徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

津久井やまゆり園の事件について

初公判が開かれる。

2016年、福祉施設やまゆり園に入園している重度の知的障害者を19人無差別に殺害した犯人は、意思疎通ができないような役に立たない人間はいない方がいい、コストがかかるだけだとの思想のもとでことを起こしたという。重大な事件が起こった際には必ず争点となる責任能力の有無を本件においても争っていくようだ。

 

事件を起こした動機を考えてみる。

例えば他の大量殺人の犯人、それこそ最近で言えば京都アニメーションの件などでは私怨に近い同期だった。秋葉原の大量殺害事件も同様だ。

本件の動機は、福祉施設に勤めている職員が入居者に対すして抱いた感情であるため、広義での私怨と言える。しかし、犯人が感情を抱いた対象が「役に立たない人」と悪い意味で一般化された時、この事件の動機は僕たちに大きな問いかけを迫る。

 

犯人が語る動機は、「障害者は不幸をもたらす」という言葉に収斂される。それは、意思の疎通ができず、なにをするにも誰かに介助をしてもらわないとならない人ということで、犯人は社会の役に立たない人とも語る。

考えなければいけないことはなんだろう。

 


社会の役に立つ・役に立たないとはなにか


まず、不幸をもたらすのは、「社会の役に立たないから」であると考えた時、社会の役に立つ・役に立たないとはどういうことなのだろうか。

社会の意味合いを国にまで広げて考えてみると、賃金を受け取っているか、納税を行っているかという視点は一つ考えられるだろう。労働の対価は賃金のペイで表されるのが現代社会だし、労働を仮にしていなくても、国民の義務として定められている納税を行っていれば、国・社会に貢献していると言える。

では、それらに該当しない場合はどうなのだろうか。

お金の動きで定量的に役に立っている様が見られない際には、感情の動きを考えていくこととなる。

感謝される、嬉しい楽しい気持ちにさせるなど、なんらかのポジティブな感情を誰かに与えることができれば、少なくとも二者間において、役に立っているとみなせる。

では、それもなかったらどうだろう。定量的にも、定性的にも、全くポジティブな効果を誰にももたらさない場合は、社会の役に立たないと規定されてしまうのだろうか。

そんなわけはない。これは理屈じゃなくて、感情とか倫理とかもっと深い部分で、そんなわけはあるまいと思う。


人間は社会の役に立つ必要があるのか

 

すると、社会の役に立つ・立たないという二元構造で人間を捉えること自体が間違っているのではないか。ことに今の世の中であれば、生産性至上主義になっており、優秀な人間が役に立つように見えたり、そうではない人間が役に立たないように見えたりする。

だが、人間が作り出した資本主義の上で規定される生産性という尺度で人間を測ること自体が、正しいのかどうかは考えなければならないと思う。

そもそも、生命は種の保存を史上命題に設定している。お金稼ぎでも社会のために生きるでもなく。社会の文脈で考えたら正しいことは、生命の文脈で考えたらとるに足らないものとなる(現代の生命活動を考えたときにはお金や社会性は切って切れないものではあるのだけれど)。一義的に役に立つ・立たないを規定することは難しいし、ある意味では社会の役に立つ必要はないとも言える。

 では、体質として種の保存に寄与できず、社会の論理の中でも弾かれてしまう人間は、役に立たない人間なのか。


人の命に価値をつけるのは誰か


結局、この話が行き着くところは、人の命に価値をつけるのは誰か。という問いなのではなかろうか。

犯人は、自分の就労体験から人の価値を判断し、自分の価値観において凶刃を振り回した。社会において役に立たない、本質的に役に立たないと語りながら。

貧富によって価値が決まるように見えるのは、資本主義の上でしかないことは先述した。種の保存の論理において、生存に適さない種は歴史とともに淘汰されていく運命にあるが、「君は種の保存に適してないから今すぐいなくなってください」なんてシステムは生命の連環の中に存在しない。

では、人が生きる、生命が生きる価値はどこにあるのか、誰が決めるのかというと、それは本人でしかない。

生きている人が、自分の生をどう感じるか。それでしか命はわからない。

重度の障害で意志の疎通ができないとき、当人がどう考えているかを表す言葉が出ないかもしれない、感情の起伏も読めないかもしれない。では、家族はどうか、親族はどうか。当人との触れ合いの中で喜びを得ている人はいないか。仮に孤独の身だとしても、その命を他人の手によって止めることは許されない。命の価値を判断するのは当人でなければならないから。



似たり寄ったりの話で、介護現場の話や尊厳死の議論があるように思う。施設に預ける金銭的体力も、自ら世話をする肉体的体力もない場合、袖の振り様がなくなる。

老老介護で検索して最初にひっかかるページを見ても、「家族に相談しましょう。社会のサポートを頼りましょう。」と、それで解決したら困らないよなぁというアドバイスばかりが並び、社会問題であることを身に染みて感じる。


命の判断を個々人に迫らないようにしなければいけないのが、国の福祉の仕事なのだろう。「この人がいなくならないと私は生きてはいけない」状態は、命の価値の判断を他人に迫っていることに等しい。

倫理観で人を救えないこともわかる。命の価値や命の行き先は自分でしか決められないだろうとかぽいぽい書いたところで、「じゃあお前やってみろよ、福祉と介護の現場で働いてみろよ」と言われるのが関の山だし、僕はそうした経験がないから何も語る言葉がない。

でも、思うだけは思うし、考えるだけは考える。

あまりにも凄惨な、遣る瀬ない気持ちにさせる事件を前にして。

受動的な区切りとして

今年も終わる。

27度目の年末。東京にきてから9度目、社会人になってからは5度目の年末となる。トータルにしても、自らの状況ごとの回数にしても、そこそこな数をこなしてきている。

明日になれば、世の中に来年の抱負が渦巻く。今年のやり残しなのか、全く趣向を変えた何かなのか、とにかく突然皆が目標を立て出す。きっと僕もそうだ。


暦は、勝手に人生を区切ってくれるからいい。人類が生まれる遥か前からなぜか決まっていた世界のリズムを人間が暴いて、それを自分たちのリズムとした。それが暦だ。僕らは自ら一年を新たな気持ちで始めているようで、実は勝手に置かれているハードルを飛び越えるたびに新たな気持ちになっているだけに過ぎない。

しかし、これがなければ、人生はのっぺりしたものだったろう。そもそもはたして僕は人生を自ら区切ったことがあったろうか。彼女と付き合ったり別れたり、何かを好きになったら飽きたり。そんなもんだろうか。じゃあ人間が自ら人生を区切る瞬間とは、いつだろうか。結婚くらいか。そうした決定を僕は、いくつかいずれしなければいけない。明日明後日ではないが、いずれ。


暦に受動的に区切られるだけの人生はいつまで続くか。大宮まで続く線路の上、京浜東北線に乗りながら思う。


ある光

ある光

  • 小沢健二
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

セルフ締め出し〜浜辺に落とした鍵を探せ!〜

ここ3ヶ月ほど、暇を見て走ることを続けている。初秋はまだ日も長く、日の出が早かったため朝6時に起きて走ってから会社に行くなんて芸当もできたが、このところの日照時間では6時でもまだ暗い。そして寒い。朝は無理だ。気が滅入る。家帰ってから走る気力などもなく、すると、休みの日に走ることとなる。

一昨日もそうだった。
掃除やら昼寝を済ませて、時間が空いた。クリスマスの夜。キリストが生まれたのは24日から25日にかけてだったか、25日の夜だったか。はて…と考えながら走る。僕の走りゆく景色の中に、どれだけのロマンティックが眠っていたことだろうか。無機質な外観に潜んだ有機質を思いながら住宅街を駆ける。
当初はノロノロ走る予定だった。ノロノロ走りは考えが巡っていい。血液が適度に体を廻り、酸素を脳に運んでくれる。が、どうものんびり長時間ランニングは性に合わないようで、勝手にペースは上がり、わずか3キロちょっとで自らあげたペースに追いついていけなくなり立ち止まる。
 
家の近くに浜辺がある。
大森ふるさとの浜辺公園という海浜公園だ。人工的に作られた感満載の浜辺が300メートル程度広がっている。面しているのは東京湾なので、大自然とか、大海原とかを想起させるような海浜ではないが、浜辺は浜辺である。
自動ハイペース自爆ランの目的地は、この浜辺になることが多い。浜辺まで行って、簡単にストレッチとか動きづくりとかダッシュをする。そもそも短距離選手だ。のんびり走るよりはなにも考えんと全速力で走れ!的なランを求めてしまう。というか身体の作りからしてそうそう長く走れない。
 
果たして、クリスマスの夜の浜辺である。ライトアップもなく、漆黒が広がり、ただ水が寄せる音が聞こえる。肩を寄せる恋人達もいない。何しろ寒い。気温7度とかである。浜風も吹く7度でいちゃつくけるほど東京の人はタフではないらしい。ダウンジャケットを着てなにやら運動をしているらしいおじちゃんと、やたら軽装の僕と、二人だけの奇妙な浜辺で、僕はダッシュを繰り返した。公の場でゼエゼエ息をしながらダッシュと腹筋を行うお兄さんは、側から見たらなかなか芳しいものだったろう。だが今日はクリスマス。先入観を抜きにしたサンタも相当怪しい見た目だろう。僕が認められない理由はないはずだ。
 
ひとしきり汗をかいて、家に帰る。家路にはスーパーマーケットがある。一汗かいたし、晩酌用のつまみと、一人分のケーキを買って帰ることとした。そこではPayPayが使えるのだ。走りに行っているから財布は持たない。ただ、音楽は聴きたいからスマホは持つ。それで決済までできてしまうのだ。なんと便利なものか。
大掃除の際に足りなくなった洗剤とか諸々もがっつり買い込んで、ヨタヨタ歩きながらマンションまで歩く。汗が少し冷えてきて、早く暖かい家に帰って風呂に入りたいなぁなんて思いながら。
家に着く。
はたと気がつく。
鍵がない。
両手に抱えた荷物を下ろし、セルフで手荷物検査を行う。ない。ない。
いよいよ盛り上がりを見せてきた物語。現状を整理しよう。

しばらく走ってダッシュと腹筋をした身体
汗が冷えてきている
手には冷蔵の商品含めた荷物
財布はない
スマホはある
電池残量19%
明日は仕事

シンプルに逆境である。
鍵はポッケに入っていた。それは間違いない。それが失くなったといえば、可能性は一つ。走りながら落とした以外にない。時は聖夜。決死の鍵捜索劇が幕を開けた。
僕の走行は2パートに分かれていた。ジョギングパートと、ダッシュパート。運動負荷や身体の弾み方的に、ジョギングで鍵がポッケから滑り落ちるとは考え難かった。これまで辿った道を全てくまなく探すのは不可能と踏み、ダッシュをした浜辺に落ちている可能性に賭けた。
家の前の木陰に荷物を置いて、走って再び浜辺に向かう。冬でよかった。直ちに食べ物が腐ることはないだろう。もうクリスマスの住宅街に想いを馳せている余裕もない。ただ、鍵を想う。
猛スピードで浜辺までたどり着く。漆黒の海が寄せては返す。鍵は俺が飲み込んだとでも言う様な、ふてぶてしい漣だ。
茫漠と広がる砂浜に向かいあい、18%に電池が減った携帯の明かりを頼りに、浜辺の探索が始まった。浜風は冷たい。走って熱っているとはいえ、冬の海風に体温は奪われる。どこで落としたかもわからない鍵を、狭いとはいえ暗闇の浜辺で見つけられるのだろうか。見つけなければならない。見つけるんだ。
気持ちだ。気持ちでしかない。絶対見つかる、強い気持ちで探すが、体温は人をポジティブにもネガティブにもする。寒さで心がしなる。折れそうになる。

自分がしばらく前に残したダッシュの足跡の付近をうろうろとする。ライトをぶんぶん振りながら。ない。諦めがよぎる。しかし、行き場がない。聖夜に孤独を思い知る。途方に暮れたときに、閃いた。
俺、腹筋してた。
そう、走ってばかりじゃない。腹筋をしていたのだ、僕は。腹筋をしたベンチに向かう。ライトをかざす。
鍵は、あった。
僕を待っていたのだ。

皆さんは、今年中に、歓喜に震えたことがあったか。そうそうないだろう。
僕は、歓喜に震えた。クリスマスの空の下、歓喜を拾い上げたのだ。電池残量12%。何もかもをなくすかもしれない瀬戸際から、すべてを取り戻した。これを奇跡と言わず、なにに奇跡と名付けようか。


と、まぁよく考えて欲しいのですが、一人でしばらく鍵を失くして、一人で見つけてるだけなので、結果だけ見たらちょっと長めに走ったくらいの話でしかないんですよね。一度大きく気持ちがマイナスに傾いてからゼロに戻った、それだけの話です。
人生に、似ていると感じました。
生まれて死ぬこと。これが、人間にプログラムされた共通のシステムです。始点と終点が定められている中で、どのようにその間を面白おかしく過ごすか。ただ走って帰っての物語よりも、鍵をなくして見つける方が、感情の起伏やドラマ性がある。鍵を見つけたサイドの人間からするとそう思います。
しかしこれも人生、必ず見つかるとも限らないのですよね。不時着していたら目も当てられませんでした。
今度からは、チャックのついたズボンで走ることにします。

以上、お疲れ様でした。

グリーンピースを入れてもいいですか?

食堂でご飯を食べた。さつま揚げの旨煮だという。個人的に、旨煮というジャンルにハズレはないと考えている。何しろ旨いのだ。名に自ら旨いと冠する旨煮が旨くないはずがなかろう。そういうわけで、白菜の旨煮を筆頭に、旨煮があれば旨煮を食べるようにしている。今日もそうだ。

人参、玉ねぎ、蓮根、ジャガイモ。煮物オールスターズとも称せるような根菜界の錚々たるメンツに引き立てられ、さつま揚げが鎮座している。人参の旨煮でも、じゃがいもの旨煮でもない、主役は俺だ、さつま揚げだ。とでも言うように。そもそも、練り物は旨味が凝縮されているものだ。旨味の塊をさらに旨く煮たというさつま揚げの旨煮。鬼に金棒、バルサにグリーズマンである。

一枚100円もしないようなお皿におばちゃんが旨煮をよそる。これから始まる旨味・フィル・ハーモニーの演奏に心躍らせる。

不意に、おばちゃんが訪ねる。

グリーンピースを入れてもいいですか?

いいですよ、入れてください。

それとなく答えるも、この質問が、旨味のオケを心待ちにして踊った僕の意識を現実世界に引き戻した。

 

なぜおばちゃんはグリーンピースを入れてもいいか尋ねたのか

一つ一つ、考えていきたい。おばちゃんがグリーンピースを入れていいか尋ねた理由として、主だったところで3つ想定される。

  1. 嫌がる人が多かった
  2. マニュアルにそう書いてあった
  3. おばちゃん個人がグリーンピースを好まない

このうち、マニュアルにグリーンピースを入れるか確認をしましょうと書いてあったとして、その理由もグリーンピースを嫌がる人が多いからであるし、おばちゃん個人の問題だとしてもグリーンピースは好まれていない。嫌がる人が多かったも自明。

つまり、グリーンピースを好む人が少ないという前提のもと、グリーンピースを入れてもいいですか?の質問はなされている。

似たようなの事象で、レモンかけてもいいですか?問題がある。

唐揚げにレモンをかけるかかけないか。カキフライにレモンをかけるかかけないか。社会人が交わすメールの文頭に「いつもお世話になっております」をつけなければならない同調圧力の如き慣例として、レモンかけてもいいですか?のコールアンドレスポンスが行われている。

がしかし、グリーンピースとレモンの話は本質的に全く異なる。レモンについては、食事を提供する側が一方的にレモンを添え、後の対応を食事をする側に任せているが、グリーンピースの場合は食事を提供する側が食事をする側に尋ねている。いわゆる、前捌きである。あなたに、グリーンピースを食べたり避けたりする判断を委ねることはしません、私が先んじて対応してしまいます。という、素晴らしいホスピタリティの裏腹に潜む、グリーンピース嫌いでしょ?の強迫観念。

紅生姜の方がまだいいかもしれない。あいつは嫌いでしょとも好きでしょとも言われず、ただ佇んでいる。主義主張を最低限に抑えたルックスで、主に牛丼屋なんかに立ち尽くす。そして案外手に取られ、食される。策士である。

 

なぜ、グリーンピースが嫌われるのか

そもそも、あなた、グリーンピースって何か知っていますか。彩りが、、、栄養が、、、と給食をムシャムシャしていた時分からグリーンピースのお世話になっている諸君が多いと思うが、グリーンピースとは、エンドウ豆の子供である。

さやえんどう、グリーンピース、エンドウ豆。エンドウ一家の中で唯一エンドウの名を冠しないあたり、一家からも虐げられている感がある。

 

エンドウ一家爆アゲのページでも、長めに茹でたら苦味が消えるよ!と苦味前提の話が展開されている。茹でてもモソモソは消えない。救いの手は伸びない。

amanoshokudo.jp

 

今日はクリスマス

知ってますか、今日はクリスマスです。

僕がお昼ご飯で食べたグリーンピースについてあれでもなくこれでもないと語っている間にも、そこかしこで愛だ恋だくんずほぐれずエラい騒ぎな訳です。

帰り道の星は今日も相変わらずきれいに瞬いていました。

クリスマスやバレンタインデーはキリスト教由来の行事です。教組の誕生日がクリスマス、教組の復活日がイースター、バレンタインさんが殉死した日がバレンタインデー。一方で、七夕や節句などは日本の行事です。

キリスト教は人に由来する行事が多いのに、日本は天文や暦に由来する行事が多いのはなぜかなぁ、日本人が農耕民族だったからかなぁ。でもベツレヘムの羊飼は星を見てイエスの誕生を知ったよなぁ、孔明もだったなぁ、人は星に何かを気づかされるなぁ。

綺羅星のような輝きを放つ星がある一方で、気がつかれもしない星だってたくさんあります。宇宙には地球上にある砂の数よりも多い惑星が浮かんでいるという天文学者もいるほどです。そもそも、見える見えないの主体だってたかが人間です。ちょっと人間の住んでいる星に近い星がそこそこ光っていて、それに人間が勝手に意味づけをしているにすぎません。

グリーンピースだってそうです。

モソモソしてるのも苦いのも、所詮、人間の舌で感じる程度のことです。人間から見えないだけで、猛烈な星もあるでしょう。僕が知らないだけで、猛烈に興味を惹かれる何かも、ものすごく相性の良い人もいるでしょう。もしかしたら僕も、誰かにとってのグリーンピースなのかもしれない。そんなことすら思います。

 

僕は、なにを伝えたかったのでしょうか。

メリークリスマス。

 

旧友に会って来た〜何かを好きになるということ〜

旧友にあったシリーズ。

幼稚園の時分に家族ぐるみで付き合いがあった友人と会って来た。Facebookへの投稿というのは、いろいろな人と繋げてくれますね。

幼稚園で同じクラスだった当時はよく遊んでいた。しかし、小学校が離れてしまったがために、その後はそこそこの付き合いになり、小学5年生の秋に彼が東京に越して行ってしまってからは親同士の年賀状の付き合いが全てとなった。よくある人間関係の薄まり方なのだろう。

やや20年ぶりに会った彼は当時の面影たっぷりのお兄ちゃんになっていた。あの頃の君に男性ホルモンと成長ホルモンを適宜投与したらこうなるんだろうね、、、といった感じである。順当な成長。

 

彼は今富士吉田に住んでいるらしい。イエス、富士急ハイランドのすぐ近くである。何もないけれど日本有数の遊園地がある街だそうだ。何もないとはどういうことか…と思わされる。

そんあ、決してアクセスがいいとはいえない富士吉田から、彼は本州狭しと駆け回っているらしい。仕事ではない、趣味である。

声優と、野球。

ラブライブへの愛、プロ野球への愛。現地に行きたい、そのものを観たい、応援したい。この純然たる愛に僕は打ちのめされた。夜行列車と夜行バス。良好とはいえない移動環境に負けることなく、その先にある「好きなもの」に心を躍らせる。僕らが小学校に行きながら、放課後のゲームを心待ちにした、あの頃のような純粋な愛と楽しみを彼から感じた。

 

何かのために休みを取るということをしていないなぁと、思った。

金と時間と労力。ちゃんとした制度が整った、課題はあるにしろ法に抵触するような真っ黒労務環境ではない、きちんとした会社に入り、死にはしない程度のお金と、ある程度イキイキ生きられる程度の余暇を手に入れた。日々積もる感情のクズを集めて山にして、それに名前と詩と曲をつけてることで余暇を潰す。心はどんどん内側に向かっていくが、外に向かうエネルギーは欠けている。

 

この試合が見たくて、このゲームをしたくて、この曲を聞きたくて、この人に会いたくて、休む。生きる。

そんな彼を見て、健全な、というか、懐かしいというか、人間、かくあるべきかと思わされた。

 

今日の青空や、昨日の憂鬱に名前をつける生活に飽きて来たのかもしれない。10年もそんなことをしている。ただ、今更自分の心の動きに名前をつける活動以外に興味が湧き立つことがあるとも思えないのだが。

 

彼とはまた会う約束をして別れた。きっとその頃にはもう二つか三つの旅をしているのだろう。僕も二つか三つかの曲を作っているはずだ。

趣味や生活に貴賎はないか。

ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険~を観て

先週だったろうか、真夜中にブログを書きながらNHKをつけていたら、不意にドキュメンタリーが始まった。こんな時間に…?と思ったがどうやら再放送らしい。

www.nhk.or.jp

梅田明日佳くんの物語。上のページの番組情報を引用する。

リリー・フランキーや最相葉月が称賛する中3男子が書いた作文が密かな話題を呼んでいる。昨年の「子どもノンフィクション文学賞」で大賞に輝いた北九州市在住の梅田明日佳君による作文だ。彼は自らテーマを決めて学ぶ「自学」を小3~中3まで人知れず続けた。なぜ、彼は自学を続けたのか?自学によって起きた数々の“奇跡”とは?地域のさまざまな大人との交流を通して成長した7年間の軌跡を彼の「自学ノート」からひもとく。

自学。

梅田くんが通っていた小学校で行われていた宿題のような活動。どんなことでもいいから、ノートを埋めて先生に提出する。ある児童は数学のドリルを解き、ある児童は漢字の練習をする中で、梅田くんは新聞を切り抜いて記事に対する感想を書き綴った。新聞の地域欄には梅田くんにとって身近な話題が掲載されていた。新聞がとても身近な存在に感じられた梅田くんは毎朝新聞を読むようになり、興味を惹かれた記事を切り抜いて感想を書くようになった。梅田くんの自学である。

先生に見せて、感想をもらう。褒められる喜びを知ると、動機付けが深くなっていく。梅田くんは3年生から6年生まで欠かさず自学ノートをつけた。

中学生になって、学校にノートを提出しなくてもよくなったが、梅田くんは不惑一筋、自学を続けた。運動が苦手で、口頭でのコミュニケーションが得意ではなかった梅田くんは友達も少なかった。どうにかこうにか学校に行っている状況だったが、自学だけは好きで、学校終わるとすぐ家に飛んで帰り、自学ノートをつける日々を送った。

中学に上がると、自学ノートを見せる人がいなくなってしまった。そこで、彼のお母さんのアイデアで市内の文化施設を巡るようになる。司書さんや、職員の方々に文化施設が新聞記事になった際に書いた自学ノートを見せて、感想をもらうようになった。

自学ノートを見せる対象が学校の先生から、市の職員や街の時計屋さんの社長に変わっていった。それでも、ノートを見せて、喜んでくれる人がいることが嬉しく、梅田くんは繰り返し繰り返し自学ノートを書いた。

その、足跡。何を考え、何を感じながら自学ノートを書いたかを綴ったのが、「子どもノンフィクション文学賞」を獲得した作文だった。

 

久しくテレビなんてじっと観ていなかったのだが、どうも引きつけられてしまった。梅田くんと彼を取り巻く人たちが、自学ノートの取り組みを褒めて伸ばして、梅田くんの言葉と感性をメキメキと伸ばしていった過程は感動的だった。一方で、いわゆるちょうどいいコミュニケーションを取るのが苦手な彼がこの先どう育っていくのかといった漠然とした不安と期待が、重低音のように作品を包んでいるように感じた。

 

誰しも、いずれ社会に出ていかなければならない。方法は様々あるだろうが、「社会」という形のない大地に放り出されて、企業に帰属したり、学府に帰属したり、特に帰属しなかったりしながら、生きていく。

当然といえば当然なのだが、教育現場は社会に出るまでの準備段階と言える。他人に囲まれ、基礎教養を叩き込まれる中で、人間関係にも揉まれていく。リトル社会である学校で練習をして、各々が各々の方法で社会に出る。

今の教育現場の実態を詳しく知らないが、30年前、40年前から比べて、個性を重視するような教育を行っているのではないかなぁと漠然と考えている。僕が受けた教育もその気があった。それは、社会の形に準ずるように学校教育の形も変わっていくからであろう。少子化、高齢化、労働生産人口の減少。儲からない国になりつつある日本においては、もはや横並びで一生懸命コマとして働く人材の価値は低く、個性と知性でゴリゴリやっていける人材が歓迎される。

 

梅田くんの取り組みが芽をだしたのも、個性を大切にしようとする周りの人間がいたからだ。先生が褒めなければ、お母さんが無理やり違うスポーツでもさせていたら、市の職員が誠意を持って対応しなければ、きっと芽は潰えてしまっていた。

では梅田くんの前途がものすごく明るく映っていたかといえばそうではない。あまりにも実直で、口下手で、学校ではなかなかうまくいかない彼の未来を心配する声も、ドキュメンタリー中に上がっていた。

 

社会は、「最低限できていなければいけないこと」がとても多いように感じる。少なくとも僕が生きている社会はそうだ。最低限、人と話すときは相手の目を見なきゃいけないし、敬語も使えなければいけないし、謙譲語と尊敬語を間違えてはならない。返事をして、寝癖は整えて、与えられた業務をソツなくこなしながら、効率化を行い、組織の課題を見つけ、潰していく。五体は満足の方がいいし、五感も満足にないといけない。

これが、最低限である。

最低限に満ちていないとスタートラインにも立てない。最低限をクリアしてからは加点方式だが、最低限に満ちるまでは原点方式でカウントされる。

そうした社会を眼前にしたとき、最低限に満ちていない部分がありながら、他の部分において圧倒的な能力を有する人間の生きる道は、困難なものとなる。梅田くんや彼の周りの人たちがに感じていた不安もおそらくそういう類のものではなかったか。「多様な人材を求めている」と社会は門を開いているクセに、実は、最低限のフィルターの目は細かい。

 

梅田くんのような…というと語弊があるが、「能力の波が大きい人間」を活かす教育体制と、受け入れる社会。これを達成するためには先に社会をどうかしなければいけない。人が長く生きていくのは社会だからだ。ではどうすればいいかといえば、「最低限できていなければいけないこと」のなかで、「実はできていなくてもいいこと」を洗い出して、少しずつ最低限のフィルターを粗くしていくことではないかと思う。

社会を構成している企業内であったり、企業と企業の関係だったりのなかで、共通の認識として醸成されてきてしまったたくさんのしきたりや文化はなかなか取り払えるものではないだろうが、実際それが原因で悩み、将来の見通しに影が立ち込めている人もいる。活躍すべき人材なのに、である。

 

彼のような技能があれば、アカデミックやアートの道も開けていく可能性もある。だが、狭き門には変わりがない。何の変哲もない社会人になっていく人がほとんどなのが、今の日本だ。そうしたとき、社会が有する最低限を見直す必要もあるのだろう。今後僕が社会のなかでどういったポジションに置かれていくかわからないが、せめて自分の周りは不必要な最低限は取っ払って行きたいなと思う。

 

最低限を見直す提言をしていく必要があるかもしれませんね。

お後がよろしいようで。

空腹に生かされる

腹が減っては戦はできぬが、満腹も罪だ。最近ことに感じる。

仕事で遅くなる夜。昼ごはんから10時間ほど離れ、胃袋は猛然と唸りを挙げている。そんな家路には自然と歩くのが早くなる。家に行けばご飯がある。家に行けば暖かい。家に行けば、、、ゴリゴリと歩いていくと、やはり、血が回りだす。歩くリズムも小気味いい。これは、すごく、気分がいいぞ。と、テクテクテクテクやるのだが、それも胃袋に物を入れるまでのわずかな間のことでしかない。食後、胃袋に血が入ってしまったが最後、あらゆるやる気と気分は胃袋に召し取られ、なんのことはないただ疲れたお兄ちゃんが一人、出来上がる。

 

考えてもみよう。

僕らは、生きるために存在している。いくつかの内臓も、生きるための活動を行っている。それも無意識に動いているとなると、無意識に生きているわけである。僕たちは。

空腹は、胃袋から出されるエネルギー不足のサインだ。もっと燃料を、燃料を。無意識に生きようとしている僕たちが、より真剣に生きようとしている状態、それが、空腹だ。遥かな先祖たちは空腹のサインを元に必死にその日のご飯を探し回ったのだろう。空腹に突き動かされ、考え、木のみを割ったり火を使ったりしたに違いない。

 

AIがなんだ、生産性がなんだといえど、僕たちは所詮ネズミの一派でしかない。自らの空腹に嶄然たる事実を突きつけられる。が、人類の進化をもたらしたであろう空腹を前にしたところで、一介のサラリーマンは歩調が軽快になるくらいしか効能がないのであった。

晩ご飯はカップ麺でした。おいしかったです。

相鉄都心直通記念ムービーについて〜100年の歴史と二つの相鉄〜

横浜に勤めて5年目になる。社会人になって、住まいは変われどずっと横浜で働いている。この先どんな人生を歩んだとしても、きっとこの5年間は思い出になっていくだろうし、横浜の街は幾つ目かの故郷のようになっていくだろう。まさか自分の人生と横浜に、こうまで深いえにしが生まれるとは思っていなかった。これだから人生は面白い。

横浜の駅は大きく西と東に別れる。誰もが思いつく横浜といえば、みなとみらいや中華街だろう。それらは全て東口によって存在する。じゃあ西口って何があるのと言われると、高島屋と相鉄とシェラトンと飲み屋街と家系ラーメン。対外的な横浜は東口に譲っているが、地元としての横浜やその真髄は西口にある。そんな住み分けがなされれている気がする。

例に漏れず僕も西口の方で働いている。

 

西口の看板路線、相鉄が100年の時を経て、都心に直通する。西谷駅から東海道貨物線に接続、新設の羽沢横浜国大駅から東海道本線に連絡していく。新宿まで、相鉄線の車両が届く。

 

www.youtube.com

 

この動画、相鉄都心直通記念ムービーなのだが、もう、めっちゃいい。

音楽はサカナクションの「ネイティブダンサー」とくるりの「ばらの花」のマッシュアップ。僕はこれまでの人生でどっちのアーティストも真剣に聞いて来なかった。本曲も最初は普通に一つの曲として聞いたけれど、マッシュアップと知って別々に聞くとうまく混ざり合っているのがよくわかる。多分サカナクションとくるりの商圏って結構近いところにあるから、元々それぞれのアーティストが好きな人には即効性の毒になることだろう。蝕まれるぞ。

歌っているのは一世風靡したyuiとodolというバンドをやっているらしいミゾベリョウ。yuiしか知らなかった。けど、どちらも曲の趣を削がないいい歌唱である。

ばらの花の転調部分でドラマに転機が訪れるあたり、くるりのめちゃくちゃ展開をうまく使っているようにも見える。

 

さて、ドラマである。

大正・昭和・平成・令和、四つの時代を掛けて巡り合い続ける男女の物語だ。二階堂ふみと染谷翔太。ロケも実際に使われた電車を用いて行われたらしい。

 

四つの時代、幼少期に一緒に撮った写真を男性が落としていく。女性は男性を呼び止めようとするも追いつかない。けれど、少しずつ距離は縮まっていく。最後、令和の時代にようやく男性と女性がコンタクトを取り、相鉄は新宿へと繋がっていく。男女がさも相鉄と新宿のメタファーになって現れているようだ。

でも、この話のポイントは、「幼少期は一緒にいた」ことにあるような気がしている。仮に男女が相鉄と都心・新宿のメタファーだとして、「幼少期に一緒に撮った写真」とはどういうことなのだろうか。

 

相鉄の歴史を紐解いてみる。

相鉄の母体となっているのは、二つの鉄道会社だ。一つは茅ヶ崎や寒川を拠点とする相模鉄道、一つは厚木を拠点とする神中鉄道。どちらの会社も1917年、大正6年に創業された。じりじりと沿線を拡大していく2社は、経営基盤を安定させるため、1943年に相模鉄道が神中鉄道を吸収合併。相模鉄道相模線・相模鉄道神中線と名を変えた。

しかし、時は第二次世界大戦の只中。戦時体制下の特別措置として、相模線が国鉄に召し上げられてしまう。神中線は神中線で厚木飛行場からの貨物輸送で活躍したが、物量に耐えかねて東急電鉄の資本を借りてなんとか存続することとなった。

戦火の離別から、今に至るまで、二つの相鉄線は別々のままだ。当時の相模鉄道は今のJR相模線であり、神中鉄道が相鉄本線。

なんだ、もしかするとあの男女は二つの沿線のことを言っているのではないか。

 

戦時下、相模鉄道が国鉄に召し上げられた理由は、「東海道本線と中央本線のバイパス線としての役割を担わせるため」である。実際にバイパスするのは茅ヶ崎や橋本の方であるが、東海道線も中央線も当然の如く都心・新宿を通過している。

 

新宿を目指した劇中の男性はもしかすると相模鉄道なのかもしれないと思った。

 

二社合併してわずか一年での解体。もしかすると共に都心に進出していく夢を語った頃があったのかもしれない。しかし戦火に巻き込まれ叶わなかった。その夢を、令和の今、叶えようとする相模鉄道と神中鉄道の物語こそ記念ムービーだったのかもしれない。

 

とかなんとか言って、相模鉄道は新宿直通しているわけでもないし、茅ヶ崎で東海道線に乗り換えられるけれど、それ以上でも以下でもない。流石に拡大解釈がすぎるだろうけれど、二つの会社と二人の男女がなんとなくフィードバックしたのは事実だった。

相鉄の歴史にやたら詳しくなった夜。有意義な時間でした。

11月30日、楽しみにしています。おめでとう、相鉄。

旧友と再会してきた

友人と知人の境目はどんなところにあるのだろうか。恋人と友人との境目より、それは圧倒的に曖昧である。年賀状や中元歳暮の文化が希薄化した現代だからこそ、なお、曖昧だ。しかし、一度友達になってしまえば、その人とはずっと友達である。特別な諍いや啀み合いがない限り、友達はずっと続いていく。不思議なもので、普段付き合いの浅い友達の方が接触の少ない分薄く長く友達として繋がって行けたりする。

 

先日、ひょんなことからFacebookを更新した。こうしたブログでは雄弁多弁を極めるが、名前と顔が割れてしまっている人たちに対してのアクションがどうもこっぱずかしく、平素よりFacebookを苦手としている。だが今回、どうしても過去に縁があった方々にもお知らせをしたい出来事があったため、便利に使わせていただいた。

ありがたい反響をいくつかいただき、コメント欄は懐かしい名前が並んだ。東京にいる人たちとは久々に会いたいなと話し、今日、そのうちの一人と会ってきた。

 

彼とは陸上競技を通しての付き合いだった。僕の走力が栄華を極めていた頃、北海道の代表合宿で仲良しになった友人だ。僕は大学でダメになったが、彼は大学でも速かった。すごいやつである。

その合宿以外に付き合いがあったかといえば、ほぼない。これまでの人生の1週間分、寝食を共にしただけの友人だが、不思議とまた縁が繋がった。不思議なものだ。

 

彼と2人で、かつて親父やその友人と行ったことのある天ぷら屋に入る。やや10年ぶりの再会である。共通の話題といえば当時の陸上の話だったり、合宿の話になるが、全く陸上の話は出ず、今何をしているかの話ばかりをしていた。旧友との話にしては珍しいパターンのように思う。

彼は内装会社の社長になっていた。

そこにたどり着くまで、介護の会社・ニート・雇われ内装職人と渡り歩き、今に至るとのことだった。金回りはそこそこいいらしい。素晴らしいことである。

よく起業したものだなぁと話した。しかし彼にとってみれば、「雇われ内装職人をしていた頃に実務も現場監督も経理もやったし、どれだけ働いても20万程度しか貰えないとかコスパ悪いと思って企業した。」だけだという。理路整然としている。

 

とかく、起業といえば新しい市場に繰り出していくイメージを抱きがちだが、なんの、そればかりではない。個人タクシー型起業ともいうべきだろうか、現職とバチバチに競合する業界での起業も十分成り立つようだ。内装だと手に職である。あとは施工の全体感を掴めさえすれば、必要なのは資材だけ。前職の頃についていた顧客をそのまま引き抜く形で起業を行っていた。

僕は一部上場の企業に勤めていて、今の世の中からしたら大きな組織の中で働いている。メリットとして、たくさんの人の中で働けることが挙げられる。驚くほど優秀な人だったり、狡くも賢くもある人たちの考え方を勉強することができる。一方で弊害もあり、友人が行ったような全体の様子を掴んで企業のような動きが取りづらい。とにかく組織が大きく、会社という生き物がどういったメカニズムで生存しているかわからないのである。

小さい会社を起こしてぶん回している彼の話は非常にシンプルだった。

仕事をとってきて、最低限の価格で最高のパフォーマンスを行い、クレームには即時対応し、時間をこじ開けて事務処理をする。自分でわからないことは人を頼る(税理士を使う)。自分の休みは確保しないと倒れるから適度に休む。ギリギリこなせるくらいの仕事量になるようコントロールする(ほぼ失敗するらしい)。

その通りでしかなかった。

鶏が先か卵が先かの話になるが、そもそも商売のキックオフはモノかサービスを販売することから始まる。そのため、販売以外の業務は販売付帯業務にすぎない。僕なんか今人事にいて、事業所内に労政上の課題がないか、労働基準法や労働安全衛生法に準じた勤務を取れているかをチェックする役割をになっている(労組との事務折衝も)が、それら全て「従業員」が生まれてこその存在であり、会社の生命活動である「販売」には直接関わっていない(販売をする従業員の状況を確認しているから間接的にはもちろんめっちゃ関わってる)。実際、友人は労務管理なんて知ったこっちゃない状況での労働である。でも決算はしなきゃいけないから財務諸表は覚えたらしい。生きた知恵。

一にも二にも、売り上げと利益でしかないなぁと感じた。そしてそれは大きい会社になればなるほど忘れ去られがちになる。エンドユーザーの満足、すなわち社会貢献。対価としての売り上げ。売り上げ以外は、おまけだ。

 

しかし、旧い友達と話すのは本当に楽しい。小説を読んでいるかのように人生に触れられる。価値観を垣間見ることができる。月に一人ずつでも声かけて久々に話す一席を設けるようにしようかと思う。

 

満腹の胃袋が小慣れてきたので、筆を置く。

38.1℃の体温と薬の力

一昨日の午前中あたりから猛烈に身体が熱くなり、代謝がいいなぁ、冬だというのに身体は盛んに燃えているなぁと呑気に我が身の新陳代謝を讃えていたら、なんの、午後から夜にかけて断崖絶壁を転げ落ちるが如く体調が悪化し、身体の節々の痛みを訴え出した。これは代謝ではない、体調不良だ。と、身体中の全細胞をワンチームな感じで戦おうとしたのだが、帰宅するころには立派に笑えない男が完成していた。

病院もやっていないので、もう自力で直すしかない。翌日も仕事である。

常備薬もない。タンスの奥底に眠っていたパブロンは2年前が使用期限だ。服めない。体温計もなかったから近所のコンビニで買ってきた。37度9分である。熱冷ましのシートがやはりタンスに入っており、こちらは3年前の使用期限だった。付けてみようとしたが、ジェルの面がデロデロになってしまっており、こちらも使用は叶わなかった。八方塞がりである。アクエリアスをガブガブ飲みながら床についた。

熱がある日特有のざらざらした寝心地を久々に感じながら、夜中にたびたび起きてはアクエリアスを飲み、頭を起こしては頭痛に苦しむ、ひどい夜を超えて、翌日朝体温を測ったら37度3分。行ける感じだったので無理やり仕事に行った。

筋肉がヒリヒリと痛み、黙って立っていられない状態ではあったものの、そういえば前に食らった二日酔いの方が余程辛かったな、こんなの余裕だなと元気に出社、元気に仕事をしていたが、やはり筋肉ヒリヒリがうざったかったため病院にかかると、熱は38度1分まで上がり、おやおやインフルじゃないの。と綿棒を鼻に突っ込まれたもののインフルは陰性、頓服薬と普通のお薬をもらって服用してからというもの、今に至るまですこぶる元気である。

 

僕のパーソナリティをに大きく関わっている出来事の中に、「高校三年生、夏、両足首の捻挫からのリハビリ、国体に復帰」というイベントがある。詳細は割愛するが、この時、理学療法士の先生に大変にお世話になった。

理学療法がどういったものなのか、辞書的な意味は知らないが、当時僕がやってもらったのは、捻挫の治療とそれによって衰えた筋肉の補強だった。なんなら殆どパーソナルトレーナーのように二人三脚で復帰までを支えてくれた。

捻挫によって、当然のように痛みが出るのだが、痛みを軽減し解消していくために必要なことは筋肉をつけることであった。筋肉をつけて、伸びた靭帯をガッチリホールドできれば、それで痛みは消える。腰痛も同じ。筋肉をつけて姿勢を正せば改善する。肩こりも、何も、かも、筋肉の支えによって改善されていくのである。

 

そうした理学療法的思想は僕の人生観に根強く入り込み、心身ともに鍛えれば痛みは出ないし、痛いのはトレーニングが足りないからだとも思っている。これを体調不良に持ち込むとどうなるかといえば、基礎的な免疫力さえガッチリと鍛えておけば風邪はひかない。となる。また、体調不良になっても免疫を十分に働かせれば負けない。とも言える。

薬も体温計すらもない我が家は僕の思想を表した部屋であった。が、この度薬を飲んで、圧倒的に体調が改善されていった事実に直面し、薬ってすげーなーと、平たい感想を抱いた。一体、僕が信じてきた筋肉とかってなんだったのだろうかと思うほど、薬は強烈に身体に作用し、熱と痛みと苦しみを消し去っていった。

ちょうど、もらった錠剤は楕円形をしている。

ワンチーム。僕は元気です。