辛いことがあった時、ブログを書きたくなると言った。
昨日のことだ。
さあ、今朝の話をしよう。
年の瀬が押し迫ろうとする今、僕の部署は最繁忙期を迎える。そのプロローグとも言える本日、いつもよりも圧倒的に早い電車に乗って会社へと向かい、いつもよりも圧倒的に遅い電車で帰る予定であった。それでもルーティンは欠かせない。早起きはしても普段のリズムは変えず、弁当を作って、作りながら身支度して、会社へと向かった。
やはり、ある程度の集中力と段取りが求められる。僕は珍しく電車の中で集中していた。普段はゴミクズみたいにスマホをポイポイしているのだけれど、今日に限ってはメモ帳とにらめっこである。にらめっこしても働きは割とゴミクズである。それは置いておいて。
散々今日一日をぶん回す方法を反芻して、勤務地に着き、改札を出た時に気がついた。
僕は身軽になっていた。
そう、弁当を電車に置いてきたのであった。
まず、頭に浮かんだのは今日という日に弁当を作った労力を無に帰した罪深さである。つまり簡単にいうと、「せっかく作ったのに悔しい」ということである。入れ物よりも中身の後悔が先に立った。
何を好んでクソ忙しい一日の前に弁当を作ったのか。
起床後のまどろみも秒単位で脱ぎ捨てようと、起きた瞬間にミンティアのコールドスマッシュを大量投与して腹を痛めた結果が、益に全くならない身軽さであったとはいかなる不可思議。消えて無くなりたい。消えて無くなったのは弁当箱。
中身もされど、外身も失った。
僕は節約の原資を根こそぎ電車に刮ぎ取られたのだ。ついでに水筒も。あと携帯歯ブラシも。
でも正直、弁当箱は満身創痍の状態であった。
こう言ったことで、ボロボロだったので、買い替えのタイミングだったんだねと自分を慰める。
夜になってみて自らに降りかかった災難をやっと飲み込めてきた。やる気を見せた身から出た錆であったのだが、それでも納得するには時間がかかった。
ひとしきり落ち着いた今思うのは、あの弁当箱これからどうなるのだろうかってことだ。
車両冗談に鎮座している袋を駅員さんが見つける。
開ける。
誰のだかわからない弁当と水筒と歯ブラシが入っている。
しかもなんか重い。中身が入っているようだ…
このあとどうするだろう。
遺失物として処理されるだろうが、箱の中とかを確認するだろうか。何処の馬の骨ともわからない奴が置いて行った弁当箱を開封するだろうか。
否。
開封しないとみた。だって気味わるい。すると密封されたままきっと今もどこぞの駅事務所に置いてあるだろう。
かと言って、簡単に捨てられもしない。
嘘でも人様の物である。苛立つ乗車客を天使のごとく宥め賺す駅の方々が、そうやすやすと人の物を捨てるわけがない。必ずしばらく取って置くであろう。はて、すると中身の白米と玉ねぎと鶏肉と人参の卵とじはどうなるのだろう。腐るのか。腐ってしまうのか。
それは悲しい。断腸極まりない。
例えば僕が「持ち主です。捨ててください。」と電話したら済むことなのだろうか。ひと思いに処分の英断を下してくれるか。なんとなく捨てない気がする。本人確認云々と言われて、話がこじれていきそうな気がする。
すると、だ。
僕が迎えに行かない限りは弁当は腐り続ける運命にあり、例え迎えに行ったとしてもその時点ですでに腐っているなんてことが想像できる。
どうしたらええねん。私、どうしたらええねんな。
とりあえず明日あたりに駅に電話してみようと思う。
並びに、新しい弁当箱を買うこととする。
ちなむと佐渡ヶ島には行ったことないです。何が美味しいのか存じ上げておりませんが。行ってみたいです。