言葉の力と言葉が伝えること
みんながみんないろんなことを考えて生きている。十人十色の考え方があるし、考えていることがある。
それを伝える手段として、人間は言葉を発達させてきた。
今のコミュニケーション手段を考えてみても、会話にチャットにビデオ通話にラインにメール。どれもこれも言葉。言葉でしか僕たちは仔細に考えを伝えることができない。
だから言葉をうまく使えるようにならなければならないと思っているし、逆に言葉が自在に使えさえすれば十全に考えを伝えられる。
一のことを言葉で伝える時にどう伝えるか。
その時に選ぶ言葉や言葉の数によって、人間の色が出てくるように思う。
一のことを伝えるために本当に一しか伝えなければ、人物像はぶっきらぼうなものになっていくだろうし、一を伝えるのに十を伝えるけれど朴訥と話せば実直な印象に、逆にリズミカルに話せば調子がいい印象に。言葉の選び方と使い方で全く印象が変わるということから、人間としての営業戦略の最たるものとなり得る。
印象操作の術としての言葉。それ以前に、考え方を、情報を伝える機能としての言葉。
言葉で伝わり方がいくらでも操作できてしまう以上、言葉に落とし込んだ時点で、もうそれは自分の考えではない気がしてきた。
伝え方に人間性が出るというのはわかる。でも、伝えたいことは人間性よりも考えとか、情報なのだ。
こうやってブログを書いている奇特な人間は大抵、日常でも伝え方が上手いようで下手だ。一を伝えるために十も百も言葉を並べて結局何が言いたいのかが伝わらない。
でも直球は投げられない。それが人間性と言われ、優しさとか狡さとか言われるならそれでもいい。伝えたいのはそこじゃないのに、伝わるのは大抵そこ。
そのうち脳みそを丸ごと取り出して、考えてることをビジュアル化できるようになるかもしれない。余計なコミュニケーションを取っ払って、ダイレクトにコミュニケートする手段。伝えたいことを的確に伝えられる。いいことだと思う。百の言葉を並べながら、百の言葉に隠された一がわからなくなることもない。伝え方で守ることも責めることもできる煩わしさもない。
ただ、それができないから、僕たちはまだ言葉を並べる。言葉で話して、伝える。
育ってきたような、考え方の通りの、伝え方に則りながら。