徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

コンテンツからコミュニティに

昨日10年来の付き合いの旧友と会った。

10年なんて簡単に経つんだね、嘘みたいだね、あのときこんなことがあったあんなことがあった、今何してる。

ざっくばらんに飯を食いながらお話しすることやや三時間。話は尽きないが時間は尽きて行く。


旧友は大学時代からアイドルに傾倒し、今はメイドに埋没している。平たくいうとオタクである。しかしコミュ力は人並み以上にあるため、オタク界では存分に剛腕を振るっているようであった。

彼の語るメイドの世界は非常に魅力的に映った。

登場人物が膨大で頭の中を整理するのが大変だったが、一度理解しだすとメイドと客との群像劇は大変面白いもので、帰り際にはお前のそういう態度が良くないだとかそんなんだからメイドに愛想を尽かされるんだとか、劇の一視聴者としてアドバイスにも似たお節介をぶうぶうと嘯いた。


そんな中、コンテンツのコミュニティ化の是非についての話が出た。

某メイドカフェの重鎮となった彼。すでにカフェ界隈での友人は両手に余りまくるほどだという。

戦友、尊敬、侮蔑。

メイドの沼に共に浸かった同士、互いの推し方に対し悲喜交々の感情を抱きながら語らい、さらにメイドも巻き込んだ人間関係を形成し、いよいよもって深く深くまで鎮む。

オタクは自己満足だと彼は語っていたが、彼は先人の背中を見てオタ活に励み、また、彼の後ろ姿を見てオタ活の理想を追い求める人もいる。メイドに向かっているはずの視線がメイドに向かっている彼の視線に向かい、メイドに向かっている自分の視線に向かう。メタ化に次ぐメタ化。広がった視野はコミュニティを生み、コミュニティは協調性と競争力を生む。オタクかくあるべし。さまざまなオタクたちの姿を鑑みて育まれたそれぞれのオタク像を振りかざしてオタクたちはメイドに向かう。走り続けるオタクたちが吐き出すものはつまり、金だ。

金儲けを考えた時、コンテンツのコミュニティ化ほど力強いものはないなとつくづく思った。愛情や顕示欲をくすぐって金を落とさせ、協調性や競争心を煽って沼から出られなくさせる。しかも、中にいる人間たちは幸せなのだ。人間が抱く感情に全て金を付帯させて巻き込ませる。ゲバってる。ゲバゲバである。


年賀状や中元歳暮のような人間同士が相対する文化が息をひそめる一方、コンテンツに向かうそれぞれが紐帯を結ぶ文化が隆盛している。フェスとか、ああいうのもそうだろう。

世情だなと思う。

活き活きした彼の顔が眼に浮かぶ。メイドとの関係で苦しいのも嬉しいのも全部ひっくるめて、活き活きしていた。

理想の商売ってこういうことなんだろう。

また一つ考えた横浜の夜であった。