徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

iPhone、君はよく滑る

ほんとよく滑る。スベスベだからそこはかとなく手指から滑り落ちて床に落下する。僕はこの間iPhone買い換えたばっかりだっていうのに、ほんとよく滑る。落ちる。

幸い、再び画面にヒビが入る悲劇は回避しているところであるが、いつ何が起こっても全くおかしくない、それこそテーブルの上にはあらゆる選択肢が乗っかっている状態である。

これ多分完全に落とさせようとしていると思うんだ。なぁそうだろう、ティムクック。

壊れなきゃ替えないし、なんなら壊れても替えないことが多いスマホ業界で安定して業績を伸ばすにはやはり買い替えを喚起するようなクリティカルアイディアが求められるのだろう。それが多分極度のスベスベによる落下だ。セトモノだって割れなきゃ買わない。世の中うまくできている。

落下から身を守るために、みんな思い思いのケースを買って、思い思いの摩擦を生み出している。買い換えることのないように。支配者の思うツボにはまらないように。

僕もさっさとカバー買わなきゃいけないし、画面ガードのシートを着けなきゃいけないんだけど、ここんとこ財布の紐が緩んでるせいで首が絞まっているので、思案をしている。思案をしながらスベスベ滑る。落ちる。

思案化合物中毒にでもなりそうである。

心ここに在らず

全く持って心ここに在らず。来る者は拒まず、去る者は追わず、心ここに在らず。井の中の蛙、大海を知らず、心ここに在らず。こちら、韻踏むのがやっとの心情です。

人間25年も行きていると全くもってダメな日だってある。なんかうまくいかない日とか、悲しいことが立て続く日とか。もちろん一発どでかい大悲劇をかました日だってある。忘れられないものである。

なんかうまくいかないなーって日。ちっちゃなミスが立て続くわけだけれど、大抵、一つのきっかけとなるミスがあらゆるそれを引きずりこむように誘発している。ベタベタの雪の上を雪玉が転がっていくイメージをしてくれるといい。転がり落ちていくほどにあらゆる雪を巻き込んで巨大化していく雪玉。発端は小さな玉でも、気づけば巨大スノーボールと化している。

このとき、とにかく僕らは転がる雪玉を止めなければならない。どうすれば止まるのか。斜面から退避させてあげればいいのだ。私的悲劇の連鎖を呼ぶ斜面。こいつは僕らの心の持ちようで急にもなれば緩くもなる。急転直下の大直滑降を雪玉に強いるような大荒れの心中なのか、緩やかな転がりで収まるような穏やかな心中なのか。大きく異なって来る。

雪玉のタネができた時、とにかく心を鎮めて、斜面を緩やかにしなければならない。巻き込みを減らし、被害を最小限に抑える。

こんなことを書いて、懸命に鎮めようとしている最中である。まだまだ、夜は長い。頼むから斜面よ、穏やかであれ。

トッティが引退する

Yahoo!ニュースで知りました。

headlines.yahoo.co.jp

ローマに君臨し続けたトッティ。24年間も一つのクラブで最前線を張り続けるなんて、到底できたことではない。その割に代表ではそこまでのインパクトを残せていない気もする。日韓W杯の韓国戦(ベスト16か準々決勝)で退場させられたのはよく覚えている。疑惑の判定が続いた中で、審判の韓国贔屓を決定づけた退場だった。

トッティを最初に知ったのは中田英寿のローマ移籍だ。親父が当時サッカーにハマっていて、中田の試合となれば早朝でも起きて観ていた。幼い僕もつられて後半だけとか観てた。前半は夢の中であった。

中田はペルージャでスーパー日本人として活躍。何しろ倒れないし早い司令塔っつって、ローマに白羽の矢を立てられた。だが、すでにローマにはトッティが司令塔として君臨していた。じゃあ中田とトッティをどう使っていくのかと。ぼちぼちの議論がなされた末に、一時期中田はトッティから司令塔の座を奪い、ローマの攻撃陣を操っていた。結局トッティも上手くなって、司令塔を明け渡すことになるのだけれど。

ミラン、ユーベ、インテルと並んでセリエのビッグクラブとして世界のサッカーを牽引した時代、カルチョスキャンダルでセリエがボロボロになった時代、そしてオイルマネー流入でセリエのパワーバランスが変わりつつある昨今。ローマは優勝争いに付かず離れず、場を盛り上げるだけ盛り上げて去っていく三枚目のような立場でセリエに影響を及ぼしてきた。何しろ優勝しないクラブだ。そんなクラブでぶっちぎりの2枚目を演じ続けたトッティ。様々な相棒、様々なシステムの中心にトッティはいた。バディストゥータと並び、カッサーノを育て、デ・ロッシと共に歩んだ。最近はメッシのせいでゼロトップといえばバルサのイメージが着いてしまっているが、そもそもゼロトップはローマのもので、トッティのものだった。地元民はさぞ寂しかろう。

今年もどうやら優勝は厳しそうだ。ローマはローマとして、2位〜5位をうろつく。スクデット戦線を盛り上げ、去っていく。決してヒールにはなれない、愛されるクラブにこだわり続けたトッティ。きっとそのうちワールドサッカーダイジェストで引退号が刊行されるだろう。そしてしばらくしたら、ローマの監督として舞い戻るに違いない。それこそペップのように、ジダンのように。頭髪だけは、彼らの二の轍を踏まないことを心より願っている。

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

原因不明の好調デー

そんなこんなで昨日も酒を飲み、日付変わってしばらくしてから家に着き、辛うじてキーボードを叩いてブログを書いたと思ったら風呂も入らずに寝たのだが、どうしたものか今日すこぶる調子がいい。不潔な体を引きずってベットに入り、強引に目覚めた癖して、すこぶっている。なんなら機嫌もめっちゃいい。饒舌だ。笑顔だ。

元々感情や機嫌の浮き沈みが少ない方だと思う。が、半期に1回程度、原因不明の躁状態が訪れる。対して鬱は大抵原因がはっきりしているのでコントロールしやすいが、躁は突然やってきたりするからもう手のつけようがない。森羅万象が自分に収斂していってるような、無敵・無双感に取り憑かれている。

かの武井壮は、自分のコンディションを完璧にコントロールするために、温度湿度から着たもの食べたものまで完璧に記録し、四六時中の絶好調を自らにもたらしているという。徹底した自己管理が生み出す好調。理想形である。無意識にそれをこなしている中畑清はもっと凄い。好調に愛されている。

毎日毎日こんな気分で、寝不足も体調不良もなく生きていけたらどれだけ幸せだろうか。

何が僕に作用しているのだろう。わからん。寝る前の過ごし方は最悪だった。酒も飲んだ。前の晩も寝不足だった。当たりがつかない。疲れ切って酒飲んで午前に帰って来てベタベタの体のまま寝ると好調が訪れるなら、そんな好調いらない。苦しすぎる。自堕落とバイタリティの間を揺蕩いながら、生きやすさを追求したい。

ゴールデンウィーク

大学の同期と飲んできた。同じ学部の学科で机を並べていた連中である。卒業からしばらく経ってもまだ集まろっかって流れになることを心から嬉しく思っている。

何故、今日飲もうという話になったか。それは世の中がゴールデンウィークだから以外のなんでもない。転勤していったやつが東京に帰ってくるので飲みましょう。これが何よりの原動力となり、飲み会は執り行われる。

ゴールデンウィークを漢字でなんて表すかなと考えると、多分「大型連休」が値する。意味はわかるが、別に5月のこの時期を逃しても大型連休は成立すらことを考えると、ドンズバでゴールデンウィークを表すとは言えない。

対して、ワールドカップはどうだろう。日本語でどう訳すか。これは「W杯」である。違いない。また、オリンピックだと、「五輪」だ。うまく文字を当てている。W杯に関しては最早漢字半分であるが、ワールドカップとしか読めないものだから不思議である。

ゴールデンウィークにも何か当ててやりたいと思った。W杯に習うのであればG週となるかと思う。G週。なんのことやら全くもって伝わらない。新聞の社会面に「G週開始 交通渋滞ピークに」なんて見出しが出ていたって、G週が入って来なさすぎて読みづらい。

こんな感じで漢字表記を追求していってやろうとしたのだが、どうしようもない眠気に襲われているので、やめにする。

今日は楽しかったです。

泥つき里芋を想像してください。

近くの八百屋で泥つき里芋が2パック100円で売られていた。トルコリラの次に泥つき里芋の相場がわからないのだが、なんか安いアピールされているし、100円だし、家にこんにゃくと玉ねぎはあるから人参も買っていって煮物でも作ろうと思い、2パック買っていった。1パックの大きさは大体信楽焼の狸の睾丸袋くらいなものであった。大きいんです。

颯爽と野菜を切り、最後に里芋をなんとかしようとした。僕はよく、じゃがいもとか人参は皮を剥かないで食べる。皮と実の境目が一番栄養があるんだ。そう信じて止まない。里芋もそのノリでいけるもんだと思っていた。ちゃちゃっと洗って、丸ごと煮てしまおう。そうしてしまおう。

ではみなさん、泥つき里芋を実際に買ったことがあるでしょうか。イメージはできるでしょうか。また、調理したことは、あるでしょうか。

今回僕が泥つき里芋と格闘したわけだが、あれは最早泥つきの里芋ではない。里芋付きの泥である。

泥つき里芋を買ったことのない諸君、現物をありありと想像できない諸君。諸君の想像の遥か上をいく泥のつきかたをしているのが、泥つき里芋だ。まず、狸の睾丸袋もといビニールパックを開けた瞬間から、おやおや?と思う。芳醇な土の匂いが香る。これは小学生の頃、生活科の授業でジャガイモを作った時に力一杯スコップを地面に突き立て、掘り返した瞬間に香った匂いと全く同じだ。生臭いような、えぐいような、むきだしの匂い。

その時点で嫌な予感はした。だが、無理やりザルに空けて試しに水をかけてみる。想像通り、かけた先から逆濾過よろしく泥水の変化していく水道水。逆再生したら美しい水が生成されていく様が取れるんだろうなとぼんやりしながら、これから始まるであろう激闘に向けて心を整えていた。

狸の睾丸袋の中に入っていた無数のボールたちを握る。里芋のくせにぬるぬるしない。滑ったと思ったらそれは全て土だ。というか、土の鎧を着込みすぎて全く持って芋としての正体が掴めない。よく、料理できない子に野菜洗っといてとお願いをしたら洗剤で洗い出したみたいな笑い話を聞くが、洗っといてってお願いした野菜ってもしかすると泥つき里芋だったんじゃないかって思う。だったら至極納得がいく。僕もなんどもキュキュットに手が伸びそうになった。先の見えない洗浄の戦場最前線。化学の力を借りたくなった。高圧洗浄機とか欲しかった。

憎しみを込めて洗いまくった末に、やっとこ芋としての輪郭を取り戻した泥つき里芋。これくらいのキレイさで売られていると大半の人が思っているんだろうなってくらいの汚れ具合までたどり着いた。その後、皮との戦いに移ったのだが、クックパッドを駆使して皮むきの極意を会得していた僕の前に、里芋の皮は無力であった。10分間の煮沸ののち、流水で冷ました里芋の皮はいともたやすく剥がれ落ちた。世の女性はこういうクレンジングを待ち望んでいるの違いない。ツルツル落ちる。

普通の里芋から皮むき里芋へと変化させるのは容易かったが、泥つき里芋から普通の里芋へと変化させるのがあまりにも辛すぎて、もうしばらく泥つき里芋はいらないかなって気分である。

しかし冒頭に戻って読み直してほしい。そう、僕は泥つき里芋を2パック買っている。まだ睾丸袋が一袋転がっているのだ。

僕らの戦いはまだ始まったばかりである。

血液型信者

大学で心理学を学んだ。心理学の一面は統計学である。Aという特徴を持つ人たちはaという傾向があるよ!ってのを量質両面からサンプル取りまくって立証していくお仕事だ。統計の網で払って、仮説に信頼が置けるようであればそれは真だし、逆ならば疑だ。

よくあるのが行動傾向とストレス対応との関係をみるとか。ここでの「行動傾向」と「ストレス対応」って主語を変えていくと、ぶっちゃけなんだって調べられてしまう。

さて、血液型である。心理学のレールの上だと、血液型と性格の相関関係はなかったことになっている。血液型占いは本当に占いでしかなく、どんなにO型っぽいO型がいたとしてもそれはたまたまである。

と、いうことをわかっていながら、コミュニケーションツールとしての血液型の話ほど便利なものはない。世の中のお姉さまがたは血液型こそ全てみたいなところがあるので、血液型トークに乗りまくっていると自ずと会話に混ざりこめる。間違っても「いやそれ心理学では否定されてますから」なんて言ってはいけない。お姉さま達の世界においてはお姉さま達がルールだ。お姉さまが地球は平らですっていえば、平ら。

でもまあ、体を流れる血液が司ることやものもいくばくかあるのではないかって気持ちもわかる。古代、病気は血の淀みが原因とされている時期があった。病気になったら血を抜いていたという。それほどまでに、血は大切で、特別だったのだ。性格を左右するって話もわからんわけではない。何しろお姉さまがたの真実だから。認めよう。

パソコン得意?って訊かないで。

大先輩がたからこのようなお言葉を投げかけられる事が多い。多分これは、平成生まれゆとり世代の誰もが経験のある事であろう。SEとか、日がなキーボード叩きまくる職種でない限り、若者はパソコンに詳しいと思われている節がある。

何かパソコン上のトラブルに直面した時にテンパらないくらいのデジタル抗体は持っている。諸先輩型よりは恐らく得意な部類には入るのだろう。だが、勘違いしないでほしい。全くもって詳しくはないし、得意と胸を張って答えられるレベルになんてない。100メートル走20秒で走る人と18秒で走る人が競っているようなものだ。クスクスの背比べである。

ここで得意ですよ!って答えて、全く太刀打ちならない出来事が巻き起こっていた時、僕は無実のがっかりを背負わされる。「なんだお前得意って言ったじゃん。」そんな目を向けられる。だから得意って言いたくないんだけど、苦手ですって言ったら言ったでどうも逃げの姿勢と取られて期待外れとなる。

つまり、僕ら若者がパソコンに強くないという事自体が罪である。こんな結論に至る。進めど戻れども地獄ならば空を飛べって事だ。

似たような問いに、「今日暇?」がある。

暇だけど暇だったら何が待ち受けているのか恐ろしい。暇じゃないけど何か面白い事が待っているのかもしれない。現場入っている予定と天秤をかける意味も込めて、暇?の先にある言葉をぜひすぐに聞きたい。

まず、目的を教えてほしいのだ。こういう理由で、あなたに問いを投げかけているよって、それを知らないと答えに窮する。

ギター弾ける?→弾けます。→じゃ、これ弾いてみて。(ツェッペリンの楽譜を渡される)

こんなの反則じゃん。無理じゃん。弾ける?って訊かれて、ツェッペリンまで求められるなんて思わないじゃん。もっと一般的な話だと思うじゃん。目的を知らない問いに気安く答えるとこんな明後日な要求をされる。

まぁもう面倒だから全部うっす!って答えてしまうのだけれども。

パスドラを引退しました

連続ログインが確か1500日ほどになっていたはずであるが、この度、パズドラを引退することとなった。

iPhoneの画面が割れたことに起因する。

これまでに、機種変と動作不良によって二回のiPhone交換のタイミングがあった。二度ともデータを引き継いでのプレイを続けていた。しかし今回に限って、データ引き継ぎの準備を忘れてしまったのだった。単純な作業ミスである。

本当は、ガンホーに問い合わせればデータ復旧が可能だ。遮二無二手段を選ばなければ、またパズドラをプレイできる。でも、もういい。もうたくさん遊んだ。

僕がAndroid携帯からiPhoneに変えたのはパズドラがやりたくてのことだった。周囲で流行りだし、羨ましい目でずっと見ていた。僕が持っていたアンドロイドはパスドラに対応していなかった。次の機種変では絶対にiPhoneにするぞと心に決めていた頃、丁度auでもiPhoneが発売されて、キャリアを変えることなく僕はiPhoneを手にいれた。

それから1500日。どんな時も僕の手の中にはパズドラがあった。

別にヘビーユーザーだったわけではない。どっぷり浸かっていたわけでもない。みんながやるから、やっていた。みんなでやるから面白かった。僕は習慣化されるとずっと続けるのが得意なたちで、周りの連中が飽きていく中も淡々とパズルを回していた。社会人になっても。

ゲームや漫画といったものの宿命ではあるのだが、次第にインフレがどうしようもないことになる。よほどうまい仕組みを作らないことには、強敵を上回る強敵を上回る強敵をさらに上回る…と果てしない強敵ロードが続いていくので、それに対応してこちらのモンスターも必然的にめちゃくちゃに強くなっていった。

加速度的に増していく強さ。ぶっ壊れ性能と言われていたモンスターがあっという間に覇権を奪われていく。政権交代のスピードがだんだんと早くなっていった。

次第に、僕は着いていけなくなった。

目を皿のようにして追っていた攻略情報を見なくなると新しいモンスターがわからなくなり、安定して強いって言われるモンスターを集めてとりあえずスタミナを消費するような遊び方に変わった。

遊び方がだんだん過疎化していく僕のデータが弱くなったかというと、そうではなかった。

対して遊んでいなくても、インフレにインフレを重ねる運営側からは常態的にモンスター強化用のモンスターや、「プラス値」というかつては苦労してダンジョンに潜りまくらなきゃ手に入らなかった強化ツールが雨のように降り注いできていた。

一生懸命パズルを回していた頃より、ずっと早いスピードで強くなるモンスターたち。強くしたいモンスターが遂にはいなくなり、強化用のモンスターがだぶついた。

そろそろ潮時だなと思っていた。そこに、iPhone破損が重なった。

天啓だと思う。もう潮時だったのだろう。1500日。よく遊ばせてもらった。きっとマメに同じ時間英語を勉強していたらペラペラになっていたであろうほどの時間を、パズルで楽しませてくれた。ガンホーには感謝したい。

今の暮らし向きから言って、きっとこの先ゲームにどハマりすることはない。奥さんや子供のような家族ができて、それに影響されてとかでない限りは、ゲームを起動する環境にない。

もしかすると、パズドラは僕がハマった最後のゲームになるかもしれない。たくさんゲームにハマってきた。小中学生の頃はゲームのことしか頭になかった。大人になるうちにゲームとの接点が少なくなり、最後に残ったのがパズドラであった。据え置きから携帯機へ、携帯機からブラウザゲームへ、ブラウザゲームからアプリへ。僕のゲームとの旅はここで終わりそうである。あとは遠くから見守る体制を取りたい。

昨日から、すでにパズドラのない日々が始まっている。もちろんだが、何にも変わらない。パズドラに充てていたはずの時間はどこに向かうのだろう。きっと土に雨が染み込むように消えていくに違いない。有意義に使いたいものだとは思うが、そうもいかないのはわかっている。

パズドラがどうだったか、しっかり書くほどの元気がないので、こんな感じで引退の辞とする。

サンキューガンホー

とどのつまり疲労詰まり

大学卒業に際して後輩よりプレゼントしてもらった簡易マッサージ機がある。クッションのような形で、イボが付いていて、スイッチ入れるとイボがくるくる回るタイプの機械。

働き始めの頃は頻繁にやっていたのだが、ここ最近はとんと起動させなくなってしまった。だが昨晩、なんか気が向いてゴリゴリやってみた。ふくらはぎ、膝裏、尻、腰、肩。整体とかで筋肉をいじくり回されるのが好きなたちなので、機械相手ながら久々に揉みほぐされてる感があって非常に気持ちよかった。六畳に毛が生えた広さの部屋で1人、ゔーって言いながら機械と戯れる青年。なかなかにイケてない瞬間だ。

すっかりほぐされ、案外と疲れてたのかもしれんなと、明日からまたすっきり動きだせるなと、ぼんやり考えながら眠りについた。

夜が明けて本日。寝起きからして全身が怠いことこの上ない状態であった。足腰が使い物にならない。「orz」って一昔前によく使われた絵文字であるが、マジでこの状態でしばらく過ごした。繰り返すが寝起きである。400mを5本とかブンブン走った後のポーズじゃなく、朝イチの一番エネルギッシュであるべき時間帯でのorz。救われない。

なんの脈絡もなく、ほんの出来心でマッサージを敢行したわけであるが、中途半端なマッサージは疲れの根源を呼び覚ます作用があるようである。一本ピロッと出ている糸をズルズルと引っ張っていくと気づけば取り返しのつかないことになっていたりするように、疲れの片端を掴んでしまうとこれまた大変なことになってしまうようだ。

さて、継続したマッサージが必要らしいので、今日も機械に任せてみようと思う。

どこまでも疲れの糸を引っ張り出してやろうと思う。