付けないで。ピリピリしてるから、今。可愛い体調不良をいくつもやってきているからわかるが、これもいつかは思い出だ。ピリピリしてたなぁ。痒かったなぁ。その域まで持っていくのにあと幾ばくの時間がかかろうか。さっさと治すに限る。医師からはキマりそうな錠剤をたくさんもらった。飲み切る使命を仰せつかった。ヤク漬けである。大いに結構。まだまだ忙しい。戦線から退場する方針は立てられないのである。

BiSHの幕張メッセ公演の映像を見て思ったこと

去る7月22日、敬愛するBiSHが幕張メッセワンマンを敢行した。キャパ7000人。sold out。そこそこな地方自治体一個分の人口が集った。BiSHを観るために。先だって発売されたミニアルバム「GiANT KiLLERS」の楽曲を核として、往年の曲も交えての公演。遠くから、仏様のように成功を祈っていた、しがない清掃員が僕です。

www.bish.tokyo

さて、すでにavexの公式アカウントからYouTubeにライブ映像が上がっている。早速拝聴した。ここ1年で指数関数的に動員数を増やしてきた彼女たち。共に歩んできた清掃員たちの熱帯雨林の如きジメッとした熱気が画面を通しても存分に伝わってきた。野音の時は被せまくってた歌唱だったが、今や被せもなくなった。BiSHの成長も本当に著しいものがある。

www.youtube.com

BiSHには振付師がいない。アイナ・ジ・エンドが振り付けを考える。他のアイドルの振り付け事情をよく把握していないのだが、BiSHを観て、振付師の存在がどれだけ偉大かを感じた。確かに、アイナは踊れる。6人の中ではぶっちぎりである。しかし振り付けを考えるとなるとまた別で、プロの振付師のそれには及ばない。

GiANT KiLLERSのライブ映像を見ただけだが、幕張メッセのステージがとても広く見えた。6人が懸命に踊るステージ。もっとスペースが使えるんじゃないか。もっと広く大きく踊っていいんじゃないか。せいぜいマツケンサンバくらいしか踊れない男が何をいうかと言われればそれまでだが、踊りの空白を感じた。多分、彼女らのダンスは総合してみて、上手い方ではないのだと思う。アイドルのそれとしては。

しかし、これはネガティヴな話ではない。

清掃員がステージ上の空白を埋めていた。それで成り立っていた。それが成り立っていた。

ものすごく踊りやすい振り付けをみんなで踊り、わかりやすくコールしてねって用意された間奏で狂ったようにうりゃおいする。タイガーファイヤーサイバーする。小さなキャパの会場ではなく、幕張で。オーディエンスまで含めて一つの作品であった。

楽器を持たないパンクバンドとしてあり続ける彼女らに必要なのはダンスのテクニックでも可愛さでもなく、気持ちなのだろう。世の中への不平不満。それを松隈氏のエモったらしい曲に乗せて叫ぶ。踊る。清掃員はBiSHにカタルシスを感じて叫ぶ。踊る。脳みそストップしながら、脊髄からの命令に従って。ドーパミンを出している最中、彼らはBiSHを見ているようでBiSHを見ていない。自分自身と向き合っている。日頃の不平不満を一挙手一投足に込めて散らしている。アイドルが偶像となりファンが崇拝する形ではありえないライブだろう。それこそまるでパンクバンドのライブだ。

ファンとアーティスト、お互いがお互いの触媒となっている今のBiSH界隈。しばらくはどうやったって燃え続けるのではないかと思う。燃えろ燃えろと思う。ほどほどに薪を焚べながら。

 

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