徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

房総の祖母よ

ばあちゃんが亡くなった。母方のばあちゃん。僕にとって最後の祖父母が逝ったこととなる。
本日、日程的には予定通りの帰京なのだが、そうした事情もあり、全く違う意味の帰京となってしまった。傍らには母。千葉から北海道に嫁いだ母。今の心中を察するとなんとも言葉が出ない。


母の実家は千葉県の佐倉市にある。北海道からは、飛行機で2時間と、飛行場から電車で2時間。まずまず遠い。母もぴょんぴょん帰省することはできず、息子の夏休みと冬休みに合わせての帰省が多かった。少なくとも、僕が生まれてからはそうだ。夏冬合わせて、2週間ずつくらい帰っていた。

ばあちゃんのことは、佐倉にいるばあちゃんだから、佐倉のばあちゃんと呼んでいた。
佐倉のばあちゃんとの思い出をぼんやり浮かべる。


佐倉のばあちゃんは仕事人間だった。商人である。中小メーカーの経営者として、長く仕事をぶん回していた。
だから幼い頃、佐倉のばあちゃんと遊んだ記憶っていうのがほとんどない。多分外回りをしていたんだと思う。バチバチに働いていて家にいなかったのもそうだし、働いている内容もガキには理解できなかった。
遊んでもらってはいなかった分、とにかく褒められた。祖母の孫に対する素直な気持ちだったのだろう。
偉いねえ。
すごいねえ。
お利口だねえ。
大きくなったねえ。
年に二回、延べ一ヶ月会うだけの孫だ。そりゃ成長を感じただろう。大きくなったねえって言われただけ僕も大きくなったし、お利口だねえって言われる度にお利口になった。たまに言われすぎてうざったくもなった。


ぶんぶん仕事を振り回していた佐倉のばあちゃんだけど、代替わりの時期は必ずやって来る。僕の叔父に代替わりし、佐倉のばあちゃんは仕事の第一線から身を引くこととなる。祖父の死も重なったこともあったのだろう、僕が東京に出た頃から、ぐぅーっとばあちゃんは老けていった。


僕は、上京してからも年に一回か二回遊びに行くくらいだった。泊まってと一泊か二泊。むしろ子供の頃より佐倉のばあちゃんと会う時間は減った。
けど、僕の中での佐倉のばあちゃんの印象はどちらかというと弱り出してからの印象が強い。仕事仕事だったばあちゃんが一日中家にいる。泊まったら僕も傍らに一日中いる。2週間帰って遊びまわるよりも、上京してからのばあちゃんとの時間の方が濃厚だった。
息子でも娘でもなく、北海道で育って上京してきた孫。無責任にばあちゃんと触れ合える距離にいた。だから無責任に遊びに行って、無責任にばあちゃんと話した。
認知症がだいぶ深くなっていた。
何度も日にちを聞かれて、何度も答えた。お腹がすいてないかたくさん心配された。物の名前が出ないというばあちゃんにクロスワードを作って一緒に解いた。僕はびっくりするほどクロスワード作るのが苦手だった。ギターでも色々弾いてみた。ばあちゃんは「ふるさと」が好きだった。いい唄知ってるねえ。褒められた。「さーぎーりーきーゆるーみーなとへのー」って歌も好きだったけど、曲名が今わからない。なんとなく「いい孫」でいられる距離。都合がいい距離からばあちゃんを見ていた。


就職活動をしているときもばあちゃんと何度か電話したことを覚えている。雨の赤坂見附を歩いているときに突然電話がかかってきて、今丁度面接だったことを伝えた。
大変だねえ。
そうなんです、大変なんです。
笑顔で気持ちよく挨拶するんだよ。
わかったよー。がんばるよー。
ばあちゃんがえらく励ましてくれたその会社は速攻で落ちた。
雨の赤坂見附の件もそうなんだけど、果たしてなんで電話をかけてきたかわからないことが多々あった。しかし、電話がかかってきた時は認知症が進んでいるとは思えないほどの教訓を授けてくれたりもした。
商売はとにかく気持ちよくやりなさい。
取引先にはまず沿ってみなさい。
お得意様は大切にしなさい。
長く付き合っていける商売をしなさい。
そんなようなことを言われた記憶がある。錦糸町の街を徘徊しながら佐倉のばあちゃんの訓示を頂戴していた残像が脳裏に残っている。


さて、いよいよばあちゃんが苦しくなった。半年ほど前のことだ。のっぴきならない様子になってきたため、介護用のベッドやら何やら整えると、ばあちゃんは寝付いた。
コロコロと右肩下がりに転がっていた体調が、急こう配に変わった。
たまに来る孫である。会う度にばあちゃんは弱った。僕は無責任を続けた。わかってんだかわかってないんだかわからないほどになったばあちゃんだったが、この際、孫とわかるかわからないかはどうでもよかった。雰囲気で話した。やっぱりギターは弾いた。この9月に会った時はまだ「ふるさと」を歌ったような記憶がある。


食欲が落ち、痩せた。全体力を使って心臓を動かしていると看護師さんから聞いた。寝させてあげようと思った。話すより、寝て、心臓を動かした方がいいと思った。
ばあちゃんは安らかにスースー寝ていたけど、ある種の壮絶さがそこにはあった。生きている。生きていくということは、どれだけ大変なことか。心臓を動かす、体温を維持する。それは当たり前のことじゃなかった。
ちょっと距離のある孫だからそんなふうに考えられたのだろう。介護と看護の真っ只中は、きっと甘っちょろい世界じゃない。なんとなく察しがついた。


そうして、いよいよである。
よく頑張ったよね。よく頑張った。訃報が届いて、互いに言い聞かせる父と母。僕は何も言えなかった。何か言葉を発すると自分の言葉に泣きそうになるからやめた。
まだ顔は見ていない。父方の祖母の最期の時、会いに行かないですごく後悔をしたので、今回はやれるだけきっちり弔おうと思う。

司馬遼太郎「関ケ原」 ~何が人を動かすか~

今週のお題「読書の秋」

思うところがあって読んだので、書く。

 

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

 

 

本の概要

歴史小説といえば、司馬遼太郎。司馬遼太郎といえば、歴史小説。

大して本を読まない人でも知っている、泣く子も黙る御名。恐ろしいほどの多作家で、「功名が辻」、「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」など、映像化されている有名どころだけでもキリがないほどの作品群を生み出した。

この度、「関ケ原」が映画化されたこともあり、また巷でも知られる作品が増えたことだろう。

文庫にして、上・中・下の三冊。総ページ1,600ほど。寡読人間からすると信じられないほどの分量の言葉。僕なんか1600文字書くのにいっぱいいっぱいの人間である。平気で三冊分の小説を書き上げてしまう司馬遼太郎の頭の中に突っ込まれている途方も無いほどの知識に畏怖すらも感じる。

作品名の通り、この本は「関ケ原の戦い」として知られる天下分け目の大決戦について描いたものだ。実際の戦いの描写は最後の最後に200ページほど記されているだけで、それまでは関ケ原にて決戦が起こる前段、どういったうねりが世で起きていたのかが精緻に書かれている。

特に人物描写が上手い。いや、もはや上手いという言葉では表せないほど。

当時の武将たちのキャラが立っているのはもちろんのこと、藩の色、生い立ち、両親との関係、武将としての資質、さまざまな角度から、煩雑極まる登場人物達を一名一名切り出している。読んでいる方としてもごちゃごちゃにならずに進んでいける。

長編の割にとても読みやすかった。大した理解力のない人間が言うのだから間違いない。

 

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

 

 

関ケ原の戦いの概要

石田三成と徳川家康とが岐阜県関ケ原で巻き起こした大決戦のことである。両軍交えると20万人に匹敵する人数が関ケ原の大地にて合戦を行った。勝った方が天下を獲るという一応の名目がついていたため、天下分け目の大決戦と相成った次第に候。

 

何故、「天下分け目」なんていう物騒な騒ぎが起きたのか

全ての発端は豊臣秀吉である。稀代の権力者だった秀吉。全国津々浦々の大名を太平させた。

しかし、生きとし生けるもの寿命は必ずある。

秀吉が死ぬ。

死ぬとなったら後継ぎが必要である。秀吉は息子の秀頼をなんとか育てたい、守ってやりたいとの思いを残してこの世を去った。秀吉に匹敵する権力者(五大老)や側近たち(五奉行)は秀吉の遺言どおりに秀頼を擁立した。

はずがなかった。するわけなかった。

急先鋒が大老・家康である。五大老の筆頭として前田利家とともに豊臣政権の実力者であった家康。次は誰の世か。秀吉亡き後、関東を平らげている彼が黙って忠義を尽くすはずがなかった。家康は秀頼の後見人として働きまくるふりをして権力を振り回し、地盤を固め、秀頼になり替わって天下を治めようとした。当然の発想だと思う。

対して、五奉行の一人・石田治部少輔三成。彼はとにかく豊臣を守りたい。秀頼が天下を治めるべき、豊臣に恩があるのであれば秀吉亡き後も忠義を尽くすべき。道徳観念に根差した「べき」論をぶん回して家康に真っ向から反発した。

つまり、

  • 豊臣家存続の為の正義を掲げる石田三成
  • 豊臣家存続の為の正義を掲げたふりをして天下を狙う徳川家康

という二人の争いであった。

 

戦況

先述の通りなのだが、関ケ原での戦闘は火ぶたが切られた時点で勝負がある程度決していた側面がある。

当時の戦はまだ剣や槍が主力であった。そのため、「戦力=兵士の数」という等式が十分成り立つ。数の暴力。押し寄せた者勝ち。どちらが多くの大名を味方につけるか。多くの軍勢を先頭に送り込むかの勝負。

家康は250万石というとんでもない領地を手にしていたが、一方の三成はたったの19万石。全く歯が立たない。そこで三成はそこらじゅうの諸侯に家康の横暴を流布し、参戦を求めた。「家康ってこんな悪い奴なんだよ!みんな気づいて!豊臣への忠義を尽くして!」

家康も一人じゃ勝ち目がない。もちろん、たくさんの大名を味方につける。豊臣家にもっとも忠義をつくしているのは自分であると宣言し、全国最多石高の圧力をバックに仲間を増やし続けた。

家康の仲間には一つ大きな特徴があった。

アンチ三成党の存在である。

石田三成とは相当に人気がなかったらしい。理系で理論派、それでいてコミュニケーションがそんなにうまくない人間という印象を読んでいて受けた。お世辞とかクッション言葉とかが言えないタチらしい。持ち得る能力値を理数関係と戦術観に全部振っていたようで、その他の要素に関してはどうしようもないほどにウケが悪かった

世は戦国の名残を十分に残す。血を血で洗い、武を以て武を制していた時代に、理論や道徳は受け入れられる価値観でもなかった。そういった人間性にくわえ、秀吉時代からの禍根(北政所‐淀殿問題・朝鮮出兵時の武功もみ消し疑惑・そもそもの出自等)がスパイスとなり、三成は孤立していた。

 

仲間集めの結末

結論から言うと、関ケ原の戦いで三成は敗れる。仲間の裏切りのせいで。

形としては石田軍と徳川軍ともに9万人近くを擁して関ケ原にて対峙した。が、形だけであった。石田軍の内部では家康に寝返り工作をしていた大名が大変多くいた

「一応、石田軍ってことでが戦うんだけど、たまに家康軍の密偵とか受けちゃったりするよ。」

「石田軍のこんな機密情報教えちゃうね。」

「石田軍につくけど、僕ら戦わないから。」

こんな大名ばっかりだった。なので実算からすると、石田3万対徳川10万くらいの差があった。

戦闘はわずか半日にも満たない間に決着する。寝返りに次ぐ寝返りによって。

三成の求心力の無さ、徳川側の謀略の巧妙さ、原因としては、どちらも真であろう。

 

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

 

 

何が人を動かすか

石田三成の失敗

何故三成は求心できなかったか。石田軍は空中分解したのか。

司馬遼太郎のフィルターを通して見た、天下分け目までの流れは、圧倒的に三成が正義だった。家康の横暴を摘発し、豊臣への忠義を忘れるなと叫んだ姿はヒーローそのものだった。

しかし、

正義のヒーローが勝てなかった関ヶ原。

正義のヒーローの人気がなかった関ヶ原。

石田軍空中分解の一番大きな原因が、三成が標榜した主義が当時の価値基準にマッチしていなかったことにあると考える

当時の諸侯は、家を守ることを第一に考えていた

しかし三成は豊臣家への忠義を説いた

拝読中、諸侯の心情が手に取るように分かった。一にも二にも、家の存続。自らを末代にせず、子々孫々の繁栄を目指す。大名家が大きくなればなるほどこの傾向が強い。最たるものが豊臣家だったわけだが。

関ケ原の戦いのような天下分け目の決戦において、敗れた方の軍勢は当然のごとく迫害される。大名本人は流罪か切腹。領地は減封か没収。家が絶える可能性が非常に高くなる。

では、家を守るためにどうするか。

どっちが勝ってもいい様にどっちにも保険をかけるのだ。

三成にはそれがわからなかった。

「家とかそういうのは二の次じゃん。道理で考えたら第一に豊臣への恩を返すよね!だから僕らは一致団結!」 

でも実は裏側で工作に次ぐ工作が行われている。400年後の読者からすると、三成の描くビジョンが滑稽にすら映った。三成は義に疑を投げかけなかったのだ。

 

徳川家康の成功

対し、家康は巧みである。

自分が250万石を背負っていて、誰だってそう簡単には口出しできない権力者だということを知っている。その力を振り回し、秀吉の時代に決められていた掟をガツガツ破って行く。

「ここ、秀吉の土地だけど秀吉が生きていたらきっと君に領地あげていたと思うから、この土地あげる。」って豊臣の領地を勝手に配りまくったり、「君の武には心が震える!ヤバい!ご褒美に徳川家の美女を嫁にあげちゃう!」って豊臣の時代に禁じられていた政略結婚をまとめまくったりして、着実に徳川ワールドを作っていった。

そう、まず、自分のことを好きになってもらおうとしたのだ。徳川を好いていたら得をするという刷り込みをしまくった

領地もらったり褒められたり嫁をもらって悪い気を起こす人はいない。たとえ豊臣の世で禁じられていたとしても、真に大切なのは家の保存。今の世を全力で生きて次の時代にパスをしたい大名たちにとっては、過去の掟はそこまで重要なことではなかったのだった。

つまり、

ご褒美をあげまくる。→喜ぶ諸侯はそれでよし。

しかし、訝しんだり義憤にかられる諸侯→義憤にかられて石田軍の肩を持ちながらも、家は残していきたい。→家康にも保険をかける。

といったように、どう転んでも家康に利が転がってくるように仕向けていたのだった。

 

人を動かすもの

それは価値観だ。

豊臣に対しての義は誰もが感じていたように思う。が、動乱の世がやってくるとわかりきっている中、「豊臣への義」は最も重要な価値観になりえなかった

つまり、人を動かすためには、「その時代・その人に望まれている価値観」を満たすことが重要である。これは誰にでもできることではない。「その時代・その人に望まれている価値観」を満たすことができる人は、そもそも満たすだけの「何か」を所有していなければならない。

徳川家康は大老の筆頭であり、圧倒的な土地と裁量権をもっていた。それが、当時の「何か」だった。だからこそ、誰もが媚びへつらわざるを得なかった。

そして、三成は何も持っていなかった。あったのは正義だけだった。正義は美しくて格好いいが、正義じゃ飯は食えない。だから、どう足掻いても野党になって盾突くしかなかった。寄らば大樹の陰を地で行く大名たちは三成の正義にはつかない。大樹の家康につく。決戦の準備段階から、三成勝利の芽はなかったのかもしれない。

 

 

 

 

今の世の中はどうだろうか。

一つの価値観として承認欲求がある。フェイスブックにしろ傘下のインスタにしろ、承認欲求を満たす土壌を与えて大きくなっていっている。また、企業達は情報を欲しがっている。そこにはマーケティングの鬼と化しているグーグル先生が的確かつ膨大なデータを注ぎ込む。そして儲かる。

また、政争なんてわかりやすい。関ケ原の戦いの前段を延々繰り返しているのが永田町である。

 

どうせ歴史は繰り返されると思って、関ケ原から読み始めた。たぶん何回か読み返さないと全貌をつかみきれないし、いろんな方向から見ないと偏るのは明らかなので一筋縄では行かなさそうではある。

一つの契機として、ゴリゴリ知識を補填していきたい。

北海道での日々

ここまで四日間過ごしている。毎日欠かさず届くお仕事の連絡にうつつを感じながら夢のような日々である。

本州諸君、ぬくぬくと中秋の名月を眺めて風流をついばんでいるのだろう。せせこましい日常の中で、たまには月を眺めるもいいではないか。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

藤原道長でしたっけ。満月のような月をみるとこの句が思い浮かぶ。軋みながら、壊れながら、なんとかかんとか回っている歯車マンからは考えられない傲慢さを風流にぶつけた道長の力量たるや。

 

当方、たかだか多少緯度が高くなっただけの北海道は北見。

ちょっとびっくりするくらいに寒いです。月が綺麗だナってぼんやり空を眺めている間に、垂れ流されていくは体温。指の先、首回りからじわじわと染み出ていく。サーモグラフィにしたら指先とかが黒々となって見えなくなっているに違いない。

 

いい季節に帰るね~って同僚の方々に送り出されてきた。いい季節とはなにを指していたのだろう。紅葉が綺麗なことだろうか。涼しいということだろうか。

もし、涼しさに言及していたとしたら、それは違う。飲んで帰る深夜の気温が2度になるこの季節を、涼しいといえるか。18年間住んだ土地であるがしかし、やはり厳しい土地。四六時中、試されている。

試されたなら、立ち向かわなければならない。

二重サッシをもってしても防ぎきれない冷気が流れ込む実家。名月を眺めずとも奪われていく体温。とかく体温は逃がさないようにするものであるが、言語道断。逃げの姿勢というものだ。試されているのである。勇敢に立ち向かわずにどうする。生み出す。

体温を、生み出す。

いま、実家のデスクトップで執筆している。インターネットエクスプローラーのタブは二つ開いている。一つはブログ、一つは、YouTube。流れているのは、残酷な天使のテーゼ。

そして僕は座ってはいない。

立ち上がって、往年の小室哲哉がキーボードを弾くかの如くタイピングをしている。残酷な天使のテーゼにノリノリになりながら両手に渾身の力を込めている。

めっちゃポカポカしてきている。

 

3代前くらいの昔、北海道を切り拓いた賢人たちがいた。彼らは攻めた。不毛な寒いだけの大地に根を下ろして根性で街を作った。文化を作った。その子孫が毛布にくるまってぬくぬくしていいはずがあるか。

攻める。動く。生み出す。

逃げていく熱は見送り、また新たな熱を作る。去る者は追わず来る者は拒まず。自転車操業と侮るなかれ、熱が生み出されるだけでなく、なんとなくスッキリする。大して降り積もっていないストレスの類が一掃されている気がする。

 

後、3日。

寒がりながら、温まりながら、精一杯楽しみたいと思います。

水のように飲み、泥のように酔う

蝶のように舞い、蜂のように刺したのはモハメドアリであるが、水のように飲み、泥のように酔ったのが昨日の僕である。

幸いにも会社の先輩の結婚式の二次会に呼んでいただいたため、文字通りの酔狂。たくさん飲み、騒ぎ、歌い、手に入れたものは以下。

・忘れ物のiPhone

・忘れ物の引き出物

・忘れ得ぬ可愛い子の連絡先

iPhoneは持ち主がわかり、早急にお届けすることで決着。

忘れ物の引き出物は誰のものか全くわからないので拝借。

連絡先は交換したまではいいものの、泥酔状態の僕は薄暗闇の中で頭で思ってた子と違う子の連絡先を獲得していたことが敗着となった。もう連絡取ることはないだろう。

 

そして僕は今空の上にいる。帰省である。

盆も正月が忙しいお仕事のため、これが夏休みとなる。

前後不覚の極致にあった昨晩、総武線の終電が遅延していたことは覚えているのだが、どこからどう帰って総武線の終電に乗ったのかわからない。もちろん、家に帰ってからのことも覚えていない。お吸い物を作っていたようだ。少しでも酔いを覚ましたかったのかもしれない。

そんなずっぶずぶのコンディションを引きずってもなお、地元に帰る帰巣本能は強かった。ちゃんと起きた。頭痛に起こされた。

 

空から見るオホーツクは相変わらず綺麗である。山と畑の織りなす景色。東京の密度からは考えられない雄大さがやはりある。

畑で採れた玉ねぎやジャガイモは、遥か都会のポテトサラダとかになるのだろう。川上から川下に行くに従って川幅は広がるのが常なのに、広大な土地で採れたものはどんどんと狭い世界へ収斂されて行く。絡まるお金だけが広がっていく。

 

さて、着いたので筆を置く。

吐かなかった自分に賛辞を送りたい。

 

この文章は10月1日午後1時に執筆いたしました。

本当のところ、「やばい」の何がやばいのか

スタバで隣に座った「やばい」コミュニケーションの権化である女子大生と思わしき集団と、どんな主張に対しても「やばー」で済ませてしまう貴方に捧ぐ。

「やばい」

〔「やば」の形容詞化。もと,盗人香具師(やし)などの隠語

身に危険が迫るさま。あぶない。 「 - ・いぞ,逃げろ
不都合予想される。 「この成績では-・いな」
若者言葉で,すごい。自身心情が,ひどく揺さぶられている様子についていう。 「この曲,-・いよ」 〔若者言葉では「格好良い」を意味する肯定的文脈から,「困った」を意味する否定的文脈まで,広く感動詞的に用いられる〕
 
weblio辞書より引用

 

「やばい」とは便利な言葉で、ありとあらゆる心情を表すことができる。しかし、「やばい」がまかり通る世界は相当やばい。「やばい」が今のような絶対的地位を築き出した当初、方々から指摘されていた「やばい」のやばさを、僕はやっと実感してきている。果たして「やばい」の何が本当にやばいのか。考えてみたい。

 

「やばい」が表す範囲

「やばい」はとにかくどんな文脈にでも顔を出す。

先に引用したweblio辞書による「やばい」の説明であるが、weblio辞書でいう③の用法を応用・乱用すると、「やばい」が修飾できる言葉は全て「やばい」で表せてしまう。しかも、「自身の心情がひどく揺さぶられている」という状態を「やばい」とするわけだから、知覚できる言葉全てに「やばい」は修飾しうる。肯定と否定はもちろんのこと、歓喜、消沈、焦燥、快楽、危機。あらゆる感情あらゆる状態を十把一からげにしてしまえる。

やばい(くらいに嬉しい)。

やばい(くらいに悲しい)。

やばい(くらいにトイレ行きたい)。

極端な話、人が行うことや感じることについては、「やばい」で表せないことはない。

また、①の用法は、「(〇〇だから)やばい」という、帰結として用いられる「やばい」であるし、②は出川哲朗氏の「やばい」である。

 

実際の「やばい」の使われ方

辞書的な意味を傍らに日常を見渡した時、「やばい」には大きく二つの使われ方があるように思う。

  • 反射的用法
  • 感想的用法

勝手に名付けた。

 

まず一つ目の反射的用法。

とっさの「やばい」だ。これはwablioでいう①の用法である。

あらゆる感情が「やばい」と結びついてきているのは先述の通りであるが、そういった環境で育った世代は不意に起こった出来事について「やばい」を繰り出す傾向にある。

横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

やばい! 

朝起きて時計を見た。寝坊してた。

やばい!

どちらも「やばい」。どこまでも「やばい」シチュエーションである。

「やばい」の反射的用法では、「やばい」の後の咄嗟が省略されている。「やばい!避けろ!」であったり、「やばい!寝坊した!」であったり。今や、「うわ!」とか「あ!」とかの間投詞(感動詞?)と同じ列で語られる言葉となっており、言葉自体に大きな意味はないように見える。

 

問題は二つ目、感想的用法である。weblioでいう、②と③の用法の混合だろうか。

先述の通り、「やばい」は、何にでも修飾するし、「やばい」の主語は省略できてしまう。すると、お互いが同じ状況を共有している時、「やばい」のみで会話が完結してしまう。

二人で横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

A「やばい!」

B「うわー、今の車まじやばかったね」

A「うん、まじやばかった」

こういう会話は巷でめっちゃ多い。

 

あまりに「やばい」だけで話が通じてしまう。「やばい」さえ用いれればある程度の会話がこなせてしまう。そのような「やばい」コミュニケーションにこそ問題が潜んでいる。

 

「やばい」が伝えるもの

余談となるが、今年「けものフレンズ」というアニメがカルト的な人気を博した。

kemono-friends.jp

放送当初、「IQが溶けるアニメ」として取り上げられていたのをよく覚えている。

IQが溶ける要因は作品が持つゆるい雰囲気と、作品内で登場する語彙量の少なさによるものだった。

「すごーい」

「わーい」

「きみは〇〇が得意なフレンズなんだねー」

あらかたどんな刺激に対しても「すごーい」とレスポンスするキャラクター達。脳みそをストップさせる魔力を秘めていた。

昨今の「やばい」と、けものフレンズにおける「すごーい」は殆ど同じ作用を持っている。何がやばくて何がすごいのか知らなくてもお話は進んで行く。

「やばい」において最も大切なことは「やばい」の後ろに続く言葉である。ひっくり返っても「やばい」は感情の程度を表すだけであり、何が「やばい」のかは説明してくれない。

ただ、話だけは通じてしまう。

すると僕たちは錯覚を起こす。「やばい」でコミュニケーションをとっている。「やばい」に意味が含まれる。そう考える。「やばい」の隠れ蓑に包まれた伝えるべき気持ちは見過ごされたままに。

 

言葉で考える僕たちにとっての「やばい」

よほど特殊な人(天才とかの類)でない限り、僕らは言葉を用い、言葉で考える。いくらデザイン思考が叫ばれる世の中でも、思考の枠組みは言葉で決められている。

そんな僕たちが、である。「やばい」のその先を考えなくなったとしたら。

別に通じればいいじゃんって言われたらそれまでだし、正直、コミュニケーションを取るだけであれば「やばい」で事足りてしまう。

ただ、仮に対人関係は「やばい」で切り抜けられたとしても、自分の中で考えをまとめるとき、「やばい」だけではどうしようもない。

今の「やばい」はどこがどう「やばい」のか。

これを考えければならない。

なんとなく「やばい」で済ませてしまうと本当にやばい。虚無である。空っぽである。もはや言葉を用いる動物の特権である思考を放棄しているに等しい。

確かに、「やばい」しか感想を抱けないことはあるだろう。

圧倒的に頭の回転の速い人間に出会って、淀みなく異論の返しようのない話をぶちかまされたときとか、「やばい」でしかなくなる。不慣れな映画を観て、何がいいんだかの正体がわからないまま感動はしたときなんかは、「やばい」である。

しかし、食らいつく。食らいつかなければならない。頭の回転速いマンの話を一生懸命反芻して「こういうこと?」って訊いてみなければならない。また、映画を観た後、訳の分からない「やばい」の原因を辿らなければならない。

訊ねること、原因を辿ることこそが思考であり、思考こそが「やばい」に隠された本当の気持ちと出会う唯一の手段である。

 

「やばい」を暴け

コミュニケーション上の「やばい」は類を見ないほどに優秀であることは書いてきた通りで、僕もその恩恵に預かっている。

だがやはり、使い分けが肝心である。

「やばい」で完結させてしまっていい部分と、「やばい」から一歩先んじて考えなければいけない部分。両者をしっかりと見極めねばならない。

「やばい」で終わらせてはいけないことを「やばい」で丸め込んでしまうこと。思考をストップさせる力を持っていることこそが「やばい」のやばさなのである。

 

こうやって書いているブログであるが、「やばい」的視点からすれば、「やばい」の正体を暴こうともがいている醜態だと言える。

洗濯物干すのやばい

買い物行くのまじやばい

電車からの風景やばい

この曲やばい

この本やばい

今感じた「やばい」ってなんだ。ほとばしる「やばい」の理由はどこにあるんだ。日々の「やばい」を切り取って、「やばい」で済ませないように立ち向かっている。酷く内省的な作業を恥じらいながらも大っぴらに行っている。

 

別に「やばい」の先を考える手段としてブログがいいとも思わない。考えられるのであればなんだっていいと思う。

 

大事なことは考えること。「やばい」で終わらせないことだ。

 

 

ヤバみ

ヤバみ

 

 

僕とイクラとコレステロール

北海道は北見。オホーツク海とサロマ湖を傍らに据えた極寒の土地。海には流氷、湖は全面結氷。田舎は田舎だが、10万人ちょっとの人口を抱える街はそこそこ栄え、特段の不便を感じない。

 

ご飯美味しいんでしょう?北海道はいいよねえ。

 

これまでの人生、方々で言われたが、実際北海道のご飯が特別美味しいとは思わなかった。母の実家は千葉県佐倉市。佐倉のご飯も食べてはいたが、どちらが美味しいとか、あまりわからなかった。

しかし上京後、東京の居酒屋でホッケを注文した時に北海道の偉大さを知った。大きさがまるで違った。脂の乗り方も違った。東京のホッケはイワシ同然のサイズ感に、どうもパサパサした身。チワワとレトリバーを見て、「どっちも同じ犬なのかよ…」と思うのと同様に「どっちも同じホッケなのかよ…」と思った。それくらいに違った。

 

比べてみたらイケてる海の幸事情を痛感したのが、イクラであった。

世の中では、イクラって高いんですね。

我が家では、伯母が季節になると必ずイクラの醤油漬けを作ってくれて、僕はそのイクラご飯をこよなく愛した。また、父親の友人が漁師で、そこからもイクラの醤油漬けがふんだんに提供されていた。遠慮もせずにイクラを食べまくった。

回転寿司に行って、イクラが2カン250円くらいの列に並んでいたのを見て、なんでこんなにイクラは高いんだろうかと疑問を抱いたことがあった。が、実家にいる限りはほぼ自動的にイクラが湧いてきたため、物事の本質を考えるまで至らなかった。

改めて、上京。百貨店の催しで北海道展なるものがあることを知った。

北海道ってみんな好きって聞いてたけど本当に好きなんだねー。

呑気に眺めている場合じゃなかった。そこで巻き起こるイクラ狂想曲の旋律に戦慄した。

実家では湧いてきて然るべきはずのイクラを求めて、長蛇の列。しかもイクラ高い。イクラはいくら?ってダジャレで小学二年生当時の教室を爆笑の渦に巻き込んだ僕であったが、いくら?って気軽に聞いたら怪我をするような研ぎ澄まされた値段に群がる人々。イクラ、お前こんなに人気だったのか。貪ってごめん、雑に扱ってすまん。

割と数の子とかにも恵まれていた実家の台所事情。魚卵の尊さを知らずに育った僕のカルチャーショックであった。

 

季節が巡り、今年も伯母からイクラの醤油漬が送られてきた。昨日、必着日と必着時間に合わせて炊き上がったホッカホカのあきたこまちにイクラをかけて食べた。どこぞの物産展でどんなイクラを売っているのか知らないが、伯母のイクラは研ぎ澄まされた値段がついてるイクラよりもきっと美味しい。比べてないが、変な確信がある。イクラ嫌いの母親が伯母のイクラだけは食べられるのだ。相当美味しい。

 

今日も今日とてイクラを頬張ったが、世間的にはコレステロールが大変なことになるらしい。コレステロールとは何か。僕は知らないが、生命を頂くと上がる数値と考えている。卵の類は即ち、生命と栄養をまるっと食べていることとなる。贅沢甚だしい。

しかし、生きるための身体を頂いているのだ。栄養が不足しているわけなかろう。僕はイクラが好きで、数の子が好きで、ひいてはオムレツ玉子焼きオムライス全部好きだ。

たぶん、コレステロールとは罪の数なのだろう。生命を頂く愚かしさ。それを生々しく突きつけてくれる。

コレステロールがオーバーフローするとどうなるのだろうか。なんとなく血液がドロドロになる気がする。血管が詰まる気がする。

コレステロールの英才教育を受けた身として、捨て身でも生命を頂き続けようと思う。

何しろ、イクラが美味しいのだ。

昨年よりもひとパック多く貰えたイクラ。大切に食べていこうと思う。

にしても美味かった。サンキューおばちゃん。

もうちょっと寝る

今日はお休みだからもうちょっと寝る。

これができない人間だった。酒に酔っているわけでもない朝、一度起きたらおいそれともう一度寝られないタイプの人間だった。ここで起きたが百年目。いそいそと弁当を作るなり、休みだったら起きだして飯食って掃除しだすなり、そういう人間だった。

過日、友人の怠惰な一日を聞いた。

8時起床、もうちょっと寝られるな、14時。勿体無いことしたな。ソファに座る。まどろむ。16時。出かけたいけど外は雨、ぼんやりする。20時。ご飯食べる。21時。テレビ見る。24時。寝る。

疲れてたんでしょう。多忙な毎日ですものね。同情を禁じ得ないほどに寝てしかいない一日を目の当たりにして、なるほど人とはここまで寝られるものなのかと知った。さらに友人自身、勿体無いことをしたと思いながらも、ちょっと身長が伸びたとイタく満足げであった。

 

一度寝てみよう。がっつり二度寝をしてみよう。興味が湧いた。

そういうわけで、寝てみた。本日休日。最初の起床はいつも通り6時。さあ、起きるか、どうするか。僕は心を鬼にして再び眼を瞑った。7時。ここが分水嶺である。起きてしまえばいつもの僕である。やはり、常に新しい地平を切り開かねばならない。未踏の地に踏み出していかねばならない。7時に起きて、なんとなく瞼の上がモヤモヤした休日を過ごす。それは日々過ごしてきた休日である。気合い入れて寝て、どこまですっきりするのか。戦うべきであった。戦わなければならなかった。

次に起きた時、9時50分であった。ほぼ10時。

十分であった。普段であればバキバキに動き散らかしている時間。なんなら買い出しすらも済んでいる時間にのこのこと起きた。勿体無いことしたなと思った。しかし、一度目を覚まして見ると普段との瞼の軽さに驚いた。

初めてメガネをかけて学校へ行った時の感覚に近いかもしれない。

あまりメガネをかけたくなくって、必死こいて眼を凝らしまくった視力検査。なんならランドルト環の空いている方を記憶してまで視力を保ったふりをしていたが、遺伝には抗えず、小学四年生にてついにメガネ族の仲間入りを果たした。

黒板ってこんなにみやすいのか。あの衝撃は忘れ得ぬものである。

 

今朝の衝撃も同値だった。瞼ってこんなに軽いのか。スッキリするものなのか。

僕は常日頃、「短時間睡眠はスリープモード、長時間睡眠は再起動説」を唱えている。短時間睡眠であれば立ち上がりは早いが、ずっとゴリ押すと動作が鈍ってくる。たまに再起動をすると立ち上がりは遅いが、動作にキレが戻る。

此度、再起動に近い睡眠を貪ったが、割とスッキリ起きられた。何かが功を奏したに違いない。

寝てみて、10時ごろ起きたわけだが、割とまだ寝られるなと感じた。若いからいつまでも寝られるでしょうと諸先輩がたに言われてもなかなか実感できずにいたこれまでだが、いつまででも寝られそうである。

穏やかな休日が始まりました。

顎・輪郭線にできたデキモノが憎い

著しくQOLを低下させられている。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

歴史は繰り返すという。磯田道史の著書を読んでもなるほどなと思う。人間の本質なんてそう簡単に変わりはしない。

ポルノグラフィティも謳う。

僕らが生まれてくるずっとずっと前にはもう アポロ11号は月に行ったっていうのに

僕らはこの街がまだジャングルだった頃から 変わらない愛の形探している

僕は顎の輪郭線にできるニキビの治し方を探している。二年前も、今も。

 

特段美しい顔を持ち、それで商売をしているわけではないので、多少の凸凹が顔にできても別に構わないと思っている。だが、目下腫れている状況だと、とにかく患部が気になって仕方ない。輪郭に喉仏ができたみたいになっている。

ニキビの原因は皮脂の詰まりが原因だという。皮脂が毛穴に詰まって、ニキビができて、炎症を起こしたりして腫れ出す。現段階を顧みると、相当腫れてしまっている。どうやら僕の輪郭付近の毛穴は皮脂で詰まりまくっているようだ。

なぜ輪郭か。輪郭だけをおろそかにしていたのだろうか。顔を洗うときに輪郭だけちょっと洗いきれていなかったとか、そんなことあるのだろうか。

奥歯が虫歯になるメカニズムはよくわかる。奥歯は得てして食べカスが詰まりやすいだろうし、ブラッシングの手が届きにくい。液体ハミガキは全口腔内にくまなく行き届くからおすすめだよ!という話。

いいとして、翻って輪郭線はどうだ。特別に皮脂が詰まりやすい構造をしているわけでもあるまい。ジメジメもしていない。風通しもいい。新しい地図でも描けそうである。さらに髭剃り過程で必ず輪郭には洗顔の手がいく。これほどまでにニキビ醸成に適さなそうな場所に、エラい爆弾を抱えてしまっている。

 

触るなという。むちゃくちゃを言うな。

目の前に富士山があるとする。どうする?見るだろう。仰ぎ見て、あぁ、富士の峰だ。峰不二子だ。と、シンメトリーの美学に眼福するだろう。じゃあ、顎の輪郭線に富士の峰を抱えたとして、無視していられるだろうか。否。確実に触る。存在感が無視させない。僕を捉えて離さない。

気がつくと中尾彬のようなポーズをとっている。顎を撫ぜるふりしてニキビにちょっかいをかけている。気がつくと頬杖を付いている。物憂げに思索に耽けるふりをして、ニキビにちょっかいをかけている。手のひらで包み込めば少し暖かく、指先で触れば絶妙な弾力で跳ね返してくる。興味が尽きない。

そうしてまた育つ。顎の富士がじわじわと膨れていく。

噴火は近い。

僕がSNSを苦手とする理由

昨日、以下のようなセッションがあった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

概ね、初めまして同士がコンタクトを取り合うのだが、四の五の言う前に皆様がスマホを取り出してFacebookで友達申請を送ったことに僕は心の腰が抜けた。ヘナヘナ。

古くは、村から出ないまま村の中のコミュニティのみで生涯を閉じるものが多かったと聞いている。せいぜい、藩の中。一生に一度の遠出が、御陰参り。代々継ぎ足し継ぎ足しされてきた濃厚ソースのような熟成っぷりを見せていた人間関係だが、ここのところ爆発的な広がりを見せている。

 

SNS

 

ゆるい繋がり、遠浅の繋がり。TwitterやFacebookのお陰で世界は繋がる。

しかし、僕は心底SNSが苦手である。ブログでは割と雄弁なのだが、いざTwitter、いざFacebookとなると尻込みが止まらない。なぜだろう。なぜなのだろう。以下である。

 

僕が持つSNSへの固定観念

第一に、SNSとは自らの動向、主義、主張、趣味、趣向を他者に発信するツールであると考えている。自らの情報を不特定多数にさらけ出して、何らかのアクションを貰う。似通った考えの人たちが、それこそゆるーく繋がる。誰かの賛同を得る快感たるや、筆舌に尽くせない。

現代において、SNSに参画しオンラインで繋がるということ。それは発信者からすると自分の中身を曝け出し、受信者からすると他人の中身を垣間見ることと同義であろう。

 

顔見知りに自分の中身を曝け出すということ

TwitterもFacebookも、大抵は知り合い同士で繋がる。そして知り合い同士の主義主張を伝え合うこととなる。

僕はそもそも顔見知りが苦手である。遠い昔に一期一会した気がする…くらいの、浅くて古い友人が苦手だ。地元に帰って、街ですれ違うだけでもドギマギするのに、そんな人たちに主義主張を曝け出すことが怖い。恐怖である。

かたや、ブログは違う。自分の所属するコミュニティとは別方向に開けている。自分のことを知らない人に自分を曝け出す楽さったらない。旅の恥はかき捨て理論。

 

自己顕示欲と自信のなさのせめぎ合い

自分のことを知られたくない気持ち。それは自信のなさの表れである。間違いない。

僕、こんなことしてます!こんなこと考えてます!こんな記事に興味持ちました!この記事に出てる人、僕の知り合いです!

主義主張に自信があるから、叫べる。趣味趣向に自信があるから、繋がれる。

僕は自分にそこまでの自信が持てない。なんとなく、相手の反応とか考えてしまう。だから僕はSNSに誕生日を登録するのをやめたのだ。生まれた日をゆるい繋がりの人に機械的に祝われることに自信がない。

でも、顕示欲は止まらない。

だからブログを書く。読んで欲しい人には、ブログを教える。が、基本的には見ず知らずの人が読んでいる。楽。昔の村社会が一家伝承秘伝のソースだとしたら、SNS連中は中濃ソース、ブログはウスターソース。そんな感じのイメージを持っている。各々やれる範囲の顕示欲解消法を見出して生きているのだろう。僕は、ブログ程度のシャバシャバな付き合いであれば自己顕示できる。そういうことだ。

 

実際に繋がって何かを起こすためには

昨日拝見した限りでは、Facebookから仕事が生まれるようである。オンラインからオフラインの仕事が生まれたり、オフラインで出会って、オンラインで繋がってそのまま仕事が生まれたりする。仕事となるとシャバシャバな付き合いじゃ困る。ある程度の濃度の関係になるには、互いの主義主張趣味趣向を伝え合うリスクくらい必要なのだろう。なんとなくわかった気がする。

 

 

結局、何を求めるかである。SNSに。

誰かと何かを実らせたいなら日頃からオンラインとオフラインを行き来しながらコミュニケーションを築かなきゃいけないし、ただひたすらに書き殴りたいだけなら文章をしこたま書いてしこたま落としていけばいい。スタンスの違いだ。

そう、つまり、昨日はオンラインで実らせまくっている方々との邂逅だったわけで、当たり前のようにオンライン開帳をやり合っていたのだった。

別にこのブログで何が起こるわけでもなかろうが、案外興味を持ってもらえたり貰えなかったりしたので、少し顕示欲の幅と関わりの濃度を上げてもいいかなと思った。

 

こんだけ書かないと消化できないほど、SNSが苦手なのです。

同郷コン 〜シーシャバーでシーシャも飲まんと二酸化炭素を吐き出した夜長〜

そんなようなことをしてきた。

シーシャバーで同郷の人たちと今の仕事を踏まえてみた故郷を話してきた。
 
同窓の先輩がゴリゴリと開拓していった轍を後ろからトボトボ通って辿り着いたが水道橋の駅のホーム。見渡す限りの酔っ払い。酔っ払いのことを避けて通る酔っ払い。それを白い目で見る酔っ払い。
 
僕はレジのことをお勘定場って呼ぶ文化圏で仕事をしている。しかし、シーシャを吸う大義のもと集まった青年たちは結構カタカナを振り回して戦う文化圏で生きていたため、足りない頭を振り絞るのに苦心した。
火を見るより明らかなのは、これからの世の中を泳ぐためにはデジタルとかその界隈の知識が必要なことである。三歩歩いた後の鳥でもわかる。わかってはいるものの、お勘定場人間は知識が必要なことから先がわからない
 
何ができるのか。どう動いているのか。
デジタルマーケティングやデザインの世界でとにかく使われる言葉は「伝える」だった。少なくとも、デジタルは「伝える」ことはできる。さらに、得意らしい。
 
確かに、伝えなければ話にならない。
 
例えば野良猫が吉村作治ばりにエジプト文明の真理を悟っていても、奴らは猫語しか喋らないんでわからない。伝えられない。
しかし、グーグルやフェイスブック連中が生み出したネット広告のシステムによれば、猫語を解読した上でエジプト文明の真理を知りたがっている人々に対して猫が悟った真理を「伝える」ことができるらしい。コスト的にも猫の餌一食分程度のものだという。めっちゃ安い。
 
これは流石にすごい。結局、「名もなき●●」の情報が「●●」自体が好きな人たちに伝えられるという話である。格安で。
 
伝えられることを知った猫はめっちゃおいしい。伝えるサービスを使ってエジプト文明を知りたい集団にエジプト文明の真理を伝えられる。しかし、世の中そんな猫ばかりじゃない。伝えられることを知らない猫もいる。さらにその猫はメソポタミア文明の謎を解き明かしているらしい。じゃあ、「伝える」連中はどうするかというと、伝えられない猫に自分たちが「伝えられる」ことを「伝える」。
つまり、双方向に伝え続ける必要に迫られる。
 
けど、世の中猫語だけで回っているわけじゃなく、鹿語でインダス文明の秘密に迫った鹿もいるだろうし、ウサギ語で中国4000年の歴史を紐解いたウサギもいる。そしてどんなニッチな業界でも、掘りまくっていけばインダスや中国の歴史に恋い焦がれている人がいる。
知っている者、知っていることを知られていない者、知っている者がいることを知らない者。それぞれを繋げることが「伝える」活動であり、伝えたいから皆アドセンスに夢をみる。
 
ぶっちゃけこう書いていると、どんな営業もそんなもんだよなと思う。メーカーを探して、販路を開拓する。双方向への営業活動である。ただ、デジタルのマーケティングはどうやらその精度が高いようだし、検証もしやすいようで、より仕事してる感と世の中動いている感が得られるのだろう。実際話を聞いててめっちゃ魅力的だった。
一方で、広告界も飽和していてメガ企業たちが既存のパイを食い合い出しているらしい。そこで我々同郷の連中が郷土の何某に伝えられることを伝えられれば一つの掘り起こしになんじゃないのと、中小企業スピリッツに若干の火がついたところでお開きになった会であった。
 
まぁなんだ、劇的にこれから物語が動いていくとかそういうのは別にして、安穏とお勘定をしているような我が業界には中々いないタイプの方々に出会えたことが一つの収穫だと思うし、それこそグラウンドの砂を数えていたような凝り固まった頭がイスカンダルの彼方に飛んでいったような清々しさを覚えているので、なんだ、本当に良かったと思う。
よくぞ場を取り持ってくれた先輩にはまぁ身近な功労者として感謝申し上げると共に、関係各所の皆様にも渾身の謝辞をお伝えしたいと思う。
お伝え。