僕のために作られた映画としか思えなかった。それほど、心揺さぶられた。
これまで、何度も観たいと思える映画に出会ったことがなかったけれど、これは観てみたいと思う。清々しいほどにいい映画だった。薄れゆく記憶の中、何が良かったか書き残しておきたい。
以下、見ている人にしかわからない文章です。
作品の筋
大きく三つの筋があったと思う。
- 死者と現世との関わり
- ミゲルのサクセスストーリー
- ミゲル一家とデラクルスとの戦い
このどれもが有機的に絡み合って、一本の物語を成していた。
死者と現世との関わり
これが一番の主題だったろう。「死者の日」。日本でいう「お盆」をストーリーの真ん中に置いて、死者を祀って忘れないでいることの大切さを説く。
・死者の国の存在
・死者の日に現世に渡るためには誰かが祭壇に写真を祀っていなければいけない
・死者の国で生きていくためには生前の思い出を誰かが覚えていてくれないといけない
ベタながらもこれらの設定が巻き起こすファンタジー。
忘却が二度目の死を生む中で、ヘクターとココ、ミゲル、デラクルスの関わりが一番の泣き場だった。
娘・ココのために書き下ろした曲、「リメンバー・ミー」を、ココが忘れかけているため二度目の死に瀕しているヘクター。対して、ココのために作られた「リメンバー・ミー」を盗作し大ヒット、世界中の人に記憶されているデラクルス。そして全ての真実を知る、唯一の生者、ミゲル。
ヘクターの不遇に涙、ココが忘れる前に真実を伝えられるかのハラハラ、ミゲルに真実を託して消えようとするヘクターに、また涙。現世に戻ったミゲルがココに歌いかけた「リメンバー・ミー」でココの記憶が戻った瞬間にさらに涙、現世でのヘクターの沽券回復にも涙。
多分、誰もがそうだ。みんなここで泣いている。とかく生死とか忘却とかの話に僕らは弱い。脆い。
ミゲルのサクセスストーリー
コレもまた熱い。
ひいひいじいちゃん(ヘクター)がミュージシャンになるために家を飛び出したために苦労を強いられたひいひいばあちゃん(イメルダ)が定めた掟、「音楽を禁ずる」に抑圧されたミゲルの音楽志向。
劇中で、ヘクターのギターに合わせて歌うのが好きだったと漏らしたり、デラクルス主催のサンライズコンサートで圧巻の歌唱を披露したりと、鉄の掟制定者であるイメルダもミュージシャン気質であることが発覚。そりゃミゲルも血は争えないよねと。
デラクルスがひいひいじいちゃんであるという仮説は外れてしまったものの、血縁にミュージシャンがいると踏んだ時のミゲルったらなかった。頑なに次ぐ頑な。僕はミュージシャンになるの一点張りで死者の国を沸かせるのだから立派である。最後は報われるあたりもさすがピクサーなのだろう。
屋根裏部屋のコソコソ演奏から死者の国のステージ、そして現実のステージへ。ミゲルの一足飛びでのサクセスストーリーもとても分かり易かった。
ミゲル一家とデラクルスとの戦い
少年少女が一番わかりやすく燃えるのが多分この筋である。
正義の軍団ミゲル一家と、ヘクターを毒殺した上で「リメンバー・ミー」を盗作、その後スターダムにのし上がっていった手段を選ばない男デラクルスの戦い。
デラクルスが悪者だとわかってからの憎たらしさといったらこの上なく、失脚してからの始末のされ方といったら清々しいことこの上なかった。
つまりが勧善懲悪のストーリー。みんな大好き勧善懲悪。
デラクルスがひいひいじいちゃんかもしれないとミスリードさせてからの手のひら返しも、ちょっとしたどんでん返し気分を味わえて良い。多分なんぼか伏線が仕込まれてたと思うがしかし、そこまで気が回らなかった。もう一回観てみたときにでも。
心が揺さぶられたワケ
映画や漫画、音楽のような芸術作品において、僕たちが「良い」と思う基準とはなんだろうかと考えたとき、それは共感できるか否かであると思う。お話の流れや曲調を理解できるかどうか、そしてそれが自分の中で落とし込めるか、共感できるか。これ以外にない。
昔ラブソングについて考察した。
生きとし生けるものは、恋愛をしろ、子孫を残せとDNAに刻まれちゃっている。だから大なり小なり形態はどうあれ、僕らは恋愛をする。そのため、ラブソングにはいつだって共感できてしまう。そんな話。
ディズニーのような一応子供向けに作られている映画は、とかく共感がしやすい構造になっていると思う。代表的なのが勧善懲悪で、「悪いものは駆逐されるべきである」といったプロットは神話の代から続いているほどに共感されやすいお話である。
恋愛や勧善懲悪の映画作品が多いのは、商業ベースに乗っている映画において外しにくい題材でもあり、誰もが作品として残したがるテーマであるためだ。
今回のリメンバー・ミーも、漏れなくそう。
普遍的なテーマである生死観を幹として、思春期に誰もが味わったであろう「家」や「ルール」の面倒臭さやそれを突破していくミゲルの意志、さらに解りやすい勧善懲悪も乗っけて提供されているのである。面白くないわけがない。
共感度合と良し悪しが比例するなら、共感の度合が激しいほど良作と認識される。
今回、僕個人にとってのリメンバー・ミーは、あまりにも共感が過ぎた。
祖母が亡くなって初めてのお彼岸がこの間あった際には、祖母の家にいってひとしきり感傷に浸ってきた。滋賀にある本家のおばちゃんが亡くなった際の法要に出向いた際には、遠い親戚と古い写真を見ながら共通の先祖の話をした。その写真の多くは誰だかわからない人になってしまっていた。100年前にもなっていないのに。このところそんな調子で生きることや死ぬことに関して考えることが特に多かった。
また、僕の傍らにはずっと音楽がある。ギターも弾けばピアノも弾くし曲も作る。大したレベルじゃないにせよ、ずっと趣味で続けている。何度かステージにも立って、音楽で食べていこうとする人とも何人か知り合って、その魅力も感じている。サラリーマンに何不自由ないけれど、じゃあ今すぐ音楽で食べられる道が開かれているとしたら、僕はどうするかわからない。
そして頭が悪いので勧善懲悪みたいなわかりやすいストーリーにカタルシスを感じやすい。
役満だった。明らかに、僕のための話だった。
その上当たり前だけど馬鹿みたいに映像は美しい。
「魂のガイド」たちの色彩にしろ、街並みにしろ、平気な顔して僕らの想像の450度くらい上をいく死者の国を作り上げるピクサーの技術力にひれ伏す。
共感の渦と美麗映像の雷に打たれ、あえなく大感動してしまった。
まとめる
感想を絞り出さなければいけない作品は、多くある。
何を伝えたかったのかわからない映画や本。それらにも必死に意味付けしながら、共感しながら感想文を書いたりするけれど、本当に自分に合った作品、世の中に認められた作品は、感想なんて簡単に抱けてしまうものらしい。それもたくさんの感想が頭の中に一気になだれ込んできて、果たして何に感動しているのかがわからなくなる。
感想を解きほぐすにも時間がかかるし、一回見ただけじゃ何に感動したかわからないから、もう一回見たい気持ちに狩られるのだろう。
リメンバー・ミーにはそうそうない貴重な体験をさせてもらったように思う。
個人的大傑作でした。
大満足。