徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

低予算にかかる魔法

時にはブロムウィッチプロジェクトが引き合いだされたり、最近だとカメラを止めるな!もその類だろうが、低予算映画が思いもよらず傑作になるケースがある。無名監督と無名俳優が趣向を凝らしまくって、予算何百億のスピルバーグと鍔迫り合いをする。やはりジャイアントキリングには夢がある。

別に映画に限らず、低予算寄せ集めチームの奇跡だったり、低予算番組のゴールデン進出だったり、同様の話は結構転がっている。

金があればいいものができる、金がなくてはいいものができない。どちらもある面では真実だろうが、ある面では真実ではない。僕自身、自由に使えるお金が決して潤沢にあるわけではない企業に勤めている。感じることを書く。

 

翻訳機としてのお金

奇跡の発明と言っていいだろう。お金は本当にすごい。

日常生活には欠かせないものとなっているお金だが、あれの本質は何かと言えば、2者間で価値を交換する際の翻訳機である。

佐藤さんはお米をたくさん持っているけど、お魚が欲しい。高橋さんは綿をたくさん持っているけど、お米が欲しい。高橋さんはお米が欲しいから佐藤さんに交渉をする。ねぇねぇ、綿あげるからさ、お米ちょうだいよ。でも佐藤さんは綿を必要としない。お魚が欲しい。するとどうなる、交渉決裂である。逆も然り。お魚を潤沢に持っている鈴木さんがいたとして、佐藤さんは鈴木さんにお魚をが欲しいと交渉をするも、実は鈴木さんはたまねぎが欲しかった。これもやはり交渉決裂となる。

お金は通貨ともいう。共通の貨幣。通じている価値。佐藤さん、高橋さん、鈴木さん、それぞれの取引の間にお金が挟まることにより、スムーズな価値の交換を行なっている。

それはまるで、日本語とスワヒリ語間のコミュニケーションに翻訳機を挟むようなものだ。言葉のコミュニケーションか、価値のコミュニケーションか、コミュニケーションに使用するものが違うだけで、前者では翻訳、後者ではお金が使用されている。

 

今のお金の立ち位置

4年前に亡くなった父方の祖母は口癖のように、「お金がないのは首がないより辛い」と話していた。小学生にも満たない孫にお金の大切さを擦り込んだ教育方法の良し悪しは不明だが、事実、今の社会ではお金がないと立ち行かなくなる。

それはなぜかといえば、社会全体がお金に価値を見出しているからだ。

佐藤さんのお米より、高橋さんの綿よりも、国が発行している通貨に価値を見出し、あらゆる取引が価値の翻訳機である通貨を介して行われれている。お金がないというのはすなわち、「たくさんのお米」や「たくさんのお魚」のような交換材料になりうる資本の不足を意味する。資産家・資本家だとかファウンダーが存在し、資本の後ろ盾が人間の力や価値を決めうる資本主義社会に生きる上では、やっぱり「お金がないのは首がないより辛い」。

だからこそ、お金に左右されるのは、今や当然の価値観だ。

「それだけしか払えないならやれませんよ。」

「この仕事するならいくら必要ですよ。」

何かを企てて、誰かを仲間に入れようとした時、当然のごとくペイが発生する。それは、仕事をする人に対する価値表明でもあるし、仕事自体に対する価値表明でもある。もちろん仕事を受ける人も、社会の共通言語としてのお金がないと社会生活を送れないから、お金を要求するし、お金をもらってうからこそやらなきゃいけない。お金は仕事のクオリティへの保証でもある。

 

社会の当然に慣れてしまった僕らは、忘れてしまっている。お金には本来、価値がない。

あくまで、コミュニケーションを行う上で便利だから、価値を見出しているだけで、本当に欲しいのはお金の向こうにあるお米やお魚だ。

 

低予算の追い風

「低予算」。これはお金がない分、本質的なコミュニケーションで物事を動かすしかない。それ自体、そのものに価値を見出してくれる人たちが集まらないと、低予算は成立しえない。

お金はないんですけど、こんなことやろうと思っています。

なんとか力を貸してください。

資本主義に逆行する、前時代的な取引。だが、前時代的だからこそ本質的で、これに突き動かされた人間はお金と時間を天秤にかけることなく、一目散に動き出す。

共通の母国語同士でのコミュニケーションがスムーズであるように、お金を介さない価値のコミュニケーションも、やはりスムーズで、さらに強固だ。動機付けは不純物が少なければ少ないほど強い。組み木で作った建築物が、ボンドで作ったそれよりも圧倒的に頑丈なのにも似ている。

 

そういった背景から、低予算すなわちパッションの塊であると言える。でなきゃ低予算足りえない。あらゆる本気が密集したそれを、社会がどう見るか。

哀しいかな、低予算で生まれてくる作品は、多くの場合、小さな集団の中だけの通貨となってしまい、社会で通用しない代物が出来上がる。学生の制作物などを考えるとよくわかる。文化祭とかのアレやソレは、お金はないけど、同じ価値観とやる気を持ち寄って出来上がる。パッションだけは溢れているから、セルフ満足度はめっちゃ高い。

社会に出て無味乾燥な資本ライフに突入すると、パッションで物事が動かないことを学ぶ。金しか見てない。みんな、金で動いている。しかし稀にやってくるのだ。低予算を喉元に突きつけられる時が。チャンスだ。何も持っていないからこそ、何かが生まれうる。わらしべ長者が最初にお金を持っていたら家を買えただろうか。無理だったろう。藁から始まる物々交換だったから、お金という不純物を挟まない価値のコミュニケーションだったからこそ、あの物語が生まれている。

 

 

億千の有象無象のパッションの上に、低予算の殿堂がある。揺るぎない事実だ。

でも、生活や資本を度外視して人の気持ちで動き出した仕事は、走っている時もすごく楽しい。一円の金にもならないけど面白そうだから加担するプロジェクトほど面白いものはない。僕の仕事と線を引いていては出会えないものがそこにはある。

自分がしたいことを、どう伝え、仲間を増やすか。人の余力を、どう本気にさせるか。

 

これから先勤め続けるのか違う人生に突き進むのかはさておき、低予算のツボを少しでも垣間見れているのは貴重な経験だと思う。明日からもまた。

平成と天皇

平成最後の、平成最後のと、ここ数ヶ月で猛烈に喧伝されている。そうして、平成最後の日曜日とか、平成最後の朝とか、だんだん平成最後が切迫してきて、いよいよ平成最後の夜を刻々と刻んでいる。

今の今まで、平成が終わることに対しては特に感想も抱いていなかった。けどどうだ、30年続いたものが終わっていく、しかもそれが全国民が共に生きた時代が終わっていくと思うと、いよいよになって寂しさが湧き上がってきている。

 

日本人であれば一度は、天皇とは…?と考えたことがあるだろう。時には政治の長であり、時には軍の長だった天皇は、昭和から平成にかけて、象徴となった。

平成、こんなことがあったねという振り返り番組が傍で流れている。昭和以前の天皇の方が実権は圧倒的に握っていた。けれど、象徴としての天皇が作った時代を見てみると、変に実権を握り、政治に関与していない方が、国民としては時代を共に生きたように感じるのではと思った。僕も平成始まってから生まれているので何をいえた口じゃないのだけれど。

政治が切り離されて、具体的国の方針の評価対象から天皇が外れたというのは、天皇を時代の象徴として捉える側面においては大きいように感じる。いい施策、悪い施策、諸々あるだろうが、それで印象が左右されることがなくなるから。一種冷静に象徴を見つめることができる。

この間日本橋高島屋で天皇即位30年の展示を見てきた。皇室の、いや、天皇の、個人的なアルバムやクローゼット、食器棚の中を見ているような展示だった。人生が時代なのだ。天皇は。天皇の生き方がそのまま時代を映す。そして時代をいずれ名乗る存在として、象徴然として生きた今上天皇、明日からの上皇は、実務から離れ、祈り、国事行為に専念し、国民に寄り添った。優しい人で、優しい時代だったのだろう。

 

このあり方が普通になった次の時代は果たして。

どんな天皇が、どう時代に寄り添うのだろうか。

映画「クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン〜失われたひろし〜」の感想を綴ります

観ました。

www.shinchan-movie.com

 

経緯という経緯は無い。時間が空いて、映画をなんとなく見ようかなと思い、その時間にたまたまやっていたのがクレヨンしんちゃんだったから。それだけである。ゴールデンウィーク初日の映画館はママ友と子供たち、家族づれ、少年少女たちの団体で溢れ、いい歳した青年が一人クレヨンしんちゃんするのは酷く特異に映ったことだろう。しかしそんな瑣末なこと気にしていられない。なぜなら僕は時間が空いて、なんとなく映画を見ようと思ったのだ。映画館に行くのに他に理由がいるだろうか。ゴールデンウィークだからって、家族連れだけが映画館にいける資格を持っているとでもいうのだろうか。否、映画館の門戸は誰にでも平等に開かれている。お金さえ払えば、1800円さえ払えば、クレヨンしんちゃんだろうがプリキュアだろうがアイマスだろうが、僕らは映画を観られるのだ。だから僕は胸を張り、顎を引き、振る舞えうる限り堂々とクレヨンしんちゃんの半券を受付に差し出し、可能な限りスマートにシアターまで歩き、最高にキザに着席、足を組んで、開始を待った。受付の人の怪訝な顔、僕が着席した時、両サイドに座った家族連れが放った若干の違和感を僕は知っている。が、知ったこっちゃない、クレヨンしんちゃんは皆に開かれているのだ!


そんなことはどうでもいい。映画の話である。

クレヨンしんちゃんの映画が好きな人を僕は多く知っている。「オトナ帝国の逆襲」「ヘンダーランドの大冒険」この二作は傑作だと聞いていて、確か僕も観た記憶がある。詳細までは覚えておらず、記憶に定かではない。

元をたどれば少年時代、実家のテレビは地域柄もありテレビ朝日の写りがとてつもなく悪かった。ほぼ砂嵐に近い写りのテレビ朝日を前に、僕ら家族はMステもドラえもんもない生活を強いられていた。もちろん、クレヨンしんちゃんも映らなかった。幼いころクレヨンしんちゃんをちゃんと見た記憶がない。だからそもそもクレヨンしんちゃんへのコミットがものすごく弱い人間なのだ。アニメにコミットしなければ、映画も然もありなん。

 

上記の通り、環境的にはアウェイだった予備知識もヨレヨレのままの鑑賞だったのだが、クレヨンしんちゃんは全く侮れなかった。素晴らしい映画だった。

 

今回は夫婦の愛をテーマにした作品。ひろしとみさえ。つまりしんちゃんの父と母が旅行中の大冒険を通じて、改めて夫婦の絆に気づく。

本線はあくまで夫婦の話なのだが、この作品はもっと多様な楽しみ方ができる。野原一家が持つ、物語へのアプローチの多様さが見事に光った作品だった。

 

クレヨンしんちゃんを語るにつき欠かせないのが野原一家の存在だ。

父ひろし

母みさえ

長男しんのすけ

長女ひまわり

ペットシロ

四人と一匹。春日部の一軒家にすむ何処かの会社の課長さん一家。この登場人物構成が、クレヨンしんちゃんの妙である。

今回の映画の内容詳細は割愛するが、作中の面白ポイントは以下に集約されると思う。

・ひろしとみさえの夫婦愛

・ひまわりを守る母みさえの強さ

・しんのすけの下ネタ

・一家総出のアクション


子供は映画にわかりやすい面白さを求める。おならで笑い、うんこで笑う。そう、下ネタ。普段隠されているもの、恥ずべきものが解放された時の面白さは、万国共通、全年代共通だ。シンプルな笑いと言えるだろう。

一方、大人は映画に現実からの逃避と感情移入・共感を求めがちである。相反する内容ではあるが、アクション映画は前者を、ヒューマンドラマは後者を満たす存在であると言える。

破天荒な幼稚園児しんのすけを自由に動かし、子供たちのわかりやすい笑いを喚起しながら、ひろしとみさえの夫婦愛と、母・みさえの強さを魅せることで、大人の共感を生む。さらにアニメ映画ならではのアクション。本作では舞台となる「グレートババァブリーフ島」に伝わる伝説を巡り、野原一家・トレジャーハンター・原住民の仮面族、三つ巴になったひろし争奪戦が繰り広げられる。予定調和の結末を迎えるとしても、派手なアクション、ハラハラドキドキは面白い。改めて噛み締めてみるとグレートババァブリーフ島って名前もめちゃシュール。

こうしてみると、家族にまつわるあらゆる切り口から物語を紡げるのがクレヨンしんちゃんの強みであり、野原一家が野原一家である限り面白い映画が生まれ続ける。恐ろしい一家だ。


綿密なマーケティングは作中の挿入歌にも現れている。

 本作には二つの大きなクライマックスがある。

一つは、グレートババァブリーフ島到着初日の夫婦喧嘩のあと、ひろしが一人レストランで酒を飲みながらいつも持ち歩いている家族写真を見返し、みさえと付き合っていたころや新婚の頃を思い出すシーン。新鮮な当時の気持ちを思い出し、みさえに花を買って駆け出す。

この時の挿入歌が、福山雅治のHello。

もう一つは、囚われのひろしを奪還すべく、みさえが原住民を駆逐しながら突き進んでいくシーン。

この時の挿入歌が、MISIAのeverything。

おわかりいただけるだろうか。1995年のヒット曲と、2000年のヒット曲。当時の小中学生が今のパパとママだ。クレヨンしんちゃんの皮を被ったエモ。見た目は子ども、頭脳は大人とはクレヨンしんちゃんのことだったか。確実に両親に刺さるような選曲をする狡猾さに震えた。

さらに畳み掛けるのが、主題歌である。歌うのは今を輝くあいみょん。少年少女たちが大好きであろうあいみょんだ。もはやこの映画、全身凶器である。曲ですら全方位に向けて殺しにかかっている。


さらに夫婦愛と並び立って強く込められたメッセージが、母の強さだった。

みさえは、娘のひまわりを抱っこ紐で抱えながらオムツとかが入ったリュックを背負って、ひろしを奪還しにむかう。前には赤ちゃん、背中にはリュック。お母さんの標準装備を常に抱えて、グレートババァブリーフ島の密林をかき分けていくのだ。時にはおっぱいをあげ、時にはオムツを替えながら。ひろし奪還にはトレジャーハンターのインディ・ジュンコが同行する。みさえやしんのすけとは全く異なる、財宝を目的にしてひろしを追っているため、当初は全く協力的な様子は見せないのだが、みさえの強さ、母の強さを目の当たりにする中で、徐々に心を開いていく。インディ・ジュンコの心が動くのもよくわかる。みさえは強い。子供を守る母は強い。トレジャーハンターという、常に宝を探し続ける人間ではなく、すでに守るべきものを持つ人間の強かさが対照的に映されていた。

それにしても、作中に散りばめられた「ママあるある」の量たるや相当なものがあったと思う。ひろしが主となった旦那に対する共感ポイントよりも、みさえが主となった妻・母への共感ポイントをより多く突っ込んでいる。客層の把握が完璧だ。やばい。



小気味いいテンポで展開されるストーリーを追いながら、僕はファミレスを想起していた。

ファミリーレストラン。家族のレストラン。洋食も和食も中華も、ソフトドリンクもお酒も。居酒屋にもレストランにもなる、あの懐の深さ。クレヨンしんちゃんはファミリーレストランなのだ。しかも、ファミレスほどピントが散っていない。何でも屋さんだが、器用貧乏にはならない。今回は明確に夫婦愛と母の強さに焦点を当てているが、おそらく、作品ごとに主題を微妙にずらしながら製作しているのだろう。

それもこれもすべて、普遍的な「家族」のなせる技だ。「家族」の器に何を注ぐか。家族写真の、家族の歴史の、どこに焦点を合わせるか。それによりけりで、物語はいくらでも広がり、あらゆる人の心に寄り添うことができる。


映画はもとより、クレヨンしんちゃんがキラーコンテンツすぎて恐怖を覚えた。30作近く映画作品を作ってもなお、この面白さだ。

時間が空いていたら、いや、時間を作ってでも、観て損はない映画だ。ゴールデンウィーク、暇を持て余しているのであれば、家族連れに埋もれながら見てみてほしい。そして、会場の気まずさと映画の巧妙さを語らいましょう。

以上です。

現代人は赤血球に似たり

品川から横浜あたりまでの京急の駅は全駅高架になっている。飛び込む人が多かったのか、開かずの踏切が多かったのか知らないが、必ず地面から浮いている。今僕がよく使う京急蒲田駅も例に漏れず高架であり、3階に上り、4階に下りのホームがある。さらに羽田に向かう路線が加わり、初見の来訪者をことごとく駆逐している様子を見受ける。

京急蒲田駅の東側から歩いてくると、ちょうど羽田に伸びる線路と横浜に向かう線路が枝分かれしている部分を見上げることができる。毎朝見上げているのだが、この頃それが血管にしか見えなくなってしまった。生々しい弧を描きながら分離していく二つの巨大な道。大動脈が太もものあたりで分かれているようにしか見えない。高速道路もそうだ。生麦のあたりに大きなジャンクションがあるが、あそこも血管にしか見えない。ぐるぐると螺旋上に上昇していって、大きな道路につながっている。毛細血管から徐々に大きな血管へと寄り集まっていき、大動脈に流れ込む様子に見える。碁盤の目のようにきちっと区分けされた道以外の、道路、線路、うねって伸びる道という道、全て血管に見える。

 

以前、一生懸命資格の勉強をしていた。何の試験だったかといえば、これである。

 

 

第2種衛生管理者 過去7回 本試験問題集 '18~'19年版

第2種衛生管理者 過去7回 本試験問題集 '18~'19年版

 

 

無事に合格できたのだが、試験内容には生理学も含まれていて、否応がなしに血液がどうだ、臓器がどうだと学ばなければならなかった。人間の体は恐ろしく良くできている。進化の歴史が最適化していったとはいえ、栄養配給から老廃物の再利用、本当にいらないものだけを排出する循環システムだったり、五感や平衡感覚を司る耳目、口、全てを統括する脳、奇跡としか思えないバランスで進化を遂げているのが人間、生物だ。

体内での赤血球の役割といえば、酸素や栄養分を全身の細胞に巡らせることにある。肺から出た赤血球は細胞に酸素を、肝臓から出た赤血球は細胞にアミノ酸やブドウ糖を巡らせる。そして細胞から老廃物をキャッチアップして戻ってくる。血液の運搬屋さん、赤血球。

線路が血管に見え出してからというもの、人間が赤血球に感じられて仕方がない。自宅でご飯食べたり寝たりして蓄えた力を、血管を流れる電車に乗って会社までいき、働くとともに老廃物をキャッチアップしてまた家に戻る。上り線が動脈で、下り線が静脈か、はたまた逆か。人によりけり。脳細胞だかシナプスを拡大した映像が銀河に似ているから、脳内にも無数の銀河が広がっており、もしかするとこの銀河系ももっと巨大な何かの細胞に過ぎないのかもしれない。そんな説が一時期流行った。真偽はどうあれ、自然の摂理も人間が作ったものも、大抵同じような場所に着地するのかもしれない。そのうち、人間が動くことが少なくなり、今以上に電波が血液・赤血球の役割を担っていく世界が待ち受けているのだろう。でも、中身が変わっただけで、システムは変わらない。

 

会社という巨大な臓器に首根っこを掴まれて赤血球をロールプレイしている日々。頭が良過ぎてどうかしていた高校理科教師が、自分の首からぶら下がっているネクタイを掴んで、「このネクタイの先っぽは誰が握っているんですかねぇ〜〜」と話していたことを良く思い出す。そのうち自分が臓器担ったとて、今度は他の臓器とのバランスや身体との関係で頭を悩ますのだろう。腎臓や肝臓は脳みそとの臓器関係で悩んだりしているのだろうか。なんかありそうである。ガンになっちゃってごめんな、お前らには転移させないようにするからな。みたいなやりとりとかありそう。

 

今日もドクドクと京急線は電車にたくさんの血球を積んで走り出した。

ちなみに赤血球の寿命は120日。なんか人間っぽくないっすか。

意味付けライフ

今朝、改札にPASMOをかざしたところ、残高が108円だった。PASMOの残高には生活の柄が如実に現れるように思う。常時きちっと10,000円程貯めておける人は、現金に頼らない生活ができていて、社会からクレジットされている存在なのであろう。What kind of life do you live?教えてくださいその余裕。

残高の高低はさておき、108円を見たとき、100円の何かは買えるなと思った。108円、100円の消費税込価格である。それを払えば、ちょうど残高がゼロになる。だからなんだということはない。どうってこともないけど、ただ、そう思った。

僕は職業柄かわからないが、庶民的なものの税込価格に反応しがちだ。1,188、1,296、1,404…

また、ゾロ目に極端に反応する人も、僕は知っている。なんか縁起がいい気がするらしい。その気持ちもわかる。777を揃えたらお金が儲かると、幼き頃から洗脳されている僕らだ。ゾロ目、何かいいことある気がする。あと連番も。不意に買った商品の合計が1,234だったらどうだろう。連番フリークでなくとも少しはおやっと思うはずだ。


とにかく僕らは意味付けしたがる。

晴れたらどうだ、雨降ったらどうだ、西に行くな、方角が悪いから東に行け、虹だ、雲だ。

僕の高校受験時の受験番号は225番だった。10年以上経っても鮮明に覚えている。225は15の平方根であり、前後見渡してもルートのつかない平方根をもつ受験番号の人間なんてほとんどいなかった。特別な番号をあてがわれた気がして、縁起がいいと思っていた。今考えるとわけわからん。何故平方根をとってルートがつかないと縁起がいいのか。理解に苦しむ。しかし、なんだって意味をつけたいのだ。意味付けしたくて、意味に寄りかかりたくてどうしようもないのだ。ちなみに地方公立高校だったため、倍率は1にほど近く、物理的にほとんど落ちることなどなかった。意味に頼らずとも。


1000円チャージして残高が1,108円になったPASMOに、僕は意味を見出せなくなった。11月8日誕生日の人も知らない。だからといって僕がどうなるわけでもない。いつもどおりである。平方根にルートがつかなくとも、税込価格じゃなくとも。

銭湯の音

風邪が快方に向かうとともに、鼻水が止まらなくなっている。ロサンゼルスから友人がやってきていて、昨晩、品川で飯を食ったのだが、途中から滝のように鼻水がでて、歓待もへったくれもない状態になった。申し訳ない。


しかし、熱っぽさはあらかた改善されたため、この休みに銭湯に行った。大田区は銭湯だらけの街で、蒲田近辺にもごまんと銭湯がある。閉店した湯も多いようだが、それでも他の地区よりはよほど多いと聞く。

丸一年と少し前、2017年も終わりに差し迫った頃、やはり僕は風邪をひき、荒療治を称して銭湯に通った。患うとお湯に浸かりたがるらしい。しばらく前の記憶だが、あの湯も良かった。普段体育座りをしてやっと浸かる湯船。銭湯の大きな湯船、なみなみと注がれた熱いお湯に、足を伸ばし悠々と入るのはどうしたって気持ちのいいものだ。心臓が脈打ち、血液がグルングルン回り、体温の上昇とともに汗が吹き出る。溜まり溜まった体内のゴミが汗腺から出てくる。これがデトックスというのだろう。ホットヨガも同様の体験が得られるなら、そりゃ流行るに違いない。


はたして、今日の入浴の話である。

京急蒲田にほど近い場所にある銭湯。我が家から自転車で5分。なんの変哲もない、いたって普通の銭湯。中ぐらいの湯船がふたつ並んでいる。壁面には富士の嶺。やはりお湯はしんしんと熱く、浸かってしばらくすると心臓が本気を出してくる。

こんな経験はないだろうか。

音楽を聴きながら勉強をしている時、勉強に集中すると音楽が全く気にならなくなり、逆に音楽に集中すると勉強に身が入らなくなる。よほど器用な人でない限り、人間は一つのことしか集中できないようになっているらしい。

お湯に浸かり、目を閉じ、自分の鼓動と血行を感じている時、他のことはもう何も気にならなくなる。お腹が空いたも、眠いもない、ただ、身体の循環、今、ここにある生しか気にならない。気が散ったとしても、そこに響くのは湯が流れる音だけだ。

北国では、吹雪の日にホワイトアウトが起こる。前後左右を猛吹雪に見舞われると、今自分がどの方向に向かっているのか、煙の中のように全くわからなくなる。

同じように、銭湯の中では、音のホワイトアウトが起きている。湯の音が浴室に広がり、跳ね返り、全方向からけたたましい音が鳴る。目を閉じると、自分がどの音を聞いているのかわからない。大瀑布のほど近くにいるような錯覚にすら陥る。さらに湯船に身体を投げ出すと、五感のあらかたが宙に浮いたように感じる。本当に気持ちのいい時、人は何も考えられなくなるのだろう。無に夢中になり、無に集中する。

熱さに負けて湯船のヘリに腰掛け、しばらくしたらまた入る。繰り返しているうち、太古の海に想いを馳せていた。海にしか生物がおらず、陸には植物しかなかった時代。両生類か爬虫類か魚類かわからない、肺を持った生物が海から始めて這い出した時、果たしてどんな気持ちだったろうか。なぜ陸を目指したのか。海に天敵がいたのか。陸地というブルーオーシャンを我が物としたかったのか。わからない。しかし、陸地への偉大な一歩があったからこそ、今の人類までつながる壮大な命のリレーが繋がっているのだ。

冷めたら入り、のぼせそうになったら腰掛ける。

考えているとわからなくなる。僕ら人間は万物の霊長を拝命している。立派すぎる、身に余る称号だ。よくもまぁ自分たちで霊長とか言ったものだ。でも、事実、僕らは考え、知恵を振り絞り、生存競争に勝ってきた。牙でも爪でもない、脳みそを使って食物連鎖の鎖を千切った。であれば、考えることが人間の使命であり、生存の掟であると言える。でも、お湯に浸かったり出たりしてると、こうしていることこそ生物らしいのかもしれないとも思えてくる。裸で水に入ったり出たり。生き物だ。これぞ生き物だ。知恵を絞るのが人間であれば、お湯に浸かるのが生き物。人間に疲れたら生き物に戻ればいい。人間、生き物では長くいられない。どうしても、人間になってしまう。その時にはまたいそいそと人間を始めたらいいのだ。

お湯に浸かったり、出たり。出たり、浸かったり。


ガラガラだった銭湯も、少しずつ人が増えてきて、僕は我に返って浴室から出た。火照った身体には赤いまだら模様ができ、日頃の血行の悪さを物語っているようだった。

番台でポカリを買い、飲みながらこれを書いている。

やっぱり、さっきまでの生き物は人間となった。

内科のコスパ

昨日、浮世から離れて仕事をしていた。浮世離れといえば何とものんびりした、貴族のようなそれを想像するが、この度の浮世離れは体調不調によるものである。絶対熱ある。絶対体調おかしい。顔と耳がギャンギャンと熱くなっているのを感じながら業務に当たっていた。回る景色に点滅するパソコンの画面。動体視力がオーバーフローでもしているかのような景色。過敏になったような鈍磨したような感覚が、牙を剥いて襲いかかってきていた。早退しようと心に決めていたのに眠っていたお仕事が溢れてきて帰れず、何なら超勤をかましてやっとこ退勤、どうしようもなくしんどかったので病院に行くことにした。

普段、ほとんど病院に行くことはない。病院は病気の人が行く場所だ。僕は体調不良にはなれど、病気にはならない。そう信じて疑っていない。しかし、昨日は病気カウントせざるを得なかった。市販の風邪薬、いわゆる第二種医薬品ではこのダメ感はぬぐいきれないだろう。そう判断しての受診。近所までとりあえず帰り、運よく家から遠からぬ所に20時までやっている病院を見つけ、診察を受けた。

コッテコテの町の病院だった。令和が始まろうというのに昭和の香がのガツンと効いた外観と内装。映画のセットでもこんな病院作らんぞと思う。20分ほど待ち、清潔感に難のある老齢医師の問診を受けた。鳥類のような目でまじまじ見られながらの診察。見つめられて心地の良い目ではない。なるたけ目を合わせたくなくてぼんやりしていた。ぼんやりした視界の先にある医師のフケがすごい。ホワイトパウダーが盛っている。なんとかしてあげたいなぁ、美容室、紹介してあげたいなぁ。諸々考えていたら、診察が終わった。

結果、インフルではないが、咽頭ががっつり腫れてるから、とりあえず抗生剤と対症療法的な薬を処方してもらう事となった。

 

それはそれとしてである。

今回、初診で1500円くらい、薬で700円くらい、トータルで2200円程度の出費だったわけだが、これ、案外コスパがいいのではないのか。それこそ、ルルみたいな風邪薬が三日分で1700円とかである。それに何とか頑張るための栄養ドリンクを足したりすると2000円はいとも簡単に超えていく。確かに、病院は開いている時間が限られているし、待つし、他の患者からのおこぼれウイルスをもらう危険性だってある。けれど、フケだらけの医師でも医師な訳で、診察を受けて一応の安心感を得られる事と、市販の風邪薬とどの程度効き目に差があるのかはわからないとしても、それなりの薬を処方してもらえる事を考えると、診察悪くない。

頑なに病気を否定し、病院を忌み嫌っていたこれまでだったけど、病気じゃなくとも病院に行ってもいいかもしれない。ポジティブ通院。

 

とりあえず本日は休めるので、休みます。

What is 大臣の資質

桜田大臣が辞任をしたと。度重なる失言の責をとっての辞任らしい。朝のテレビ、昼のテレビはここぞとばかりにここまで連なり来た失言の数々を取り上げ、各々感想を持ち出し、異口同音に大臣の資質を疑い、問う。言い間違い、知識不足、失言、思想が及ばなければ、資質不足。ダーティーなお金の流れがあればそれも資質不足。国費をなんだと思っているか。こんな人に退職金をやるのか。任命責任はどうなんだ。顔中のニキビが爆発したみたいである。

細やかな部分まで気遣いができて、いつだって正しく、豊富な知識があり、大きなお金を的確に投入して国をうまく回していく人でなければ、大臣にはならない。大臣はそうでなくてはいけない。そう思うと、適任なんてとてもじゃないけど早々見つかって堪るかと思う。神かよ。しかし日本も狭いようで広く、稼げていない国へと転落しつつありながらも先進国として構えているため、優秀な人材を優秀な人材として登用する仕組みがあるので、スーパーマンたちがそつなくやっている部署もある。だからこそ、桜田大臣のこの度が叱責の的となっている。


晒しに晒され、国会答弁はしどろもどろになり、自責もしただろう。公開の渦の中でも次々仕事は降ってきて、喋らねばならず、知識も追いつかず、ひとまず読み、しかし漢字が難しく、また叱責、自責、謝罪、ようやく地方の応援に出て、気が休まり、饒舌に話したと思ったらまた失言、失言。

辛いなあと思う。辛い。槍玉として突き刺しまくっている人は、全くもってこの苦しみを察しないのだろうか。それとも、察した上で、大臣としてやらなきゃいけないこととして、厳しく追及しているのだろうか。市井の人が行政の人を追求する機能はあるべきだと思うけれど、屍に等しい人をさらに屠るのはどうなんだ。その程度のアゲンストで音を上げてるようでは務まらないのかもしれない。ワンチャンスをものにできず、ドベドベと失態を重ねるのがいけないのか。その手厳しさはなんなんだ、自分はその矛先は向かないのか、向いていたとしたらどれだけストイックなんだ。


ポストトゥルースと呼ばれて久しい。世論の本当のところがわからない世の中である。みんな僕と同じようなことを考えているかもしれないし、本当に桜田大臣に憤りまくっているのかもしれない。わからない。だからこそ、受動的な聴き手が多いメディアと、能動的な聴き手が多い個人やソーシャルメディアの声がひたすら大きくなる。いつ自分に矛先が向くかもわからないのに。その恐怖に慄いてるやつなんてお呼びじゃないのだろう。そうだとわかっていても、強く当たれない。その自信がない。

笑うは易い。貶すも易いが、自分はどうか。責も立場も全く違う人間の何を問うことができるか。


少なくとも僕はできないと思う。という話でした。

約束のネバーランドを一気に観てみた

ジャンプを買わなくなって10年ほど経つ。当時、ハイキュー!!も始まっていなかった。ワンピースはシャボンディ諸島を抜けたところだった。BLEACHもナルトも絶賛連載中。古き良き2010年代が始まった頃のジャンプである。

化石のごときジャンプの記憶しか残っていない僕に、約束のネバーランドなど知る由もなかった。2年前ほどに連載開始されたジャンプ漫画で、巷では大変な人気を誇っているとのこと。

Amazon primeに乗っかっていたのと、評判は聞いていたので、アニメで見てみた。そういえばジャンプ漫画のアニメ化ってほとんどがテレ東でやるから、地の果てオホーツクではみられなかったんですよね。ジャンプ漫画界の急先鋒ワンピースのみがフジテレビ。もはや局という概念すら無くなりつつある。便利な世の中になったものである。


さて、約束のネバーランドなのだが。

ジャンプっぽい漫画じゃないよねって、多分言われているのだろうと思う。デスノートしかり、アスクレピオスしかり、どことなく暗くて不協和音がずーっと流れているような漫画っていわゆるジャンプっぽい漫画ではない。

あらすじをかいつまむと、孤児院で安穏と暮らしていた少年少女たちがある日自分たちが外の世界の怪物たちの食料として飼われていただけだと知り、孤児院からの脱出を企てる話。

ただの孤児院が様相を変える衝撃はなかなかのものだったし、3人の天才児童がゴリゴリ脱出に向けて手立てを考えていくのを見てるとジャンプっぽさは確実にそこにあった。


この手の物語をみてどうしても考えさせられるのが、養殖についてだ。人間は自分たちのご飯にするべく平気で養殖するけれど、人間を食料とする知的な生物がいたとすると逆に養殖される場合も考えられるわけである。なんでもなく想定される事実ではあるがしかし、実際に描写されると違和感を覚える。

肉にしろ魚にしろ、なんだって命なわけで、動物の世界や魚の世界にもある程度の社会性がもしあったなら、約束のネバーランド的な物語が巻き起こっているやもしれない。そう考えると、やはり僕らは生命をいただいて生きているのだなぁと、改めて思い知らされる。


生命なしに生きてはいけない我々である。せめて、心よりのいただきますを捧げようと思った。

漫画版はまだまだ続いているようである。第2期に期待。

元号が変わるくらいで人間は変わらない

こう、文章を度々書いていると、自分にまつわるあれそれを客観視できるという。文章は自分の分身みたいなものなので、わからないでもない。ただ、本当に辛いとか、本当にきついとか、身に迫ることはなかなか書けたもんじゃないから、苦しみは心の隅の方に巻きついたままでいたりする。

 

かつて、お悩み相談をやっている人間は悩みがあるのかと考えたことがある。競馬の予想屋が競馬当てられるのかみたいな話。どうせお悩み相談員にも悩みがあって、どうしようどうしようとオタオタすることがあるはずなのだ。昼間はラジオで人の悩みを聴いているお悩み相談員が、夜は居酒屋に入って友達なのか居酒屋のマスターなのかわからないけど、自分の悩みを相談する。相談された、お悩み相談員のお悩み相談員はそれらしく話を聞く。で、またその人にも固有の悩みがあって…とこれが無限に繋がっていく。

と、思えばである。

大体の苦しさとか、悩みとか、そういうものは自分のことであるからして辛く、人ごとだと冷静に考えられる。自分の家庭がこじれたらめちゃめちゃ苦しいが、人の家庭がこじれたところでそれは酒のつまみか昼ドラのネタにしかならない。ましてや相談されていけしゃあしゃあと偉そうな返答までしてしまう。

 

社会は大変なことに溢れている。忙しいのも大変だし、暇なのも大変だ。仕事が終わらないのも苦しければ、社内ニートも苦しいだろう。お金がないとか、会社で責められるとか、様々悩みはあれど、それで死ぬわけじゃない。死ぬときは死ぬから死ぬわけだ。死ぬ以外の理由で死ぬのは悔しい。冷静に考えて逃げ出すのが得策だと思えば逃げ出せば良いし、冷静に考えて戦うのが得策の場合は戦うが良い。やべーなって時こそ、ひとまず自分の人生を自分から切り離して考えてみる。

どれだけ客観視して、自分の人生を俯瞰してみても、最後にやるのは自分であることに変わりはない。どこまでいっても人生は人生でしかない。けど、その手段を考えるときや判断に迷った時の材料として、人生を切り離すのは効果がある。「どうしよう」には「こうした方がいい」という手段が必要だ。「困った」には「どうしたの」と聞いてあげる必要がある。人に話しても如何しようもない、人に話せないほど辛いことほど、自分で手段を差し出し、自分で悩みを聞いてあげなければならない。自分の苦しみからはどうやったって逃げられないし、一定程度苦しみ抜く。でもぶっちゃけ苦しいことに苦しんだって何も生まれない。だから、客観視を決め込んで、人の人生を眺めているつもりで冷静に対処していくというのは処世する中で必要らしい。

 

怪我をしない奴より、怪我をしてから立ち上がった奴の方が強い。0勝0敗の人間より、0勝100敗の人間の方がまだ強い。たくさん打席に立って2割5分の選手はスターだ。社会は極真空手やギアなしのボクシングに似てるけど死にはしない。お天道様に背くようなことをしなければ、社会的な死すらも死じゃない。たくさん戦ってたくさん負けてどっかで勝ち星拾えたらめっけもんくらいな気持ちでやっていく。そのステージそのステージで苦しみはあるでしょうが。やっていきましょう令和。