徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

最後の夜桜

今週のお題「お花見」

帰り道に通りすがる民家に、不相応なほど大きな桜が植えられている。北海道の投げ売りされているような土地であらばともかく、東京の土地である。さして広くはない敷地の中に、大きな桜。その桜をに沿うように、街灯が一つ照っている。

夜桜。

色味や輪郭がわからなくなる夜。そこらじゅうがぼやける中、桜だけが確かな輪郭と色を保っている。モノクロの中でそこだけがフルカラーのように際立つ。夜桜は夜と対比するからこそ綺麗だ。

 

母方の祖母が亡くなって初めての彼岸に線香をあげに行った。

鉄工所の女将として生涯を尽くした祖母は、晩年、じいっと外の景色を見つめ、往来する社員たちに声をかけ続けた。ご苦労さん。いらっしゃい。よくきたね、なんか食べて行きなよ。小さな体を大きな座椅子に寄りかけて、半身をコタツに突っ込んでぬくぬくと暖をとりながら、目だけは外を見つめていた。寝付くギリギリまでそうしていた。

久しぶりに尋ねた祖母の家。写真だけになってしまったものの、祖母は変わらず同じ席から外を見つめていた。朗らかというよりは、キリッとした写真を遺影に使ったため、まさに女将という感じで未だに工場を見ているようであった。

 

亡くなる6、7年くらい前からじわじわと認知症の影が迫ってきていた。母を含めた祖母の子供達は相当に気を揉んだと思う。最晩年は体も弱って寝たきりになっていってしまったのだけれど、床に伏す少し前、僕と母と祖母と叔父だったか、いとこだったか、何人かで桜を見にいった。

祖母の家がある佐倉市は昔、堀田氏という大名が治めていて、佐倉城跡地が城址公園になっている。公園にはたくさんの桜。通りを挟むようにして枝垂れる桜のゲートを潜るように車を進めた。

そのときも夜だった。街灯に照らされ、手毬のように咲いた桜が風に吹かれて舞う。光と陰を捉えながら降る桜がそれは綺麗だった。

祖母の体のこともあり、車の中からの桜見物。凱旋パレードくらいのスピードで進む車。祖母も綺麗だねぇ綺麗だねぇと言っていた。綺麗だねぇしか形容する言葉を持たなくなってしまったのか、それとも心からの感動を綺麗としか言い表せないのか。後者であれと、祖母の言葉を聞きながら思ったことをよく覚えている。


最後はすべての力を使い果たして逝った祖母。きっと記憶も脈絡のない断片的なものになっていたろう。その片端にあの夜桜はあったのだろうかと、家路の夜桜を見て考えた。

認知症が、忘れるということが、世の中の煩わしいことを一つ一つ落としていく過程であればいい。綺麗なものや美味しいものだけが残って逝けたのならいい。何時、何処の景色かはわからなくても、最後に見た桜くらいは脳裏をかすめていただろうか。誰も知り得ない夢うつつの中で。