徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ミスタープロ野球

長嶋茂雄のことなのですけれども。

今朝の情報番組で王貞治がちらっと出ていて、VTRの中でONの話にもなっていた。当然のごとく、ミスターも出ていた。

ミスター、長嶋茂雄。ミスタープロ野球。

改めてこの言葉を咀嚼してみたが、強烈が過ぎやしないだろうか。ミスタープロ野球。

ミスター立教ってめっちゃイケメンなんだろうなって思うだろう。ミス青学もアナウンサーになりそうだ。これはなぜかと言うと、大学のブランドもあるだろうが、立教や青学の母数が多いことにも起因する。ミス北見市とミス世田谷区だったらなんとなくミス世田谷区のほうが美しそうなのは、世田谷区の方が人口が多いことによる。およそ10倍いる。

長嶋茂雄の凄いところは今現在のプロ野球選手の数はさておき、プロ野球選手になることを望んでなれなかった人や、あらゆる時代のプロ野球選手も含め、おびただしい数の人を押しのけてのミスタープロ野球と呼ばれている点にある。連綿と連なる歴史、成功と失敗・勝利と敗北・幾多のしかばねの中で唯一ミスターと呼ばれることを許された男。とてつもない。

じゃあこの分母が大きければ大きいほど凄いのかといえば、実はそうでもない。

ミスターASEANとか、察するにめっちゃ人口多いけど、なにが凄いのか判然としないだろう。そう、ある程度比べる定規が決まっていないと輪郭がぼやけてしまう。

ミス〇〇はとは違うのだ。なぜか自然と美しさにフォーカスが定まるミスとは。


わかりやすいルールの上で、ミスターは強くなければならない。それでいて人気者でなければならない。ヒーローだ。文句なしのヒーローこそ、ミスターたり得る。

これまでミスターと縁遠い生活を過ごしてきたが、チャンスがあったら何かのミスターを拝命したいのが心理というものだ。ほんのニッチなミスターでいい。ミスター糸ようじとかどうだ。すっごい歯垢落としそうじゃないか。ミスター親知らずとか。すごく素直に親知らず生えてそうだ。


なんの話だっけ。

そう、だから、長嶋茂雄って凄いんですよ。

スピッツ「エスカルゴ」

三日月ロックというアルバムがある。

 

三日月ロック

三日月ロック

  • アーティスト: スピッツ,草野正宗,石田小吉,亀田誠治,クジヒロコ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルJ
  • 発売日: 2002/09/11
  • メディア: CD
  • 購入: 4人 クリック: 34回
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これが好きだった。

世に言うスピッツの代表曲は入っていない。強いて言えば「遥か」が有名かもしれない。世に言う曲は入っておらずとも、ものすごく粒揃いなアルバムである。

どの曲がどうとかは置いておいて、兎にも角にもエスカルゴ。

アルバムのデータが昔のパソコンに置き去りになったままだったため、借り直してパソコンに取り込み、シャッフル再生の最中今日の帰宅中に流れてきたエスカルゴ。

 

びっくりするほど単純明快なギターチューンである。高校生バンドがせーので作った曲の精度を上げまくったみたいな曲だ。コードも5つか6つしか出てこないんじゃなかろうか。ギターソロも難しいことがない。メロディーもわかりやすい。マサムネなので声は高いが、駆け出しバンドにはうってつけの曲ではなかろうか。

しかし、歌詞。いわんや、曲名。

なんだろうかこれは。エスカルゴ。エスカルゴってご存知だろうか。サイゼリヤとかにあるあれだ。カタツムリをオリーブオイルで浸して煮たあれだ。エスカルゴ。歌詞の中身はなんとなくラブソングっぽい。しかし、曲名はエスカルゴ。

考えてもみろ。「誰もさわれない二人だけの国」について歌った歌がロビンソンである。もはや曲名に思い入れもへったくれもないらしい。

でもよくよく聞いてみると、エスカルゴにはエスカルゴを彷彿とさせる歌詞がある。

孤独な巻貝のそこから ふざけたギターの音が聞こえるよ

巻貝。なるほどカタツムリも巻貝背負ってるから。多分この文脈の巻貝って耳の奥のうずまき管のことも含みで言っているんだろうとも推測できる。

が、それだけじゃない。草野マサムネがそんなソフトな歌を歌うはずがない。死とセックスのことしか歌わないと公言しているマサムネである。中途半端なラブソングなんて歌うはずがないのだ。

つまるところ、エスカルゴも大概セックスの歌であるに違いない。歌詞の端々からもほとばしるエロを感じることができる。

だめだな ゴミだな さりげない言葉で溶ける心

コワモテ はがれて 仕方ねえと啼いて 耳をすます

孤独な巻き貝の外から ふざけたギターの音がきこえるよ

マサムネの歌うゴミとかクズはだいたい愛情の裏返しなので、心は溶けてしかるべきである。そして、啼く。盛りである。一応エスカルゴだから巻貝ってカタツムリ関係かなって思うけど、多分アワビの隠喩なんじゃないか。だって、マサムネだから。

湯けむり 陽だまり 新しい光に姿さらす

おだやかな寒さ ぶつけ合ったコマは いつか止まる

枯葉舞い 恋の雨が降る よれながら加速していくよ

光に姿をさらした後にコマがぶつかりあってヨレちゃう。どことなくやっぱりエロい。

ハニー君に届きたい もう少しで道から逸れてく

何も迷わない 追いかける ザラザラの世界へ

届きたくて、触れたくて、道から逸れてでも、合法でも非合法でも届きたくて、触れたくて、もはやそこに迷いなんかなくて、ひたすらにザラザラの世界、つまりは孤独な巻貝の中の世界を求めていくと。

一番だけでこれだ。もう、いたたまれない。

爽やかかつ単純なロックチューンに乗せていい歌詞ではない。オリーブオイルでべちょべちょである。

 

なんでしょう。熱っぽく話したけど、一度聞いてみるといいでしょう。

寝ます。

あの日、開成に合格した混沌は今。

受験のシーズンですね。

ほとんど受験らしい受験を通過せずに今まで来てしまった。それが人生においてどう作用しているのかわからないけど、それでも別に良いような、けど、少しだけ引け目に感じるような、微妙な気持ちである。

地元が田舎だから、高校までは家から一番近い学校に進んだ。強いていえば高校受験をしたが、さして激烈を極めるような受験ではなかった。その後、高校でイイ子にしていたら指定校のお話が転がりこみ、部活もやりたかったからヌルヌルと進んでいったのが、その名ぞ我らが母校。22年ぶりの戴冠、おめでとう。


どうやら都会の受験がマジで大変らしいと知ったのは、小学六年生の頃だった。土曜のお昼、母ちゃんと二人でワイドショーを見ていたら、都会の受験の様子が映された。開成中学を受験する男の子に密着したドキュメンタリーだった。僕は衝撃を受けた。かたや、北海道の片田舎でゆとり教育に頭からつま先まで浸かり、ツアーコンダクターになろう!みたいな授業でスコットランドの地理とか名産について調べて発表して、休み時間や放課後には元気に鬼ごっこをしているというのに、テレビの中の彼は頭からつま先まで受験勉強に浸かっていた。僕がスコットランドについて少しだけ造詣が深くなっている最中、彼は何かの体積を求め、僕が鬼ごっこにうつつを抜かしている間、彼は文学をしていたのだった。ぜってー鬼ごっこの方が楽しいのに…とは、思えなかった。それだけ鬼気迫るものが受験にはあった。どちらにせよ鬼ですね。

彼はめでたく開成中学に合格し、合格発表の会場でテレビカメラに将来の夢を尋ねられ、こう答えた。

「これから先、混沌とした社会の中で決めていければいいと思います。」

この時から、我が家では彼のあだ名は「混沌」になり、受験の代名詞として今もなお話題に上がっている。


都会に出てきてしばらく経つ。

やっぱり、都会では中学受験は当たり前だ。周りの同期や友人たちも受験戦線をくぐり抜け、今まで至っている。きっと開成に入学した彼は、僕なんかが行こうと思っても行けない大学に進み、なろうと思ってもなれない職業についているだろう。混沌とした世の中で自分の為す道を見つけたはずだ。じゃあ鬼ごっこをしていた僕の現状はどうかといえば、案外都会のスタンダードくらいの位置に流れ着いている印象がある。

これで田舎でもなんとかなるとか、都会は大変だとかって論じるつもりはない。色々な運が絡まりったおかげで今がある。

こんなに先進国っぽい日本でも、生まれた場所によって教育の機会は幾分変わる。勉強に燃える友達がいるかいないか、塾があるかないか、進学校が近くにあるかないか。僕はたまたま地の果てなりに教育の機会にも恵まれた地区に生まれて、進学に理解のある親にも恵まれ、帳尻を合わせることができた。これが、若干でも生まれた地区がずれていたり、違う両親のもとで育ったら、人生の転び方は変わっていたはずだ。それは、どうしようもない運でしかない。


普段、どうしようもないくらいちゃんと育ってきた大人たちといるからわからなくなるけど、日本はまだ偏りがある。これをどうかできるようなポジションに今はいないので、どことなく憂うしかできない。

混沌とした世の中でいろんな縁と巡り合いながら、ポジションが変わったときにでもなんとかできればいい。

今から書き出す人っているんだろうか

ブログという形で文章を書き出して5年が経とうとしている。恐ろしい。人生の結構な時間を書くことに費やしつつある。

僕がブログに手を出した当時、ブログはまだアッパートレンドの残滓を食んでいたころだったように思う。2014年。かつてブログの女王と言われたのは真鍋かをりで、彼女が一斉を風靡したのがおそらく2003年とかそのころだった。芸能人の日常を知るためのツールとしてのブログだったのが、10年ほどを経て名もなき市民の主張を綴るツールとなった。そのころ、僕はブログを始めた。

文章を書く以外に気持ちを伝える術がなかったから書くことを選んだ。書くこととしてブログというツールがそこにあったからそれを使った。

でも、今、多分ブログはそこまでメジャーではない。大してお金稼ぎもできないことから、ブロガーなんて言葉にはちょっとした嘲りのニュアンスさえ含まれる。

言葉は便利だけど、言葉は面倒臭い。脳みそに直接届けられる刺激が溢れる世の中で、文字と言葉にフォーカスする必要もない。時間を潰すだけならTikTokをぽちぽち眺めてる方が余程良い。


今のブログは極度に発信者に寄ったツールなんだろうなと思う。情報はある程度飽和していて、新しい知識をネットの海に投下することにそれほど意味があるわけでない。じゃあ文章を書く意味はどこにあるかといえば、ごく個人的な発散でしかなく、それが世に受け入れられるほどの知識と教養、もしくは文章力に裏付けされていれば、誰かのもとに届くが、そうでなければ何にもならずにうたかたの発散を得るだけとなる。切ない。

でも、書き出したらこのうたかたの発散を得られることが、何にも代え難くなるのだ。不思議なものである。

超個人的な営みとして、ブログは優秀だ。現状、それ以上でも以下でもない。

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉」

清掃オンザデスク

机の上は脳の中を表している。

とは、今適当に打ち込んだ言葉なのだけれど、あながち嘘では無いような気がしている。内勤になってからというもの自分の机ができたのだが、それはまあ取っ散らかる。多分典型的な仕事できない奴の机だと思う。なんとかテコ入れしたい気持ちはあるのだけれど、どうしても優先順位下がりますよね、清掃。

もう一個、我が家の机についても、昨日夜時点まで相当散らかっていた。しかし、何の気なしにファブリーズの詰め替えをしたところ、手元がブレ、滝のように机の上にファブリーズをこぼした瞬間何かがキレた。机の上をジェノサイドすることとした。片っ端から捨てるしまう捨てる。モノに対する徹底した弾圧を加えた結果、見違えるように綺麗な机が姿を現した。そう、これこそ机である。しかもほのかにファブリーズの香りがする。言うことなし。

一晩経つと、机の上を綺麗にしたことすら忘れる。起きてみてふと机を見たときの清々しさたるや、筆舌に尽くせない。ファブリーズの匂いは尽きてしまったが。

机の上に物があると水拭きもできず、モノが埃を呼び、モノの間に埃が絡まる。意識はせずとも、それが自身の頭の中である。考えがとっちらかり、迫り来る万象から目を逸らし続けている。なんと情けない。

嘘でも綺麗な机、綺麗な部屋にしたらとっちらかった頭の中もそれらしく片付いた気になった。本質的な解決にはならないものの、気分って大事ですよね。

たまにはファブリーズ零すのも一興。

ザッツオール。

人生とは花である

今日、街角の植栽活動をした。CSR的な意味合いももった活動である。街角の花壇をせっせか掘り起こし、雑草を取り、花を植える。枯れた花は取り除く。

資本主義大国日本。国民総出で忙しい毎日を過ごしているかのようだ。そんな日々の中で、街角の植木に目をやることがあるだろうか。特に都民。ないだろう。ないだろうよ。僕もない。

植物があると街が色づいて素敵よね、心が豊かになるよね、植物を愛でる気持ちを捨てたくないよね。全くその通りである。が、雑草を取り、花を植えるといった反復作業の中で脳裏をよぎったのはそんな立派なことじゃなかった。花と人生を静かに重ねていた。

 

そもそも、花はタネを残すために存在している。中学理科の知識だけど、確かそうだ。いい匂いを出して、蝶とか蜂とかをおびき寄せ、花粉をまとわりつかせる。そして次の花に向かった蝶や蜂が、雌しべに花粉をくっつける。めでたく、受粉である。

つまり、花は種を残すための装置にすぎないというか、目的達成のための手段に過ぎない。手段のくせして、綺麗だしいい匂いがする。八方美人の完璧な手段だ。ずるい。

この構図を人間に置き換えるとどうだ。どうせ生きとし生けるものは種を残すことが目的だとDNAかどっかその辺にインプットされている。人間も同じ。では人間における花は何か。

それはおそらく人生じゃないかと、雑草とにらめっこしながら考えていた。

多分僕ら、人生をたっぷり使って、花をしている。それも、本来の目的としては種を残すためなのだろうけど、花があまりにも面白く、辛いから、花自体に意味を見出して、花こそが人生のように感じる。実際、生きてて別に種の保存のために人生してるなんて思ったことはほとんどない。人生の一部として結婚とか子供とかそういったイベントがあるような認識で生きている。でもほんとは違う。花はタネを残すためにある。

順手でできなかった逆上がりが逆手にするとできるように、物事は見方ひとつで大きく変わる。人生で一生懸命になったって、どうせ花だし、されど花だ。ラフレシアかも、ホウセンカかもしれない。蝶を呼ぶ花かも、ハエを呼ぶ花かもわからない。けど、本当の目的じゃないところで実は一生懸命になっていて、その姿はおおよそ美しい。

どうとでも取れる話だ。人生を必死に生きても、どうせ手段だと言えばそれも真だし、精一杯咲いた花は綺麗だという話も真。しかし、人生は花である。どう転んだって花だ。人生してるだけでどうあれ花は咲いているのだ。

ひとまず、咲くだけ咲かせていきましょう。

納豆豆腐キムチ和え

ついにこれについて述べる時が来たかと、感慨深い気持ちでいる。一人暮らしの生活を営む中、食は切っても切れない問題で、その問題解決の糸口として僕の傍に常にあったのが、納豆豆腐キムチ和えだ。

幾多の夜を、幾多の面倒臭いを、僕は納豆豆腐キムチ和えと共に乗り越えてきた。豆腐や納豆の銘柄は変わっても、めぐり合うのはいつもの味だ。まるで細胞が入れ替わっても自我は変わらない僕ら人間の代謝のように、納豆豆腐キムチ和えは変わらずに存在する。


手軽。とにかく、手軽なのだ。

食事には過程が必要である。料理の有無はもちろん、お湯を沸かすだとか、レンジでチンするだとか。また、食後にも洗い物というボスが玉座に構えている。これら瑣末な業務を華麗に無視しつつ、きちんと栄養を摂取かつ文化的な食生活を送ることが一人暮らしには求められる。

そこで納豆豆腐キムチ和えの登場となるわけだ。

まず、火を使わない。お湯も使わない。野菜も切らない。そもそも、調理をしない。

おわかりいただけるだろうが、納豆豆腐は個包装であり、キムチはプラの容器に300グラムくらいまとめて入っている。それらをただ単に和えるだけなので、道具としても工程としても最小限極まりない。必要なのは丼一つ。そこに材料を全部開け、真心込めて和えれば納豆豆腐キムチ和えは出来上がる。つまりは洗い物も丼一つだ。地球にも優しい。

さらに、味の安定感。

市販レベル、庶民が手の届きうるレベルの納豆豆腐キムチに大きな当たり外れはない。そりゃあいい豆腐は無限に美味しいが、3個パックで100円みたいな豆腐に甲乙はほぼなく、それなりに美味しい。納豆にしろ、キムチにしろ、同じ趣の食材だ。取り合わせもよく、納豆とキムチ、豆腐とキムチもそれぞれ成立しある組み合わせの上、納豆と豆腐はコナンと新一みたいなものである。コナンと新一と蘭を和えたら美味しいだろう。まぁ、そういうことだ。

そして、コスパ。

言わずもがな、一食100円しないのではなかろうか。圧倒的。


そう、僕は病める時も健やかなる時もいつだって納豆豆腐キムチ和えと一緒にいた。ついては離れ、離れたらあの味が恋しくなり、またそればかり食べた。

新年、豆豆しく働くために、本日も。

小さな幸せを食む

昨日も友人の結婚パーティーだった。例によって僕は余興部隊として動き回り、大学の同級生を二人巻き込んでピアノ弾きながらコブクロと絢香のWinding roadを歌った。そこそこに酔っ払った状態での演奏だったため、バチコリに決まったかと言われれば違うが、それなりに場の和みにはコミットできたのではないかと思う。

さて、一夜明け。

どうやら僕は人前で演奏するのが好きらしく、昨日を待ちわびてワクワクしたし、終わった今、果たしてこれから何を楽しみに生きていけば…と人生の暗礁に乗り上げたような気持ちでいる。仕事に結構な時間を割かれがちな今日この頃であるが、能動的にでもこういった機会を作っていったほうが生活が楽しくなるかなと思う。

錦糸町に住んでいた頃は音楽居酒屋に度々いっては、常連の皆とうたかたのセッションを楽しんでいた。せいぜいあのレベルでも十分だからやっていきたい。

寝ること・休むことで回復する要素もあろうが、人間、それだけじゃ生きていけない。体力は温存できようと、気持ちの面で充電できていないと身体は動かないものである。自分の気持ちを曲に認めるだけでよかったのが、どういうわけか披露までしないと気が済まなくなったらしい。またライブしたいなといよいよ思っている。

 

ちょっと自分の営業活動にも力を入れようと考えさせられた1日であった。

全国の天気における北海道の体の張り方について

天気予報で、全国の気温をサーモグラフのように色で表すことがある。

我が故郷北海道は皆さんご存知の通り「試される大地」と、キャッチー極まりないキャッチコピーがついている程度には厳しい気候特性を持っている。主だったところでいうと、寒い。北海道もおらが町北見市については、平地なのにも関わらず度々最低気温がマイナス20度を下回り、そんな日にはダイヤモンドダストが空気中を舞う。

今日も北海道は寒かった。

冒頭取り上げたサーモグラフの日本地図が出た際、最高気温が零度を上回らない地域には白い色があてがわれていた。零度〜5度には水色、それより少し暖かいと青。全国が色鮮やかに塗られていた。

北海道は真っ白だった。一面の銀世界とはこのことか。

天気予報士のちょうど頭上に燦然と輝く真白な地域。関東以西の地域が黄色やらオレンジやらでポカポカ陽気を示しているのにも関わらず、何食わぬ顔で、いじってほしそうに佇む北海道。

頼む、頼むから構ってやってくれ。北海道の住民たちを犠牲にしてまでも、体を張って白塗りをしているんだ。頼むから…

願い虚しく、天気予報士の目線は日本の右下から全く上がらない。全国版のニュースとはいえ、日本は関東と関西が中心に回っている。当たり前のごとく、関東近辺の気候を取り上げることが多い。関東はポカポカ陽気ですね〜前日よりは暖かいですね〜〜。わかる、わかるけど、頭上にかまってちゃんがいるじゃないか。あれか、君は、存在を知った上であえて無視しているのか。こんなにもいじってほしそうに佇んでいる大地を。日々試されている様子をここぞとばかりに披露している「試される大地」を。北海道にとって、サーモグラフ全国地図は発表会みたいなものなのだ。僕、こんなに寒いよ!毎日、冷え込んでいるよ!今日だけじゃないよ!こんなにも健気に生きている北海道に、せめて天気予報の時くらいスポットを当てようという気持ちはないのか。鬼か、でもんか。

 

そういうわけで、本日北見の最低気温はマイナス20,4度だったようで。

ほんと、地元の皆さん、お身体にはお気をつけを。

新年あけまして。

おめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。

当ブログのアクセスは検索流入がほとんどであり、日日更新するたびに読まれている分はそう多くありません。1200ほどある記事のわずか数記事、およそ0.数パーセントの記事のみよく読まれている状況です。なので、ブログに訪れる大多数においては、去年と今年、一昨年と一昨々年のような時の流れはほとんど意味のないもので、グーグルの魔力によって過去の記事と今の記事が検索という同じ土俵で相撲を取り、たまたま有用と認められた記事が僕のブログを生かしている、形作っていると言えます。

しかし、検索されることや有用であることが、どれほど価値のあることなのかと言われれば、疑問です。少なくとも僕はそこにスタンスを置いていません。

世のために文章を書き、人のために読点を紡ぐような慈善の塊であれば話は違うでしょうが、僕はそこまで出来た人間じゃありません。ただの感情の整理と吐露の記録でしかない、屑々しい文章を連ねていること自体に意味を見出してしまっています。だから、誰かが知りたい有益な情報を更新して、世のためを装ったアクセス稼ぎゲームに身を置くことには興味がないのです。

なので、2019年始まった感じの話をしたいです。

それも、抱負とか反省とか気合い入れた話じゃなくて、なんでもない話です。

とはいえ、びっくりするくらい昨日と今日の境目がなく、なんでもない感じで年を越しました。一年の計は元旦にありとはよく言いますが、元旦に決意しなきゃ出来ないようなことなんてどうせ出来ないのではないでしょうか。きっとそうです。そんなこと考えているので、結局今年の僕も去年の僕と大差ない感じで淡々と生きていくものと思います。ただ、心にいつ磁場風が吹いて、コンパスが振れるのかはわかりません。何かに突然入れ込んだり、何かを突然辞めたり、始めたりするかもしれない。少なくともここ何年かの経験則で、生活や価値観に大した変動はないだろうとタカを括っているだけで、本当のことなんて何もわからない。それが人生なのだと思います。

トゥルーマンショーを先日観ました。

あの映画を、人生における変数を完全に排除された世界に生きる男の物語としてみると、ショーを演じさせられていたトゥルーマンの惨めさがよくわかります。何かが起こるかもしれない。1万回目の先、1万1回目に何か変わるかも。蓋を開けてみないとわからないところが、人生の面白さだったりします。それが、第三者の書いた筋書き通りに動いてしまう悲しさと恐ろしさ。人生の醍醐味を全て奪われていると言っても過言じゃないでしょう。酷い。

一方で僕は蓋を開けてみなきゃな人生をこれからも続けていくわけですが、この感じってとても危ういのはおわかりいただけるかと思います。一種のピーターパン症候群でして、可能性が広がっているらしい万能感にとりあえず浸っているだけみたいなところがめっちゃでかいです。意思を持った船出は航海になりますが、意思を持たない船出はただの漂流になります。

現在、ひとまず定職についていて、それも結構頑張らないと務まらない感じの職務なので、ひたひたと、半死半生でやっています。すると形では全く漂流している感じにはならないのですが、本質的に、気質的に、どこか漂流欲求みたいなものがイドの中にある気がしてなりません。そろそろいい歳になってきているので、是正したいなと思います。よく考えれば、その辺りが今年の目標になるかもしれません。欲しいものが思いつく才能が欲しい。と大森靖子も言っていましたね。そんな感じです。

明日も早いので今日を終えようと思います。

そういえば、東京では大晦日にたくさんの人身事故が起きました。わかりやすい区切りというのは、何かを始めるにも、終えるにも、丁度いい言い訳になるのかもしれません。花見にかこつけて酒を飲み、歓送迎にかこつけて酒を飲む、かこつけ上手な日本人だから、何かにかこつけて始め、終える。当然なのでしょう。けど、いのちは終えたらもう始まらないので、間食とか、タバコとか、終えてもいいようなものを終えていきたいものですね。

というお正月でした。