徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

酒を飲むということ

酒をのみたい気持ちは、下戸じゃない限りわかるだろう。なんだか今日は酒がのみたい。酔いたい。ああいう気持ち。一人で飲むほど酒が本当に好きなわけではないけど、みんなであれば、誰かがいれば、是非行きたいものだなぁと思う。

 
結局、場が楽しいんでしょうね。酒を飲むという場が楽しい。もちろん、自分がこの人となら飲みに行きたいと思える人とじゃなきゃ行かないわけだけども。
基本的にその軸は限りなく自分本位だ。誰がなんと言おうと、自分が価値があると思う(楽しいとか、為になるとか)、そういう会であれば喜んで参加する。そこに、自分が行ったらみんなが喜ぶなんて多元的な目線は無い。
飲みニュケーションは間違いなく存在する。それは、十分に飲み会に参加する理由たり得る。けれども例えば、その場に自分がいて、自分含め何も問題なく場が回るのであれば問題ないのだが、自分がいて支障が出るとか、自分が輪に入れない可能性があるのであれば迷わず勇退する。
食わず嫌いは良くないと言うでしょう。そう言う人も一定数いるでしょう。しかしそこじゃないんだ。お金を払って、肝臓を捧げて、それで楽しくないのはやりたくもない献血をするのと同じだ。若手は失敗してなんぼだと言うけれど、どうしてもそこで打算的になってしまう。これがゆとりださとりだ言われるゆえんなのでしょうか。
ならいっそもうゆとりでもさとりでもいいと思う。
付き合いは好きだ。でもそれがどうしようもなく人間的に合わなかったり、空気的に合わないものであれば、脱兎のごとくすみませんである。
 
自分がそんなスタンスだからして、本当に気心知れた人じゃないと飲みに誘えない。こいつは俺が誘ったからと言って嫌な思いもしないし、面倒だったら快く断るに違いないと個人的にでも思える人にのみ、アプローチする。奥手である。
 
まぁなんだ、楽しいお酒を飲み続けたい。みなさん、どうぞよろしく。