徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

浴衣と死

もしかしたら亡くなってしまうかもしれない人が身近にいたことを知った。体調不良で会社を休んだと思ったら、あれよあれよと転院し、今はがんセンターにいるらしい。手術ができるか、抗がん剤が効くか、その辺りのことはよくわからないが、話の雰囲気からして相当良くはないようだった。生命の危機であることは間違いないらしい。

2人に1人だか3人に1人ががんになる世の中。語弊を恐れずに言えば、よくある話になるのかもしれない。交通事故にあったり、エゾシカに衝突したりするより余程高い確率で僕らはがんになり、そのせいで命を落とす。どうせみんな最期は骨になるとはわかっていても、きちんと向き合うと感情がクラクラ揺さぶられる。

とはいえ、他人の話はどこまでも他人の話で、帰りの電車の中では浴衣姿を見て可愛いなぁと思う。今の今まで死を感じ、雑炊みたいな心持ちになっていたのに、白々しくも牡丹が開いた浴衣一発で雑炊メンタルは澄んだスープになる。気の毒は解毒されました。

僕らの心持ちなんて大概そんなもので、多少の憐憫や悔恨は何とはなく解けていく。だから生きていけるし、だから死んでいく。塵芥のようでも、溜まればそれなりな存在になる。

なんでしょうね、浴衣の子はただ可愛かった。

impossi帽

今朝のことなんですけれども。

ひかりのどけき京急線快特。至は三崎口。マグロのメッカへ続く線路の上、僕は横浜に向かうべく、寝すぎでどこか重い頭を引き連れながらぼんやりしていた。土曜の三崎口行きは満席で、プチレジャーに繰り出すファミリーピーポー略してファミピが車窓を眺めまくっている。わかりやすい幸せの絵図を横目に僕は立つ。どうせ横浜で降りるし…とかって心でぶちぶち呟きながら。

となりに中肉中背のお姉さんが立っている。俯き加減にスマホを眺めている。ベージュのキャップをかぶっているから表情が伺えない。イヤホンから流れる音楽にそれとなく首を振っている。ファミピではない、比較的パリピ寄りのお姉さんである。

impossible

帽子の正面に印字されていた。ノートに記されたような、自信なさげな書体で綴られたimpossible。impossibleな帽子。つまり「impossi帽」を目深に被り、首をコクコク振っている。

何が、なのだろうか。何がimpossibleなのだろうか。

Tシャツのロゴなんかで、訳のわからない単語が羅列されているのは珍しい光景ではない。哀しいかな、impossibleに関しては意味がわかってしまう。わかってしまうがゆえ、気になる。

お姉さんは立っていた。僕と同じく、ファミピの幸せに打ちのめされ、立ちひしがれていた。もしかすると座ることを望んでいたのかもしれない。心から座りたかったのに、ファミピに座られている現状。impossible。ありえない話ではない。

いや、でもそれくらいなら帽子にまで印字しないだろう。胸に秘めるはずだ。そこはかとなくimpossible…と呟くことはあれど、impossi帽まで被るなんて大それたことするだろうか。もしかするともっと普遍的な、壮大な何かを僕らに語りかけているのかもしれない。

考えてもみろ、今僕らがpossibleだと考えているたくさんのことは、かつてはimpossibleだった。歯を磨くのも、ズボンを履くのも、字を書くのも、喋るのも。臓器や筋肉を動かすなんてレベルの話でさえ、impossibleだったのだ。しかし、僕らはそれを乗り越えて来た。何世代もかけてゆっくり進化して乗り越えてきたものもあるだろう。個人的な努力の賜物として乗り越えたものもあるだろう。どれもこれも全て、impossibleからpossibleへの変化だ。

そう、impossi帽は、僕らが当たり前としているpossibleへの問題提起だったのだ。お前ら、possible,possibleって調子乗ってんじゃないぞ。たまにはimpossibleを思い出せ。不可能性に立脚して初めて、可能性が見出せる。見通せる未来が生まれる。今のimpossibleも、明日の、未来のpossible。だからこそ今高らかに、impossible!

あぁ、なんて素敵なimpossible!

 

今朝思ったことでした。

泥眠

なんだか疲れていたようで、昨晩は9時の声を聞いたところから無性に眠くなり、意識飛んだと思ったら次の瞬間午前2時。電気消して改めて寝たところきちっと6時過ぎに目覚めた。足掛け9時間の睡眠。眠らない街・東京の現代社会に生きるものとしては記録的な睡眠だった。

なんで疲れていたのかと思い返してみても、特段心当たることはなかった。むしろお盆があったりなんなりで、比較的悠々とした日々だったのではないか。なんだ、昨日の無性な眠気はなんだったんだ。

思うに、昨晩のあれはひとえに慣れない日が多かったのと、一人の時間が少なかったのが原因だった。

お盆ということで、母が帰郷していた。ここ二日くらい一緒にいた。互いの努力の成果か、幸い親子仲は大変良好である。とはいえ、実家を出てしばらく経つ中、おらが城に親がやってきて一日二日過ごすというのはそうそうあったことではない。もし我が家が2LDKのそこそこなマンションだったら良かったろう。しかし違う。1Kである。それも趣味極振りの家。人を呼ぶ構造をしていない。尚母をや。別に一緒にいるときは気づかなかったんだけれど、なんだかんだで気を使っていたらしい。しかしまぁ、生活用品やら何やら一緒に買いに行って楽しかったね。またおいでね。

ならびに、そうすると自分一人の時間、一人の一日がなくなる。これは僕の業でもある。てめーが普段そこまで飲みに行かなければいいんだろうと言われれば、おっしゃる通りでしかなく、おっしゃる通りであり、おっしゃる通りだ。でもこればかりは仕方がない。体は一つ、飲み会が一つ。行かないなんて選択肢があろうか、いやない。そうして僕は自分の仕事の時間を生贄に泡沫の楽しみに肩まで浸かり、自らの首を絞める。

なんて話を知人にしたら、「結婚したら絶対に自分の部屋がないと精神ダメになるやつだね」って言われた。おっしゃる通りであり、やはりおっしゃる通りだと思う。面倒臭い人間に育ってしまったようだ。

ひとまずゆっくり寝たので大丈夫そうである。また頑張る。

新盆

祖母が自宅に帰ってくる。祖父やらなにやら、わらわらと親族一同をお墓から引きずり出して、自宅の仏壇にやってくる。

祖母が亡くなって始めてのお盆だ。お寺さんがいらっしゃるというので、僕も早朝の電車に乗って祖母の家へ向かう。電車に乗って2時間。仕事柄、そこまで朝ら早くないので、6時台の電車になんて久々に乗った。

雲一つなく晴れている。かといって爽やかなわけではなく、ジトジトムシムシと体にまとわりつく暑気。これぞ8月。これぞお盆だ。

小さな頃から、夏休みといえば母の実家に帰っていた。北海道の短い夏休みとはいえ、時期はお盆と重なっている。8月の千葉の熱気は北海道のそれとはまるで違って、異世界に来たかのような気持ちにさせてくれた。花火をしてもラジオ体操をしてもまとわりつく湿気と暑気。蝉の声と田んぼ。地元の誰も知らない世界を僕だけが知っている気になった。この暑さは、ちっちゃな優越感だった。

とはいえ東京に住んで8年。毎年毎日暑さの中に身を置くと勘弁してください以外の感想が出てこなくなる。脇汗とも胸汗ともつかない汗にシャツを浸しながら通勤してみろ。勘弁してください。

しかし、今日は休みで、今はまだ早朝だ。

幾分マシな熱気の中、起き抜けの街を歩くと得した気分になる。1日は長い。まだ涼しい。スーツを着ていない。自由だ。自由だ!


京急から京成までつながる線路を行く。それは大層にこしらえた仏壇にででーんと鎮座する祖母。派手好きのばあちゃんにはぴったりだ。

さて、盆にかまけて、つかの間ののんびりを頂く。

TikTok沼

出来心でダウンロードしたのが運の尽きだった。Wi-Fiがあるところでは欠かさずTikTokをチェックし、なんならWi-Fiを求めてでもTikTokをチェックするようになった。

TikTokの何がいいのか。面白いとか楽しいとか色々あるだろう。でも、本質はそこじゃない。あれはイケメンと可愛い女の子による僕ら氏がない人間達のための自己顕示欲充足の場なのだ。

哀しいかな、可愛い女の子やかっこいい男の子は実在する。それは奇跡の確率とかではなく、一般的な公立の学校で考えてもクラスに一人二人、学年に二桁数、学校に数十人規模で存在する。容姿と声の大きさと面白さと運動神経の良さが全ての学校生活において、美男美女はそれだけでヒエラルキーの頂点へと上り詰める。面白さはコミュニケーションの数だけ面白さは磨かれ、声を発する数が多いだけ声量は増大する。無限の好循環の起点は、多くの場合で容姿だ。

学校の中だけでマウントを取ってきたヒエラルキートップ連中が、いよいよ大海に繰り出したのが、このTikTok。「おすすめ」に出てくる人気動画の多くが中高生によるもので、もし僕が同級生だったら確実に別世界に住んで居たであろう連中が羽を伸ばして踊るはにかむ。彼らはお互いにお互いを意識する。こんなダンスをしている、あんな振り付けを、あんな笑顔を、あんなあんなアンナエミリア。切磋琢磨である。しのぎを削って鋭利に尖った容姿と動作で、奴らは僕らを殺しにかかる。カメラ目線の向こう側にはこんなこと考えているおじちゃんがいることを知ってかしらずか。

 

15秒。サビもワンコーラスだけの瞬間芸だからこそ、頭がおかしくなりそうなほどに食い入ってしまう。下から上へのスワイプが止まらない。一回りも違う男女にワナワナさせられながら、今日も眠る。

おじちゃんの生きがいを、ありがとう。

ふるさと

振り返ればふるさとは

場所ではなくてあなたでした


これはGLAYのホワイトロードという曲のサビだ。2005年くらい、バキバキにカッコよくて20万人を幕張に集めたGLAYの残滓が残っている頃の曲。超メジャーで超キャッチーなサビメロにはひれ伏すしかない。


別にGLAYに限らず、ふるさとは場所じゃなくて人だって話は溢れている。故い郷里だから故郷とすれば、ふるさとは間違いなく場所だ。けど、かの有名な童謡「ふるさと」の歌詞にも、「如何にいます 父母  恙無しや 友がき」と人への言及があるあたり、別に場所でなくてもいいらしい。


その昔、一人の人にとって一つの村が世界の全てに成り得た時代。場所は人だったろうし、人は場所だったのだろう。知った顔の大半が当たり前のように地元で一生を終えて行く中、郷里を離れた人間が振り返るその場所には人が居たし、思い出す顔には風景があった。

今は違う。世界は広がり、広がりすぎた結果狭くなった。

生まれた家、育った家、物心がついた家。たくさんの場所に家があり、仲の良かったはずの友達は今どこで何しているかわからない。もしかしたら一生会わないかもしれない。広がった世界で散らばった郷里。いよいよ、ふるさとは場所じゃなくなる。

だから人は大切だ。

だけど、人はどこまでいっても他人なのだ。

人に頼み、人に頼られた人ほど、人がいなくなった時に脆くなるのを僕は知っている。信じすぎるのも、信じないのも、人生を狂わせていく。


人間はとにかく弱いから、何かに寄りかかって生きている。人であり、場所であり、宗教だったりもする。幸い僕はまだふるさとがあって、故郷には人がいる。これが僕を大きく支えている。ふるさとに帰るたびに思う。一方で、もしかすると人と場所が一致する最後の世代なのかもしれないとも思う。自分がどれだけ故郷を思えど、他の人がどうかは知れないから。


加速度的に場所にとらわれない生き方は加速していく。止められないだろうし、大流から見たら止まらない方がいいだろう。止める気もない。僕が北海道に帰ろうと、次の世代は脱出するかもしれない。やっぱり次の世代も他人だから、わからない。

でも、平たく言えるふるさとがあるのは悪くない。ふるさとを作れる選択肢が残る未来があってもいいとは思う。

で、お前はどうするんだと言われても困るんだけど、それだけです。

大掛かりサードプレイス

ここ2日ほど、仕事の合間を縫って温泉旅館に通っていた。不定休を貪る薄利業種を生業としている同期連中の休日が合致したため、いざ鎌倉!って言いながら鎌倉も飛び越えて湯河原までひとっ飛び。哀しいかな、至極仲のいい同期連中の休日は合致していたのだが僕の休みだけ美しくも不一致をカマしていた。チャンス逃すのは悔しいからって会社と温泉旅館を行ったり来たりする2日間。旅館出勤だ。休んでいるのか、はたまた働いているのか。そういや友人の、10キロを27分くらいで走っちゃうスーパーランナーが、「走りながら休む境地」について話してたことがあったけど、一歩その境地に近づけたような気がした。

昼は仕事、夜は飲み明かし、朝早く仕事。地球の裏側開催のオリンピック観戦スケジュールのごとき過密日程。つかの間のつかの間だとしても猛烈な自然と潤沢な湯に包まれて、日々知らぬ間に乾燥していっているのを思い知らされた。別に仕事も楽しくやれているし、自宅もほぼ完璧な自分好みの空間。周りの人にも恵まれている。そこそこなストレスをそこそこに昇華しながらやっていっている日々だ。特に不自由はない。不自由はない毎日だからこそわからないのだろう。日常とあまりにかけ離れた自然と触れると、無性に日常が哀しいものに映る。

最近の旅行は、意味のある旅行ばかりだ。旅行のための旅行に、久しく行っていない。ただのんびりしたくて、ただ日常から離れたくての旅行。友達と日程を合わせて、旅行したいねってする旅行。冠婚葬祭にのようなのっぴきならない出来事に捉われない純粋な旅行が、もしかしたら必要なのかもしれない。

スタバがサードプレイスを標榜しているのは有名な話だ。家でも職場でもない場所。それは、旅行も一緒だ。あぁ、また行きたい。サードブレイスを知ると、サードプレイスが無性に恋しくなる。ずっと居たらくどくなるかもしれない場所も、サードプレイスだから美しい。

すっかりと、日常がまた回り出す。ファーストプレイスで、やはり生きる。

自主的な成長を促すなんて無理です

自主性を重んじるとか、主体性に任せるとか、自由闊達な議論を望むとか、それで円滑に仕事が回るのかといえば、全くもってそんなことはない。自主性がある人間なんて、自主的に頑張ることで人生が面白くなることを知っている人だけだ。そんな人種は稀有で、大抵の人間は自主性なんてない。別になくたって人生やっていけるから、備えなくてもいいのだ。

でも大抵出世する人間は自主性があって、言われずとも現状を憂いて課題を炙りだしてゴリゴリやっていく。っていう頭でいるから、自主性を重んじるだけでスーパーケミストリーが起こると考える。それはある種、ボノボにスマホを与えているに等しい。自主性とか主体性のあるなしって、余裕で天地の差がある。

 

自主性が乏しい軍団を動かすにはどうすればいいか。そのためには自主性がなくとも動けるように仕向けなきゃいけない。目標を定めて、考え方の枠組みを設定して、それを細分化した一歩目を考える。みんなでこの一歩目を踏み出そう!ってすると、事が動いていく。

とにかく、枠組み・フレームをがっちり固めないといけない。日常業務が枠の中を埋める職種の人が多いと、枠を作る人がいなくなる。枠があって当たり前だからだ。だから漠然とした枠のない仕事を与えられ、自主性に任せられた時、枠の存在に気づかずに自由に走り出すと壊れる。爆散する。バカでもいいからこの枠で考えよう!この枠の中を埋めていこう!って仕事を定める人間が、結構貴重なのかもしれない。


酒、それは遅効性の毒

一昨日、結婚式の二次会があった。二次会とはいえ、新郎と新婦との友人たちがごった煮になって出会いの場となったりする酒池肉林ではない。もっとコアなものだ。僕は新郎の後輩という立場であった。大学陸上部の後輩。この度二次会称して集合したメンバーは、北はロシア、西はオマーンから集まった弊学弊部の精鋭たちであり、それが横浜の馬車道に集ったのだから開国の意気を感じずにはいられない。なーんちゃって。かつては筋骨隆々であった我々も、体躯はそのままに肉付きがナイスになった人が多い。ナイスミドルに片足を突っ込んだ人間たちだ。さぞステキにお酒を嗜むのかといえば、そんなわけはない。丸くなったお兄ちゃんたちもスピリットだけは熱く尖っており、俺の注いだビールが飲めないのか的なメンタルでゴリゴリ押し込み合う飲み会となる。嘘でも体育会であるため、年功には抗えず、あえなく胃の中に流し込まれる酒酒酒。社会に出てから、こんなに無防備な飲み方してないなぁ。飲め!の一言で自動的に酒を煽るのは、ある種、押すなよ!押すなよ!と言いながら押されるのを待つ上島竜兵の伝統芸に通ずるものがあるなぁ。そんなことを考えながら飲んでいたのだが、アルコールという薬物の効果でめちゃめちゃ楽しくなり、年功も国籍も他人も関係なく飲み出したところで記憶は途切れ、次の瞬間には帰る駅が同じだった先輩と最寄駅で飲み直していた。飲み直していたのだが、先輩は向かいの席で吐いていた。僕はどうやら吐いてはいないようだったが、そんな先輩を見てケタケタ笑っていた。そこでまた記憶が止まる。朝になっていた。自宅。携帯は充電がなくなり、ただの板と化していた。見覚えのない液晶パネルのヒビが無数に生まれていた。落としたらしい。思考が緩い。頭が重い。アラームが鳴ってないということは何時なのかわからない…。日曜でも仕事である。焦って時計を見る。遅刻はしていないようだ。髪の毛を触る。サラサラだ。ワックスをつけた痕跡がない。どうやら無意識のうちにシャワーを浴びたらしい。スーツを確認すると、他人行儀にビシッと整えられて窓辺に吊るされていた。誰の仕業だよ。俺なのか本当に。でも、他人が部屋にいる気配もなく、どうやら間違いなく自分できちっと寝支度を整えたようであった。一夜明けて整っていないのは頭の重たさと胃腸とスマホの画面。あと記憶。

酒に溺れるたび、楽しくなったら負けだと思う。飲酒量のコントロールを失う。坂道を転がるボールのようなものだ。転がり出したら止まられない。止まった時は遥かな低みにすっ転がってる。「楽しい」を感じた時点でボールは転がり出し、毒が効いてきていることを学ばなければならないのだ。

後悔と反省が全く意味を持たない領域での、後悔と反省であった。

ブラキャミ春樹

ブラキャミ春樹ってめっちゃフェミニンだなーって一人でしばらく笑ってたのは今朝方のことですが、「ねじまき鳥クロニクル」をちょっと前に読み終えました。

 

ねじまき鳥クロニクル 全3巻セット

ねじまき鳥クロニクル 全3巻セット

 

 

三巻構成。ブラキャミの…いや、村上のやる気と若さが感じられる作品だった。僕にとっては「納屋を焼く」と「ノルウェイの森」後、三作目の村上作品である。「風の歌を聴け」もその昔にちょこっと読んだんだけど、見事にくたびれてフィニッシュできなかったのは苦い思い出だ。

本作に関しては、他の村上作品より大変読みやすかったように思う。村上春樹というより、それこそブラキャミ春樹くらいのカジュアルさを感じた。

 

長い物語の筋はなんだったろうか。

浅く浅く単純に見れば、主人公の岡田トオルが妻のクミコを取り戻すための物語なのだけれど、過去と現在、現実と精神世界、敵と味方が毛細血管のごとく交錯して大長編を成している。何周も読んで、やっと全貌が見えるようなお話だろう。真剣に相対するには時間が足りない。多分検索したら無限に考察が転がっているから、時間があるときにでも読もうと思う。


物語もそこそこ、僕が読後に感じたのは何と言っても「冗長」であった。ある意味で小説なんてものは全て冗長とも言えるだろうし、特に村上春樹は冗長性が高い作家であるらしいことは聞いていたが、間違いなかった。それこそ、「やれやれ、と僕は思った。」である。本当にどうでもいいようなことで延々冗長な描写が続いて、こんなもんかブラキャミ春樹!とタカをくくった頃に、間宮中尉が遭遇した井戸の中での描写のような日本語の極致レベルの描写がやってくる。緩急が激しいったらない。

冗長に見える言葉の弾幕のオブラートを剥いだとしても、まだ本質にはたどり着かない。メタファーが待ち構えている。これを解釈してこその村上作品なのだろうが、鬼のごとく時間が足りないのは先述。もしかすると僕が冗長だと捉えている部分はただ理解が足りていないだけで、実は物語に不可欠な要素だった…とかって話も考えられる。解釈したもん勝ちだ。


どうしても眠くなってきたんで、僕は僕の井戸に潜ろうと思う。

さらば浮世。