徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

首都大学東京に抱く違和感

首都大学東京。「首都大」とかって呼ばれている、公立の大学として、非常に高い難易度と人気を誇る大学である。僕なんかが背伸びしたって跳躍したって合格できていたかわからない。でも、首都大学東京という名前がどうしたっておかしいことはわかる。誰もが抱く違和感だろうし、その違和感の出処を探るのは非常に簡単だ。だがあえて今一度、違和感にメスを入れていきたいと思う。しかし当方国語的な話は全く持って専門外なので、ラフなスタイルでメス入刀する。

とかいって入刀もなにも、問題点はただ一点。語順である。

カレーパンで考えてみよう。

カレーパンはあくまでもカレーが中に入っているパンだから、カレーパンである。これは、名詞を説明する修飾語である形容詞は、名詞の前に置かれる約束に基づいた語順だ。もしかしたら例外があるのかもしれないけれど、25年近く生きていてカレーパンがカレーだった例がないので、ほぼほぼ100%形容詞は名詞の前に来る。この法則は言葉の飾り付けが増えたって変わらない。例えば、「佐藤さんが生み出した糖度の非常に高いかぼちゃであるサトウカボチャをふんだんに使用したドライカレーが中に入っているパン」を説明しようと思うと、「サトウカボチャドライカレーパン」になるわけだが、これはサトウでもカボチャでもドライでもカレーでもドライカレーでもない。パンだ。

このように単語が羅列されるタイプの修飾ラッシュの面白いところは、最後に来た単語の形態に依存する点にある。「サトウカボチャドライカレーパン」の後ろにうっかり「粉」をつけると、「サトウカボチャドライカレーパン粉」となり、突然パン粉になってしまうし、うっかり「トースター」をつけると「サトウカボチャドライカレーパントースター」となり、ものすごくニッチな家電と化す。

前の名詞が後ろの名詞を説明し続ける日本語。スペシウム光線は光線だし、キン肉バスターはバスターだ。でも、首都大学東京は違う。首都大学東京は東京ではない。

これは言葉の異常事態なわけだ。カレーパンがカレーになってしまうのと同義なのだ。レストランに行ってビーフシチューを頼んだと思ったら、肉塊(ビーフ)が出てきてみろ。クレームを入れる気も失せるだろう。それくらいのぶっ壊れ言語こそ首都大学東京なのだ。あくまで首都大学東京は大学であり、自明のごとく「東京首都大学」もしくは「首都東京大学」なるべきだった。どんな力が働いて「首都大学東京」となったのだろう。

首都大学東京 - Wikipedia

なんとなく読んでみると、前石原都知事虎の子の公約により生まれた大学であり、ネーミングは公募だったようだが実のところどうなのかはわからない。素人ではとても思いつかない語順である。

やっぱり芥川賞作家でもないと思いつかないんではないだろうか。

センサー式の蛇口のスイートスポットについて

最近蛇口をひねることがなくなった。センサータイプがあらゆる公共のトイレに整備されてきたためだ。蛇口ないしはノブをひねって水を出すのは家でだけ。そんなライフスタイルが当たり前になりつつある。蛇口をひねらずに水を出し、センサーで石鹸が出てきて、ジェットタオルで手を乾かす。すべてが赤外線で管理されている最近の手洗いはすごい。何にも触れることなく一連の動作を完結してしまうのだ。抜群の衛生管理。一昔前の人が見たらまるで魔法かなにかを使っているようにしか見えないだろう。

行く先々でトイレに入ってきた。尿意と便意は全く僕のコントロールを超えたところから降ってきて、「トイレに入ってよ、トイレに入ってよ。」とせがむ。仕方ないなぁとトイレに入る。用を足して、手を洗う。もちろん蛇口はセンサー式。手をかざす。

この瞬間である。果たして何人の人間がすんなりと水を出すことができるのだろうか。センサーのスイートスポットを、初見で当てることができるセンサーの申し子が世の中にどれだけいるというのだろうか。

僕は数々の蛇口と付き合ってきた。「ここ?ここかな?もうちょっと奥?近く?どこがいいの?」と、無機物の急先鋒である蛇口とイチャイチャし続けてきた。目を隠して僕と蛇口とのやり取りを鑑賞したらきっとそれは恋人同士の営みにしか見えないだろう。心なしか蛇口の造形がいやらしく思えてくる。ひとしきりイチャイチャしつくして、やっとこさスイートスポットを見つけたと思ったらすぐに水が止まり、おかしいなと思って手をいろいろな位置に動かしても出てこず、手を一回引っ込めて再びかざしてみる行為を続けているうちに、どじょうすくいみたいになって楽しくなっちゃう。ふと我に返って、なにやってんだろって虚しくなる。そんなエブリデイ。

会社でよく使うトイレってのは大体決まっていて、そこの蛇口のスイートスポットは流石に長い付き合いなので完全に把握しているつもりである。妻みたいなものだから。でも、たまに違うトイレに行って別の蛇口に浮気をするとその子は全く違う場所で反応するもんだから困ったものである。そう、蛇口にも個人差…いや、個口差があるのだ。手前がいい蛇口、奥がいい蛇口、近づければ近づけるほど反応する蛇口、ちょっと離すくらいがちょうどいい蛇口。みんな違ってみんないい。誰がどうとは言えない。

隣で新参者が僕の配偶蛇と一悶着繰り広げている。心のなかでアドバイスをする。そこじゃないよ、もうちょっと左側だよ。もっと近づけなきゃわかってくれないよ。少し微笑んで僕は側室的な存在の蛇口のスイートスポットを巧みに突き止めて水を出し、颯爽とトイレを後にするのだ。

俺もあんな時期があったな…なんてほくそ笑みながら。

たとえマナーが云々と言われても、別に電車の中で化粧を咎めはしない

本日、日中、電車に乗っていた僕は、斜向かいのアラサーと思われるお姉さまに釘付けになっていた。彼女は化粧をしていた。

世の中一般において、電車での化粧については物議を醸しがちな話題である。家でするものだ。はしたない。行儀が悪い。男性が電車の中で髭をそっていたら嫌だろう。まっとうな避難が轟々と押し寄せている。言うとおりで、まったくもって美しい行為ではない。僕も電車の中で髪の毛にワックスをつけたりはしない。髭も剃らない。歯磨きもしない。これらと同列の行為を女性がしていると思うと、なかなかに厳しい現実である。でも、僕は嫌いではない。電車の中で化粧をしてくれたところで一向に構わない。

今日出会った名も無き彼女の化粧をじっと見るでもなく、景色を見るふりして眺めていた。彼女は一心不乱であった。人の一生懸命な姿を見ると心がくすぐられる。「はじめてのおつかい」を観ては、頑張れと応援する気持ち。それがたとえ女性が化粧に懸命になっていたとて、対象物が変わるだけで構図は変わらない。頑張れ…!叫び出したくなる。女性は白を塗っていた。薄い小麦色の肌に、製粉されたあとの小麦粉色(つまり

白)の粉をまぶしていく。何層にも重ねられ、白さに拍車がかかっていく。不意に実家を思い出していた。深々と積もる雪、どこまでも白い世界。肌の只中にいたらきっと美しい景色が広がっているのだろう。

あらかた白くなってきた肌。僕の興味は眉にあった。早く書いてほしい。早く描いてほしい。緩やかな稜線を。今は産毛ほどの毛しかない場所に、象ってほしい。今か今かとその瞬間を待つ。彼女が膝においたポーチから鉛筆上の何かを取り出す。来た!眉だ!彼女はこなれた手つきでデッサンするか如く目の上に緩やかなカーブを描いた。北斎がみたらどう言うだろう。あっぱれ!なんて言うだろうか。眉額三十六景なんて描いてくれるだろうか。

元からバッチリ決まっていた目と、真っ白に塗られた肌、眉が加わり、彼女の顔は急速に輪郭を捉えだした。ピントが合ってきていた。

電車が停まる。彼女が社内のサイネージを見て、慌ててポーチを片付け、カバンにしまったと思えばすごい速さでマスクを付けて外に出ていった。

そいつの顔面の下半分はノーガードだ!叫び出したい気分だった。

でもとっても楽しい時間を過ごさせてくれた。だから声を中くらいにして言う。化粧してくださって結構です。

タイムリミットは突然に

勉学のお話です。

朝起きた段階ではまだ腐るほど時間あるじゃんと心に余裕を持っていたのに、昼過ぎあたりからの時間の進み方が怒涛のそれで、あれよあれよと言う間に日が沈んでバラエティがテレビから流れてくる時間帯になってしまった。時間経過の恐ろしさについて落ち着いて考えたいので、今キーボードを殴打している。この間もあれよあれよなのは自明なのだが、知らぬ知らぬを貫き通したい。

午前中、それはダイヤモンドのような時間であった。無限にもみえる時間の大海が目の前に広がり、万能感に心が踊っていた。時間の大海は、そっくりそのまま僕の可能性のようだった。だからこそ、心に余裕を持ってことを運べた。一心不乱に集中もできた。ちょっとよそ見しても大したことはない。何しろ可能性はどこまでだって広がっているのだ。

空腹と比例して集中力は研ぎ澄まされていく。獲物を狩るライオンのように気を張っていたものの、張り詰めすぎると逆に脆くなってしまうことを知っているので適当に切り上げて昼飯を食べに行った。今思えば、これが運の尽きだったかもしれない。

満腹になった僕は全く使い物にならないゴミクズになっていた。あれほど強烈に尖ってた集中の切っ先は峰打ちもできやしないフニャフニャブレードと化し、ペンは剣よりも強しって開成の連中にシャーペンを刺されたら一撃でお陀仏するレベルのなまくら人間が誕生していた。陸上競技をやっていたものならわかると思うが、一度タレるともうそのレース中・練習中の復帰は極めて厳しい。身体と心が折れて支えがなくなると、もう日を改めなければ頑張れなくなってしまう。昼飯後の僕がそうだった。頑張れなかった。あらゆることが気になりだす。頭が痒い。背中が痒い。メガネが合わない。普段だったら全く気にならないことに敏感になる。集中していない証拠である。

気分転換に違うことをしようと思った。本でも読もう。ゲームとかしてみよう。囲碁を打った。ネットを徘徊した。するとどうだ、日が沈んでいた。

自由と可能性を湛えていた時間の大海は、気づけばプレパレートの中の水のように小さく枯れてしまった。焦りが首をもたげる。途端に頭のかゆみが気になりだす。遊んでいるときは微塵も気にならなかったのに。シャワーを浴びる。ご飯を食べる。一息ついて、今である。

時間の大海は今や眠気の波となって押し寄せてきている。タイムリミットは近いというのに。フニャフニャブレードとなまくらマインドを持って、戦う。

殴打するべきはキーボードではない、自分の意志だ。

ファブリーズを空中に乱射した中に乱舞しながら突っ込んで着ている服を99%除菌しようとしたらテーブルの足に小指をぶつけたから今日は100%もうだめ

痛いので本当にもうダメだと思っていたのだが、この痛みを書き記さなければと這いながらパソコンの前にやってきて起動している間にそこそこ痛みが収まってきたので、なんとかなるかもしれないと思い直しているところではあるが、書く。

皆さん、私服はどのくらいの頻度で洗うだろうか。小学生の頃なんかは圧倒的頻度で洗濯機に突っ込んでいた記憶があるが、大人になってからと言うもの、オシャレ着がどうのクタクタになっちゃうからどうのと、ごちゃごちゃ言いながらしばらく来てから洗う諸君が多いではないかと思う。僕もその類である。

今日ふいにセーターを着たら、いつぞやの煙草のフレーバーが若干した。僕はタバコを吸わないが、忌み嫌っているわけでもない。多少の煙草のフレーバーだったら我慢できるので普段であれば普通に着てしまうところなのだが、たまたま帰省の折に母からファブリーズをプレゼントしてもらっていたので、使ってみようと思った。ファブリーズを胸に向けてシュっ!腹に向けてシュっ!肩にシュっ!腕に脇にシュっ!順調に除菌消臭のプロセスを踏んでいた。

体の表面のスプレーが終了したとき、はたと気づいた。

背中どうしよう。

僕は体が柔らかい方なので、肩を全力で後方に捻ればファブれなくはなかった。けれども一心不乱にやらねば届かないものだから一人で寝技をかけられているようなビジュアルになってしまう。これはいくらなんでも不細工だ。

そこで考えたのが、空中スプレーであった。

空中にスプレーして、その下ですかさず背中を広げる。まるでリフティングの達人がボールを蹴り上げて首と背中の間にボールを収めるあの動作を彷彿とさせる動きで、非常に気分が良くなった。

待てよ、これはもっと応用できるのではないか。

セーターだけではない。ズボンもきっと何らかの雑菌が繁殖しているに違いない。身体全身、満遍なく除菌消臭ができたら御の字である。

再び中空にファブリーズを掲げた僕は、三回くらいシュシュシュっ!と乱射した後に全身をフル稼働させて除菌消臭霧の中でダンスをした。それは規則正いダンスではなく、乱れ狂って踊るそれであったように思う。これまで僕はブログ等を通して、言葉で日頃の鬱憤を吐き出してきた。だが霧中ダンスが僕の深層心理にある不満の扉を叩いたようで、一種のカタルシスのような効果を感じることができた。そう、除菌消臭霧中ダンスが気持ちよかったのだ。

空中にシュシュシュっ!

シュラシュラシュラ!ウォラウォラウォラ!

シュシュシュっ!

シャバダバダ!シュラバンバンバンバン!

幾度か続けた。僕は完全に我を失い、見えない力に突き動かされるバーサーカーと化していた。

不意に、指数関数の如く激しくなる動きに耐えきれなくなった体幹がぶれた。よろめいたがしかしこちとらバーサーカーである。多少の体幹の動揺には負けずに乱舞を続けようと足を振りかざした。

その時唯一僕の部屋にある机の足に強く小指を打ち付けた。

流石に今まで20年と幾年か生きてきているので、ドアの角とかに小指をぶつけた経験程度はふんだんにある。そのたびに絶対小指折れたと思って確認するも、元気に小指は接着されているものなのだが、今回の痛みは群を抜いていた。まるで2009年の世界陸上ベルリン大会におけるウサインボルトのような、他の追随をこれっぽちも許さない痛みであった。

うずくまった。バーサーカー敗れたり。小指は砕けたかと思ったのだが、とっさに確認すると無事についていた。爪もどうやら無事のようだ。しかし焼けるような言いようのない痛みが波の如く押し寄せる。うめき声が漏れていた。こんなことになるんだったら、一人寝技をかけられていればよかった。

後悔の渦の中、背中がひんやりとした。

冷や汗まで出てきたのかと思ったが、それは時間差で降ってきたファブリーズの涙雨であった。

 

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ロイヤルホストとおっぱい

僕たちはそれのおかげで育ち、それが無いと言って泣きじゃくり、それを求めておしゃぶりを口にした。現代の人間がスマホを片手にし続けるように、子供の頃はそれを口にしながら生きてきた。

考えてもみてほしい。人間は哺乳類である。乳を、哺む。ちちを、はぐくむ。そう、生まれながらにしておっぱいを求める宿命を負っているのだ。ネズミも、猿も、クジラも、コウモリでさえ。哺乳類の進化の最先端にいるから、人間は知恵を授かった。感情を抑えることを知り、恥を覚えた。そして徐々に徐々に自分たちがおっぱいを求めていることを隠し始めたのだった。ほら、電車に乗る人々を見てみるがいい。談笑、スマホ、本、音楽。誰1人として昔おっぱいを求めていた過去を滲み出しているものはいない。あれほどまでに恋しく思っていたのに、何食わぬ顔でしれっと日々を過ごしている。人間の美しさが現れていると言っていいだろう。上品だ。限りなく。

しかし、そうした日常の中でふいにおっぱいに遭遇した時、僕らはひどく狼狽する。あるものは笑い、あるものは目を背ける。平常心を保てなくなる。スマホを見て心を乱すものがあろうか。いや、ない。皆平常心でスマホを撫でる。でもおっぱいは違う。撫でようもんなら鉄拳が飛ぶ。公僕にしょっぴかれる。反省を強いられてしまう。やはりおっぱいはDNAへの刻印がされたひどく特別な存在であり、求めすぎるがあまり隠し、暴くものを責める。全人類のトラウマの権化となってしまっているようだ。

そんなおっぱいが、今日、ロイヤルホストの天井にぶら下がっていた。照明だ。ふっくらとした半球と、その突端の黒い雫のような形のオーナメント。乳白色の灯りが灯ったそれは、おっぱい以外の何物でもなかった。上品そうなマダムや商談をしていそうなビジネスマンの頭上に燦然と鎮座したおっぱいたちが、ロイホの天井から、僕たちを見守っていた。

そう、まるで母のように。

汚部屋前前前夜

なんか部屋が汚い。諸悪の根源がどこにあるのかが全く掴みきれていないのだが、どうもきれいではない。絶妙に衣服がかさばっており、絶妙にホコリが溜まり、その上によくわからない書類が折り重なっていたりする。一つ一つはの要素はさして重症ではないと信じている。問題は多臓器不全のように全部屋的にうまく機能していないことにある。思い切ってあらゆる某を捨てて見ようかとも思うのだが、もしかしたらこれいつか必要になるかもしれないなんて要らない邪念がよぎるものだから取っておいてしまい、それが積もり積もってホコリを呼び、散乱の海辺に打ち上げられる。読まないフリーペーパーは捨ててしまおう。社内の広報誌はもうきっと読まない。大切にとっておく必要はない。給与明細は手動シュレッダーにかけてしまおう。あの封筒はなんだ。なんの封筒なんだ。あぁ、全くもって、汚い。部屋がきれいであることは精神衛生上とっても良い機能を及ぼすと思うのだがどうだろう。汚い部屋は淀む。コードがくしゃくしゃになっているところにホコリがごちゃごちゃ溜まって蜘蛛の巣が張っているみたいになるように、空気がくしゃくしゃになっているところには邪気的な何かがごちゃごちゃ溜まって行くに違いない。

昨日も書いたように僕の至上命題は勉強である。仕事もそこそこに勉学に精を出さねばならない。わかっている。わかっているのにブログにて部屋の整頓状況についてあーだこーだいいながら、この記事を書き終わったらきっと部屋を片付けだして、それなりに満足して眠りに落ちる。昨日も遅かったから。今日くらいは早く寝ましょう。んなことを言いながら。

ずっと耳元で垂れ流している大森靖子の歌を聞いていると、自分の言葉の数の少なさを痛感する。この人にしか組み合わせられない言葉があるんだろうなと思う。この人にしか組み合わせられない感情もある。でもなんとなくわかる気がする感情。

進化する豚ってなんですか。

勉学もとい、勉が苦

眼前に迫った問題が大きければ大きいほどミジンコみたいな興味関心に心惹かれてしまうのはノミよりもちっぽけな自制心が見事に機能していない証左であろう。僕は今とんでもない泥沼にはまっていっている。

試験なるものを受けるのは大学の頃以来だ。それも会社に金を払ってもらってという、全面協力の元での受験。やはり、人の意思は自ら選び取った上に痛みを伴ってこそ、十全に現れる。こんなおんぶに抱っこに肩車に乳母車のようなぬるま湯万歳エンバイロメントなんかでは意思なんてもんはふやけ切ってしまう。ビスコを半年くらい口に含んでたらこんな風になるだろうなっていうくらいのぶよぶよ具合だ。

そもそも、こちとら連休中帰省して夢見心地で生きていたというのに突然眼前に試験がそびえ立っているのがおかしい。異議申し立てしたい。計画的な学習ができていないと言われてしまえば僕は黙って頷くほかない。しかし計画的業務を推進しろ推進しろと言いながら資料と無茶振りの礫を投げつけてくる会社から何を言われたところで説得力がないってものじゃないか。どうだ。互いにブーメランを投げ合い、傷つけ合う不毛な削りあいの構図である。醜い争いだ。

脳みそストップしながら親指を動かしている間に、僕の砂時計の砂は刻一刻と減り続けている。とめどなく流れるそれは、行く川の流れは絶えずして云々と鴨長明のいう通りのそれだ。フォローしたくなる。

勉強します。今から、これから。

記事の数合わせだけのための酷い文

月末になると一年の何分の何が終わったのかって考える。6月とかは特に折返しだから考えがいがあるというものだ。そういったところで、1月が終わる。12分の1が過ぎる。

何の因果か、1日は24時間であり、12時間を2度回すことで成り立っている。そういうわけで時計は12の目盛りが用意されているのだが、12分の1のちっぽけさに驚く。恐ろしく僅かな割合だ。

のぺーっと生きてしまった12分の1。北海道は楽しかった。酒はうまかったが飲まれてはいけなかった。もやしの消費期限が切れそうだ。つまり、恐ろしく進歩のない日々なのではないかと、ハイパー危惧真っ只中であるわけだ。

せめて月に20の記事は上げようと必死で今文章を書いている。12分の1の達成は12分の12の達成の一歩目だ。コツコツ人間は今日も行く。

ファールチップで繋ぎ続けているような現状だが、分子が大きくなるにつれてボール球を見極め、あわよくばヒットを打てるよう、精進を重ねたい。

思えば最後の乳歯が取れたのもハイチュウのせいだった

ガムを噛んでいたら銀歯が取れた。たった10分前の事である。実家には必ず常備されているガム。一昨年に顎関節症に罹患し、顎がどうしようもなく痛くなって以来僕はガムを買わなくなったのだが、無条件に置いてあるならば食べてしまう。口寂しさを紛らわすにはうってつけのガム。しかしその口腔内ハプニング大賞っぷりと言えば正月における餅とタメを張る。何かと色々なものに粘着しては剝がす暴君っぷりは天国の松方弘樹も震えあがるほどであろう。

僕が最後の乳歯とロング・グッドバイしたのは今からおよそ12.3年前の事。僕はその時友達たちと近所の体育館を借りてバドミントンだかドッジボールをやっていた。学校の体育館ではボールを使って遊ぶのを禁止されていたため、近所の市営体育館を借りないと球技が出来ない環境だった。休みの日や放課後に体育館が空いていたらここぞとばかりに予約して遊んだのが懐かしい。その日も変わらずに遊んでいたのだが、友人の一人が珍しくおやつを持ち込んでいた。北見市内に一店舗しかない地場コンビニ「ダックショップ高橋」で買ってきたと胸を張っていた。お買い物の一つでさえ誇りになる年頃。かわいいものだ。その中にハイチュウがあった。歯ごたえをこよなく愛する僕は、今でもつけ麺が好きで、コシが強い麺が好きで、ご飯は固めで、ぬれ煎餅はせんべいの風上にも風下にもとても置けないと信じているのだが、当時からその趣向は健在で、ハイチュウなんてナンパな食べ物は食べないと意地を張っていた。グミ?馬鹿にしているのかい?しかしどうしても友人がハイチュウおいしいと言ってきかないため、僕は仕方なくグレープ味のナンパなチューインガムを食べることとなった。一粒食す。悪くない歯ごたえに続き口の中の温度で溶けてふやふやになっていく触感。ハイチュウはせんべいこそすべてと高らかに謳っていた僕にカルチャーショックをもたらした。ハイチュウ旨い!うまい!僕は人が買ってきたハイチュウの虜になり、ハイチュウをむさぼった。ちょうどそのころ。僕の口腔内は大人の階段を昇っている真っ最中で、左の下の奥歯が最後の乳歯として生き残っていたのだがついに地盤が緩んでぐらつきだしているところであった。気になって気になって仕方ないものだから朝から晩まで柳葉敏郎のごとく奥歯をベロで触っていた。痛いのは嫌だった。抜ける時に抜けて欲しいと思っていた。ビバ無痛分娩。だからハイチュウも慎重に慎重に右側の奥歯で噛み、とろけさせていた。だが、目下球技の真っ最中である。歌いながら踊るのが至極難しい様に、口の右サイドでハイチュウを噛みながら球技をするのは至難の業だ。力んだ瞬間、ハイチュウは不意に左サイドにうつり、食いしばった歯の板挟みになったと思えば僕の左下の奥歯を吸着して離すことはなく、次の「クチャっ」いわゆる咀嚼で最後の乳歯を介錯したのであった。なめ腐っていたハイチュウに心を許した瞬間に裏切られたようだった。「信じた瞬間裏切った」とは、BUMP OF CHICKENの楽曲「ラフメイカー」の一節だが、BUMP OF CHICKENに出会う遥か昔に僕は身をもって信じる怖さを知っていたのだった。

取り急ぎ、歯医者を明日予約したので銀歯を入れる目途はたちました。