徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

バカになる技術

バカになるというと多少語弊を生むかもしれない。恥ずかしさの障壁を取っ払う技術と考えてほしい。これが上手い人ほど人生が楽なんじゃなかろうか。

恥ずかしさの障壁とは何か。

例えば、幼少期を思い出してほしい。あの頃行ったデパートの屋上や遊園地の広場。戦隊ヒーローショーやマジックショーが開催されている。一生懸命見ていると、壇上から声がかかる。「さぁ、元気なちびっ子たち!誰かお手伝いをしてくれる子はいないかな!?」ちょっと興味があるけど、手を上げられない。モジモジしながら別に興味ないフリしているうちに誰かが選ばれていく。

僕は、本当にこういう子だ。今でもそうだ。この間もこんなことがあった。

電車の中で男性が居眠りをしていた。手からスマホが落っこちて床に転がった。その場の誰もが拾ってあげたいと思ったはずだ。でも誰も動かなかった。僕も動かなかった。全員で謎の不干渉を決め込んだ後、痺れを切らしたのであろう、女性がスマホを拾い上げて男性の元に戻した。

あの時、マジックショーのお手伝いにさっと手を挙げられていたのなら。この間、さっと男性の元にスマホを戻せたのなら。どれだけ楽だったろうか。僕の行動を阻害していたモノこそ、恥ずかしさだ。

子供のころの経験しかり、電車内しかり、この状況を一般化してみると「公共の場にて誰にでも行える相応しい行動を取ること」が恥ずかしいと言える。

これを克服できたなら段違いに生きやすい人生が広がっているんじゃないか。どうすればいいものか。考えてみたところ、一つ、克服されたものに思い当たった。ライブとかで頭のネジを外すことがそうだ。昔はなかなかブチ上がることができなかったが、最近になってコツを掴んできた。

じゃあ克服できたことと、できなかったこと。両者は何が違うのか。明白だった。頻度の差だ。

恥ずかしさを超えたいと思うということはすなわち、超えたかった恥ずかしさを克服している者が存在したということだ。自分にとって羨ましく思う行動を取った者がいたから、自分の矮小さに気がつく。同じ状況下に置かれた際、惨めさを糧に一歩踏み出す。あの時の理想になろうとする。それでも、2度目じゃできないかもしれない。幾度も幾度も繰り返して、理想の対応を手に入れていく。

ライブでのネジの外し方も何回かやって覚えた。結局練習である。もし次、誰かが電車内で眠りの果てにスマホを落としたなら、すぐさま拾い上げてやれるかもしれない。たくさんの事例に触れて、出来るようになっていく。

悔しいかな、あらゆる状況下にて恥ずかしさを捨て去れる魔法のエッセンスはないようで、後悔と挑戦の反復こそ全て。楽じゃないなぁと思う。

するとどうやら僕はこれからもずっとショーで前に出て行けない人間であるようである。サーカスとかに行ったら克服できるんでしょうか。