徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

100日ブログを続けたら106個の記事を上げてて今50日連続投稿中

振り返れば長い道のりを歩いてきたものよ。卒論にうんうんうなされていたころから、せっせかせっせかとキーボードをパタパタ打っていた成果が実っている。

 

立脚点として、そんながちがちに書くぞぉぉぉぉって意気込んで始めたブログでもない。アクセス数を!地位を!名声を!なんて気持ちもさらさらない。いや、ちょっとだけあったかもしれないけど、まぁどうでもいい。

なぜ始めたか。二つほど理由があり。

 

一つ目は、とりあえず自分の考えっつうのが果たしてどこにあるのかがわからなくなったから。

なにしろ人に合わせてしまうことが多い。割とどうでもいいところではちゃんと主張できるんだけど、主張すべきところでできなかったり、相手が主張してくると、あぁもうそれでいいよってジャベリックスローになることが多い。あ、なげやりね。

そんな悪習を何とかせねばと思って、始めた。ブログってツールを使って社会の片隅に自分の文章をポトポト落とせば、なんとなく主張できる大人になれんでないかと思ったわけだ。

 

そしてもう一つが、最近の生活でモノを考えることが少なくなった気がして。

スマホをシャッシャとスライドさせてても、情報を受け取ることしかできない。むしろ斜め読みでちゃんと受取れているかもわからないし、ニュースタイトルだけ見てHAHAHA FANTASTIC! な立場を貫くようなら何も受取れてない。

受取れたとしても、それを糧に自分の考えまで昇華させることなんて、ツムツムパズドラキャンディークラッシュの虜になった電車内ではできるはずがないんだな。

見事にそんなスマホあるあるに巻き込まれていた日々だったのだけれども、ちょっと見直そうと。頭がどんどん悪くなっていく気がして。

理由としてはこの二つが主で、ブログを始めたわけだ。

 

大義名分は一応掲げたけれども、こだわりすぎると堅苦しーの息苦しーになってしまうから、可能な限り大目にゆるーく書き続けることにつとめた。

たまに頑張る記事を上げるくらいで。

 

まだ考える効果が自分にどんな恩恵をもたらしているかはわからない。何とも言えない。けど、始めてから、日々少しだけ考えるようになったのは事実。

特にこの連続投稿が始まってからなんだけれど、日常的に日常を切り取る癖がついた。電車の中でも歩いている途中でも、書きたいものを切り取る癖だ。

 

叙情詩と叙事詩ってのがある。

叙情詩には作者の心情がつづられているけど、叙事詩には心の動きは少しも入っちゃいけない。ありのままを書き連ねなければならない。

 

ブログやらを書くには、どうやっても叙情詩になる。というか、そこらに溢れる文章は大概九割方叙情のそれだ。

叙情である限りは、自分の気持ちが少しなりとも入ってくる。

日常を切り取ったうえで、自分の考えがそこに入ってくると、立派な意見になりうる。そう考えたら、それなりな効果はあんじゃないかなって気はしている。

 

まぁ、効果とかそう言うのはね、置いておいて。趣味の一つとしてこれからもぼちぼち書いていくことにします。

100ってきりがよかったんで。振り返ってみました。