徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

コース焼肉、誰と食べるか、どこで食べるか

今しがた、めちゃくちゃ美味しい焼肉を食べてきた。便乗に次ぐ便乗にての食事であったが、これが美味しかった。日頃食べているのが100グラム40円に満たない素敵な鶏胸肉だということもあり、一切れ2000円の牛肉のインパクトが比類なきものとなって脳みそを揺さぶった。

自ら美味を求めて歩き回るほどの美食人間ではないが、コバンザメとなって美味しいものと巡り会うことは、ままある。焼肉でいえば、従兄弟と行った名古屋の焼肉屋さんが特別に美味しかったし、その足で京都の先斗町に出向いた際に食べた牛の希少部位三種盛りも抜群だった。やはり良いものは美味しい。もれなく高いけれども。

「美味しい」は瞬間瞬間で激烈だ。脳天に直撃する。しかし時間を置くと、何が何やらわからなくなってしまう。強烈に美味しい記憶さえあれ、その瞬間の感動を思い出そうとしても靄がかかったようにボヤけて見通せない。痛みもそうだ。あの切り傷やあの刺し傷、捻挫や骨折。どれも二度とごめんだが、どんな風な痛みだったかを思い出そうとしても確かなものが引き出せない。痛みに関しては引き出せなくて一向に構わないのだが。

良し悪しは別として圧倒的な知覚に晒されると、それは記憶として頭の中に収容されるらしい。焼肉しかり、怪我しかり。確かに感じた痛みや美味しさが記憶の原動力だ。でも、知覚は記憶に残らない。「美味しいものを食べた」、「痛い思いをした」。事実だけが焼き付けられ、一番取っておきたい、あるいは忘れたい知覚自体は消えていく。

どうせ食べるなら美味しいものをと思う気持ちは、この上なく贅沢なのかもしれない。記憶にすら残らない美味しさを求めるのである。

この度の美味しさを僕は忘れていく。なんならさっきリステリンをした時にもう忘れている。でも、誰と食べたとか、どこで食べたとかの記憶は残る。それこそが財産なんじゃないかなと思った。

コース焼肉、誰と食べるか、どこで食べるか。

それから

というわけで、昨日夜は逡巡極まる帰路だったのだが、結論から言うと、スーパーで買い物して自炊した。豚肉を買って、バター醤油で炒めた。数ある晩御飯の選択肢の中で、ほぼ満点のルートを辿ったと思う。

人的なコストを払って自炊の道を進むか、金銭的なコストを払って外食の道を進むか。持続的な生活を営んで行くのであれば、人的なコストを振り絞る方が得だ。しかし疲れとかそれに準ずるハードルが高くそびえ立つ。阻まれる。

一人暮らしが長くなってきた。これほどまで融通が効く生活もない。とらわれる家族がいないことで、会社にさえ行けばどこでどう過ごしたところで誰も困らないし誰も文句を言わない。しかし、とらわれないから選択肢が生まれる。人生において選択肢が豊富なのは有利この上ないが、もっとミクロなところでの選択肢はただの迷いにしかならない。

バルサのパスサッカーが全盛だったころ、それに対抗するように隆盛したカウンター一発のサッカー。チェルシーやインテルが一翼を担ったそれは実にシステマチックだった。相手チームにボール回させて、インターセプトした時点からはほぼ一本道でゴールまで運ぶ。どれだけスピーディかつスムーズにディエゴ・ミリートまで持って行くかの勝負。そこに選択肢が多く存在してしまうと不必要なタメが生まれ、ロスになる。

ボール奪取と共に一目散にゴールに向かうカウンターサッカーのごとく、一目散に家に帰る動機が欲しい。哀しいかな、望むべくもない。

晩御飯をなににすればいいかわからなくなった

家に帰ろうとしている。晩飯を考える。外食の選択肢はいくつかあるが、揚げ物屋さんと牛丼屋さんとラーメン屋さんばかりで、魅力に乏しい。よく行く中華料理屋はよく行きすぎて憚られる。いそいそと家に帰るかなと思う。コスパが何しろ良い。自炊に勝るものはない。家にあるものに思いを巡らせてみると、力になりそうなものは鶏胸肉と卵。どちらも弁当の具である。弁当作りに特化した冷蔵庫となってしまっているがゆえ、直帰からの自炊すなわち昼ごはんの焼き増しだ。折角三回のチャンスを得ている食事。同じ味を二回味わうのは避けたい。

さて、画して晩飯難民である。

なにも縛りがないとしてどうしたいだろうかと考えてみる。豚肉か牛肉が食べたい。しばらく前、叔父叔母にコストコに連れて行ってもらった時に買ったプルコギ風の牛肉がとにかく強烈に美味しくて、あれが家にあれば迷わず直帰するなと思う。でも今冷蔵庫をどんなに揺さぶっても牛肉は出てこない。鶏胸肉しかない。

買い物して帰ればいいと思うだろう。牛肉でも豚肉でも買えばいいじゃんと。完全に仰る通りなのだが、買い物って面倒臭いじゃない。買って帰って料理するモチベーションがあるかというと怪しい。いや、ない。

晩飯難民思考に迷い込んだときの最適解は家にまっすぐ帰ってあるもので料理してさっさと休むことだ。経験則からして、このモードに入った後に外食先を探すと、此処じゃない此処でもないとフラフラ歩き回った挙句どうでもいい店に入って不本意な晩飯となる。では果たして今の僕は鉄の意志を持てるか。帰ったところで鶏胸肉と卵。嫌だ。

間も無く最寄りに着く。方針だけは決めて駅に降り立ちたい。路頭に迷いたくない。というかこんなことで迷いたくない。

選べる強さと知らない弱さ

縁あってクルーズに参加した。工場見学と銘打ったクルーズである。埠頭という埠頭、桟橋という桟橋、タンカーというタンカー、クレーンというクレーン、ガスタンクというガスタンク。工業にまつわるあらゆるそれらを拝見した。そもそもクルーズに興味があったわけでも、工業地帯に興味があったわけでもない。行くよ!の声に軽快に飛び乗った。それだけである。しかしだ、これが面白いんだから幸せです。

YouTubeのアカウントを持っているだろうか。アカウントを持っていると延々とおすすめ動画で好みそうな動画を上げてくれてくれる。君、こんなのも好きでしょ?これも好きだよね?たかだかYouTubeに好みを言い当てられてぐうの音も出ないまま、おすすめ動画の渦に飲み込まれて行く。渦中、不意にログアウトしてYouTubeにアクセスしてみると、偏りのない動画群を見ることができる。自分1人の力じゃまず観ることのなかったであろう料理動画や子育て動画など、最大公約数を知る。

家と会社の往復をしているだけだと偏りの渦にどこまでも落っこちて行く。誰も助けの船を出さない。見覚えのある曲、見覚えのあるニュース、見覚えのある動画に何度も目を通す。それはそれでいい。楽しい。でも、世界は広い。深くも掘れるが、広い。

今日見た工場群は自分じゃ決して観に行かない代物だった。しかし多分に知的好奇心をくすぐってくれた。美しくもあった。

ミュージックビデオを腐る程見返して人の解釈を読んでなるほどなって思うのも一興。でもこれほどまでの純度の一次情報に晒されて乏しい感受性にグサグサとスパイクを差し込まれるのも一興だ。24時間稼働の工場が作り出す幻想的な風景。論じるまでもなくそれは誰かの汗と疲労に裏打ちされたものだった。そんな程度の感想で複雑な思いに駆られる。チャチい。しかし、それが精一杯で、精一杯を知られたのはいいことかと思う。

とりあえず、有毒物質をそのまま大気に垂れ流すのではなく、一回燃やしてから空気中に放り出した方が害は少ない。そういう「とりあえず燃やしとくか施設」のことをフレアスタックということを学んだ本クルーズであった。

以上

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湿度98パーセント。白ごま色の雲が圧力鍋の蓋のように天に覆い被さり、湿気の逃げ道を塞ぐとともに更なる湿気をもたらしてくれている素敵な土曜日。口元を湿った布で押さえつけられたような息苦しさとともに目覚めた僕は、不快指数の魔の手によって眠りの淵から引き摺り出され、ジトジトの身体を布団からひっぺ返さざるを得なかった。なかなか苦しい目覚めだった。

さて、かくして一日を滑り出した僕である。本日は休業日であり、全くもって誰と会うわけでも何に追われるわけでもない一日としようと決めていた。そうした日がないと苦しくなる質である。とりあえず飯でも食って掃除と洗濯をキメて、先日Amazonから取り寄せた本の着荷を待ちながら、溜まった本を消化するべくいそいそと活字を追いかけていた。途中、洗濯物を干した。今も窓際に棚引いているが、よく考えたら湿度98パーセントである。乾くのだろうか。

正午前に荷物を受け取る。真の意味での自由を得たので、動き出すこととした。何かにつけて払い損ねていた公共料金の類を清算し、日々の弁当作りによってジリジリと減って行く肉や野菜の類の補給した後に、多汗症一歩手前疑惑が浮上している昨今の汗腺事情により汗を吸いまくってこの世の終わりのような香りを漂わせているシャツの類をクリーニングに出した。大学時代からの愛車、ラグジュアリー極まりない10,000円のママチャリが足となってくれた。

払込はいいとして、買い出しというのが僕の生活において非常に重要である。朝昼を自前で用意するコストパフォーマンスの良さを一度知ってしまうと、昼ごはんにお金を払おうなんて気が全くなくなってしまう。そのためなんとしても弁当の具材は切らしてはならない。最悪鶏むね肉と卵さえあれば親子丼ができるということで、我が家の買い出しについては鶏むねと卵が不動の必須要件となっている。鶏むねは価格が安定しており、2キロ780円が近辺では最安。比較的価格変動の大きい卵については、どんなに冷蔵庫の中に溢れていたとしても安ければ必ず買うようにしている。どうせなくなっていく自信があるからだ。

本日もスーパーと八百屋に顔を出したところ、なんと卵が10個パック98円で売られていた。チロルチョコが5円で売られているくらいのお得感である。8個は余っているほぼ手付かずの卵パックを視認してはいたものの、この安値を逃したら男が廃ると、即買い物かごに入れた。もちろん鶏胸肉も買い、ついでに牛乳も買った。まぁ、いわゆるいつもの買い出し風景である。

買い出しも終わり、愛車のかごにレジ袋を突っ込んで、揚々とクリーニング屋まで駆けた。やはり湿度98パーセントは伊達じゃなく、水滴の中を突っ込んで行っているかのような湿り気具合だ。なんならポツポツと雨粒が落下してきている。よぎったのは愛しの洗濯物たち。18日間連続雨天の東京だ。せっかく洗った彼らをむざむざ濡らすことはできない。気が急いた。そんな中、クリーニング屋に滑り込む。

馴染みのおばちゃんが店頭にいるのが見えたため、さっと愛車を停めてクリーニング屋に入ろうとした。愚かだったのは、レジ袋を横着して降ろさなかったことと重いレジ袋を入れたカゴを何にも寄りかけなかったことである。音がしたと思って振り返った時には愛車は卒倒しており、かごからは激安鶏卵が炸裂、傍には牛乳パックがガウディの建築物のように変形して横たわっていた。幸い、往来の少ない通りだったため、僕は盛大に彼らを悼むことができた。卵…卵…とうわ言のように呟きながら卵パックを労わる大男。ホラーである。

すぐさまクリーニング屋のおばちゃんに報告をした。「かくかくしかじか僕は鶏卵を殺傷してしまった。何か手立てはなかろうか。」「割れた直後なら卵焼きにでもすればいいじゃないの。」金言であった。

過去、僕は同じような過ちをしている。その時はレジ袋が裂けているのを知らずに愛車のカゴから引っこ抜き、卵を飛び散らせた。その時は泣く泣く処分したのであった。が、どうやら割れた直後ならいくらでも仕末の使用があるらしい。確かにそうだ。調理するためにちょっとワイルドに割ったと思えばいいのだ。おばちゃんに伏して感謝し、颯爽と愛車を走らせて家に帰った。愛車のかごはサルバドールダリの時計のようにとろけた姿となっていた。

家に着き、目下炸裂している卵をボウルに移し替える。10個全て天に召されたかと思いきや、5個は生きていた。臆面が微塵もないままにぶっ倒れた愛車だったが、卵って意外と強いらしい。卵パックが優秀なのか。さておき、やはり召されてしまっていた5個を猛烈にかき混ぜ卵焼きを作った。転んだってタダでは起きない。倒れた先にあった草をも引っ掴んで商売していくのが商人である。割れた卵も使いようだ。美味しくなれ、美味しくなれ。死の淵から生き返ると強くなるサイヤ人をむくむくと想像しながら、醤油に出汁に砂糖にとフルチューンしていく。

そうしてできたのが以下の卵焼きであった。

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実に美味だった。卵5個分。コレステロールが云々と言われるかもしれないが、知ったこっちゃない。弔い合戦なのだ。昨日の金曜ロードーショーがサマーウォーズであったことも影響したかもしれない。ここまで気持ちの入った卵焼きを作ったのは初めてだった。

サンキューおばちゃん。

いい昼下がりが訪れそうである。

4分遅れに苛立つ僕らに

嘘のように複雑な電車網が張り巡らされている東京では地上地下問わず恐ろしい数の到着と出発が絡み合っており、些細な不具合によって遅れが発生する。時間にしてわずか数分。その数分に対して苛ついて悪態を吐くサラリーマン。この光景は割とよく見る。サラリーマンを諭すようにして鉄道会社は謝罪を述べる。「現在混雑の影響により、この電車約4分ほど遅れて運転いたしております。お急ぎのところご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。到着までいましばらくお待ちくださいませ。」

僕だってそうだ。4分にやきもきする時だってある。トイレに行きたいとか、待ち合わせに遅れるとか、諸々。そもそも遅れないはずの4分を当てにして都会に住む人々は時間を組み立てているところがあって、何があってもある程度大丈夫なようにさっきトイレ行っときゃよかったじゃん、早く家出ればよかったじゃん、みたいな話にはならない。出来すぎる鉄道網に依存しきってしまっている。いや、依存しているなぁとすらも思わない。水道が出るように、電気が流れているように、当たり前の一つとして電車が動いており、水の出が悪いとイライラするのと同レベルで電車の遅延を考えている。水道を比喩に出せる水道網も実は凄かったりするらしいから、何にしろ全部できすぎている。

4分に悪態を吐くサラリーマンにも、4分に平謝りする鉄道会社にも、どちらにも慣れた。相当にどうかしている気がする。こうしてぼんやりパソコンに向かっているわけだけれども、たまにYouTubeとか見て気づけば10分20分平気で経ってしまっている。4分なんて微々たる時間だ。なぜにあんなにイラつくのか。なぜにあんなに謝るのか。しかも原因は混雑だという。自爆である。ぎゅうぎゅう詰めのため息が猛烈な向かい風を電車にもたらしているのだ。

秋が転がって冬に着地すると雪で電車が止まる。それを見越して早く出る。鉄道会社はそれでも謝るだろう。雪害で遅れてすみません。気持ちだけ受け取って、労ってやりたい。なんなら日々の僕らも労ってやりたい。悪態吐くサラリーマンも。

何しろ全部出来すぎているのだ。

なるほどAmazonこれは危険だ

最近いよいよ使い出したAmazon。最初は大先輩の送迎会に使う赤いちゃんちゃんこを至急取り寄せるために使用した。今年の一月のことである。その時うっかり契約してしまったAmazon Prime。これまではPrime Musicで音楽を聴いたり、プライムビデオで映画を見たりくらいにしか使ってはこなかったが、先日イヤホンをぽろっと買い物してからというもの、度々Amazonを使わせてもらっていて、これがやはり便利である。

特に日用品である。勝手になくなっていってしまうもの。例えばヘアーワックスとか、そういった商品に関して、Amazonは抜群に強い。いつも買っていて逡巡する余地のないものを買い物に行く時ほど面倒くさいことはない。そこをAmazonは劇的に解決している。「買い物に行って買いたいもの以外の買い物」の選択肢としては本当に優秀だ。

あまりに簡単に買い物できてしまうものだから、お金を払う障壁を簡単に飛び越えてしまう。財布を傍に忍ばせて買い物をする時、頭の中には常に財布の中の残高があって、今日はこれはいらないなと無意識に取捨選択しているものだが、財布の概念すらない(クレジットカードだから)状況になると逡巡する余地がなくなってしまう。Amazonで買い物をする行為を「ポチる」と言うのは若者言葉であろうか。まじでぽちぽちしまくっている。しまくってしまえる。そこに恐怖もなければ、不安もない。

これはやばいなと思う。今更何いってんだこいつと思われるかもしれないが、生まれて初めてネットショップの脅威を身にしみて感じている。こと日用品に関しては、コンビニスーパードラッグストアのような店舗網をきめ細かく張りめぐらせる以外に太刀打ちの術がないかもしれない。Amazonに乗っかってしまった人がAmazonから降りるのは至難の技だろうから、乗りこなせなかった層をいかに取り込むか勝負を僕たちその他商人が食い合うのだろう。

2014年、夏。僕はエボラ出血熱に本気で恐怖した。これでいよいよ人類が危ういかなと思ったが、大流行はアフリカの一部のみで沈静化した。幸というべきか分からないが。実はAmazonもそんな感じで、いうほど世の中を食い荒らさないかもしれない。なんて書いてるうちにこの間ホールフーズを買収したって全世界をざわつかせたのを思い出した。どうなって行く気なんだろうか。世界をどうして行く気なんだろうか。抗えるのか。

やっぱ凄いぞAmazon。脅威だ。恐怖だ。便利だ。

ギターボーカルという絶対正義

問答をする隙間すら与えず、泣く子も途端に口をつぐみ、悪代官だって紋所を突きつけられたようになる存在、それが、ギターボーカルである。ことバンドにおいて、ギターボーカルの存在感は百発百中で当たる一撃必殺技の如き殺傷能力を備え、民主主義的解決を悉くひっくり返すだけの裁量権を持っている。

ただのギターボーカルならまだしも、多くのギターボーカルは作詞作曲までこなす。沈黙を通したとしても唯一無二絶対不可欠な存在なのに、曲まで作られてしまった日にはどうしようもなく立つ瀬がない。卑怯である。

そういうギターボーカルは十中八九カルト的な人気を受ける。ライブハウスから飛ぶ声、武道館から湧き上がる歓声の大半がそのギターボーカルの名前で構成される。そんな歓声を受けながらギターボーカルはさりげなく水でも飲んでふらっとマイクまで来てありがとうって言う。会場が湧く。ギターボーカルははにかむ。はにかんでMCに入る。なんだお前は。神か。神なのか。

僕らが昨今耳繁く聴く音楽には多くの場合歌が入っている。「この曲知ってる?」と「この歌知ってる?」が同等の意味を持つあたり、曲における歌の比重はめっちゃ大きい。画竜点睛みたいなもので、歌が入ってこそ曲になる。その最後の一画を握っているのがギターボーカル。僕がバンドです。僕がいないとバンドじゃないです。間違っちゃいないが癪である。しかし、間違っちゃいない。君の世界じゃ君が正義だ。

メジャーがあってこそマイナーが存在する。ギターボーカルがあまりにもメジャーとして君臨してしまっているものだから、リズム隊がマイナーとなってしまっている。最近こそ僕らのような素人音楽マンたちも普通に知っているベーシストが表れてきた。亀田誠治然り、ケンケン然り、ハマ・オカモト然り。彼らは主役だ。主役になりうる。でも、バンドにおける彼らの呼称はリズム隊。東山と植草と錦織でもないのに隊を成している。対するギターボーカルは1人で2つの楽器を占めている。おかしくはないか。ドラムとベースを合わせてリズム隊と言うのに、1人の人間がギターボーカルである。キャラ立ちしすぎている。漫画とかでギターボーカルがふらっと出てきたらキャラ立ちしすぎて完全にこいつ後で仲間になるだろって思う。と思ったらライバルとして出てきたりするんだろう。小憎らしい。

じゃあ、メンバー紹介しまーす。

ギター、誰々。ドラム、誰々。ベース、誰々。そしてギターボーカルの私です。

なんでお前最後なんだ。この後に及んで全部掻っ攫っていく気か。そもそもライブ会場なんてギターボーカルの庭だ。君が出てきて盛り上がらないはずがない。だからってこれ見よがしに最後に全部持っていくか。初めてメンバー紹介を見た人の頭の中は最早君の名前しか残ってない。マイクの扇動効果を知り尽くしすぎている。ずるいぞって声を大にして言いたい。しかしその声すらギターボーカルの声と歓声にかき消される。恐るべしギターボーカル。

暴虐武人を尽くすギターボーカルだが、有能なギターボーカルは自分の無力さに気づいていたりもする。バンドにおいて、音楽において、リズムほど重要なものはない。すなわちリズム隊と呼称されてしまうドラムとベースこそ音楽なのである。それをギターボーカルは知っている。今、胸に手を当ててみてほしい。鼓動を感じるだろう。命を繋ぐものこそ心臓であり、心臓が刻むのはリズムだ。リズムがなければ何事も動き出さない。命を司るリズムに対して、ギターボーカルが司るところは生命の外観である。ヒトか、イヌか、カメか。ギターボーカルによって見た目が変わって行く。イヌ好きもいればカメ好きもいる。外観を司るギターボーカルに人気が集まるのは当然である。しかし、生命を動かしているのはリズム隊。この関係を熟知したギターボーカルがいるバンドは長続きする。しかし、一度でも自分が心臓だとギターボーカルが勘違いをすると瞬時に心臓はもぎ取られ、生命が止まる。

ギターボーカルよ、謙虚であれ。

読書食育大事土台

本を読んだ後に文章を書こうとすると、文体が読んだ本に引っ張られていく現象が起こる。特に語彙力でぶん殴る類の文章を拝読した直後というのは、自分の語彙の限界にチャレンジしたくなってしまう。まとまりのない文章が産み落とされ、言葉数とまとめる力の不足を痛感する。

翻って、食事である。

普段は全く気にしちゃいないが、文章のように身体も摂り入れたものに影響されていくには違いなく、鶏胸肉を食べれば鶏胸肉の身体に、ジンジャーエールを飲めばジンジャーエールの身体になっていく。たとえ不摂生したところで、たちどころに影響が出るわけではないだろうが、ボディブローのようにじわじわと効いて、8ラウンド目あたりからフラフラになっていく。

文章の話に戻る。

日頃ポロポロと書いている文章はじゃあどこから湧いてきているのか。特に日常的に読書をしてはいない。何に影響されてんだろうか。多分それは過去読んできた本と漫画だ。幼少の頃に貪るように読んだ週刊少年ジャンプと21世紀こども大百科と四大文明全集。あと、へんないきもの。あれらが文章の骨を作っている。血となり肉となるのは日常の出来事だ。勝手に形ができていく。当時の読書には頭が下がる。当時の自分の爪の垢を煎じて飲みたい。

さらに翻って食事である。

健康に今を生きている諸君。つつがなく健康な人生ほどに幸せなものはない。その健康を作っているのはきっと、幼い頃の食事である。好き嫌いのないよう、偏りのないよう、丁寧に時に大雑把に栄養を与えてくれた両親の尽力である。最近ちょっと太り気味とか、ジャンクフードに偏っちゃってるとか、一時の不摂生で簡単にブレない根っこと幹は、幼少の頃に作られる。違いない。

まじ食育大事。土台大事。

目下脱皮中

この間ちょろっと海に行ってブワッと浮かんでザザっと泳いでジジっと日焼けしたところ、今ものすごい勢いで皮膚が剥けてきている。帯状疱疹からの完全復活を目して向かった海だが、しっぺ返しを食らった気分である。赤みが引いて、色が落ち着いて、褐色の肌を手に入れて瞬間の脱皮。白と赤のまだら模様が褐色の肌の下から現れてきた。格好悪い。

しかし、ここまで大規模の脱皮は初めてかもしれない。肩と背中が猛烈に向けており、胸の方までペリペリときている。圧倒的に日照されていた学生時代は何しろ365日四六時中外にいたため、ずっと陽に焼けているような状態であった。夏は日焼け、冬は雪焼け。焼けていない時分はなかった。なぜ日焼けで皮が剥けるかのメカニズムを全く知らないのだが、急激に焼くことが原因なのだろう。このところは冷房の効いた室内でのお仕事がもっぱらであったため、大した快晴でもない日光でも皮膚がびっくりしてしまったのだと思う。ボコボコにされてしまった。

桜井和寿も引くほどにとどまることを知らない脱皮。電化製品とかを開封した直後の保護シールを剥がすかのような剥けっぷりが面白く、ついつい夢中になってペリペリしていると時間が経ってしまう。今日なんか世陸を眺めながらずっとペリペリしていた。ファラーの無念も、ボルトの悲壮も、日本の歓喜もの最中でさえも、ずっとペリペリしていた。昔無限プチプチとかいうチープな面白グッズが流行ったことを思うと、無限脱皮なんかもそこそこヒットするんじゃないかなんて思う。

さぁ、盆でも出勤である。

そういえば弊ブログ最初の記事も三年前のこの時期であった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com